ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

IMG_20201029_213206


 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

IMG_20201021_092926


 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
IMG_20201029_135829
 
 
 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 映画:『マザー!』(ダーレン・アロノフスキー監督)

2017年アメリカ
115分

 ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』を撮った監督である。
 幻想的で印象に強く刻まれる映像を紡ぎだす才には恵まれているが、表現する世界がマニアック過ぎて、メジャーには収まりきれない人だと思う。
 この映画も批評家の間では賛否が分かれ、一般観客からは酷評を得たという。

 映像は凄い。
 が、ストーリーが意味不明、というか破綻している。
 出演している俳優たちも、最後まで物語が、そして自分の役が、理解できなかったのではなかろうか?
 DVDの特典映像では、主演のジェニファー・ローレンス――『ウィンターズ・ボーン』での名演技が記憶に新しい――をはじめ、参加スタッフたちが一様に本作の独創性を讃え上げ、アロノフスキー監督と共に仕事できたことに感謝の意を表明している。(ほかに言いようもないだろうが)
 本心はどうなのだろう?と思わざるを得ない。
 
 不気味で不可解な現実が一転してサバト(悪魔の宴)と化していくルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』に通じるような破壊性と超越性を、本作にも見てとることもできよう。
 観る者の予想を裏切り、想像をはるかに超えた、あたかも高熱で寝込んだ夜に見る悪夢のような恐ろしくも不条理な展開に、ヒロインともども徹底的に打ちのめされ絶望する、マゾヒスティックな快感に酔う者もいよう。
 だが、次々と襲い来る不条理について悪魔(魔女)という根拠をもつ『サスペリア』に対し、本作では不条理の根拠を欠いている。
 不条理は不条理のまま投げ出され、解明は拒まれる。
 あるいは、観る者に下駄は預けられる。
 無責任なまでに――。
 
 そこをどう取るかで、評価は分かれるだろう。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● ほすぴたる記その後22 高尾ロス

 午後、急に思い立って高尾山に行った。

 なんと一年ぶりの山登り。
 一番最近は昨年10月末の鷹取山だった。
 これほど山から離れていたのは、山登りが趣味となった15年前からついぞなかった。
 むろん、骨折後はじめてである。

 そして、高尾山は昨年4月以来。
 恒例の初詣を含め、生涯もっとも多く登っている山にもすっかりご無沙汰であった。
 
 京王高尾山駅に着くと、駅周辺も、高尾山へと続く参道も、人であふれていた。
 コロナ前とまったく変わりない。
 いや、もしかしたらコロナ前より多いかもしれない。
 山歩きは、人との距離が取れるアウトドアで、ストレス解消にも最適だ。
 みな、そこを狙って来たのだろう。
 ただ、すでに午後3時を回っていたため、下山客がほとんどで、これから登る者は少なかった。


IMG_20201024_184420


 ケーブルカー麓駅の脇から、勝手知ったる琵琶滝コースに入ると、頭や心より前に身体が反応した。
 全細胞が久しぶりに浸かる高尾の“気”に打ち震えた。
 足りてないのはこの“気”であった。
 求めていたのはこの“気”であった。
 
 中央線を高尾駅で降りたときからすでに感じていたのだが、やっぱり高尾の“気”は違う。
 ヒノキや杉などの針葉樹が発する、明らかに神社系の“気”で、気高さと清涼感にあふれている。
 丹沢の山とも武蔵の山とも違う。
 富士山から連なる中央線沿いの山々だけに許された神(コノハナサクヤヒメ?)なる“気”である。
 とくに高尾山は、昔から修験の山で、頂上には真言宗薬王院があり、琵琶滝や蛇滝などに見るように水系豊かなため、中央線の山々の中で一番都心に近いにもかかわらず、素晴らしい“気”を保っている。


IMG_20201024_184618
琵琶滝


 高尾と言ったら天狗だが、ソルティはどちらかと言えば、龍を連想する。
 身体を波打って貫くようなエネルギーを感じるのだ。
 圏央道のトンネル貫通も、ミシュラン3ツ星による世俗化も、この“気”を奪うことはなかったのだ。
 いや、もしかすると、コロナで一時入山者が減ったおかげで、本来の“気”がよみがえったのであろうか?

 山道を進むにつれて、全身の成分が入れ替わっていくのが感じられた。
 一年ぶんの代謝。

IMG_20201024_184455


 歩いて山頂まで行き、下りはケーブルカーかリフトを使うつもりであった。
 上りより下りのほうが、足に負担がかかるからだ。
 が、結局、30分ほど歩いた3号目あたりで棄権した。
 平地では90分以上連続して歩けるようになったが、上りで、しかも足元の不安定な山道はまだ無理が効かないようだ。
 それに速度もつかないので、山頂に着くまでに暗くなりそうだった。

 沢を見下ろすベンチに腰掛けて、40分ほど瞑想した。


IMG_20201024_184919


 ・・・・・ととのった。

 中央線沿線に住んでいた15年の間に、自分がどれだけ高尾の“気”に馴染んでいたか、その聖なるエネルギーを糧にして生きていたかを、つくづく思い知った。
 昨年4月に実家のある埼玉に戻ってから、身心ともになんとなくすっきりしないものを感じていたのだが、その正体は“高尾ロス”だったのだ。
 土から抜かれた植物のように、エネルギー源から切り離されていたがゆえに枯渇していたらしい。

 下山後は、友人と待ち合わせ、高尾極楽湯でのんびりした。
 と言っても、ここもコロナ前の休日と変わりない混みよう。
 露天風呂は芋を洗う猿たち(笑)でいっぱいであった。
 ソーシャルディスタンス的にはかえって「やばかった」かも・・・・・?

 そうそう、コロナ前と大きく違ったのは、ほぼ日本人100%の高尾山だったこと。 
 何年ぶりの光景だろう?

IMG_20201024_184730



  
   







 
 

  
 

● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

IMG_20201021_115502


 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● シャリアピン、素敵 映画:『ドン・キホーテ』(ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督)

1933年フランス・イギリス
80分
フランス語
原作 ミゲル・デ・セルバンテス
音楽 ジャック・イベール

 主演のフョードル・シャリアピン(1873-1938)は、ロシア出身の伝説的名バス歌手。
 「歌う俳優」と呼ばれたほど、演技達者であったという。
 その名声を確かめるべく、レンタルした。

シャリアピン
シャリアピン


 なるほど、確かに凄い演技力である。
 まさに、イメージ通りのドン・キホーテがそこにいる。
 高潔で、突飛で、一途で、頭のねじの緩んだ老騎士になりきっている。
 表情から、姿恰好から、物腰から、口調から、仕草動作から、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す。
 むろん、その歌唱は絶品。

IMG_20201021_092556
ドゥルシネア姫への愛と忠誠を歌うドン・キホーテ


 そのうえにラストでは、騎士道物語の読み過ぎで頭のおかしくなった呆け老人という以上の、人間としての尊厳をも表現するに至っている。
 すなわち、ドン・キホーテという人物は、世俗を器用に生きようとする周囲の人間たちが失った“純粋さや情熱”の象徴だということを教えてくれる。
 だから、彼の死に際して、それまで彼を馬鹿にしていた周囲の人間たちは一様に頭を垂れ、涙するのである。

 シャリアピンの真価を示すこの記録が残されていることに感謝するほかない。


追記:晩年、来日して帝国ホテルに泊まった際、歯の悪かったシャリアピンのためにシェフが噛みやすいステーキを特別調理した。それがシャリアピン・ステーキとして今も愛されている。


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


  


 
  



● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

IMG_20201020_113846


 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

IMG_20201020_114052
カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

IMG_20201020_113950
表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

IMG_20201020_114151


 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

banner-s

 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

IMG_20201018_120352


 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『なんでもアリの国イギリス なんでもダメの国ニッポン』(山形優子フットマン著)

2012年講談社より『けっこう笑えるイギリス人』の表題で発行
2013年講談社文庫

 ソルティは比較文化論は面白いと思うのだが、ある一国と日本とをくらべて日本のダメなところをあげつらうような本はあまり好きでない。
 とくに、マークス寿子以来、日本とイギリスをくらべて日本および日本人を批判するようなものが多い。
 本書もタイトルからしてその匂いぷんぷんで、借りるつもりはなかったのだが、イギリス人と結婚した在英生活30年の女性が見たイギリスという国およびイギリス人の生態が興味深く、つい借りてしまった。

IMG_20201015_132146


 読んでみたら、単純にイギリスを持ち上げ日本を下げているのではでなく、イギリスの良くないところ(不衛生、テロなど暴動が多い、医療システムがうまく機能していない等)、日本の良いところも、しっかりと指摘している。
 とくに衛生観念や医療制度に関しては、このたびの世界各国のコロナ事情で判明した通り、日本人のそれは素晴らしいものがある。「日本に比べて、我が国は・・・・」と憤っている外国人(イギリス人含む)だって決して少なくないはずだ。
 一方で、コロナに感染した人への風当たりの強さには、やはり日本人独特の陰湿さを感じざるを得ないのも事実である。
 いじめや村八分がかくも問題となる背景には、日本社会の同調圧力の強さがある。
 それを「島国根性」と理由付けできないのは、同じ島国であるイギリスでは事情が異なるからである。

 一言で言えば、英国は「人と違う」ことを評価する国だ。そして日本は「人と同じ」ことを評価する国なのだ。
 両方とも島国なのに、まるで正反対なのが愉快だ。でも、どっちが面白いかと言えば、「人と違う」のがたくさんいるほうが面白いし、飽きが来ない。一方、日本のように「人と同じ」ほうが安心と言う人がいるが、とてもそうは思えない。
 人と同じになるためには常に他人をチェックしなければならないし、常に自分が他人と同じかどうか比べて吟味しなければならない。そんなの、疲れるし飽きてしまう。本音がどうなのかわからなくて疑心暗鬼になりそう。
 基準が他人にあるということは、流されるのを前提として初めて成立する。


 ソルティは、物心ついた頃より「自分が周りの男とは違う」という漠たる意識を持っていた。
 それが思春期を迎え、周囲の男女が色気づく頃から徐々に確たるものとなり、「本当の自分」を隠すようになっていった。
 むしろ、本質的に「人と違う」ところ(ゲイセクシュアリティ)を持つがゆえに、それ以外のところでは積極的に「人と同じ」であろうと無駄に骨折ったようにも思う。
 つまり、同調圧力を推進する側に、異端を排斥する側についてしまうのだ。
 結局、それは自己分裂を招かざるを得ないので、20代の終わり頃に破綻してしまった。


破綻


 そこからは、とにかく同調圧力の強い環境(=「人と同じ」ことを求める場)からはできるだけ逃走しようというのが、生きる上での信条となった。 
 組織(とくに大きな)に属することに対する忌避感はそのあたりから来ている。

 ソルティのイギリス愛にはそれなりの根拠があるのだ。
 (濃かった前世の一つというのが一番の理由だと思っているが)



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 25歳の扇千景 映画:『暖簾』(川島雄三監督)

1958年東宝
123分

 『幕末太陽傳』(1957)、『女は二度生まれる』(1961)、『しとやかな獣』(1962)の川島雄三監督による浪花人情ドラマ。
 大阪船場の老舗の昆布屋から暖簾分けされた店を守る八田吾平(=森繁久彌)の生涯を描く。
 原作は山崎豊子の同名小説。山崎の処女作で、生家の昆布屋がモデルという。

 川島監督のテンポ良い演出はむろん素晴らしいが、やはり役者陣の達者な演技こそ見物である。
 若い頃(と言っても45歳当時)の森繁の演技を見るのはこれがはじめて。
 やっぱり上手い。父親役と息子役の一人二役を見事にこなして、小気味よい。


IMG_20201017_165650


 妻役の山田五十鈴については言わずもがな。とくに結婚初夜の森繁との息の合った小突き合いが最高におかしい。
 ほかに、音羽信子、三代目中村鴈治郎、浪花千栄子が、それぞれの個性を際だたせつつ脇をしっかり固めている。

 チョイ役だが見逃せないのが、お松(=音羽信子)の娘役で出てくる扇千景。
 ソルティの記憶に刻まれているのは、彼女が建設大臣をつとめていた時の「新デザイン防災服お披露目会見」のスリットからの太腿出しである。悩殺された(ウソ)。
 女優時代はついぞ知らなかったが、ここでは25歳の扇千景が拝見できる。
 実に清楚で美しい。
 栗原小巻のよう。

IMG_20201017_165555

 
 全編、大阪商人の商魂たくましさが横溢している。
 このような気概がコロナ禍を乗り越え、ピンチをチャンスに変え、次の時代を切り拓いていくのだろうな~。
 
 


おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● B 神父の力量 テレビドラマ:『ブラウン神父の事件簿』シリーズ

2013年~ BBC(英国放送協会)

 ブラウン神父は、言わずと知れた英国作家G.K.チェスタトンが創造した名探偵。
 日本での知名度では、同じ英国探偵のホームズやポワロやミス・マープルに劣るかもしれないが、直観と観察と洞察力を礎とした探偵能力ではおさおさひけをとらない。
 カトリックの神父ならではの犯罪者に対する慈悲に満ちた態度も読みどころである。
 また、物語の雰囲気づくり、読者を驚かすトリックの斬新さの点では、チェスタトンの作品はクリスティを凌駕するものがある。
 ソルティは高校時代に創元推理文庫から出ているシリーズを読破した。
 家のどこかの押し入れの段ボール箱にあるはずだが、もう一度読み直したい。
 ――と思っていたところにレンタルショップで発見したのが、BBC制作のこのシリーズであった。


IMG_20201012_194423

 
 ブラウン神父役のマーク・ウィリアムズは、映画ハリー・ポッターシリーズでロンの父親アーサー・ウィーズリーを演じている身長186センチの巨漢である。
 それだけでも、小柄のブラウン神父には似つかわしくないのだが、そもそもこのシリーズは原作を忠実にドラマ化したものではなかった。
 推理の得意な田舎臭いブラウン神父というキャラクターだけは生かしているものの、物語は毎回オリジナルなのである。
 時代設定も原作より数十年あとの1950年代の農村である。

 それを最初に知ったときは残念な気がした。
 が、観てみるとこれはこれで面白い。
 マーク・ウィリアムズは原作のイメージとは別の個性的なキャラを創り上げているし、50年代の英国の農村の日常風景や階級社会の様相を見るのも楽しい。

 『科捜研の女』がいま大人気であるが、ソルティは最先端の科学工学技術を駆使した犯罪捜査にはあまり興味がない。
 というのもそこにはアマチュア探偵の頭脳を駆使した推理ゲームが入り込む余地がないからだ。
 犯罪現場に落ちていた一本の毛髪や防犯カメラの映像から犯人が割り出される現代の科学捜査が素晴らしいのは間違いないが、ミステリーとしての面白みは欠ける。
 だいたい警察以外の人間が捜査に関わること自体、いまやあり得ないだろう。ホームズやポワロや金田一耕助や明智小五郎に出番はない。
 ソルティは子どもの頃、「大きくなったらホームズのような探偵になりたい」と思って小遣いでルーペを買って、日々観察に励んでいた。
 が、いまの日本の探偵にできるのは夫の浮気の証拠――今となっては妻の不倫の証拠。時代は変わるものだ――を見つけることくらいと知って、落胆したものである。
 といって刑事になりたいとはまったく思わなかったのだが・・・・・。


IMG_20201012_092243
河出書房新社より2010年発行
最先端のリアルな犯罪捜査がわかる

 
 ときに、ブラウン神父はたしかに名探偵だが、本職の神父としての力量は残念ながら???である。
 というのも、神父の担当する教区はしょっちゅう殺人事件が発生するたいへん物騒な地域だからである。
 神父自体が死体の発見者となったり、犯人に襲われたりすることもしばしばである。
 ロンドン市内のほうがよっぽど安全。
 ブラウン神父の聖職者としての影響力には疑問を持たざるを得ない。

 このシリーズ、すでに80話以上制作されていて(現在も放映中)、うち50話ほどがDVD化されている。
 ソルティは20話くらいを観たところである。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



 
 

 

 
 

● 本:『徹底比較 ブッダとクリシュナムルティ そのあるがままの教え』(正田大観著)

2018年 コスモス・ライブラリー

 当ブログで紹介したJ.クリシュナムルティ著『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』(Can Humanity Change ? )の訳者の一人による、上記書の“続編”あるいは“補完編”といった趣きの本である。
 上記書はその邦題から、ブッダとクリシュナムルティの教えの相違が探究されている本かと期待して購入したのだが、フタを開けてみるとまったくそんなことはなく、肩透かしを食らった。
 とは言え、邦題をつけた者を単純に責められないのは、上記書の主要部分を成す、クリシュナムルティ(以下Kと記す)およびテーラワーダ仏教僧であるワルポラ・ラーフラをはじめとする複数の著名人の対話において、そもそも目論まれていたのはKの教えと仏教との相違の探究であったと思われるからである。
 対話の口火を切るのに、用意万端、ブッダの教えとKの教えの類似点を要領よく並べ上げて指摘し、Kの返答とそこから始まる両者の比較検討を期待していたであろうラーフラに返ってきたのは、「私とブッダを対比する必要がありますか?」という、Kのなんとも素っ気無い言葉であった。
 そこからは、まったく仏教とは関係ないところで話は展開していく。
 ラーフラおよび対話の企画者の目論み及び意気込みは、開始早々、あっさり棄却されてしまったのである。
 その「十倍返し」というわけでもあるまいが、本書において正田が試みたのが、まさに上記書で叶わなかったブッダとKの教えの比較なのである。

 本稿においては、おこがましくもラーフラ師になりかわって、ブッダとクリシュナムルティの教えを比較検討し、その共通点を提示し確認したく思うのである。簡単に言えば、「ブッダとクリシュナムルティの比較思想論」を試みるわけだ。

 ブッダとクリシュナムルティが同じことを言っているのであれば、それは、真理が一つであることを意味している。真理は一つであり、一つしかない真理を発見したので、言ってることが同じになった、という理解。・・・・(中略)・・・・この前提をもとに、クリシュナムルティの言葉を参照しつつ、ブッダの教えを再構成するのが、本書の進み行きとなる。

IMG_20201012_114304


 著者は、「無常、苦、無我、あるがまま、いまここ、からっぽ、貪欲、憤怒、迷妄、条件づけ、快楽、恐怖、二元性、思考、妄想、依存、見解、既知、無執着、気づき、智慧、解脱、遠離独存、涅槃寂静」の24のテーマについて、およびその他10の小テーマについて、両者の言説を引用し、比較検討している。
 引用の出典に選ばれたのは、ブッダの言葉については『阿含経典』の中でも最も古い教典とされている『スッタニパータ』と『ダンマパダ』であり、Kの言葉についてはその著書『四季の瞑想――クリシュナムルティの一日一話』(コスモス・ライブラリーより邦訳刊行)である。
 もちろん、単に両者の教えを比べて共通点を指摘して良しとするのみでなく、読む者にたびたび自己覚知をうながし、真理とは何かを一緒に探求することを呼びかけている。
 野心的な試みと言えよう。
 
金時山 041

 
 結論から言うと、ブッダとKの教えはほとんど同じであり、真理は一つであることが証明されている。
 予期していた通りではあるが、このように一つ一つテーマごとに徹底比較されると、両者は用いる言葉や表現さえ異なれど、呼応するように同じポイントをついていることが明らかとなる。
 たとえば、「思考」についての言説をみると、
 
ブッダ : 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、浄美の随観者に、渇愛(の思い)は、より一層、増え行く。この者は、まさに、結縛を堅固に作り為す。
 しかしながら、彼が、思考の寂止に喜びある者であり、不浄(の表象)(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、(貪欲の)終焉を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。(ダンマパダ349~50)
 
K : 悲しみの終焉を理解したい人は、この思考する者と思考、経験する者と経験されるものという二分性を理解し、見出し、乗り超えていかねばなりません。つまり、観察する者と観察されるものの間に分裂があると、時間が起こり、故に悲しみは終わらない、ということです。(中略)観察する者、思考する者とは言うまでもなく、思考の産物であります。思考がまず最初に来るのです。観察する者や思考する者ではありません。思考がまったく存在しなければ、観察する者も思考する者も存在しないことでしょう。そうすると、完璧で全面的な注意だけが存在するのです。(『四季の瞑想』238ページ)

 正田が述べている通り、2500年前のブッダの簡略な言葉――当時は筆記文化がなかったので教えは暗誦できるように簡略化・韻文化せざるをえなかった――が、20世紀の英国で高等教育を受けたKの明晰かつ論理的な文章により、より説得力を持って深いレベルで解釈されつつ再構成される、という現象が起きている。
 あたかもKが、ブッダの教えを現代語に翻訳して解説してくれている、かのような印象を受ける。
 いささか残念なのは、比較に使用された『スッタニパータ』と『ダンマパダ』の和訳がわかりづらい。正田自身による訳のようだが、ここはたとえば岩波文庫の中村元の訳をそのまま使用したほうが良かったと思う。たとえば、上の文の「浄美の随観者」、「不浄想」ってなんぞや?


PA080288


 さて、ブッダとKの教えがほとんど同じなのは分かった。
 しかし、やはり気になるのは、むしろ両者の違いであり、その理由である。
 その意味で、本書で一番興味が引かれたのは、両者の違いについて触れている「あとがき」であった。
 正田は、ブッダとKの大きな違いとして、①組織をつくることの是非、②セックスに対するスタンス、の二つを挙げている。これに、③悟りへの道を説くことの是非、を加えれば完璧になると思う。
 
 言うまでもなく、ブッダは出家者の集まりであるサンガを作り、それを重視した。仏・法・僧(ブッダと仏法とサンガ)は仏教の三つの宝である。
 一方、Kは自らを長とする裕福な組織(星の教団)をその手で解散してしまったことからも分かるように、生涯、組織には反対だった。組織は必ず腐敗につながる、個人を真理へ導かないと言ってはばからなかった。
 この両者の違いを、2500年前と現代との「伝達手段」の違いの観点から考察した正田の意見がうがっている。
 オーディオ機器はもちろん筆記文化がなかった2500年前のインドでは教えを伝えるには、口承に頼るしかなかった。ゆえに組織が必要だった。一方、Kの教えは、組織に頼らずとも、本やテープレコーダーやラジオやテレビなどで記録保存され、後世に伝えられる。この違いは大きい。
 たしかに、サンガがなかったならば、仏滅後の結集がなかったならば、われわれが今ブッダの教えを学ぶことは不可能だったろう。組織あってこそ、である。
 
 次にセックスについて。
 ブッダの基本姿勢は「禁欲」であった。出家者はむろんセックスNG、オナニーNG、恋愛NGである。在家に対しても、五戒に見られるように、「みだらな性行為」を戒めた。この「みだらな性行為」の定義が難しいが、基本、結婚(あるいは婚約)している者同士のセックス以外はご法度ってところであろう。不倫などもってのほかである。(ただしブッダは不倫は良くないとしたが、不倫した在家者を責めたり裁いたりすることはなかったと思う)
 一方のKであるが、ソルティの(読書)記憶によれば、若い頃はセックスに対してブッダ同様の厳しい態度を見せていたように思う。途中から、態度が軟化し(?)、逆に禁欲主義を批判する言辞が現れるようになったのではなかったか? セックスすること自体はNGとせず、セックスを“問題”としてしまう「思考のありかた」を問題とみたのである。
 
 僧侶や聖職者の偽善的あり方に厳しかったKは、セックスの問題に関しても、同様の偽善を指摘する。抑圧的禁欲の愚かさとその矛盾。表と裏を使い分けて外見を取り繕うあり方は、たしかに、聖なるものとは言い難い。
 
 ブッダも、Kも、淫欲の害毒については、同じ認識を持っていたと言えるだろう。あくまでも心理的な遠離独存を説いたKにたいし、ブッダの場合、出家修行者に限ってではあるが、肉体的な禁欲を厳命したところが相違点となる。
 
 セックスの問題に対するKの答えは、愛とは非難が全く存在しない状態のこと、セックスがいいとか悪いとか、これはいいけれど他のものは悪いと言わない状態のことです、となる。問題を問題としない、全的なあり方。妄想に起因する矛盾が生じない、葛藤なき状態。情熱と鋭敏さ。そして、気づき。愛とは確かに情熱なのです、と喝破する、Kの言葉をかみしめたい。
 
 正田は、この件に関する両者の違いの様相については十分明らかにしているが、その理由については突っ込んでいない。
 問題が問題だけに――と「問題化」してしまうのが問題、とKなら言うところだろうが――簡単には論じることのできないテーマではある。
 さらに、正田も記している通り、Kには最近になって「不倫スキャンダル」が勃発した。親友で長年の仕事上のパートナーであった男(ラージャゴパル)の妻と、隠れて付き合っていた、しかも自分の子を二度も堕胎させていた――というものである。
 これがどこまで本当なのか、完全にでっち上げなのか、真相はいまのところ藪の中である。
 ソルティは、このニュースを聞いたときに、Kがセックスに対して途中から寛容になった背景はここにあったのかも・・・・・と率直に思った。自分が普段やっていることを、他人に「やるな」とは言えないだろう。
 が、不倫や堕胎はどうなのだろう? もし、この噂が本当なら、Kはまさに「偽善者」であり、「聖なるものとは言い難い」ように思えるが・・・・・。
 
 愚考をさらす。
 ブッダとKのセックスに関するスタンスの違いを作った原因の一つは、それこそ両者の若い時分の性愛体験の差にあるのではなかろうか?
 ブッダは、釈迦国の王子であった青年時代に「好きなだけヤリまくった」はずである。それこそ国中から選ばれし美女たちが宮中至るところに待ち構え、オナニーなんて覚える暇もなかったかもしれない。さまざまな恋も経験済みだったろう。いわば、釈迦国の光源氏。
 三十路で出家したときにはもう、「セックスも恋愛ももう十分です」の域に達していたのではなかろうか。性愛の「快」の底に潜む「苦」を徹底的に味わい尽くしていたのではなかろうか。人を無明の闇に突き落としてしまう愛欲の怖さを十二分に知り尽くしていたのではなかろうか。いや、その達観のさきにある虚しさが、出家を後押しした可能性も考えられなくはない。
 一方のKは、はじめて女性と関係を持ったのは三十路を過ぎてからという話で、そのときにはすでに
「悟りを開いた聖者」として周囲から遇され、その教えを広めていた。
  
 Kが言うところの、飛ぶ鳥が跡を残さないような「問題化」しないセックスならOK、と言えば聞こえはいいが、そんな簡単なものではなかろう。
 セックスにはどうしたって相手が必要だし、相手との関係が生じざるを得ないし、妊娠や性病をもらう可能性だってある。自分一人が悟っていたところで、悟っていない相手と深く関わればどうしたって問題は生じ得る。
 よもやKは「サクッと風俗」を勧めているわけではあるまい。
 
 性と宗教――このテーマは一筋縄ではいかないので、ここまでにしよう。
 
秩父巡礼4~5日 170
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『危険なプロット』(フランソワ・オゾン監督)

2012年フランス
105分

 『8人の女たち』、『ぼくを葬る』、『婚約者の友人』のフランソワ・オゾン監督によるサスペンス・コメディ(?)。
 舞台劇が原作。

 物書きの才ある教え子クロードの作文を指導しているうちに、フィクションと現実との区別がつかなくなり、現実が破綻していく国語教師の姿を描く。
 観る者もまた、どこまでが現実で、どこからがクロードの想像(創造)なのか、はっきりしないところに置かれたまま、先の読めない展開に惹きつけられ、最後まで付き合ってしまう。
 脚本が優れている。

 物語の舞台はフランスの高校。
 日本の高校のように制服制が取り入れられているところが面白い。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

● 本:『幽霊はお見通し』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著発行
2016年創元推理文庫

 ウィザースプーン警部補の屋敷で働く使用人たちの活躍を描く「家政婦は名探偵シリーズ」第3弾。 
 今回は、19世紀英国ならではのスピリチュアルな趣向、すなわち交霊会が主要舞台の一つとなり、楽しさアップである。
 隠密探偵チームの個性的な面々の性格や癖を熟知し、各々に役割を与え、自信を持たせ、口論になるところを上手になだめ、前向きな空気を作る、リーダーとしてのジェフリー夫人の見事な手綱さばきも読みどころである。

 

IMG_20201008_130733


 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 エピローグ

 2ヶ月かけて巡ったネット上での四国遍路が終わった。
 自作の御詠歌と画像で振り返る四国の旅は、実に面白かった。
 とくに御詠歌を作る作業が楽しく、お寺の名前や特徴がうまく盛り込めた歌が生まれたときなど、心躍るものがあった。
 なんだかこの歌を作るために、前もって用意されたエピソードすらあった気がしたほどに。
 おかげで、別格20寺を含め、四国札所108の名前と順番と地図上の位置をすっかり覚えることができた。

 実際の遍路中も、また2018年12月初旬に結願してからも、遍路については当ブログでもたびたび書いてきたものの、中味が濃くて、なかなか消化しきれないでいた。
 旅はまだ終わっていないという感がずっとあった。 
 それが、今回の連載を終えて、「やっと、遍路が終わった!」という実感を持てた。


IMG_20200914_163516


 あらためて振り返ってみると、天候に恵まれていたなあ~と実感する。
 とくに海辺を歩いているときは快晴の記憶しかない。
 全行程にわたり、いい写真がいっぱい撮れたのは何よりであった。
 そして、あちこちで本当に土地の方の世話になった。
 いろんな形の「お接待」がなかったならば、旅はしんどいものになっていたに違いない。
 四国はいまや自分にとって第三の故郷となった。(第二は10年間住んだ仙台である)

 
 遍路をしている間は、ほとんどものを考えていなかった。
 過去のことを回想して愉しんだり後悔したりすることもなければ、未来のことを考えて妄想したり不安にかられたりすることもなかった。
 旅の先行きのこと、たとえば泊まる宿や取るルートや残り予算について思い迷うことはあったが、それも、香川に入ってからは消え失せた。
 そして、そのときそのときの様々なものとの出会いと別れを十分味わうことに心は集中するようになった。
 つまり、「いま、ここ」がすべてになった。


霊山参り(赤と黄色の花)


 遍路から日常生活に戻ると、またしても心は過去や未来にさまようようになった。
 あれこれと過去の失敗を思い出しては痛みをほじ繰り返し、もう二度とは訪れない快い追想に浸り、未来のことを想像しては浮かれたり、ブルーな気分に陥ったり・・・・。
 遍路から丸一年たった昨年12月に、駅の階段から落ちて骨を折ったのも、そのとき心が「いま、ここ」にいなかった何よりの証拠である。
 その後のコロナ騒動は、ご承知のように、未来についての不安をかき立てた。

 大体、人間は過去や未来について「考える」から問題を作り出すのであって、思考の入らない「いま、ここ」には問題も生じようがない。
 そのときそのときにやるべきことをやるだけだ。
 そしてまた、実際に存在するのは過去でも未来でもなく「いま、ここ」だけであり、我々が何とかできるのも「いま、ここ」だけである。

 過去や未来について「考え」て、その結果、幸せになるのならどんどん考えればいいと思うが、これまでの経験からも「考えることで幸せが手に入った」とは到底思われない。
 日が暮れるのも忘れて遊んでいる子どものように、「いま、ここ」にいる時が、間違いなく幸せである。

 遍路で体験した「いま、ここ」感覚を、日常生活で――せわしなく、マンネリにつながる繰り返しが多く、いろいろと結果を出すことが求められるような――日常生活で保持するのは難しい。
 大概が、過去や未来にとらわれて「いま、ここ」の価値を忘れ、そのうち煮詰まってくる。
 だから、人はまた四国に行きたくなるのであろう。
 ソルティも、連載している間に、「ああ、また行きたい!」と何度思ったことか。

 四国遍路で味わった「いま、ここ」感覚を、こちらの日常生活でも再現――いや、再現という言葉はふさわしくないな――顕現させることができたなら・・・・・。
 つまり、日常から逃避するために旅を求めるのでなく、日常がそのまま旅であるような生。

 同行二人はいまも続いている。


霊山寺境内(笠)
観るも自在 聞くも自在の 旅なれば のんびり往かん 今ここにあれ
(第40番観自在寺オリジナル御詠歌)



● ワープ解脱法? 本 : 『道元の考えたこと』(田上太秀著)

1985年講談社より『道元のいいたかったこと』の題名で刊行
2001年講談社学術文庫

 道元の教え=曹洞宗については気になっていた。
 「只管打坐」、「修証一如」という言葉からは、よけいな夾雑物を排したすっきりした信仰の形が察しられるし、坐禅=瞑想を重視するところはお釈迦様本来の教えと合致する。
 念仏や読経や祈願や苦行や儀式・典礼をもっぱらとする他の大乗仏教宗派とは位相が異なる感があった。

 おそらく、道元の教えを知るには徹底的に坐禅するに如くはあるまい。
 が、道元の達した境地なり真理なりに坐禅によって到達するのは在家では難しそうであるし、たとえ何らかの智慧や真理を会得したとしても、それが道元のそれと同じものなのかどうか分からない。
 となると、道元の主著である『正法眼蔵』を読むのがやはり最善の策であろう。

 ―――と思って図書館で借りてはみたものの、これがなかなか読みこなせる代物ではなかった。
 量の膨大さはともかく、言葉が、文章が、内容が、難しすぎる!
 高度と言いたいところだが、残念ながら、高度かどうか判断できるまで読み進めるのさえ困難である。 
 あきらめて返却し、次善の策によった。
 仏教研究者による解説本である。


IMG_20201005_180632

 
 田上太秀は同じ講談社から『仏陀のいいたかったこと』(1983年)という名著を出している。
 20年くらい前にソルティは、大乗仏教でぐちゃぐちゃにされたものでない、お釈迦様本来の教えを知りたいと思い本屋で見つけたのが、上記の田上の著書および宮本啓一著『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫、1998年発行)であった。


IMG_20201005_180445


 この2冊によってソルティのそれまで持っていた仏教観は大いに変わった。
 「どうやら生まれてからずっと自分が馴染んできた日本の仏教というものは、日本独特の特異なものらしい」と知ったのである。 
 その後、10年くらい前にテーラワーダ仏教を知って、最も古いお経の集成である『阿含経典』を基盤とするお釈迦様の教えを学ぶようになった。
 そのとき、田上の書いていたことが正確であったことを改めて知った。
 つまり、ソルティにとって信用のおける仏教研究者の一人である。
 そこで、田上の描いた道元を手掛かりとすることにした。

 まず、ソルティの持っていた道元のイメージであるが、「坐禅を極めた人」、「永平寺に見られるように規律に厳しいストイックな人」、「庶民派の親鸞とは真逆で、ブルジョアの人(実際に大臣家の生まれである)」、「映画『ZEN 禅』で道元を演じた中村勘太郎のような清僧」といったところであった。
 本書を読んで、イメージ崩壊というほどのものではないものの、ずいぶん想像していた人物とは違っていた。

 田上は、道元の教えの概要を語るのに、各章を「〇〇への信仰」と題し、道元が信仰していたものを順に並べあげ、『正法眼蔵』を中心とする道元の著作の記述をもとに各テーマについて考察し、解説している。
 坐禅への信仰、礼拝への信仰、滅罪の信仰、本願の信仰、宿善の信仰、出家至上の信仰、輪廻業報の信仰・・・・・というように。
 これらの信仰を持っていた一人の修行者にして導師――としての道元の姿が浮かび上がる構成になっている。
 いわば多角的に見た道元像である。
 「まえがき」でこう述べている。

 いままでの道元観は正面から見たものであったと思う。譬えていえば玄関から道元を訪問して、座敷で面会したといえよう。だが筆者は勝手口から訪ね、居間に邪魔して道元に面会し、本音を聞き出そうとつとめた。


 まず、最初の「坐禅への信仰」については、

 インドからわが国に伝わったのは坐仏が伝わったのであり、これこそ大事な要であり、あるいは命脈であると道元は力説する。坐禅のあるところには必ず仏法があり、仏法があるところには必ず坐禅があり、仏祖から仏祖へと受け継がれたのはただ一つ坐禅の宗旨であると断言した。

 ソルティのイメージ通りの道元であり、「坐禅によって何が得られるのか、何を悟るのか」は置いといて、目新しいことはない。
 が、袈裟や経典や嗣書(師から弟子への仏法の系譜の記録)などに対する礼拝への信仰や、5つの滅罪方法(洗浄、懺悔、袈裟功徳、帰依、霊場巡礼)に対する信仰などは、読んでいて形式的・迷信的という印象しかなく、「やっぱり道元も時代の制約からは逃れられなかったのか」と思わざるを得ない。
 しかも、これらの信仰こそが正伝、すなわち本来の正しい仏法であると明言するに至っては・・・・。

 袈裟を頂戴する作法こそ、礼拝の最高の作法である。道元は仏祖から正伝した仏法の一つに袈裟を挙げた。したがって袈裟に対する礼拝をきびしく弟子たちに教えた。

 (道元は)袈裟をつけないで解脱した人はいないと断言している。たとえ戯れて笑いながら、あるいは御利益があろうと思いながら袈裟を肩に掛けたとしても、かならず悟りを得る因縁となるという。

袈裟来た少女


 また、本願の信仰について、田上はこう指摘する。

 親鸞と道元のそれぞれの本願力信仰の違いは、本尊を阿弥陀仏にするか、釈迦牟尼仏にするかの違いであって、本質的には同じではないかと思う。ただ一つ相違点をあえて挙げると、すがろうとする私が自分自身を愚夫と自覚するか(ソルティ注:親鸞)、宿善根に導かれていると自覚するか(同:道元)の違いであろう。

 坐禅をほかにして仏道はない。坐禅すれば立ち所に仏道が成就するという信仰は、坐禅が釈尊の大本願力に助けられて行われるという信仰に裏付けられていると考えられる。


 ソルティは、道元(曹洞宗)の坐禅は、悟りを感得するための自力による修行だとばかり思っていた。
 別に他力が悪いとか、他力は自力に劣るとかまったく思っていないけれど、勘違いしていたらしい。

 本書を読んで、ソルティの道元像に幅がもたらされた。
 思ったよりも親鸞に近い。
 つまり、「信仰の人」という気がした。
 一方、本書を読んでも、残念ながら、坐禅によって道元の至った境地がわからなかった。
 そこは「不立文字」とするしかないのか。
 「不思量底を思量せよ」とか言われても何のことやら・・・・。

 道元もまた、空海や高丘親王日蓮ら我が国の錚々たる名僧たち同様、真の仏法のなんたるかを終生求め続けたと思われる。
 中国から伝えられたおびただしい数の大乗経典のうち、どれがお釈迦様の教えの核なのか、どうすれば悟りに近づけるのか、あるいは極楽往生できるのか、迷いあぐねたに違いない。
 『西遊記』の三蔵法師に象徴されるように、真の仏法を求める求道者たちの熱望と苦心惨憺たるさまは、ネット時代の我々の想像の及ぶところではない。

 『阿含経典』では、「諸行無常」、「諸法無我」、「一切行苦」という明らかなる真理(=仏法)が明示されている。「不立文字」と言う前に、語られるべき、語ることのできる真理はあると思う。
 また、「修証一如」や「不思量云々」に飛躍する前に、四諦や八正道や瞑想法などの方法論がお釈迦様によって懇切丁寧に説かれている。
 少なくとも本書を読む限りにおいては、これらのお釈迦様本来の教え(=仏法)が触れられていない。
 あたかも、道元は、「袈裟を着て坐禅したら釈迦牟尼仏の助けで自動的に涅槃へ至る」いわば“ワープ解脱”を期待していたかに見える。(それをこそ「本覚思想」というのだろうか?)

 道元の頭のなかは、本当はどれが正しい仏法であり、修行の作法であるかを見極めることに困惑したものと推察される。正伝の正法と力説するあまりに、その「正しい」と選択する基準をなにに求めればよいか、かれ自身、最後までわからなかったのではないか。

 たとえ、釈迦本来の教え(=正法)にぴったり適合しないものであったとしても、道元の教えが素晴らしければ、そして悟る機縁をもたらすのであれば、それはそれで問題ないと思う。
 ただ、『阿含経典』をもっとも古い、仏説に近いお経として知って学ぶことのできる現代日本人は、なんと幸せなのだろうか。

 別の書き手による、「勝手口」からではない「玄関」からの道元像にもあたってみよう。
 

道元
中村勘太郎にはまったく似ず



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 19世紀の天安門事件 映画:『ピータールー マンチェスターの悲劇』(マイク・リー監督)

2018年イギリス
155分

 「ピータールーの虐殺」について最初に知ったのは、数年前に豊島管弦楽団のコンサートでマルコム・アーノルド作曲『ピータールー序曲』を聴いたときだった。
 指揮は和田一樹であった。
 
 同曲は、15人の死者と600人以上の負傷者を出したこの惨劇を音によって表現したものであり、遠方からピクニック気分で家族が集うような平和な演説会が、武装した騎兵隊によって蹴散らされ、混乱に陥り、そこかしこで流血が起き、阿鼻叫喚の地獄と化していく様子が、迫力もって描かれている。
 事件を知らない者が聴いても、なにか忌まわしい悲劇があったことを知るだろう。

ピータールーの虐殺
 1819年8月16日、イギリスのマンチェスターのセント・ピーター教会前広場に集まった議会改革を要求する群衆が、当局側の弾圧をうけ、多数の死傷者を出した事件。
 イギリスではナポレオン戦争が終結(1815)し、戦時体制から解放されると、産業革命の矛盾が一挙に表面化し、抑えられていた労働者、職人らの不満が噴出して、政治改革・議会改革を要求する運動が高揚した。
 6万人が参集したこのマンチェスターの大集会は、下層階級による一連の議会改革運動の頂点をなすものであったが、大衆指導者ヘンリー・ハントが議長席に上がってまもなく、市当局が動員した義勇騎兵隊と軽騎兵隊とが群衆に斬り込んでけちらし、死者11名,負傷者400名以上を出した。
(平凡社『世界大百科事典 第2版』より抜粋)

IMG_20201009_150243


 死者・負傷者の数は資料によって異なるようだが、フランス革命から30年、19世紀初頭の英国でこのような弾圧事件があったのである。ちなみに、時の国王はジョージ3世であるが、精神疾患により息子のジョージ4世が摂政を務めていた。
 日本で言えば、「板垣死すとも自由は死なず」の自由民権運動に対する弾圧に相当するであろう。
 ソルティはまっさきに秩父事件を思い起こすが、秩父事件は武装した男たちによる実力行使、一種の反乱であった。
 女・子供もいるような武器を持たない民衆の集会を、権力が暴力でもって叩き潰したという点で、1989年の天安門事件がもっとも近いと思う。

 映画は、マンチェスターの田舎に住む貧しい一家が、政治改革を求める地元の活動家のスピーチを聞いて集会への参加を決め、家族そろって上京する姿を中心に置き、事件発生までの経緯を様々な角度から丹念に描いている。
 19世紀初頭の北部イングランドの街や家屋や工場や議会などのセット、人々の衣装、小道具が、しっかりした時代考証のもとに作られており、コスチュームプレイ(時代劇)としても風俗劇としても非常に見応えがある。CG全盛の昨今、ここまで本物らしさにこだわって丁寧に、予算かけて作られた映画は珍しいのではないか。
 しかも、構図や色彩や撮影が見事で、屋内のカットなどはまるでレンブラントかミレーの絵でも見るかのような奥行と深さとあたたかみを感じさせる。
 155分は長いけれど、無駄なシーン、不必要なカットは指摘できない。

 つくづく感じたのは、英国のスピーチ文化の浸透ぶりである。
 題材が題材だからスピーチシーンが多いのは当然なのだが、下層から上流まで階級に関わらず、スピーチが主要な表現手段として国民に受け入れられ尊重されているのが分かる。
 スピーチをする者は、言葉の選び方から論の立て方、古典の引用や比喩の使用、声の出し方や話の緩急、視線の向け方や手の動き、表情などを、考えに考え抜いて、鍛えに鍛え抜いて、自分なりのスタイルを作る。いかにして聴衆の耳目を惹き付け、心をつかみ、説得し、情動を揺り動かし、味方につけるかが勝負である。
 一方、スピーチを聞く方もただ黙って聞いているだけではない。賛意や反意の示し方、冷やかし方、合いの手の入れ方、拍手や締めの文句の唱和など、それなりのマナーを持っている。

 この言葉と論理と身体表現に対する愛着のほどをみれば、英国にシェイクスピアを核とする長い演劇の伝統があるのも、コナン・ドイルやアガサ・クリスティを嚆矢とする推理小説の興隆があるのも、よく分かる気がする。
 『マーガレット・サッチャー』の男議員たちを瞬殺する鋭いスピーチを出すまでもなく、素晴らしいスピーチができることはイギリス人(あるいは欧米人)の武器であり、社会において頭角を現すために若いうちから鍛えておきたい必須な技能なのである。
 口論では、日本の政治家が束になっても英国の政治家にかなうはずがない。もっともその前に英語力の問題があるが・・・・・。

 ピータールーの虐殺により、民衆の要求はことごとく潰された。
 政府はその後、治安六法として知られる弾圧立法を制定し、改革の動きを徹底的に封じ込めた。
 自由と平等を求める民衆への抑圧は、以前より増したと言われる。
 では、セント・ピーター教会前広場の集会は無駄骨だったのだろうか?
 そこで虐殺された民衆の死は、無駄死にだったのだろうか?

 事件から200年後の現在の英国で、普通選挙による議会制民主主義が確立しているのを見れば、既得権益をもつ層による弾圧や専横はあっても、歴史の流れは、個人の自由と平等と権利を保障する方向へ動かざるを得ないことが知られる。
 今となっては、「ピータールーの虐殺」は英国にとっての恥部でしかない。

 中国や北朝鮮が今のままでいられるわけがない。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 本:『消えたメイドと空き家の死体』(エミリー・ブライトウェル著)

1993年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第2弾。 
 タイトルのつけ方がうまい。
 原題は、Mrs. Jeffries Dusts for Clues 「ジェフリー夫人は手がかりの塵をはらう」だが、邦題のほうが内容がわかりやすく、いかにも気楽なミステリーっぽい印象で、そそられる。

 カバーイラストは砂原弘治の手によるが、これまたポップでほのぼのして良い。

 退屈しのぎになる、かつ肩の凝らないミステリーって貴重だ。
 入院時にこのシリーズを知っていたらなあ~。

IMG_20201002_165910


おすすめ度 :★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 英国貴族の斜陽 本:『回想のブライズヘッド』(イーヴリン・ウォー著)

1945年原著刊行
2009年岩波文庫(小野寺健訳)

 第一次大戦前の英国上流階級の一家の物語である。
 美しく広大な荘園ブライズヘッドに建つ、贅を凝らした壮麗なマナーハウス(邸宅)。
 生活のためにあくせくと働くこともなく、社交や旅行や恋愛や趣味道楽にうつつを抜かす貴顕たち。
 名門オクスフォード大学の寮生活でのボーイズラヴ。
 TVドラマ『ダウントン・アビー』やE.M.フォスターの描く世界と同様、ソルティのハートを鷲づかみにする要素のオンパレード。
 上下巻をむさぼるように読んだ。
 イーヴリン・ウォーの本はこれがはじめて。

IMG_20200928_223905


 副題に「チャールズ・ライダー大尉の信仰と俗生活と、二つの人生にかかわる思い出」とあるように、中年になったライダーが、第二次大戦中の軍の移動でたまたまブライズヘッドを訪れたことがきっかけとなって、過ぎ去った青春の日々の回想が始まるという構成。
 語り手はライダーである。

 宗教の問題や隠された同性愛テーマやアルコール依存症の問題などはあるが、あまり難しいことは考えずに、英国の古き良き時代の最後の輝きと終焉、それに重奏するように回想される甘く切なくほろ苦い青春の輝きとその終焉の物語を、楽しむのがよかろう。
 落日の美しさは、言葉で語るものではなく、ただ眺めるものである。

 この物語は2008年にマシュー・グッド、ベン・ウィショー共演で映画化され、『情愛と友情』のタイトルでDVD化されているらしい。
 探してみよう。

 それにしても、ここ最近、妙にイギリスづいているなあ~。




おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 第20回(お礼参り)


 2018年9月下旬のある日、四国遍路88札所と別格20札所、あわせて108の霊場を歩いてめぐる旅に出た。これはその記録である。
 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを説いたものが多い。
 ここでは、やはり寺の名前を盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などをオリジナル御詠歌にして詠んでみた。


【香川県】


霊山参り(大窪寺前の茶店)
88番大窪寺前に並ぶ店
熱いコーヒーで結願を静かに祝い、一路徳島へ


霊山参り(さらば女体山)
女体山よ、さらば


霊山参り(トラックの絵)
トラックのデコレも遍路デザイン


霊山参り(徳島県入り)
香川県から徳島県へ(県道377号)


【徳島県】


霊山参り(山の中の道)
山また山の道が続く


霊山参り(畑の中の立木)


霊山参り(地蔵の集会)


霊山参り(犬墓大師)
犬墓大師

霊山参り(犬墓大師2)
犬を友として山野を行脚する空海
微笑ましい光景だ


霊山参り(キャベツ畑)
さっきから、なんてことない景色がこの上なく美しく感じられるのはなぜ?


霊山参り(徳島自動車道)
徳島自動車道の支柱
これまた美しい

霊山参り(コスモスと学校)
阿波市立市場中学校


霊山参り(この店はいつか見た店)
この店はいつか見た店
ああそうだよ。10番に行く途中の店だよ


霊山参り(8~9番への道)
8番から9番へ行く道に立つ鳥居
なぜこんなところに?と不思議に思ったものだ


霊山参り(7番山門)
7番十楽寺山門
前回はもみじがあったことに気づかなかった



7番札所: 光明山 十楽寺 (こうみょうざん じゅうらくじ)

7番
 おへんろは 苦しきものと 言ふけれど
 十に八つは 楽と思へり

御本尊: 阿弥陀如来
本歌 : 人間の 八苦を早く 離れなば 至らん方は 九品十楽
コメント: これでやっと御朱印完成。7番をもらい忘れたのは、ある人にもう一度会うためでは?と思っていた相手に再会した。
振り返ってみれば、おへんろは歩いている最中はしんどいこともあったけれど、なにもしないで物見遊山することが歓迎される不思議な空間だった。ある程度のお金と時間と健康が揃って可能となる最高の贅沢である。俗世間のほうがよっぽど苦が多い。だから、人は「お四国病」になるのだ。

霊山参り(7番境内)
十楽寺境内
あの休憩所で一息ついたのが、御朱印をもらい忘れた原因だった


霊山参り(真念道しるべ)
第6番善楽寺近くの真念しるべ石
はじめてのお接待は豆パンだった(追憶しきり)


霊山参り(6番の多宝塔)
第6番善楽寺の多宝塔
紅葉するとこうも景色が変わるか


霊山参り(5~6番の道中)
功徳を積んでいるカフェ
このあたりは、別格1番を経由したゆえに通らなかった道


霊山参り(3番山門)
3番金泉寺
井戸に顔を探したっけ

霊山参り(2番山門)
2番極楽寺
ここで般若心経を読むのを止めたっけ


霊山参り(1番山門)
1番霊山寺



1番札所:竺和山 霊山寺(じくわさん りょうぜんじ)

1番
 霊山で 買いし大師の 杖のたけ
 減った分だけ 落ちよ煩悩

御本尊: 釈迦如来
本歌 : 霊山の 釈迦の御前にめぐり来て よろずの罪も 消え失せにけり
コメント: 2度目の御朱印を受ける。ここで2ヶ月前に購入した金剛杖。どれだけすり減ったかを真新しい杖と比べてみた。なんとまあ酷使したことか。三本目の足として頼っただけでなく、蜘蛛の巣をはらったり、邪魔な草や枝をなぎ倒したり、手拭いを干すのに使ったり、本当に世話になった。せめて減った分だけでも煩悩が落ちたのならよいのだが。


霊山寺境内
霊山寺境内


霊山寺境内(杖の長さくらべ)
たけくらべ


池谷駅
歩き遍路の出発地点についに戻ってきた(JR高徳線・池谷駅)


吉野川
吉野川を渡る


徳島駅2
徳島駅


旅館大鶴
四国最後の宿は大鶴旅館
親切で話好きの女将がいるきれいな宿だった
出がけにおむすびの接待もいただいた(これがまた旨い!)
また泊まりたい宿である


さらば四国
さらば、四国



【和歌山県】


真言宗総本山: 高野山 金剛峯寺(こんごうぶじ)

高野山1

 結願を 奥の院にて 報告す 
 こんごうぶじ(今後を無事)に 送れますよう


ご本尊: 薬師如来(弘法大師) 
本歌 : ありがたや 高野の山の 岩かげに 大師はいまだ おはしますなる

コメント: 徳島からフェリーで和歌山へ。南海電鉄で橋本駅へ。そこから代行バスで高野山に向かった。(ケーブルカーは修理中だった)
金剛杖を奉納したかったが、奥の院にいた若い僧に「杖は奉納するものではありません」と断られた。家まで持って帰ることにした。(今も部屋の鴨居にかけ渡してある)
バスの中で会った男の話が興味深かった。



高野山2
真言密教の象徴、根本大塔


高野山1
奥の院にまします弘法大師


金剛峰寺ご朱印

奥の院御朱印

 
【京都】

真言宗総本山: 東寺(とうじ) 

東寺
 身は高野 心は東寺 しかれども
 霊(たま)は四国を 巡リたまへり


ご本尊: 薬師如来(弘法大師)
本歌 : 身は高野 心は東寺に納めおく 大師の誓い あらたなりけり

コメント: 高野山にも東寺にも弘法大師の魂はいない。母の地ふるさと四国にいて、庶民や遍路を見守っておられる。これが四国遍路を体験した人の偽らざる実感であろう。


京都東寺3
東寺はJR京都駅八条口から歩いて15分


京都東寺2
国宝の大師堂(御影堂)は修復工事中だった
仮のお堂に上がって最後の読経を上げた
現在はもう工事は完了し観覧・参拝できるようだ


京都東寺1
もみじはこの世の曼荼羅か


四国の白地図第19回

CraftMAPの白地図を使用しています。より詳しい四国地図を見たい方は、こちら(地図蔵)を参照ください。  







   


記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文