ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 瞑想なる映画 本:『見るレッスン 映画史特別講義』(蓮實重彦著)

2020年
光文社新書

 映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。

 本書の「はじめに」で書かれているこの文章。
 まさにこれこそがソルティが映画を見続けている大きな理由である。
 そのような一本の映画に出会うために、何十本という凡作や駄作や娯楽作を観ている。
 最近では、『ボーダー 二つの世界』がその一本であった。


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 著者の蓮實重彦は東京大学の総長まで務めたフランス文学者であるが、世間的には映画評論家として名が知られていよう。
 いまの小津安二郎人気のかなりの部分は、70~80年代のこの人の“小津推し”によるところが大きい。
 ソルティもかなり影響を受けた。
 というより白状すれば、ソルティの映画開眼は20代前半に蓮實の映画批評や映画評論集を読んだのがきっかけであった。
 ひところは蓮實が編集長をつとめていた季刊誌『リュミエール』を購読し、彼の最新の映画評や淀川長治、山田宏一らとの対談が載っていた中央公論社の『マリ・クレール』を毎月のように買っていた。
 人生に映画鑑賞という歓びをもたらしてくれた恩人として、ひそかに感謝している。

 この人の文章は、一つのセンテンスが長く、回りくどく、加えて翻訳調なので、一見とっつきにくいのである。
 が、慣れてしまうと、お経のようなリズムに乗って、どこに連れていかれるかわからないスリリングな旅をしているかのような心地がして、そのうち快感となってくる。
 たとえば、こんなふうだ。
 
 あれはいったいどういうおまじないなのかしらと、あまりに仕掛けが単純なのでかえってどこにどんなタネが隠されているのかわからなくなってしまう手品を前にしたときのように、なかば途方に暮れ、なかばだまされることの快感に浸りながら妻が怪訝な面持ちで首をかしげたのは、彼女が外人教師として出講しているある国立の女子大学が、翌週から夏休みに入るという最後の授業があった日の夕食後のことだ。
(ちくま文庫、『反=日本語論』より抜粋)

 しかるに本書は、蓮實自身の執筆というより、編集者による複数回のインタビューをまとめたものらしく、センテンスは短く、文意は明確で、非常に読みやすいものとなっている。
 映画を愛する一人でも多くの読者の目に供され、この世に映画開眼者を増やすという点で、この試みは賞賛すべきである。
 内容も、日本と海外の最新の見るべき映画作家の列挙から始まって、映画の誕生、ドキュメンタリー論、ヌーベル・バーグ論、キャメラや美術監督など裏方の仕事など、幅広い話題が取り上げられている。
 蓮實自身が出会った有名・無名の監督やキャメラマンとのエピソードや、あいかわらず歯に衣着せない一刀両断の映画&監督批評が面白い。

 当ブログでも明白なように、ソルティは昔の映画をよく観ている。
 が、これは決して懐古趣味ではない。
 昔の映画を観ることを通して実際に起こっているのは、「過去」との出会いではなく、「現在」との出会いなのである。

 繰り返しますが、「昔の映画」がよかったということではなくて、それはまさに映画の「現在」として素晴らしいのです。カラーではないから現代的ではない、画面が小さくてモノクロームだから現代的ではない、などということではなく、映画において重要なのは、いまその作品が見られている「現在」という瞬間なのです。映画監督たちは、その題材をどの程度自分のものにして、画面を現在の体験へと引き継いでいるかということが重要であるような気がします。

 映画開眼したばかりの20代の頃は思い及びもしなかったが、今になって思うに、つまるところ映画を観る体験とは、こちらの目や耳がフィルムと戯れている「いま、ここ」の瞬間へと存在を立ち帰らせる一種の魔術であり、物語と非・物語の狭間に生じる圧倒的な美の衝撃によって、この世に氾濫し人を洗脳せんとする物語の支配から、自らを解放する実践なのである。
 見るレッスン、それはマインドフルネス瞑想に近い。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● 世紀の不倫 映画:『美女ありき』(アレクサンダー・コルダ監督)

1941年アメリカ
128分、白黒

 原題は That Hamilton Woman
 イギリス史上最大の英雄といわれるホレイショ・ネルソン海軍提督と、イギリス外交官サー・ウィリアム・ハミルトンの奥方であったエマ・ハミルトンの運命的な出会いと別れを描く。
 史実にあった有名な不倫である。
 現エリザベス女王の叔父で愛人のために王位を捨てたエドワード8世、ダイアナ妃と結婚中もカミラ夫人とつきあい続けたチャールズ皇太子、そしてメーガンのためになりふり構わず王室もイギリスも捨てたヘンリー、冷静で自己制御の達者なイメージある英国男の意外な情熱家ぶりをここにも見る。
 いや、英国紳士は恋にも職務にも真面目なのだ。

 ネルソンを演じたローレンス・オリヴィエとエマを演じたヴィヴィアン・リーはしばらく前から不倫関係にあったが、本作撮影中にどちらも離婚が成立、撮影終了後に晴れて結婚したという。
 それを知って鑑賞すると、二人のぴったりの呼吸や視線の微妙なからみ合い、自然な抱擁とキスの仕草に、納得がいく。

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ヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ


 あいかわらずヴィヴィアン・リーの美貌に目が覚めるが、演技も達者。
 ネルソンに死なれたエマは、盗みを働き、娼婦と一緒に牢屋に入れられるまでに落ちぶれる。
 リーは美貌何するものぞの意気込みで、尾羽打ち枯らした老け役にチャレンジしている。
 ただ、彼女の声は猫のように甲高く、舌足らずなふうで、ちょっと耳障りである。
 

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あの頃はあたしゃ、美しかったんだ


 『風と共に去りぬ』のあとに作られているので、当然カラー映画と思ったら白黒だった。
 考えてみたら、スカーレット・オハラ以外、カラー映画のヴィヴィアン・リーを観たことがない。
 もったいない話である。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 泥土を衝け 映画:『吶喊』(岡本喜八監督)

1975年
93分

 「とつかん」と読む。
 小学館『大辞林』によれば、「ときの声を上げて、敵陣へ突き進むこと」。

 戊辰戦争を舞台とする青春痛快時代劇である。
 薩摩・長州・土佐藩らを中核とし錦の御旗を掲げる新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟との熾烈な戦いが繰り広げられる中、貧農出の千太(=伊藤敏孝)と万次郎(=岡田裕介)とが持て余す若いエネルギーを爆発させ、戦いに喧嘩に女にと縦横無尽に暴れ回る。
 混乱の世ゆえの自由闊達な生と性とが描かれる。

 無名の二人の主演俳優がいい。
 伊藤敏孝は子役出身で、刑事ドラマや時代劇などによく出ていたようである。
 1949年生まれなので本作公開時26歳。やんちゃで無鉄砲で単細胞な男を溌剌と演じて小気味よい。
 一方の岡田祐介は、東映社長だった岡田茂を父に持つ、いわば御曹司。
 自身も俳優を引退した後、プロデューサー業に転じ、父親の跡を継いで東映会長に就任している。
 こちらも公開当時26歳。伊藤とは正反対の洗練された物腰で、機を見て敏に動く飄々とした青年を演じている。
 二人の相性もいい。

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伊藤敏孝と岡田祐介


 脇を固めるは、高橋悦史、伊佐山ひろ子、天本英世、小野寺昭、岸田森、田中邦衛、仲代達矢、そして語りの老婆役に坂本九といった個性派の面々。
 演出も手堅く、見ごたえある一篇に仕上がっている。

 NHKの描く渋沢栄一とは程遠い、名字も持たない男たちの泥臭い青春である。

 

おすすめ度 : ★★★

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● 母性的小説? 本:『橋のない川 第六部』(住井すゑ著)

1973年新潮社

 第六部前半は、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災後の混乱、とくに流言に踊らされた自警団による朝鮮人虐殺の模様が描かれる。
 この頃、著者の住井すゑは東京で暮らし、結婚&作家生活をスタートしていたので、実際にその身で震災を体験し、あちこちの暴動の様を見聞きしていたのだろう。
 また、混乱に乗じた社会主義者や無政府主義者の殺害もあり、本書ではのちに満州国警察庁長官となる甘粕正彦が、大杉栄と妻子を惨殺した事件が語られている。
 甘粕正彦はベルトルッチの映画『ラスト・エンペラー』(1987)で、坂本龍一が演じた軍人である。

 後半は、年頃となった畑中孝二のいとこたちの恋愛や結婚の模様が描かれる。
 部落外の女性と恋仲になった和一、部落外の男性から求婚された七重、そして小学校の同級生だった孝二と杉本まちえ、いずれも叶わぬ恋とあきらめて、あるは独身を貫き、あるは部落者同士の結婚を選び取る。
 100年後の今でさえ残る結婚差別
 当時、部落と“一般”との通婚など、まさに橋のない激流を泳いで渡らんとする如きであったろう。
 その背景に、大正13年1月26日の皇太子裕仁(昭和天皇)と良子(香淳皇后)の結婚と奈良にある畝傍御陵参りが重ねられ、この慶事への妨害を懸念した当局によって当地の水平社の青年たちが拘束されるという不条理が起こる。
 やはり、天皇制と部落差別は切っても切れない関係にあるのだ。


皇居の桜

 
 小説を読んでいると、どうしても今井正監督の映画『橋のない川』と比べてしまう。
 リアリティにおいては映画のほうが上かなあと思うのは、小森部落の人々を美化していない点である。
 たとえば映画では、伊藤雄之助演じる荷車引きの永井藤作は、息子を虐待し娘を遊郭に売るような飲んだくれの乱暴者で、良くも悪くも八面六臂の活躍ぶりであったが、小説ではほとんど目立たない。
 映画では、若くして後家となった畑中ふで(=長山藍子)に懸想しちょっかいを出す“一般”の男が登場するが、小説ではそのようなシーンはない。
 小説では、草鞋づくりする部落の男たちの作業風景がしばしば描かれるが、そこでなされる会話は総じて上品である。セクハラ・パワハラ糾弾かまびすしい平成令和ならいざ知らず、大正時代の若い男衆ばかりの集りで“夜這い自慢”の一つもないってのはまず考えられまい。
 著者の住井が女性ってこともあろうが、「差別の理不尽を訴える」という目的のために部落の人々を美化して描いている――というより、弱者に対する母親的な愛を持って全体を包みこんでいる、という印象を受ける。

 と言ったら、ジェンダー差別になるだろうか?





● 孤高なる美 映画:『アンナ・クリスティ』(クラレンス・ブラウン監督)

1931年アメリカ
89分

 ミステリー作家の伝記?
 いやそれは、アガサ・クリスティ。

 アメリカの劇作家ユージン・オニール原作の若い女性を主人公とした人情ドラマである。
 このヒロイン、アンナを25歳のグレタ・ガルボが演じている。
 
 公開時のキャッチコピーが Garbo talks! ということから分かるように、ガルボ初のトーキー映画で、観客は絶世の美女ガルボが果たしてどんな声をしているのか興味津々だったという。
 ガルボのふくよかな響きあるハスキーボイスは、観客に受け入れられ、その人気をさらに高める結果となった。

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身を持ち崩した女性を演じるガルボ

 
 ストーリー自体は陳腐で女性蔑視丸出しで、現代の感覚からすると到底上映に値するものではない(反森喜朗派からの非難轟々必死)。

 生活に疲れ果てたアンナは、幼い時に別れ15年間会えずにいた父親のもとへ帰ってくる。
 船で働く父親との海上生活で、アンナは次第に癒され、船乗りの恋人とも出会う。
 娼婦をしていたことを父親にも恋人にも告白できず悶々と悩むアンナ。
 アンナの決死の思いの告白にショックを受ける父親。
 アンナを見下しプロポーズを撤回する恋人(=チャールズ・ビックフォード)。
 むろん、二人の船乗りは港々で女を買って遊んでいる“海の男”である。
 最後は父親と恋人はアンナを許し受け入れ、三人には明るい未来が待っている。  

 孤独好きでバイセクシュアルの噂があり生涯結婚しなかった素顔のガルボ(=グレータ・グスタフソン)なら絶対に受け入れなかったであろう男尊女卑の物語を、ガルボがけなげに演じているところに、何とも言えない落差がある。
 この落差が、北欧のスフィンクスと讃えられたガルボの類いまれなる美貌を伴って、一種の品格とも諦観ともなって、ガルボ映画独特の哀愁が生まれる。
 それは避けられない運命を毅然として受け入れる者に共通する孤高なる美なのだ。

 フェミニズムを通過した現代なら、ガルボは自らの本質にふさわしい役を自由に選び、思いっきり演じられたことであろう。たとえば、ニコール・キッドマンのように。
 であれば、36歳の若さで引退する必要もなかったであろう。

 女性グレータ・グスタフソンの悲劇は、半世紀早く生まれてしまったことだ。
 女優グレタ・ガルボの華々しい成功と魅力の秘密は、半世紀早く生まれたことだ。


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後年の『ニノチカ』のキャッチコピーは「ガルボが笑う!」だった。
が、すでに本作でガルボは破顔一笑している。


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● 本:『結婚差別の社会学』(齋藤直子著)

2017年勁草書房

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 著者は1973年生まれの部落問題、家族社会学を専門とする研究者。
 ここで言う「結婚差別」とは部落差別の一つで、部落出身者と部落外出身者とが結婚を望んだときに主として部落外出身者の親が反対することである。

 本書の目的は、結婚差別問題が生じたときに、カップルと反対する親との間で、どのような対立や交渉や和解、あるいは決裂が生じるのかを描くことである。とくに、恋人たちがいかにしてその問題を解決していくのか、そのプロセスを丹念に記述することが本書の中心的な課題である。

 水平社設立から一世紀近く、同和対策事業特別措置法の施行から半世紀以上(2002年終了)、部落差別は明らかに減った。
 同和地区指定を受けた部落の居住環境や教育水準は向上し、『部落地名総鑑』や興信所を利用した就職差別も表立って聞くことは少なくなった。
 部落出身者と部落外出身者との恋愛や結婚も増えている。
 差別落書きやインターネットにおける誹謗中傷など、劣等感の塊のような一部の人間が行う卑劣な行為は見られるものの、一般市民の差別意識が薄らいだのは間違いなかろう。
 そんななかで「最後の越えがたい壁」と言われているのが、結婚差別なのである。

 就職に関しては、企業や行政の取り組みや学校現場の同和教育を通じて、状況は大きく変化したが、結婚差別問題は、私的な領域の問題であり、直接的にアプローチすることが難しいこともあって、いまだ残された課題となっている。

 本書には、実際に結婚差別を受けた経験のある人々や、結婚差別を受けたカップルをサポートした人々に対しておこなった聞き取り調査の分析結果が述べられている。
 著者の齋藤が関西の人間であることもあって、取り上げられている多くが大阪の事例である。
 こうした系統だった研究は珍しいのだそうだ。

 読みながら、「いまだにこんな理不尽なことがあるのか!」という驚きが先立つ。
 分析のもとになっている調査はいずれも2000年以降のものであり、聞き取り調査の対象となっているのは20~30代の人が多い。
 つまり、平成時代に実際にあった結婚差別の事例が多く取り上げられている。
 結婚に反対した彼らの親たちはまず間違いなく戦後生まれである。
 なんつー、アタマの古さ・・・・。

 当事者が語る滑稽なまでに理不尽な体験談に驚きあきれかえるばかり。
 が、一方、ソルティはこの問題に関して何ごとかを言うべき資格を持たないように感じるのである。

 一つには、ソルティは関東生まれ関東育ちで、親戚づき合いのほとんどないサラリーマン家庭の一員で、周囲もほぼ同様であった。
 高校時代に一コマだけの同和教育でビデオを見た記憶はあるが、部落差別は遠い過去の話、遠い土地の話という認識しかなく、具体的な差別エピソードなり差別的言辞を身の回りで聞いたことがなかった。
 社会人になってから、どうやら部落は西のほうに多いらしいと知るのだが、出張や旅行以外で西に行くことはほとんどなく、住んだこともない。
 西の友人も少ないので、そういった話を聞く機会もなかった。
 西の人とくに関西圏の人たちが、どのような“部落観”を持っているのか、日常生活の中で部落差別とどのように出会い、どのように感じ、どのように配慮し、普段どのような問題意識や口に出せない思い(本音)を持って暮らしているのか、よくわからないのである。
 もちろん、関東にも部落は存在した(する)し、部落差別もあった(ある)のだが、ソルティの住んでいるあたりは人の出入りが激しく、街の区画も風景も年々様変わりしていくので、「家系・住所・職業」のいわゆる“三位一体”によって部落民を特定するなんてのは、まったくのナンセンスである。
 そういったわけで、部落差別のある風土を肌身で感じた経験がないため、あたかも“別世界の出来事”のような感じがするのである。
 
 今一つ、ゲイである自分にとって、結婚というのがやはり“別世界の出来事”である。
 結婚という人生の選択肢を自分に適用したことがないので、結婚をめぐる事象に関心もなければ詳しくもない。
 時代風潮として、この先日本でも同性婚がありうるかもしれないが、そうなってみると、果たしてそもそも自分が結婚したいのかどうか疑問である。
 つまり、自分は「ゲイだから結婚しない」のではなく、「ゲイでなくとも結婚しない」タイプの人間ではなかろうかと思うのである。
 結婚したい人の気持ち、結婚しなければと焦る人の気持ち、子供に結婚を望む親の気持ち、どれもよく分かるとは言い難い。
 
 本書で語られているような結婚差別がどうして起こるのかと言うと、部落外出身者の親が娘や息子が部落出身者と結婚することを反対し、それに対して娘や息子がなんとか親に許してもらおうと説得を試みるから、そこに対立が生まれ、問題となるのである。
 ソルティは、その過程を読んでいて歯がゆく思うのだ。
 「成人同士の結婚に親の許可なんか要らないじゃん。さっさと入籍するなり同居するなり子供を作るなりして、既成事実を作ってしまえばいいのに・・・・」と。
 しかるにそれでは納得できない当事者は多いらしく、どうしても親の理解と祝福がほしいようなのである。
 著者はそれを「育ててくれた親に対する愛情と恩ゆえ」のように書いているけれど、裏を返せばそれは、自分が“親不孝者、薄情な子供”となってしまうこと、そう周囲に思われてしまうことに対する抵抗感からくるのではないか。
 つまり、結婚差別問題の背景にあるのは、部落差別だけでなく、親子関係の有り様なのである。
 このあたりの親子間の心の機微というのが、どちらかと言えば感情的に淡白な家庭に育ったソルティにはまた伺い知れないところである。(偏見かもしれないが、東より西のほうが浪花節的人間関係が濃い気がする)
 
 親と関係悪化することで生じる具体的な損失――たとえば、遺産相続とか育児サポートとかまさかのときの避難所とかの喪失――について残念に思うのは当然であり、これは十分理解できる。
 しかし、好きな人との仲を引き裂かれて、その後ずっと親を怨み続けるくらいなら、多少の不便は覚悟のうえで親との関係を一時的に絶って、好きな人の胸に飛び込んだほうが後悔はないだろう。
 この長寿社会、ほうっておいても老いてくれば親のほうから折れてくる可能性は高い。
 そう思ってしまうソルティは、やはり打算的で身勝手で単純な個人主義者なのだろう。

 
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 ときに、ちょっと前ネットで、高視聴率のドラマをたくさん生み出してきた有名プロデューサーのインタビュー記事を読んでたら、「最近では枷がないから恋愛ドラマが成り立たない」と言っていた。
 恋愛ドラマというものは、恋する二人の間に乗り越えがたい障壁があってこそ面白くなるし、視聴者も食いつくということだ。『ロミオとジュリエット』や岸恵子主演『君の名は』や『おっさんずラブ』を例に出すまでもない。
 「そのとおりだな。もう視聴者の心を湧き立たせるような恋愛ドラマをつくるのは難しいだろうな」と思ったが、本書を読んで考えが変わった。

 「ここに恋愛ドラマの宝庫があるじゃん!」

 部落差別という“立派な”枷があり、愛しあう若い二人がいて、無理解な親や世間がいて、あたたかい支援者がいて、二人がめでたく結ばれるまでの或いは悲劇に終わるまでの紆余曲折があって、愛あり、悩みあり、告白あり、怒りあり、混乱あり、葛藤あり、逆境あり、諦めあり、闘いあり、慟哭あり、絶望あり、希望あり、それでも切れることない親子の絆あり、新しい命の誕生あり、成長あり・・・・。
 この一冊から、どれだけ豊かな、熱い人間ドラマが生み出されることか。

 最後に事例を一つ紹介する。
 大阪の部落出身の30代女性Uさんの体験である。
 
 Uさんは、短大時代にアルバイト先で、のちに夫となる人に出会った。彼は、八年にわたる交際期間のなかで、Uさんが部落出身であることに気づいていたようだが、お互いにそのことについて触れることはなかった。(中略)
 結婚式は、Uさんたちの住む大阪で行われた。夫の側からの親族の出席は、ほとんどなかった。夫の親戚には高齢者が多く、郷里から出てくるのは大変だからという理由であった。Uさんは、親戚が参列しないことを、特に不審に思わなかった。
 ところが、結婚後まもなく、夫の郷里の親戚に挨拶にいったとき、Uさんを驚かせる出来事が起こった。郷里の親戚が一同に料亭に待機しており、その場でいきなり披露宴が始まったのである。つまり、Uさんには何の相談もなく、夫の親族だけを集めた二度目の結婚式が準備されていたのである。

 さらに驚いたことには、その後Uさんの義妹(夫の妹)が大阪で結婚式を挙げることになったとき、夫の親戚はバスを借り切って田舎から大挙してやってきたという。「高齢で郷里から出てくるのが大変」というのは嘘だったのである。Uさんが問い詰めると、夫は最初の結婚式の時に自分の親戚に招待状を出さなかったことを白状した。

 酷い話である。
 これから一生を共にする相手に、よくもこんな非情な仕打ちができるものだ。
 こんな夫と離婚しないでいるUさんの度量というか忍耐力には驚かされる。
 ソルティがUさんの立場だったら、途端に愛が冷めて、縁を切る。
 やっぱり、結婚には向かないタチなのだろう。
 

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naobimによるPixabayからの画像



おすすめ度 : ★★★

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● いい箱つくろう! 本:『日本の歴史をよみなおす』(網野善彦著)

1991、1996年筑摩書房
2005年ちくま学芸文庫

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 帯の文句が大袈裟?

 ――と思うが、一読、多くの人が持っている日本の歴史観を大きく揺さぶる一冊である。
 この学者の名前はずっと気になっていたが、なぜか読む機会がなかった。
 
 日本の中世史、海民史の専門家である網野善彦(1928-2004)は、最近になって発見された非・官整の資料を研究するうちに、学会で長らく常識とされ、我々が教科書や歴史小説や映画やテレビドラマを通して学んできた日本の歴史観に大きな間違いがあったのに気づく。
 それは簡単に言えば、「百姓」という言葉は「農民」だけを指すのではなく、海や川や山などで働く非農業民をも含むものであること。日本は元来、稲作中心の農本主義国家ではなく、海民や山民、廻船人や商人の活躍してきた流通盛んなネットワーク型の非農業国家でもあることを、明らかにしたのである。
 
 確かに、教科書では「国民の大半(75%以上)は百姓(=農民)」と表記されてあったし、子供のころに観ていたNHK『明るい農村』、漫画『サスケ』や時代劇に出てくる年貢に苦しむ貧しい農民のイメージ、そして天皇による毎年恒例のお稲刈りや新嘗祭の報道によって、「日本は稲作の国、農民中心の社会(だった)」と刷り込まれていた。
 とくにソルティは、関東平野のまんなかに生まれ育ったので、海や山で働く人を身近に見ることはなく、生家の周囲は畑や空き地ばかりだった。(それがどんどん宅地に変わっていった)
 自然、自分の前世は「江戸時代の水呑み百姓」などと思っていた。
 が、本書によると、百姓=農民ではなく、水呑む百姓=貧民でもなかったそうである。

 考えてみれば、日本は周囲を海に囲まれた島国で、河川も多く、国土の多くが森林だったのである。
 気候さえ違えど、ノルウェー・デンマーク・スウェーデンなどのスカンジナビア半島によく似ている。(大きさも同じくらい)
 これらの国家でバイキングが隆盛をふるったように、日本でも海の民が海岸線や河川に沿って縦横無尽に商いしていたとしてもおかしくはない。
 農業的見地では辺鄙で農地も少なく貧しいはずと思われる北陸の海辺の村が、中世を通じて実は運輸と貿易で栄える豊かな都市であったなんて、思いも及ばなかった。

 子供の頃に学校で習ったことや受験勉強で必死に覚えたことがどんどん変わってしまい、時代遅れな知識や認識を持っていることに気づかされる昨今である。
 歴史を勉強し直す必要を感じる。

 鎌倉幕府の成立は1185年って知ってましたか?

いい箱つくろう
吾輩は頼朝じゃ



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
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● マリア・カラスと山田五十鈴 映画:『蜘蛛巣城』(黒澤明監督)

1957年東宝
110分、白黒

 シェークスピアの『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた黒澤映画の傑作。
 やはり、何と言っても城の奥方・浅茅ことマクベス夫人を演じる山田五十鈴が凄い!

 もちろん、終始一貫して底知れぬ男性的磁力と迫力とを見せる三船敏郎のマクベス(=鷲津武時)も、幽玄なる不気味さを醸し出す“おちょやん”こと浪花千栄子の魔女も、主役を引き立てつつ独特な存在感を醸す千秋実のバンクォー(=三木義明)もそれぞれに素晴らしい。
 だが、観終わった後、悪夢のように脳裏に残り続けるのは、山田五十鈴の怪演とくに狂気のシーンである。
 映画史の中でこれに匹敵する女優の演技は、『サンセット大通り』のラストのグロリア・スワンソンだけであろう。
 国内外問わず、どれだけの名だたる女優がこの映画に出演できた山田を羨ましく、かつ妬ましく思ったことやら。
 
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この手の染みが落ちないんだよ~


 国内の女優で山田以外のだれがよくこの役をこなせるだろう?
 杉村春子?
  ――むろんできる。ただ、どうしたって美しさでは劣る。
 岩下志麻?
  ――適役である。ただ、演技過剰で黒澤映画の雰囲気を壊しかねない。
 若尾文子?
  ――観てみたい。ただ、若尾の狂気は内に籠らず、外に向かって行動として爆発するほうが合っている。
 高峰秀子?
  ――いいかもしれない。が、三船には喰われそう。
  ――これもはまり役。が、独特過ぎて一人だけ作品から浮いてしまうかも・・・。

 山田の浅茅ことマクベス夫人には、幼い頃から常磐津、長唄、清元、日本舞踊などの伝統芸能をしっかり身に着けてきたゆえの時代劇役者としての所作や声音や立ち居振舞いやリズム感が備わっているうえに、山田自身の波乱の人生や芸に対する異常なまでの執念と重なり合うことで、マクベス夫人が陥る“狂気”に必然性がもたらされる。
 山田五十鈴という怪物キャラが、マクベス夫人とオーヴァーラップするのだ。
 そこが強みである。

 というのも、原作でシェークスピアはマクベス夫人の陥る狂気にこれといった原因を設定していないからである。
 一幕から三幕までは田中真紀子か蓮舫か小池百合子ばりの気の強さを見せていたマクベス夫人が、出番のない四幕をはさんで、五幕のっけからいきなり狂った様子で登場する。
 その不条理な転身ぶりが面白いと思う一方、「幕間で彼女になにがあったのだろう?」と、この劇を読んだり観たり聴いたりするたびに不思議に思うのだ。
 狂気というものを天の仕業とみなしていた中世の観客なら別段そこになんの不思議も思わなかったのだろうが、精神医療の時代に住む現代人はやはり何らかの理由を求めてしまう。
 
 黒澤は、マクベス夫人が城の跡取りとなる子供を懐妊し、死産してしまうという理由を用意する。
 見事な解釈である。
 そこに山田五十鈴の怪物キャラが合わされば、狂気も自然となる。

 ソルティは、記録に残っているマクベス夫人の両横綱は山田五十鈴とマリア・カラスだと思うが、マリア・カラスの場合もまた、圧倒的な声と歌唱術のみならず、我儘プリマドンナの横綱でもあったその怪物キャラが、マクベス夫人を演じるにあたってものを言っていた。少なくとも現在、山田やカラスのマクベス夫人を観たり聴いたりするときに、演者自身の人生やキャラクターと重ね合わせずにはいられないのである。
 



おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 映画:『ゼロの未来』(テリー・ギリアム監督)

2013年イギリス、ルーマニア
106分

 ディストピアSFの金字塔『未来世紀ブラジル』(1985)のテリー・ギリアムによる、やはり未来の管理社会を舞台としたSF&哲学ドラマ。

 哲学ドラマと言うのは、テーマが“生きる意味、存在の意味”といった壮大なところにあり、タイトルにある“ゼロ(0)”とは、宇宙のブラックホールであり、ビッグクランチ(=ビッグバンの逆)であり、仏教的な“空”や“無”を意味しているかのように見えるからだ。

 己れの存在する意味、生きる理由について懐疑にとらわれた主人公コーエン(=クリストフ・ヴァルツ)が、世界を管理支配するコンピュータを相手に孤軍奮闘するさまを、ギリアムならではのポップでサイケデリックな映像、コミカルかつ難解なプロットで描いている。

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 映像はさすがに凄い。
 『不思議な国のアリス』のような独特な世界が構築され、一見の価値がある。
 一方、テーマそのものは宙に浮いてしまって、存在を肯定しているのか否定しているのか、よくわからないままに終わっている。
 まあ、答えの出ない問題ではあるが・・・。
 「存在の意味を問うなど無意味。答えは愛」と安易に落とし込めないあたりが、ギリアム監督のプライドなのだろう。
 (ソルティ思うに、「答えは愛」が正解なのだろう。まあ、「愛」というより「生殖」だが・・・。すべての生命の使命がとりあえずそこにあるのは間違いあるまい)

 観ている間は全然気がつかなかったが、『サスペリア』や『少年は残酷な弓を射る』のティルダ・スウィントン、『クラウド・アトラス』や『英国スキャンダル~セックスと陰謀のソープ事件』のベン・ウィショー、それにマット・デイモンが出演していたらしい。
 これら主役級スターをチョイ役で使えてしまうあたり、さすが大監督である。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 水平社100周年 本:『橋のない川 第五部』(住井すゑ著)


1970年新潮社

 第五部は水平社が設立された直後の小森部落の様子や世間の反応が描かれる。
 歓喜の声を上げ闘志と希望に満ち溢れる部落と、世の秩序を転覆するものとして水平社を恐れ快く思わない世間と。
 その対立の中で、地域の小学校での差別事件に対する糾弾を行なった畑中孝二をはじめとする小森の青年ら7人は、それを騒擾罪とみなした当局に逮捕され、五条監獄に70日間収監されてしまう。
 しかし、それは小森のみならず全国の部落民の団結と闘志をいよいよ強める焚き付けとなり、各地に水平社の支部が作られ、機関紙『水平』が発行され、全国少年・少女水平社や全国婦人水平社も誕生していく。
 そんな折、関東大震災が起こる。

 長い間虐げられてきた部落の人々が声を上げて立ち上がっていく本巻は、読んでいて胸が熱くなるシーンが多い。
 とりわけ、普段は大人しくて優しい孝二が、騒動の調停役を買って出た国粋会の今川忠吉――地域の顔役で土建の親方、すなわち権力側の番犬である――に面と向かってこう告げるシーンは、胸がすく思いがした。

 これから二十年、或いは三十年先になるかもしれませんが、教育勅語は必ず消えて失うなる日がくるのです。けれども水平社宣言は、絶対に消えて失うなる日はありません。それは人の世を支配する権力は必ず滅ぶが、働く人間に滅びがないのが歴史の教訓で、水平社宣言はこの働く人間の血と涙の叫びだからです。

 関東大震災の記述にハッとしたが、水平社設立は震災の前年の大正11年3月3日、すなわち西暦2022年である。
 来年は、水平社創立100周年にあたるのだ。
 コロナが落ち着いたら、この物語のモデルとなった舞台を歩いてみたい。
 リニューアルオープンされる水平社博物館にも行ってみたい。


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● 漫画:『外天楼』(石黒正数・作画)

2011年講談社KCDXから発行
2015年講談社文庫

 散歩の途中に寄った、漫画とエロDVD専門の古本屋にて100円で購入。
 作者の名前も作風も知らず、江口寿史風のすっきりした絵に惹かれて買ったのだが、これがびっくりの傑作であった!

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 中学生男子の涙ぐましいエロ本購入作戦という、いまや古臭すぎるベタなネタから始まって、コミカルで捻りのきいたミステリー短編が並ぶ。
 一話一話は読みきりだが、舞台や登場人物が微妙に重なっているので、連作物と分かってくる。

 最初のうちは、星新一風の肩の凝らないSF&ミステリーショート漫画という感覚で楽しく読んでいたら、最後の最後に不意打ちを喰らわされた。
 そして、一話ごとにその都度、設定とストーリーが生み出されネームが練られているかと思っていた各編が、実は最初から、数十年にわたる大きな人間ドラマの一コマとして描かれていて、あちこちに用意周到に伏線が張られて、最後の“非”人間ドラマのカタストロフィーにつながっていたことが判明する。
 見事な構成力と画力は、大友克洋の傑作『童夢』を思わせる。

 こんな漫画家がいたんだ!



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『東京流れ者』(鈴木清順監督)


1966年日活
83分、カラー

 デビュー間もない渡哲也主演の任侠アクション映画。
 鈴木清順の独特の美学と、日本が世界に誇る木村威夫の美術により、非常にモダンで芸術的でスタイリッシュな映像に仕上がっている。
 木村威夫は同じ清順の『ツィゴイネルワイゼン』、林海象監督『夢見るように眠りたい』、三國連太郎監督『親鸞 白い道』などを担当している。
 
 二十代半ばの渡哲也のカッコよさが光る。
 暗闇から聞こえてくる口笛、咥えタバコ、得意の空手をいかした立ち回り、清潔な角刈り、低音のしびれる歌声、女に用はない。あくまで硬派で、あくまで義理堅く。
 デビュー時についたこのイメージのまま、歳を取って、最後まで行ったのだなあ。
 
 当時、吉永小百合・和泉雅子と並ぶ日活のトップ女優であった松原智恵子の彫像のような品ある美しさも光っている。
 クラブ歌手の役でソプラノを披露しているが、歌は別人だろう。
 
 出番は多くないものの“ダンプガイ”二谷英明もカッコいい。
 グリーンのジャンパーをこんなふうに粋に着こなせる日本の男はなかなかいないだろう。
 後年、朝日テレビのドラマ『特捜最前線』で見せた包容力がすでに備わっている。
 
 たまに60年代日活映画を観るのも悪くないな。
 それにしても、本作のシュールな絵を観てつくづく思うのは、鈴木清順にこそ『黒蜥蜴』を撮ってほしかった。
 

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 渡哲也と二谷英明
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 6

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

まさに「いま・ここ」で、生を深く、ありのままに見つめてください。
いまとここそのものには、物語はありません。
まさしく「いま・ここ」で起こっている何かについて、物語を作ることができますか?
「いま・ここ」に、物語は存在しないのです。
存在するのは、ただ生成消滅する諸感覚だけであり、無媒介の感覚だけなのです。
(標題書p.499)

 ソルティは本を読むのと映画を見るのが好きである。
 若い頃からそうだった。
 物語に毒されているのだ。
 日本人の読書離れ、映画離れが言われて久しいけれど、「じゃあ、ソルティのようには読書や映画鑑賞をしない人々が、物語から解放されているのか?」と言えば、そんなことはまったくない。
 親のしつけや学校教育から始まって、テレビ、新聞、雑誌、漫画、ゲーム、流行歌、街じゅうに溢れる広告、ネット上のコメント・・・・・物語は無辺に広がって、それらを無自覚に受け入れる人々を洗脳しまくっている。
 世界は物語であふれている。

 これが現代情報社会の宿痾と必ずしも言えないのは、未開社会の部族にも、たとえば神話や掟や風習という形でそれなりに物語は存在し、内部の人々を良くも悪くも縛りつけているからだ。
 たとえば、遺伝的弊害を回避するインセスト・タブー(近親姦禁忌)は“良い”物語であろうし、女性器切除は“悪い”物語と言える。
 違うのは、現代社会では物語の種類と量が膨大になって、人々がそれに毒される時間が増えてしまったことだろう。
 未開社会の人々が大自然という厳しい現実と日々向かい合わざるを得ないのにくらべ、自然を克服しつつある文明社会の人は、一日のほとんどを物語の中に生きられる。


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ComfreakによるPixabayからの画像


 物語とは何か?
 「いま・ここ」に存在しないファンタジーである。

 たとえば、恋愛ほど人が物語の毒にはまっているさまを示すものはなかろう。
 愛する人のちょっとした言葉やしぐさや眼差しを、いかに曲解し、大袈裟に受け取り、妄想たくましくして、一喜一憂することか。
 自分で勝手に相手との物語を作り上げ、浮かれたり、患ったり、有頂天になったり、思い悩んだり、落ち込んだりすることか。
 自分にとって都合の良い物語を信じ込んで相手に夢中になり、ふたを開けてみたらとんだ勘違い、事実とのグロテスクなまでの乖離に、「舌かんで死んじゃいたい!」と自らの愚かさを呪ったことのある人は、決して少なくないだろう。

 あるいは、男なら誰だって(と一括りにすると反発来そうだが)、マスターベーションにおける妄想を伴った快楽と、射精後に来る「いま・ここ」の現実(=3㏄の精液の処理)の落差を知らぬものはいないだろう。
 “賢者タイム”とはよく言ったものである。

 物語とは、別名、記憶であり、空想であり、妄想であり、追想であり、後悔であり、想像であり、幻想であり、解釈であり、予断であり、不安であり、忖度であり、ファンタジーであり・・・・・・。
 つまるところ、思考である。
 
 ある意味、人間と動物との違い、あるいは大人と幼児との違いは、「物語を持つか持たぬか」というところにある。
 動物は物語を持たない。常に「いま・ここ」に生きている。
 「いま・ここ」の感覚と本能に基づいて、食欲、生殖欲、睡眠欲、現実的な危険の回避に追われて生きている。
 幼児もまた物語を持たない。
 「泣いたカラスがすぐ笑った」という言葉が示す通り、瞬間瞬間の感覚と本能と気分だけにコントロールされて生きている。
 地球上に生息する何百万という生物の中で、幼児を除く人間だけが、「物語を持っている、その中を生きている」というのは、よく考えると空恐ろしいことである。

 いや、だから人間は素晴らしいのだ、万物の霊長なのだ。
 ――という意見もあろう。
 たしかに、物語には人を動機づけ、狩り立たせ、力づけ、勇気をあたえ、未知なるものへ挑戦させ、団結させ、感動させ、退屈を紛らわし、創造させ、生きる希望をもたらしてくれるパワーがある。オリンピックを例に挙げるまでもない。
 物語のない社会、物語のない人生ほど、無味乾燥なものはあるまい。
 一方、人と人とを切り離し、誤解させ、憎しみや恐れを生み、競わせ、差別や迫害や戦争のもとを生みだすのも物語である。
 宗教や主義や民族という物語が、どれだけ人類の歴史を残酷に彩ってきたことか!
 物語は諸刃の剣なのだ。

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 人類が長い進化の時を経て物語を持てるようになったのは、「時間」を持ったことと関係していよう。
 記憶と想像、つまり過去と未来を手に入れて、はじめて物語が生まれたのだ。
 それはきっと、火や言語の獲得と同様、我々の遠い祖先が厳しい環境の中で生き残るのに役立ったからこそ、人類の性質として備わったのだろう。
 言語と物語の誕生によって、世代から世代への情報伝達が容易になり、生き残るための知識が蓄えられたことは想像にかたくない。

 元来、生き残るために獲得された性質の一つであるはずの物語(形成能力)が、いつのまにか、人が「いま・ここ」の現実を生きることを阻む方向に働くようになり、人は物語に取り込まれ、過去と未来の中を生きるようになった。
 それは、ネットゲームの主人公(アバター)の活躍するドラマを、自らの人生と勘違いしているゲーマー青年と、架空を生きているという点では何ら変わるところがない。

 過去は、過ぎ去って、今はない。
 未来は、未だ来たらず、ここにない。
 現実にあるのは「いま・ここ」だけなのだ。

 マインドフルネスとは、瞬間瞬間の感覚に意識を置きつづけることで「いま・ここ」にあり続ける実践である。
 物語からの解放なのだ。

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 ソルティ自身のスタンスを言えば、物語に毒されていることは重々承知しているものの、それを100%拒絶するのも阿呆らしいと思っている。
 そもそも遺伝的あるいは後天的に植え付けられた物語(形成能力)をゼロにするなどできるべくもなく、社会生活を送って他人とコミュニケートする以上、物語を無視するなど不可能である。(それができるのは完璧なサイコパスだけだろう)
 と言って、もういい加減、ありもしないファンタジーにかまけて「いま・ここ」の生を取り逃し続けるのはごめんこうむる。

 物語とは適当につきあうのが良い。
 ブログで本や映画について書くのは、襲いかかる物語に無防備に身をさらして蹂躙されないよう、物語に対して免疫をつけるためのワクチン接種のようなもの。
 ――と自己韜晦をはかっている(苦笑)











● 人間に光あれ 本:『橋のない川 第四部』(住井すゑ著)

1964年新潮社

 動乱の第三部にくらべると、第四部はこれといった大きな社会的事件も主人公・畑中一家の生活上の変化もなく、平穏無事な展開と言える。
 もっとも、長男誠太郎のロシア出兵と無事帰還、小森部落内に公衆浴場ができる、部落から大阪に働きに出た若い男女の心中事件といった出来事は起こるのだが。

 この巻の焦点は、部落の人々が権利意識と社会不正に目覚め、それがだんだんと高まっていく様子を描くところにあろう。
 くだんの公衆浴場開設についても、それをお上からの有難い恩賜と受け取り、衛生環境を向上することで部落民に対する世間の偏見をなくしていこうという部落内の融和穏健派に対し、畑中家の次男孝二をはじめとする若者たちは容易に与することなく、部落差別を温存する社会と闘って社会を変えてこそ本当の意味での“解放”はあると議論を深めていく。
 その全国的な盛り上がりが、1922年(大正11年)京都における全国水平社の創立大会へとつながっていく。

 本巻では創立大会直前までの畑中一家と小森部落の日常風景が丹念にたどられるが、ここでついに小森部落の真宗寺院の跡取り息子である村上秀昭が、実在の社会運動家西光万吉をモデルとしていることが明らかとなり、本巻の最後は秀昭(=万吉)が書いた「水平社宣言」の草稿を孝二たちが読むところで終わる。
 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ

 
桂冠旗
水平社創立当時の桂冠旗
西光万吉によって考案された


 いよいよ話も佳境、次の巻に入るのが待ち遠しいところであるが、本巻を読んでふと気になったことがある。
 部落の人々が権利意識に目覚めるのも、あるいは同時代の貧しい農民や工場労働者が格差社会に怒り米騒動やストライキを頻繁に起こすようになるのも、1917年ロシア革命とそれによって広まった共産主義の思想によるところが大きいという点である。
 少なくとも作者である住井すゑはそうした観点から物語を書いている。
 これは住井の思想信条(共産党びいき?)も関係しているのかもしれないが、やはり時代的に見ても、共産主義の影響こそ、当時の日本庶民の権利意識を目覚めさせるのに大いに力あったのであろう。
 つまり、普通「人権」と言えば、ロックやルソーやモンテスキューらによって思想的基盤が用意され、フランス革命やピューリタン革命やアメリカ独立宣言などの市民革命により民衆が勝ち取った成果というイメージがあるけれど、日本の場合は、その西欧的人権思想が大衆の間に広く浸透し深く根づく暇のないまま、共産主義思想すなわち“階級闘争による平等社会の実現”という政治経済的欲求のほうが専横してしまったのではないか、ということである。
 きびしい差別を受けていた部落民のようなマイノリティはともかく、はたして一般大衆のどれだけが、「人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない」人権の根幹を理解していたのだろうか。
 
 森喜朗の女性蔑視発言とかコロナ禍における感染者差別とか、いまだになかなか根づかない日本人の人権感覚を鑑みるに、そして、「人権」を口にするとたちまち「左の人」と決めつけられてしまう不可解さを思うに、明治維新後の日本人の近代人としての思想形成史の中に、なにか抜け落ちているものがあるのではないかという気がするのだ。




● JR多度津駅構内食堂

 2018年秋に四国歩き遍路をしたときに、香川県のJR多度津駅前にあるホテルトヨタに泊まった。

 この駅は、別格17番神野寺(満濃池)、金毘羅さま、75番善通寺、76番金倉寺といったJR土讃線に沿った縦の札所ラインと、別格18番海岸寺、77番道隆寺、78番郷昭寺、79番天皇寺、80番国分寺といったJR予讃線に沿った瀬戸内海沿いの横の札所ラインが交わる地点にあり、歩き遍路にしてみれば、一つの章を終えて次の新たな章が始まる中継点――みたいなイメージがある。
 満濃池からの縦のラインを打ち終わり、多度津駅のコインロッカーに大きな荷物を預け、3キロほど離れた別格18番海岸寺を打ち戻り(往復)し、「もう今日はここらが限界」とホテルにチェックインした。

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JR多度津駅

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 シャワーを浴びて一服し、「さあ夕食」と思ったが、あいにくホテルの食堂は閉まっていた。
 ならば、駅構内のコンビニで弁当でも買ってこようかと、夕暮れの駅前広場を横切っていると、線路沿いの小屋の壁に「食堂」とだけ書かれた看板を見つけた。
 矢印にしたがって奥へ進むと、「日替り定食500円」と書かれた札が入り口に貼ってある。
 場所が場所だけに、体裁が体裁だけに、おそらくJR職員のための食堂なのだろうと見当がついた。
 こういう所は、“安くてボリュームたっぷり”と相場が決まっている。
 ここで夕食をとることにした。


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 期待どおりボリューミイだった。
 味は普通だが、讃岐名物のうどん、揚げ物3点、おにぎりと稲荷ずし、これで500円なら大満足である。
 ずいぶんとエネルギーをもらった。
 開店したばかりで店内は空いていたが、制服姿のJR職員のほかに、近所の親子連れらしきも見られ、地元民に愛されているのだろうなあと思った。
 よもやここが、鉄道ファンでは有名な“JR多度津駅構内食堂”であるとは知らなんだ。

 JR四国の多度津駅の構内食堂(香川県多度津町栄町3丁目)が3月末で閉店することがわかった。乗務員や駅員らのための「社員食堂」だが、四国の鉄道発祥の地とも言われる拠点の駅構内にあり、鉄道ファンや地域住民にも長年愛された。JR四国は建物の老朽化が理由と説明しているが、関係者からは惜しむ声が上がっている。(中略)
 食堂の裏手には、れんが造りの給水塔がある。国の登録有形文化財に指定されている、この大正期の建造物などをカメラに収め、食堂にも立ち寄る全国各地からの鉄道ファンも後を絶たない。
(朝日新聞デジタル 令和3年1月23日の記事より)

 上の写真の食堂の奥に見える煙突のようなのが給水塔らしい。
 この給水塔も壊されてしまうのかな?

 くちくなった腹を撫でながら駅前広場をホテルへ向かうと、夕映えの讃岐の山々が翌日の快晴を告げていた。
 「明日も元気に歩くぞ!」
 そう思った。
 

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 JR職員や地元民や鉄道ファンのみならず、何千という歩き遍路にとっても、思い出深い、有りがたい、元気が出る食堂であったのは間違いなかろう。








● 自粛警察の末路 映画:『ゼイカム-到来-』(ジョニー・ケバーキアン監督)

2018年イギリス
91分

 SF異生物ホラーサスペンス。
 原題は Await Further Instructions 「次の指示を待て」

 何より怖いのは、2018年に作られたこの映画が今のコロナ社会を予言しているかのような点。
 異なるのは、人類を襲ってくるのが新型コロナウイルスではなく、イカのような触手を何本も持った謎の知的生命体であること。
 この最強のエイリアン(ソルティ命名「メタリック星人」)に目をつけられた一家の受難を描く。

 クリスマス休暇に何年ぶりかに実家を訪れた長男ニックとインド系移民の恋人アンジー。
 ニックの母親は二人を温かく迎えるも、超保守的なニックの祖父と父親トニーはアンジーを見て露骨に嫌な顔をする。
 そこへ長女で妊娠中のケイトが夫のスコットを連れてやって来る。ケイトもまた頭のいいアンジーに対するコンプレックスが隠せない。
 熱心なクリスチャン一家の排他的空気に耐えられなくなったアンジーとニックは、翌朝早く、実家を出ようとする。
 が、時すでに遅し。
 家屋はまるごと何者かの手によってメタリック質の壁で厳重に封鎖され、ネットも電話もラジオもつながらず、一家は閉じ込められてしまう。
 「緊急事態発生。ステイホームして次の指示を待て」
 テレビモニターに現われる指示は政府のものなのか。それとも・・・・・? 

 といった異常なシチュエーションで、一家は、「ステイホームによる自粛」、「汚染された食べ物の廃棄」、「正体不明のワクチンの接種」、「家族の中の感染者の隔離」・・・・と、だんだんとグレードアップしてゆく当局からの指示に戸惑いながらも従ってしまう。
 冷静で科学的思考をもつニックとアンジーはそれらの指示に疑いを抱き、黙って従うことに抵抗を示すが、一家の主人たることに強迫的なこだわりをもつ権威主義のトニーは、当局の指示を鵜のみにし、強引に家族を従わせていく。
 このあたりの家族それぞれの振る舞いが、まさにコロナ禍の社会の人間模様を映しているかのよう。  
 すなわち、
 祖父と父親トニー・・・・・権力に盲従するマチョイズムの自粛警察
 母親と婿のスコット・・・・自分の意見を持たず、権威に逆らえない右顧左眄の人々
 長女ケイト・・・・感情的衝動的で容易にパニックに陥いる人々
 長男ニックとアンジー・・・・冷静に理性的に判断し振舞おうとする一部の人々
 
 一家の中では、自粛警察のお父さんトニーが、実に怖い。
 子供の頃から父親(ニックの祖父)に馬鹿にされ続けていた憤懣がここに来て爆発し、この未曽有の危機をかえって家族内での自らの権威と支配を高めるために用いようとする。
 その結果、すさまじい家庭内暴力をまねき、外からのメタリック星人の攻撃を待つまでもなく、一家は勝手に内部崩壊していく。
 敵は外にいたのではなく、内部に育っていたのである。
 お父さんは最後にはメタリック星人に寄生されて、文字通り、手足となって動くようになる。
 「私を敬え」と叫びながら、息子のニックとアンジーを斧で殺戮する。

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メタリック星人に寄生されたお父さん


 ただ一人残されたのは、死んだケイトのお腹の中にいた赤ん坊。
 クリスマスの夜に生まれた男の子であった。

  ハレルヤ!



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★     読み損、観て損、聴き損







● ウミウシもの 映画:『ボーダー 二つの世界』(アリ・アッバシ監督)

2018年スウェーデン・デンマーク合作
110分

 これは10年に1本のとんでもない映画。
 解説を、論評を、評価を、比較を拒む、なんとも言い表しようのない“はじめて”の映像体験が味わえる。
 似たような映画を上げることすらできない。
 あえて上げれば、主人公ティーナの風貌から、ジーラ博士が登場する『猿の惑星』シリーズかジェームズ・キャメロン監督『アバター』(2009)であろうか。

 どういうジャンルに属するか決めることすら困難である。
 サイキックなのやら、差別がテーマの社会問題系なのやら、LGBT物なのやら、SFなのやら、怪奇ホラーなのやら、犯罪物なのやら、恋愛なのやら、スピリチュアルなのやら、ミュータントなのやら、哲学なのやら、エログロなのやら・・・・。
 今まで作られてきた何万本の映画によって形成されたジャンル概念を吹き飛ばしてしまう破壊力。
 「いったい、これは何なの!?」という叫びが出るのを押しとどめながら、鑑賞した。
 ウミウシものとでも名付けようか。


ウミウシ


 ある意味、これまでのメロドラマに対するアンチテーゼというか、ハリウッド流恋愛映画に挑戦状を叩きつけたというあたりが、もっとも当たっていそうな気がする。
 すなわち、「美男美女が運命的な出会いをし、互いの孤独を埋めるように惹かれ合い、すれ違いや勘違いを繰り返した末、嵐の夜に薪の燃える小屋でついに結ばれ、澄んだ池の中で裸で向かい合って濃厚なキスを交わし、美しい森の中を追いかけっこしては草の上に倒れてはげしく愛し合う。ところが男には女に隠していた暗い秘密があり、そのため犯罪事件に巻き込まれ当局に追われ、二人は結局別れなければならなくなる」――という“ありきたり”のメロドラマに対するアンチテーゼである。
 この映画の基本プロットはまさに上に書いたとおりで、ただ一つ違うのは、「二人は美男美女ではなかったのです」ということである。
 もしこれをハリウッドの美男美女(たとえば往年のニコール・キッドマンとトム・クルーズ)を起用してやったとしたら、凡庸過ぎて、陳腐すぎて、ありきたり過ぎて、「観て損したな」と思うのは必定である。
 二人の主人公が、男でもなく、女でもなく、美男美女でもなく、「美女と野獣(♂)」でもなく、「美男と野獣(♀)」でもなく、スタイル抜群でもなく、上品でもなく、賢くもなく、リッチでもなく・・・・すなわち、メロドラマにとうてい耐えられるようなヴィジュアルでも、恋愛映画の主役をはれるようなキャラクターでもないという点において、逆にすべてのハリウッド式メロドラマの偏移性・差別性(=美に対する異常な信仰ぶり)が暴露されてしまった感がある。
 
 観始めたころは「醜い」としか思えなかった主人公ティーナが、話が進むにつれだんだんと目に馴染んできて、観終わるころは「愛らしい」とさえ思えるようになっている自分を発見する。
 観る者は、物心ついてからメディアによって植え付けられている「ヴィジュアル信仰」に気づかされることになる。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 5

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 私たちは求めているからそれを得ている。
 不幸を求めているからこそ、私たちは不幸なのです。
 しかし、私たちはそれを否認している。
 ただ幸せを求めているのだ、と私たちは言う。
 しかし、「幸せ」という言葉によって、言われているものは何でしょう?
 欲望を満たすこと?
 もし本当にそれを求めていなければ、私たちは自由なのです!
 (標題書P.417)

 不幸を求めているから不幸?
 そんな馬鹿な!

 ――と思う人も多いかもしれない。
 誰だって幸せを求めて生きているはずだ。
 マゾでもない限り、誰が好きこのんで自らの不幸を求めるだろうか?

 ウ・ジョーティカ師の言葉には重層的な意味合いがあるように思う。
 一つには、私たちが普通に考えかつ求めている幸せとは、「欲望の満足」であるという点である。
 お金がほしい、友だちがほしい、恋人がほしい、子供がほしい、仕事がほしい、持ち家がほしい、別荘がほしい、洋服がほしい、車がほしい、宝石がほしい、地位がほしい、名誉がほしい、権力がほしい、健康がほしい、美貌がほしい、若さがほしい、永遠の命がほしい・・・・。
 欲望の達成を「幸せ」と考えるならば、それを求めている間は当然「不幸せ」になる。
 達成したあかつきに得た「幸せ」は、一瞬の満足ののち、目減りし魅力を失っていく。
 獲得した物は変化し、いつかは壊れ、失われていく。
 そのうえ、「欲望を達成する」という行為自体が生き癖となってしまっているので、次の新たな獲物を作り出さないことには虚しさに襲われるばかり。
 すると、「幸せ」は永遠に先送りされる。
 欲望を満たすことは「幸せ」にはつながらない。

 今一つには、私たちは、表面的でわかりやすい上のような欲望とは別に、自らが無意識に欲しているもの(状況)というのがあって、いつか必ずそれを具現化してしまうというほどの意味合いである。
 これはなかなかわかりにくいところである。特に、欲望に向かってまっしぐらの、イケイケバンバンの若い頃は・・・・。
 たとえば、覚醒剤を隠れてやっていた有名人がついに警察に捕まったときに、「ホッとした」とか「いつかはこうなるんじゃないかと思っていた」と本音を漏らすことがある。
 そういうときに彼らの内面で働いているのは、一見不幸の極みに見えるようなそういう状況――逮捕され衆目にみじめな姿をさらし、家族や友人や仕事や名声や信用や財産やらを失うというような状況――を、心のどこかで望んでいたことに対する“気づき”ではないかと思うのである。
 つまり、覚醒剤に手を染めなければならないくらいまで無理のある生活、虚飾にみちた日常、上げ底の自分が、逮捕によってやっと破綻し“ありのまま”の自分に戻れたという思いが、「ホッとした」というセリフになるんじゃなかろうか。
 意識の上では華やかなスターの「自分」を目指して我武者羅に生きてきたけれど、無意識が望んでいたものはもっと別の「自分」であった。

 あるいは、何らかの事情で自分を卑下しているとき、人は手に入れた幸運や成功を素直に受け取れず、自分がそれにふさわしいと思えなくなる。
 「こんな自分が幸福であってよいはずがない」という罪悪感は、それにふさわしい状況をおのずから身の回りに作り出してしまう。
 スピリチュアルでよく言われるところの「思いは現実化する」。
 
 言いたいのはつまり、多くの人は本当に自分が望んでいるものを知らないで生きているのではないか――ということである。
 そこに気づかせてくれるきっかけが「不幸」や「逆境」であるとしたら、人は心のどこかでそれらの訪れを待っているとさえ言えるのではなかろうか。

 三島由紀夫がやはり天才だなと思うのは、彼が40歳のときに発表した『サド侯爵夫人』の中にこんなセリフがある。

いいえ、私が自分で望んでいたものが、この年になってだんだんわかってきました。ずっと若いころには、私もあなたと同じように、そんな二種類の思い出を望んでいるような気がしていました。・・・・ヴェニスと、仕合せと。・・・・でも私の思い出に残ったものは、私の琥珀の中に残った虫は、ヴェニスでもなければ仕合せでもない。ずっと怖ろしいもの、言うに言われないものでした。若い私が望むどころか、夢にさえ見なかったもの。でも、今では少しずつわかってきました。この世で一番自分の望まなかったものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず一番望んでいたものなのです。
(新潮文庫『サド侯爵夫人』) 

 この戯曲を20代で読んだ時、ソルティはこの三島特有の典雅で才気に富んだ逆説に非常に感銘を受けた。
 が、その真に意味するところはまったく分かっていなかった。
 三島がこれを書いた年齢も、三島が自決した年齢もとうに越えた今、このセリフを非常にリアルなものに感じるのである。

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● 一本とられた! 本:『モリアーティ』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2014年原著刊行
2015年KADOKAWA(駒月雅子訳)

 やられた!
 一本とられた!

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 というのが読後の心の叫びである。
 『カササギ殺人事件』や『メインテーマは殺人』といった本格推理小説の名手ホロヴィッツゆえ、「なにか奇抜なトリックが仕掛けられているに違いない」と思いながら読み始めたのに、見抜けなかった。
 思わず、二度読みした。

 トリックを見抜けなかったのにはそれなりの理由が(言い訳が)二つある。
 一つには、この小説はタイトルが示すように、先行作の『絹の家』同様、ホロヴィッツ2作目のシャーロック・ホームズもののパスティーシュなのであるが、本格推理小説というよりも犯罪スリラーの色が濃厚なのである。
 スコットランド・ヤードのジョーンズ警部とピンカートン探偵社のチェイス調査員がタッグを組んで、アメリカからイギリスに進出してきた悪の組織を追い詰めるというのが基本プロットで、ところどころジョーンズ警部によるホームズまがいの鋭い推理披露シーンはあるものの、大枠としては真犯人探しのミステリーではなく、“勧善懲悪”の犯罪小説といった趣である。
 角を曲がるたびに景色が変わるように、展開が目まぐるしく、バッタバッタと人が殺されていく。
 主役の二人が敵に頭を殴られ気絶し、冷凍庫に閉じ込められるといった、お決まりの絶体絶命シーンも設けられている。
 「この先どうなるんだろう?」というハラハラドキドキ感が先立ち、筋を追うことにかまけ、じっくりと小説の構造というか作者の企みを考える余裕がなかったのである。
 たとえてみれば、迫力満点のプロレスの試合が目の前に展開されているときに、「八百長」という言葉がまったく浮かんでこないようなものである。

 八百長・・・・。
 そう、今一つの理由は、本作で仕掛けられているトリックは、ある意味、八百長まがいだからである。
 フェアかアンフェアか?と聞かれたら、「アンフェアだろうな・・・」というのがソルティの正直な感想である。
 ネタばらしになるので詳しくは書かないが、よもやこういったトリックを仕掛けてくるとは思っていなかったので、読み始めた最初の頃に一瞬その可能性も浮かびはしたものの、想定の外に追いやってしまった。
 ならば、アンフェアだから失敗作か? 駄作か? 読む価値ないか?――といえば、そんなことはない。
 本作の一番の特徴にして魅力は、「アンフェアなのかもしれないが、ま、いいではないか」と進んで許容してしまいたくなるところにあろう。

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 なんと言っても、面白い。
 ホームズ&ワトスンを模したジョーンズ&チェイスの名(迷?)コンビぶり、レストレード警部含むスコットランド・ヤードの面々や名作短編『赤毛連盟』の主犯たちやモリアーティ一味の残党など原作おなじみメンバーの出演、ホームズとモリアーティが死闘を繰り広げたライヘンバッハの滝や馬車が走る19世紀ロンドンの風景など、パスティーシュならではの楽しさ満載である。
 ストリーテリングの巧みさと随所にさしこまれるユーモアはホロヴィッツの独壇場。
 そのユーモアですら伏線の一つであることがのちに明らかになるにいたっては、シャッポを脱ぐよりない。
 なんという腕の立つ作家か!
 ホロヴィッツは、日本の作家で言うなら、東野圭吾と貴志祐介と筒井康隆をブレンドして3で割ったような感じであろうか。
 これだけ楽しませてくれれば、文句はない。
 
 最後の最後でトリックが明らかになった時、ホームズものを愛する読者の多くはおそらく、「アンフェアなのも無理はない」と不承不承納得するであろう。
 フェアを期待するのがそもそも間違っていたと思うであろう。
 それだけの“悪”に出会うからである。
 泥棒被害に遭った時、相手が名もない出来心からのコソ泥だったら頭にも来ようが、アルセーヌ・ルパンであったら、どうだろう?
 むしろ名誉と思うのではなかろうか。
  


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 歪みの象徴 本:『天皇制と部落差別』(上杉聰著)

1990年三一書房

 住井すゑ著『橋のない川』の時代設定は、明治後期から水平社宣言がなされた大正11年。
 有史以来、日本がもっとも著しく天皇制による国粋化をはかった時代と言っていいだろう。
 そうした極端な時代において、天皇制と部落差別の関係が浮き彫りにされたさまを住井は描いている。
 本書で上杉はその歴史的根拠を探っている。

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 まず、著者は天皇制をこう定義している。

 「古代中国から輸入された支配制度と、排除を利用した支配制度が結びついたもの」と、大まかにいってよいのではないかと思う。これが始まるのは、推古朝(592~628年)の聖徳太子の改革のころからであり、「大化の改新」(645年)後に成立したものであった。 

 天皇制の始まりを、『古事記』や『日本書紀』に出てくる第1代神武天皇に、あるいは欠史八代(2代~9代)をのぞいた第10代崇神天皇に置いていない点に留意したい。
 確かに、天皇という名称が使われたのは大化の改新以後の天武朝からと言われている。
 
 本書では、天皇制を支える三つの軸として、
  1. 「神国日本」、「アジアの盟主」といった日本版中華思想というべき世界観(アジア観)
  2.  家制度や男系による家督相続システムにより身分の固定を図る戸籍制度
  3.  神道にもとづく「けがれ」観および荘園制度進展により生じた排除のシステム
を上げて、それぞれの観点から、部落差別が生まれ、固定化し、持続していった経緯を究明している。
 3.の排除のシステムとは次のようなものである。

 古代的な民衆支配が崩壊した後、それに代わる天皇制の支配の方法は、荘園制の進展に対応しつつ、一方で荘園の外部にいる人びとへの差別を強化し、他方で内部にいる農民の位置を制度的にも観念的にも高める方式が採用された。荘園制から外れた河原や坂などに住み、自由に生き、活動する人びとに対する神道・仏教の諸観念を動員した差別意識の強化が、こうしてはかられることになった。
 天皇制の公領で始まったこの「排除」のシステムは、以後、各荘園領主に「便利」な支配秩序として受け入れられ、全国化する。また農民自身も、自立化を進めるにしたがって、このシステムに深くとらえられ、やがて、自分たちを被差別部落と明確に区別する意識が生まれ、自己を天皇の子孫と考えるなどの思想が浸透する。(ゴチックはソルティ付与)
  
 上記の天皇制の公領で始まったというのが一つのポイントで、著者は部落差別の源流を平安時代中期の京都に起きた史実にもとめている。
 天皇家の京都の守護神である鴨御祖神社(下鴨神社)の周囲に住んでいた「濫僧」「屠者」と呼ばれる人々を「ケガレ」ゆえに追放し、そののち彼らに京都市中の死人の清掃を担わせた。この「濫僧」「屠者」こそは「穢多」「非人」の前身という。
 いったん社会から排除した者を、なんらかの形で(たとえば、3Kのような人の嫌がる仕事を押し付けるといった形で)社会と関係づけるところに、被差別部落が発生する土壌が用意される。
 このあたりの記述は、中世ヨーロッパに見られた特定の職業の人々への差別について、歴史学者の阿部謹也が述べた説を連想させる。

 心の底で恐れを抱いている人びとが、社会的には葬られながら、現実に共同体を担う仕事をしているという奇妙な関係が成立したのです。このような状況のなかで、一般の人びとも、それらの職業の人びとを恐れながら遠ざけようとし、そこから賤視が生じるのだと私は考えます。(『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也著、ちくま文庫)

中世の道化師

 
 明治4年(1871年)の賎民廃止令(「解放令」)以後も、現代に至るまで部落差別が続いてきた社会的要因として、著者は上記の「戸籍制度」とともに、資本主義社会における日本的経営スタイルを指摘している。いわゆる、終身雇用制度に象徴されるものである。
 「社員は家族」の終身雇用制度のもと、『部落地名総鑑』を悪用した就職差別などがなぜ起こったのかを解き明かしていく過程で、日本社会が背負ってきた「負」あるいは「歪み」がえぐり出されていく。
 「社員は家族」であればこそ、その中に穢多・非人が紛れ込むのを厭うたのである。
 逆の見方をすると、人々が「自由・平等・個人の権利」をモットーとする近代民主主義の価値観を当り前のものとするようになったがゆえに、社会構造の中にしぶとく生き残っている前近代の“常識”や、大衆の中にしぶとく生き残っている前近代の“意識”が、「負」や「歪み」としてあらわになってきたのであろう。

 本書の最終章では、解放令の直後に各地で勃発した零細農民らによる部落解放反対一揆(穢多狩り)の凄まじい残虐ぶりが描き出されていて、読んでいて言葉を失う。
 これまで自分たちの下にいて優越感を与えてくれた相手が、近代思想に目覚め「平等、権利」を主張するようになるや、正気を失うほどの憤りにかられるさまは、フェミニズムに目覚めた妻をカッとなって殴るDV夫を思わせる。

 ある村では、「おまえたち、随分偉そうに振舞うているじゃないか。もし昔の穢多に戻るというのだったら許してやる。しかし、今までどおりに偉そうに振舞うんだったら、村も焼く、おまえの命もない」といって竹槍を突きつけるわけです。それに対して「穢多でようござんす。命だけは助けてください」――。わずか20戸や30戸の村です。そこに1000人もの周りの村民が竹槍をもって、なかには鉄砲までももって襲ってくるんです。これに抵抗できるわけはないですよね。みんなそうやって詫び状を、涙ながらに書いて出すわけです。


 「自由・平等・個人の権利」を当事者に許さない天皇制こそは、前近代の遺物の最たるものである。
 すなわち、日本の “歪みの象徴” である。
 これを現代民主主義のなかにどう位置づけるのか、あるいはどう位置づけないのか、がいまも問われているのだろう。
 

菊のご紋

 

おすすめ度 : ★★★★

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