ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『医療現場は地獄の戦場だった!』(大内啓著)

2020年ビジネス社

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 読売新聞の書評欄を見て本書を知った。
 コロナ先進国(!)アメリカの救急医療(いわゆるER)で働く40代医師のリポートである。
 購読の決め手となったのは、著者の大内が実はノンフィクションライター井上理津子の甥であり、本書は、日本にいる井上が電話やズームを活用して著者に取材し文章にまとめた、という経緯が記されていたからである。
 『さいごの色街 飛田』や『親を送る その日は必ずやってくる』を読んで井上の力量を知っていたので、俄然興味が湧いたのである。
 言われてみれば、大内啓は、井上のアメリカ在住の甥っ子として『親を送る』に登場していた記憶がある。

 構成は4章に分かれている。
 第1、2章は、大内が勤めるマサチューセッツ州ブリガム・アンド・ウィメンズ病院ERにおけるコロナ患者治療の模様が描かれる。
 タイトル通り、「地獄の戦場」というのも頷ける凄まじい現場風景に身も凍る思い。
 日本でもすでにいくつかの病院では似たような状況になっていよう。
 
 ピーク時は、夢にゾンビがよく出てきた。私は『ウォーキング・デッド』などのドラマが好きで、ゾンビに怖い印象は持っていないが、夢では夥しい数のゾンビが空を飛び回った。そのゾンビたちが一つの建物の中に吸い込まれていく。あ、見覚えのある建物だ、と思ったら、ブリガム・アンド・ウィメンズ病院だった――。何度もそんな感じの夢を見た。

 第3章では、内科と救急科の専門医、かつ世界一と言われるハーバード・メディカル・スクールで助教授をつとめるようになるまでの大内の履歴が語られる。
 高い倍率をくぐって一流の切符を手にするための猛勉強ぶりは、分野は違えど、眞子内親王のフィアンセである小室某の近況報道を連想させる。
 アメリカで医師を目指した者が、一人前の医師になるまでに必要とされる訓練や経験がうかがえて興味深い。
 中でも、南アフリカでのエイズ患者治療をめぐる話や、ヒスパニック系移民の多いニューヨークのクイーンズ区での研修の話が、世界における、あるいは同じ一つの国でも地域における“格差”をまざまざとえぐり出し、ある意味、「コロナ禍は先進国(地域)だけの贅沢病」といった感慨さえ抱かせる。
 たとえば、平均寿命50歳以下の国ではコロナは問題視されまい。

 第4章では、アメリカの医療の仕組みが、日本との比較において語られる。
 国民皆保険の日本と違って民間医療がメインのアメリカ、多様な人種構成で英語も話せない人も多く“格差”の激しいアメリカ、「白い巨塔」の日本の医学界とは違って努力と実力により出世の階段を上っていけるアメリカ、尊厳死など延命治療に関する本人の権利が尊重されるアメリカ・・・・彼我の違いもまた興味が尽きない。

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David MarkによるPixabayからの画像

 
 24時間絶え間なく運び込まれる何百人というコロナ患者を診てきた大内が実感した「新型コロナウイルスの特徴」とは・・・・・。
 
 一つは、自覚症状がまったくなかった人すら、急激に悪化すること。
 その日の朝まで少しの発熱程度だったという人が、昼に非常に息をしづらくなり、家族の車で救急へ来る。昼まで倦怠感程度だったという人が、夕方には息も絶え絶えとなって救急車で搬送されてくる。コロナほど「徐々に」の三文字がない、他とは違う呼吸器疾患を、私は知らない。
 
 もう一つは、酸素飽和度が上がりにくいことだ。酸素マスクを使った場合でも、気管挿管をした場合でも、期待する数値には上がらない。 

 つまり、急激に悪化し、いったん悪くなったら容易には回復しにくい。
 さらに、大内は次のようにも述べている。
 
 死んでいく人一人ひとりに、死に際してそれぞれの思いがあるだろう。また、間近に見送る近しい人たちにもいろいろな思いがあるだろう。ところが、新型コロナ感染症で亡くなるときには、誰もがたった一人だ。
 家族も友人も立ち会えない。誰にも看取られず、急激な病状変化の末に、たった一人で息を引き取る。
 ICUには家族も入れない。そればかりか、病院そのものが立ち入り禁止の時期も短くなかった。感染拡大を防ぐためには致し方ない。分かっている。しかし、なんと残酷な疾病だろうと、私は何度も何度も頭を抱えた。 

 一気に読み上げずにはいられない迫力と興味深さはともかくとして、ソルティは、格差社会の一面を切り取った『さいごの色街 飛田』、肉親のターミナルケアの模様を描いた『親を送る』、両ノンフィクションを書いた井上の甥っ子が、このような体験に遭遇するということに、何か不思議な因縁を覚えた。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● ウ・ジョーティカの『自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義』を読む 1

2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値あるものと感じられなければ、どうなると思いますか? もし何かやったとしても、自分がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまうのですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。彼らは自分が何かをやっているふりをするだけで、本当は違うのだと感じてしまう。何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」。このことはとても重要です。(標題書P.26、ゴチックはソルティ付与)

 この書を読むのは3回目である。
 前2回はウェブ上に『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』のタイトルで無料公開されているものを、プリントアウトして読んだ。
 その後、思いがけずも新潮社から出版されて、ハードカバー500ページを超える大著3200円(税別)にもかかわらず、思いがけずも読まれているようである。
 タイトルの一部を「ウィパッサナー瞑想」から、流行りの「マインドフルネス瞑想」に変えたことが理由の一つであろう。

 コロナ禍の今は、ソルティのような瞑想実践者にとって得難き好機である。
 瞑想は、家で一人でできる金も手間もかからない暇つぶしで、体にも心にも良い。
 とくに、コロナに関する報道で不安を煽られたり、生活上の変化でストレスがたまったり、先の見えない状況に鬱っぽくなったりという昨今、心を落ち着かせる瞑想のありがたさは高まるばかりである。
 これが自由に外出できるとなると、ほかの娯楽や交流に惹かれて、家でじっと座ることが難しくなる。
 自粛生活を強いられる今こそ、瞑想が進むチャンスなのだ。
 マインドフルネス瞑想=ウィパッサナー瞑想を知り実践する人が少しでも増えるとしたら、それで人が仏教に触れるきっかけが生まれるとしたら、コロナ禍も決して悪いことばかりではない。
 
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 前回この書を紹介したとき、この書は「ウィパッサナー瞑想をやっている人にしか役に立たない」と書いた。
 それは決して嘘でも大げさでも極論でもない。
 本書の(著者ウ・ジョーティカ師の)目的は、ウィパッサナー瞑想を実践している人に対して、ウィパッサナー瞑想の概要を語り、瞑想をする上での具体的な注意点を伝え、瞑想が進むにつれ生じてくる智慧やスランプに関する見取り図を提供するところにある。 
 実際、本書のもとになったのは、オーストラリアのどこか静かな森の中で行われた瞑想合宿における講義録なのである。
 俗っぽく言えば、マニュアル本である。
 なので、将棋をやらない人にとって将棋のマニュアル本が役に立たないのと同様、ウィパッサナー瞑想をやらない人にとって本書は役に立たない。
 
 しかしながら、ウ・ジョーティカ師の語りには、瞑想実践者や仏教徒でなくとも通用し、生きるうえで役に立つであろう箴言がたくさんある。
 それは師が、瞑想と人生を深いところでリンクさせているからであり、その結びつきのありようを、指導を受ける者たちに包み隠さず呈示しているからである。
 そういうことができるくらいの哲学性と洞察力と人生経験と言語力と博学と、もちろん瞑想体験と指導力とを兼ね備えているのが、ウ・ジョーティカ師なのである。
 
 そういうわけで、3回目の通読となる今回は、本書を読んでソルティが感銘を受けた師の言葉の数々を紹介していきたいと思う。
 
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 冒頭の引用は、瞑想実践に入る前に必要な心の準備について、師が語っているくだり。
 瞑想にそれなりの成果を望むなら、自尊心を持つことが大切だという趣旨である。
 これはしかし、師も触れているように、人生のあらゆる面について言えることである。
 自尊心の低い人は、何ごとにも満足いく結果を生み出すことができない。
 「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」という文句はソルティの胸に強く響いた。

 ソルティは、ボランティアやNGOや介護の仕事などを通して、数十年来、対人支援の仕事に関わってきたが、つまるところ見えてきたのは、「人は自分を救えるレベルでしか他人を救えない」、「自分を癒せるレベルでしか他人を癒せない」、「自分を大切にするレベルでしか他人を大切にできない」という峻厳たる事実であった。
 自己に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)の裏返しが、他人に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)であり、それはまた社会に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)につながる。
 他人や社会のために尽くすのは素晴らしいことだが、そこには自己に対する評価という壁(限界)が立ちはだかっていて、それを無理に超えて自己犠牲を払うことは、必ずしも良い結果を生まない。
 一時的にはうまくいったように見えて、助けた相手から感謝されることがあったとしても、長いスパンで見たとき、必ずしも援助された当人のためにならなかった、というケースを結構目撃してきた。(GOTOキャンペーンのよう?)

 それはおそらく、自分の壁を超えて無理をした分が、あとから揺り戻されるからだと思う。
 他人や社会のために何か良いことをしたいと思ったときに、その動機の中に自己否定的なもの(たとえばトラウマやコンプレックスや怒りや憎しみや欲求不満といった)が含まれていると、知らずその否定的なものは外側(他人や社会)に投影され、転写されてしまう。
 闘うべき相手を外側に作り出してしまう。
 それは自分が作り出した幻なので、永遠に打ち倒せない敵となる。(キリスト教における悪魔のよう?)
 また、自己否定がもとにある自己犠牲的支援は、その恩恵を受けた人の中に知らず罪悪感や負担や依存を生み出してしまうことになりかねない。
 わかりやすい例を挙げる。介護保険のいいところは、介助者に給料が払われる仕組みが、介護される高齢者の心理的負担を減らすことにある。
 家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?

 自分の問題を棚上げにして、自分の問題から逃避して、他人や社会のことにかまけても、うまくいかない。
 まず隗より始めよ。
 幸福は自分から。
 ソルティは、それが、その昔インドで小乗仏教(とけなされた人たち)が発見した真理の一面だったのではないかと思うのである。

P.S. 補足するまでもないことだが、これは「人助けや社会運動はやるだけ無駄」という意味ではまったくない。




● 笠智衆の貞操がまもられた理由 映画:『簪 かんざし』(清水宏監督)

1941年松竹
70分、白黒

 これは珍作中の珍作。
 笠智衆を主人公とする恋愛ドラマがあるとはよもや思わなかった!
 しかも、お相手は日本が世界に誇る往年の名女優、田中絹代!
 しかも、田中絹代が、足をケガした笠智衆をおんぶするという驚きのジェンダーフリー・シーンがある!
 しかも、二人は何ら障害なさそうなのに、接吻一つ交わさず、結ばれないまま別れてしまう。
 
 監督の清水宏が田中絹代と付き合っていた因縁はあるようだが、それは過去の話で今さら嫉妬もあるまいに。
 三十過ぎた独身同士で、互いにまんざらでもなさそうな美男美女が、なぜに結ばれぬ?
 たしかに“愛を語る”笠智衆はちと想像しがたいが・・・・・。


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笠智衆をおんぶする田中絹代


 原作は井伏鱒二原作『四つの湯槽』(ソルティ未読)
 『按摩と女』同様、山中の平和な温泉宿を舞台に、一組の男女の運命的な出会いと別れを中心に、同宿の者たちの交流を、ときに詩情豊かに、ときにギャグタッチに、ときにサスペンスフル(笑)に、全般ユーモラスに描く。
 簪(かんざし)というタイトルは、芸者(=田中絹代)がお湯の中に落とした簪を、あとから入った青年(=笠智衆)が知らずに踏んで足をケガしたことが、二人の出会いのきっかけになったところから来る。 
 しかるに、「ほんのかすり傷」のはずだのに、包帯をぐるぐる巻き、松葉杖をついて片足を引きずりながら過酷なりリハビリする青年・笠智衆の姿が、不思議千万、かつ滑稽である。
 同宿者の熱い声援を受けながら、川に渡した狭い木橋を渡ろうと試みる笠のアクロバティックな姿は、笠ファンなら見逃せない珍シーンである。
 なぜリハビリするのにこんな危ない芸当をする必要がある?――という疑問はご法度である。
 観る者は、『カサンドラクロス』や『戦場にかける橋』ばりに、あるいはキグレサーカスの綱渡りばりに、音楽と周囲の応援とで盛り上げられたこの稀に見るサスペンスシーンを、固唾をのんで(失笑をこらえ)見守るよりない。
 しかも、笠青年が途中で挫折し田中絹代におんぶされつつ橋を渡り終えた直後に、温泉宿の按摩たちが杖ですたすた渡っていくというオチがつく。
 清水宏の落語のようなボケが実に冴えている。


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おっと、危ない!

 
 笠智衆扮する青年と絹代扮する芸者が森の中で語らい合うシーンで、セリフが一部飛んでいる。
 軍部によって検閲を受けたのではなかろうか?
 この映画の公開は太平洋戦争直前。
 それを思えば、男女が結ばれなかった理由も頷ける。
 これから戦地に赴く青年が、色恋なんかにうつつを抜かしている暇があるか!!

 笠智衆の貞操はかくして守られた。

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失恋した女
『按摩と女』の名シーンがここでも繰り返される



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 
 

● つがい幻想 映画:『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』(ジョン・マッデン監督)

2015年イギリス、アメリカ
123分

 ジュディ・デンチ、ビル・ナイ、ペネロープ・ウィルトン、マギー・スミスといったベテラン英国名優チームの中に、本作ではハリウッドの正統派二枚目スターであるリチャード・ギア投入というサプライズがなされる。
 リチャード・ギアもついに名優入りか、というよりも、ついにマリーゴールド入居かという感慨が湧いた。
 御年71歳である。

 リチャード・ギアは役者というよりスターである。
 英国の名優たちの中に混じって埋もれないだけのオーラーは、やはり天性のものである。
 大衆は、演技の上手い地味な役者より、華のあるスターに惹かれる。
 リチャード・ギア(のようなキャラ)が宿泊しているだけで、マリーゴールド・ホテルの繁盛は約束されたも同然。

 前作同様、自由気ままで個性的な老人たちの異国でのハプニングが描かれる。
 中心となるのはやはり各人の恋愛模様。
 欧米人は老いても盛んだ。
 プロムの夜から始まる“つがい幻想”は根強い。
 正直、ちょっと辟易した。

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おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 新型コロナウイルスの怖さに関する考察

 新型コロナウイルスが出現して一年以上になる。
 2021年1月10日時点の世界の累計感染者は8,800万人、死亡者は190万人を超えている。
 たった一年でこれだけ広がったのだ。
 これは2019年のデータではあるが、UNAIDS(国連エイズ合同計画)の発表によれば、世界の新規HIV感染者は年間170万人、エイズによる死亡者は年間69万人だった。
 新型コロナウイルスの一年間の感染者数は、過去40年分のHIV感染者数(推定7,570万人)を上回ってしまった。
 このウイルスの威力をまざまざと感じる。
 
 日本では2021年1月10日現在、累計感染者288,825人、死亡者4,066人である。(厚生労働省発表)
 ソルティは首都圏に住み、地元の介護の仕事に携わっているが、今や、身近なところで感染を聞くようになった。地域のデイサービス、認知症のグループホーム、市内の学校、骨折治療で世話になった病院・・・・。
 先日も知り合いの介護従事者が感染し、いま自宅待機中という。
 自分や自分の同居家族がいつ感染してもおかしくない状況になってしまった。
 なんということだ!
 ダイヤモンドプリンセス時代が懐かしい・・・・

 
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 このウイルスの怖さはどこにあるのだろう?

 むろん、死につながる病であることが第一である。
 が、それだけではないことも確かだ。
 同じ感染症で、かかったら死ぬこともあるという点では、インフルエンザと変わりないはずだ。
 感染力や致死率の違いが、新型コロナウイルスをインフルエンザより怖いものにしているのだろうか?
 それならばHIV/AIDSはどうだ?
 感染力や致死率はインフルエンザよりずっと低いのに、いまだに人々から恐れられ、忌避されている。
 そう。新型コロナウイルスをめぐる今の日本の状況は、35年前のAIDSパニックに近いものがある。
 そのあたりを考察してみたい。

 
新型コロナウイルスが怖い理由

理由1 病気そのものの怖さ
 ウイルス感染が個体にもたらす身体的苦痛と心理的苦痛がある。
 初期症状と呼ばれる発熱や倦怠感やのどの痛みから始まって、嗅覚・味覚の異常や止まらない咳、呼吸苦、肺炎、気管内挿入に象徴される治療の苦しみ、そして最悪の場合、死がある。
 運よく回復したとしても、後遺症に苦しむ人も少なくない。
 病気と闘っている間に生じるであろう不安、恐怖、孤独、絶望なども馬鹿にならない。
 無症状で自宅やホテルで待機している人もまた、「いつ発症するか」「いつ急変するか」という不安や恐怖を免れ得まい。

 病気に対する怖さに影響を与えるものとして、その国の医療レベル、治療へのアクセスしやすさ、社会保障レベル、個人が属する文化における病気や死に対する観念、それぞれの個体の持っている強さ(年齢・既往症・抵抗力・精神力ほか)などが挙げられよう。

 
理由2 スティグマによる怖さ
 スティグマとは烙印のこと、かつて犯罪者の皮膚に焼きゴテでつけた印のことである。
 新型コロナウイルスに感染することで、個人は周囲や社会からまるで犯罪者のような扱いを受けることがある。
 中傷、差別、プライバシー侵害、不必要な隔離などの自由の束縛。
 当人だけでなく家族も被害者となる。
 患者をケアする医療従事者もまた対象となる。
 すでにいろいろな酷いことがあちこちで起きているのを聞いている。

 スティグマの強さに影響を与えるものとして、社会の人権意識や科学性、メディアの扱い、病気や死に対する観念などが挙げられよう。たとえば、健康幻想が強いところでは、病気=悪とみなされやすい。
 一般に、迷信深い他罰的社会ほど、スティグマは強いと思われる。


理由3 周囲や世間に迷惑をかける怖さ
 自分が感染した。そのときに、周囲が被るであろう様々な負担や労力や被害に対する負い目が生じる。
 たとえば、病欠によって仕事に穴を開ける、同僚の負担を増やす負い目。自分と関わった人々を“濃厚接触者”にしてしまう(=2週間の自宅待機を余儀なくさせる)負い目。風評被害による経済的損失を作り出してしまう負い目。

 こうした負い目は、世間体を気にする社会、個人より組織を大切にする社会、「人に迷惑をかけるな」という教えが尊ばれる社会、同調圧力が強い社会ほど、個人にのしかかるであろう。
 日本はまさにそうである。


理由4 他人にうつしてしまう怖さ
 上記1~3の怖さのすべてを他人にも与えてしまう恐れ。
 それが見知らぬ他人でもつらいことだが、職場の同僚であったり、仲の良い友人であったり、同居の家族であったりすると、実に心苦しいものである。

 他人にうつしてしまう怖さは、たとえば、医療や介護や保育など濃厚接触が避けられない仕事に就いていればより強くなるし、同居する家族の有無によっても違ってくるだろう。
 厄介なのは、現在自分が感染しているかどうかが把握できないことである。
 無症状でも感染していることはあるし、検査で「陰性」が出てもそれは100%絶対ではない(=偽陰性がある)。
 また、HIV検査同様、感染して時間が経っていない段階では正確な判定が下せない“ウインドウピリオド”があるため、「陰性」は必ずしも今現在の状態を示すものにはならない。
 自分がすでに「感染している」ものと仮定して、相手に接するくらいの配慮(逆防御?)が必要かもしれない。


理由5 生活が破壊される怖さ
 新型コロナウイルスの影響による失業者は、本年1月6日時点で8万人を超えたと言う。 
 この先、もっともっと増えるのは間違いない。
 企業の倒産、閉店、廃業、解雇、雇い止め・・・・・。
 全国レベルでこれだけたくさんの人が生活の危機にさらされたのは、終戦直後以来初めてだろう。
 自粛の影響は、ひとり経済面のみならず、文化面、教育面、健康面(身体的にも精神的にも)にも深い影響を及ぼしている。
 昨年7月以降の自殺者数の増加傾向も指摘されている。
 社会保障がいまこそ重要だ。


 上記1~5の理由は相互に関連し、影響し合い、良くも悪くも相乗効果を生んでいる。
 たとえば、まかり間違えば死に至る病であるからこそ、スティグマも強いし、他人にうつしてしまうのが怖い。他人に感染させてしまう病であるからこそ、加害被害の関係が発生し、感染者を罰する空気が生まれやすい。世間に迷惑をかけることを非とする社会だからこそ、迷惑の元となった人に対するバッシングは厳しい。生活が破壊されるリスクがあるからこそ、病気の怖さが一段と増してくる。


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Gerd AltmannによるPixabayからの画像


 ソルティは専門家ではないし、ここは対策を考える場ではない。
 特効薬やワクチンの開発が一番であることは、素人でも分かるが・・・。
 ただ、政府の動きを見ていると、戦略のなさを指摘せざるを得ない。
 またしても、太平洋戦争時(8.15)や福島原発事故時(3.11)に露見したニッポン・イデオロギーによる愚行が繰り返されているような気がしてならない。
 台湾政府のような戦略的行動がなぜ取れないのだろう?
 そうだ。怖さの理由の6番目は「政府を信頼できないから」である。

 少なくとも、感染者に対する中傷や差別をなくすために、
  1.  医療・行政機関等からのプライバシー漏洩を絶対に避ける
  2.  悪質な中傷や人権侵害には罰則を設ける
 この二つは徹底してほしいと思う。

 別記事でも書いたが、エイズパニックの時同様、上記理由の2と3が強いと、1や4を凌駕する。
 つまり、他人に感染させる恐れがあっても、スティグマを恐れたり他人に迷惑をかけることに怯えたりすると、検査を拒否したり感染を隠したりする行動に流れやすい。むろん、治療にもつながらない。
 発症して入院につながる場合は別として、感染しているのに症状が出ないケース、いわゆる無顕性感染の場合、隠蔽しての行動は可能である。
 現在、ネットで購入できる検査キットが出回っている。
 住所・氏名を伝えなければならない(=感染者であることが特定される)検査所に行かなくとも、自らの感染状況を自宅で知ることができる。
 そこで自らの感染を知った人たちが、それを隠蔽して、これまで通りに通勤して仕事して友人と会食してをすれば、感染拡大が止まらなくなる。

 感染の恐れのある人が安心して検査を受けられ、感染が判明した人が必要最低限の周囲の人に躊躇なく結果を伝えることができ、必要な補償を受けながら自宅待機や治療に安心して入られる状況をつくっていくことが望まれる。
 でなければ、だれも安心して感染者にはなれない。

 怖いのは病気よりも世間や社会である。











 



● 傘をさす男 映画:『山のあなた~徳市の恋~』(石井克人監督)

2008年東宝
94分

 清水宏監督『按摩と女』(1938)のリメイクである。
 主人公の按摩・徳市を先ごろ結婚したばかりの草彅剛が、旧作では高峰三枝子が演じた東京から来た謎の女をマイコが演じている。
 
 リメイクにもいろいろあるが、これはほとんどカラー撮影による旧作の焼き直しである。
 セリフ(脚本)も、演出も、カット割りも、役者の演技も、ほぼ旧作をなぞっている。

 それは一概に悪いとは言えない。
 旧作の白黒フィルムに、季節感たっぷりの鮮やかな色彩と、性能の良いカメラによって捉えられた夏の光や陰影と、高音質による自然音の再現を付与してくれただけでも、望外の喜びである。
 制作サイドの趣旨もおそらく、旧作とは違ったオリジナリティをあえて打ち出すことにはなくて、埋もれた日本映画の傑作にたいするオマージュと、隠れた天才・清水宏の名を一人でも多くの現代人に知らしめるあたりにあったのではなかろうか。(石井監督自身、これをリメイクでなく「カヴァー」と言っている)
 草彅の目の見えない演技も、マイコの楚々として美しい着物姿も、脇を固める三浦友和や渡辺えり子や堤真一の抑えた演技も、奇跡のような美しさを放つ旧作の価値を傷つけることなく、全体に好ましい再現が達成されている。

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随一の名シーン
傘をさす東京の女に扮するマイコ

 
 旧作との違いをあえて挙げれば、音楽であろう。
 旧作ではヴァイオリンのノスタルジックな音色が湯煙立つ山々に響いていた。
 本作では静かなピアノの旋律を基調とした癒し系のオーケストレーションになっている。
 その違いが、本作を旧作よりも繊細かつ抒情的にしてドラマ性の高いものにしている。
 それによって、旧作では高峰三枝子=東京の女に当たっていた焦点が、本作では草彅剛=徳市に引き寄せられている。
 もちろん、マイコと草彅のネームバリューの差も大きいし、旧作で徳市を演じた徳大寺伸と草彅の役者としての質の違いもある。
 なんだかんだ言っても、草彅は天下を取ったアイドルグループの一員である。
 観る者は、自然、片恋する徳市に感情移入するだろう。
 
 本作において旧作より優れているとソルティが思ったのは、徳市の親友で按摩仲間の福市を演じている加瀬亮である。
 この作品の本質というかカラーというか、匂いそのものを体現しているかのような佇まいを見せる。
 その意味で、旧作が高峰三枝子とイコールで結ばれるとしたら、本作はイコール加瀬亮である。
 馬車で去り行く東京の女を“見”送る徳市の発する気配を、その背後からそっと感じ取り、おもむろに俯く福市(=加瀬亮)を撮ったカットは、旧作にはない深い感動を観る者に与えてくれる。
 そう、これは目の見えない青年同士の友情の物語でもあった。
 
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おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● カウチポテトでミステリー 本:『カササギ殺人事件』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2017年原著刊行
2018年創元推理文庫

 外は雨、静かな室内、心地よい座椅子。
 熱い紅茶とポテトチップス。
 ティッシュペーパー(指についた油分を拭う)。
 そして、買ったばかりの(借りたばかりの)ミステリー。
 これって、最高の組み合わせじゃない?
 
 ――と、本書『カササギ殺人事件』の出だしをパロってみた。

 が、マジで、小学生の時に図書室で借りるポプラ社の明智小五郎やシャーロック・ホームズや怪盗ルパンのシリーズにはまって以来、ソルティの人生における至福の瞬間は、上記の通りであった。
 これが中学生になると金田一耕助やエラリー・クイーン、高校生になるとエルキュール・ポワロやファイロ・ヴァンス、大学生になるとブラウン神父やミス・マープル・・・・・と熱中対象がどんどん増えていき、紅茶&ポテトチップスの組み合わせが、ビール&柿ピーや赤ワイン&チーズクラッカーに変わっていくのであるが、半世紀以上生きてきた今でも、結局、手軽に入るテッパンの至福の瞬間は、カウチポテトでミステリーを読んでいる時である。
 次点で、映画を観ている時か。
 ひとり上手なのだ。

 とりわけ、同じミステリーでもいわゆる本格物に目がない。
 奇想天外なトリック、名探偵による推理、意外な結末の3点セットが揃っているタイプだ。
 アンソニー・ホロヴィッツは『絹の家』、『メインテーマは殺人』でも見せてくれたように、本格物の王道を歩んでいる。
 しかも、高いレベルで。

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 本作と来た日には、名探偵アティカス・ピュントが活躍する本格ミステリー「カササギ殺人事件」の作者アラン・コンウェイの墜落死の謎をめぐる本格ミステリーという、入れ子構造の劇中劇。
 上巻は編集者スーザンの序文をのぞいた丸々一冊が、コンウェイの遺作となったフィクション「カササギ殺人事件」の未完原稿に当てられ、下巻はそのコンウェイの突然死の謎と失われた原稿の行方を探る“現実世界”における素人探偵スーザンの活躍が描かれる。
 劇中劇(フィクション)の中に殺人があり謎があり真犯人がいて、劇(現実世界)の中にも殺人があり謎があり真犯人がいる。
 つまり、本格の二乗。
 薬師丸ひろ子主演の映画『Wの悲劇』を思い出した。
 
 しかも、アティカス・ピュントはエルキュール・ポワロを彷彿とするチビの外国人(非英国出身)で、コンウェイの小説にはアガサ・クリスティからの引用やパロディがあちこちに散りばめられている。
 コンウェイの死の謎解きをめぐってスーザンが出会う証人の一人は、なんとアガサ・クリスティの孫マシュー・プリチャード(実在人物である)という手の込みよう。
 ここでも、『メインテーマは殺人』同様、現実と虚構を入り混じらせるホロヴィッツの遊び心が垣間見られる。
 この小説自体が、アガサ・クリスティへのオマージュであり、本格ミステリーを愛する全世界の人々に対する著者からの挑戦状兼ラブレターのようなものなのだ。

 最後には、スーザンは奇抜なトリックを見抜き意外な犯人をつきとめ、身の危険を賭して事件を解決に導く。
 と同時に、コンウェイ作「カササギ殺人事件」の解決部分の原稿も見つかって真犯人が明らかにされ、名探偵アティカスは『カーテン』のポワロのごとく、恰好よくこの世を去る。
 “現実世界”も劇中劇も無事、大団円にいたる。
 
 こうした構成の卓抜さ、プロットの面白さ、遊び心、読者に対する公明正大さ。
 本格ミステリー好きなら誰もが驚嘆し、喝采し、愛好するところであろう。
 今回は紅茶&グリコ PRETZ とともに至福の時をもらった。

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 ソルティはホロヴィッツが仕掛けた2つの謎(“現実世界”と劇中劇)のうち、“現実世界”の謎、すなわちアラン・コンウェイ殺人事件の真犯人とトリックは途中で見抜くことができた。さすがに動機までは推測つかなかったが。
 一方、劇中劇である「カササギ殺人事件」の真犯人は最後まで分からなかった。
 負け惜しみのようだが、こちらのほうは手掛かりが少なくて推理しようがなかった。
 最終場面でアティカスの披露する推理は、なるほど筋は通っているが、当てずっぽうという感は否めない。意外性も少ない。
 いっそのこと、人生に幕(=カーテン)を閉じるアティカスを真犯人にしてしまえば、クリスティへのオマージュとしてはさらに完璧になったであろう・・・・。
 


 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 女教師三枝子の14年 映画:『信子』(清水宏監督)

1940年松竹
91分、白黒

 高峰三枝子が女学校の新人教師の奮闘を演じる学園ドラマ。

 たしかに小宮山信子というのが主人公の役名ではあるが、たとえば『女教師・信子』とか『女子学校』とか『女・坊ちゃん』とか『白い肌の異常な学園』(笑)とか、ほかにいくらでも内容に見合ったタイトルをつけられようが、ただ『信子』というだけなのが面白い。
 もっとも、獅子文六による原作タイトルそのままなのだが・・・・。
 獅子文六は昭和前半に活躍した小説家で、岸田國士らと共に文学座を立ち上げた人である。

 同じ高峰三枝子を女学校の教師&舎監役として据えた、木下惠介『女の園』(1954)と見比べるとたいそう興趣深い。
 『女の園』では、女子学生(高峰秀子、岸恵子ら)を規則で締め付ける冷徹無情のベテラン教師。鉄面皮の裏にはもろく悲しい女心が隠されていた。
 本作では、田舎から出てきたばかりで熊本弁が残る初々しい新米教師。寮に侵入した不審な男を投げ飛ばす熱血女子で、女子生徒の人気を集める。天海祐希を思わせる。
 14年間の高峰の演技者としての成熟が確かめられよう。
 むろん、美貌と気品は両作に通じている。

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信子役の高峰三枝子


 新人・信子をいじめ悩ませる、わがままな金持ち令嬢・エイコを演じるのは三浦光子。
 子役にしては巧いナと思ったら、本職の女優であった。
 撮影時は23歳で、1969年(52歳)に亡くなるまで100本を超える映画に出演した。
 個人的には、鑑賞後は高峰より三浦光子のほうが印象に残った。
 それと、信子の叔母さんで芸者置屋の女将を演じる飯田蝶子も味がある。

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エイコ役の三浦光子

 
 校舎内の立体感ある撮影も、ハイキングでの広がりある野外撮影も、素晴らしい。
 カメラは小津安二郎の片腕として知られた厚田雄春による。
 
 ついに同級生から袋叩きにされ、校舎内で自殺未遂を起こしたエイコ。
 学園は大騒ぎとなる。
 エイコの父親が学園最大の寄付者だからだ。
 蒼ざめた校長先生や教師たちを前に、信子は毅然と言う。
 「すべては舎監の私の責任です。私が辞職します」
 それに対するエイコの父親のセリフが喝采ものである。
 「生徒が問題を起こして教師がいちいち辞職しなければならないのなら、子供が問題を起こしたら親は親を辞職しなければなりません」
 
 雨降って地固まる式の学園ドラマの古典として、今も十分楽しめる。
 惜しむらくは音声が悪い。
 日本語字幕で鑑賞した。



おすすめ度 : ★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● リトリート in 秩父 

 昨年末、3日間ほど秩父でリトリートした。
 日常圏を離れた自然の中で、ひとり静かに過ごす時間を持ちたかった。
 実家暮らしではなかなかできない食事コントロールや瞑想三昧をし、働いているとなかなか避けられないテレビや新聞やスマホによる情報の奔流から逃れたかった。
 足のケガのリハビリを兼ねた長距離ウォーキングもしたかった。
 なにより、コロナで騒がしい世間からいったん距離を置きたかった。

 一日のスケジュールは以下の通り。
05:00  起床
    読経と瞑想
07:00 散歩(秩父神社に参詣)
    朝食
09:00 瞑想
12:00 ストレッチヨガ
    昼食
13:00 散歩
16:00 入浴、休息
18:00 瞑想
22:00 就寝

 一日に4時間のウォーキングと最低9時間の瞑想。
 夕食は抜く。
 禁酒、禁欲、禁ネット、原則無言行(買い物時はのぞく)。
 もちろん、テレビ・ラジオ・電話・メール・読書は OFF。
 コロナが来る前までは、もっと長期間の、もっとタイトなスケジュールの瞑想会に年1回は参加していた。
 このくらいは序の口である。
 
 秩父を選んだのは、
  • 県内移動で済む
  • 広々として気持ちよく、山々に囲まれ自然豊かである
  • 神社仏閣がたくさんあってスピリチュアルな気に満ちている
  • この時期は観光客が少ない
  • 秩父34ヵ所札所巡礼で勝手知ったる町である
  • 温泉がある
 秩父鉄道・秩父駅の近くに宿をとった。
 秩父神社にも荒川にもほど近く、買い物にも便利で、静かで、ロケーションは抜群である。

 3日間ともよく晴れて、日中は風もなく暖かかった。
 午後の散歩では汗ばみ、上着を脱いだくらい。
 大方、巡礼路となっている荒川沿いの山辺の道を歩いた。
 マスクを外して歩くだけでストレス解消となった。

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秩父では“巴川”の異名を持つ荒川


 散歩途中に出会った秩父の風景をご紹介。

● 武甲山ポートレート
 秩父の町のどこからでも見えるのが武甲山。
 削られた山肌はなんとも痛々しく哀しいけれど、土地と人々の暮らしを見守る雄々しさは太古の昔から変わらない。

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23番音楽寺のある丘から

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巴橋に重ねて

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25番久昌寺への道中

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秩父公園橋に重ねて


● スピリチュアル秩父
 秩父神社のほか、34札所のうち13番~25番のお寺を巡った。
 参拝するほどに、この土地との縁が強くなっていくのを感じる。
 いっそ移住しようかな・・・・。
 いや、寒さに弱いソルティだった。


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秩父神社

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本殿の東側に左甚五郎作の“つなぎの龍”がある

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先ごろ修復されたばかりで非常に色鮮やか
鎖につながれて、悪戯できないことからこう呼ばれる

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25番久昌寺の池
山蔭になった部分は終日凍結している

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19番龍石寺
水成岩の上に立ち、四国札所14番常楽寺を思い出させる

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14番今宮坊近くの今宮神社
前回来たときは本殿がなかった

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樹齢1000年の大ケヤキ


● 街角小景
 秩父は地盤が固く地震が少ない。
 大震災の被害を受けず、戦災にも遭わなかった。
 昭和レトロな街並み、家並みが今も残っており、懐かしい。

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銭湯・たから湯
昭和11年創業、現在も営業している

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カフェ・パリー
昭和2年建築の店舗兼用住宅
登録有形文化財に指定されている


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地域の病院の入口に置かれた鉄製オブジェ
中世代レトロ

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トリケラトプス

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ブラキオサウルスか?

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巡礼路で見かけた直売所

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スーパーの商品に比べると、見た目は悪いがパワー抜群!


● 蕎麦どころ
 秩父は四方を山々に囲まれた盆地で、土地が痩せているため、稲作には向かなかった
 そこで、古くから養蚕と共に、蕎麦の栽培が盛んであった。
 昼夜の寒暖差が大きいこと、荒川上流のきれいな水に恵まれていることも、蕎麦づくりに適しているのだ。

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1,2を争う人気店「わへいそば」
いつ前を通っても駐車場はいっぱい、店の外に人が並んでいた

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秩父橋のそばにある「ささいち」
一昨年巡礼したときから気になっていた店

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期待通り旨かった!
麺はつるつるして、歯ごたえも喉ごしもGOOD
天ぷらは外はカラッとサクサク、中はジューシーでホクホク


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窓から見た景色も素晴らしい
知る人ぞ知る名店だ


 3日間のリトリートを終え、心身とも大分すっきりした。
 骨折以来、座禅を組むのが難しくなっていたが、1時間までならなんとか組めるようになった。
 とくだん瞑想に進歩があったというわけではないが、心を過去や未来にさまよわせずに「いま、ここ」に落ち着かせていると、コロナ禍のいまでも感謝できることはたくさんあると気づいた。
  • ごはんがあること、自力で食べられること
  • 歩けること
  • まずまず健康なこと
  • リトリートできる時間と金銭的余裕があること
  • 家族が健康でいること
  • 仕事があること
  • ひとりでいられること
  • 自然を楽しめること
  • 仏教と巡り合ったこと
  • 日本が平和なこと
 どれか一つでも欠けていたら、このような時間は持てなかった。
 コロナ禍と心の幸福度はまったく関係ないのだ。

 最終日に宿をチェックアウトしたあと、西武秩父駅にある「祭りの湯」でくつろいだ。

 ビバ、秩父!
 

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● ゼロ時間型ミステリー 本:『ささやかで大きな嘘』(リーアン・モリアーティ著)

2014年原著刊行
2016年創元推理文庫

 オーストラリアの女性作家によるユーモラスなミステリー。
 文庫で上下巻を元日一日で読み切った。

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 読みやすさの秘密は、幼稚園のママ友たちのいざこざといった極卑俗な日常がメインとなっているから。
 誰それの子供が誰それの子供をいじめたとか、誰それの子供の誕生パーティの招待状が1人の子供にだけ配られなかったとか、誰それグループと誰それグループの派閥争いとか、ちょっと前にあった観月ありさ主演のTVドラマ『斉藤さん』の世界である。
 そこに各家庭のママたちの抱えるトラブル――家庭内暴力、レイプトラウマ、思春期の娘の反抗、夫の浮気など――が加わって、事態は混迷の態をなしてくる。
 それぞれのストレスがはちきれんばかりに高まった保護者懇親会の日に、ついに事件は起こる。

 ユニークなのは、殺人事件が起こる懇親会当日の記述を物語の最後に持ってきて、半年前からそこに至る過程を時系列でたどっていく構成になっているところ。
 懇親会当日に殺人事件が発生したことだけは冒頭で明らかにされるが、具体的にそこで何が起こったのか、だれが殺されたのか、犯人はだれなのか、動機はなにかといったことが、最後の最後まで伏せられる。
 殺人が起こる一点に向かって、複数のエピソードがまじりあいながら全体としてユーモラスに語られ、あちこちで伏線が張られ、謎とサスペンスを高めていくさまは、クリスティの傑作『ゼロ時間へ』を思わせる。
 登場するキャラクター(とくにママたち)もよく書けている。
 とくに、主人公ママ、陽気でおしゃべりで喧嘩っぱやくて姉御肌のマデリーンが魅力的。

 この小説(原題 Big Little Lies )を気に入ったニコール・キッドマンとリース・ウィザースプーンは映像権を獲得し、2017年に自らW主演してドラマ化した。(邦題『ビッグ・リトル・ライズ セレブママたちの憂うつ』)
 全米で大絶賛、エミー賞はじめたくさんの賞を獲得している。
 日本ではまだDVD化されてはいないようだ。 
 シーズン2ではあの大女優メリル・ストリープも出演しているとか・・・。
 早く見たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『王になろうとした男』(ジョン・ヒューストン監督)

1975年アメリカ、イギリス
129分

 原作は『ジャングル・ブック』で有名なイギリス作家キップリングの同名小説。
 壮大な中東冒険ファンタジーであり、ピカレスク(悪漢)ロマン。

 アフガニスタンの辺境にあるカフィリスタンという国(架空)に行って王様になろうと試みる、2人のごろつき英国人(ショーン・コネリーとマイケル・ケイン)の物語である。
 文明人が未開の土地に行って英雄なり支配者になるという点において、ピーター・オトゥール『アラビアのロレンス』やマーロン・ブランド『地獄の黙示録』と同型と言えよう。
 が、そこはジョン・ヒューストンらしく(あるいはキップリングらしく?)、哲学的な重みや政治的な深みはない。
 純粋に波乱万丈のエンターテインメントとして楽しめる。

 ショーン・コネリーは昨年10月に90歳で亡くなった。
 007シリーズの初代ジェームズ・ボンドとして有名だが、ソルティはリアルタイムで映画館で観ることはなく、小・中学生の頃もっぱらテレビ放映されたのを観ていた。
 ストーリーの面白さはともかく、ジェームズ・ボンド(=ショーン・コネリー)をカッコいいと思ったことはなかった。
 ショーン・コネリーは決してハンサムな俳優ではなく、どちらかと言えばいかついゴリラ顔である。
 当時ソルティは、アラン・ドロンとかロバート・レッドフォードのような美形が好きだったのである。
  
 ショーン・コネリーの良さに気づいたのは、リアルタイムで観た『薔薇の名前』(1986)からであった。
 中世のストイックな修道士にして名探偵を演じたあの老け役――と言っても今思えば年相応(当時56歳)だったのか。昭和時代の50後半は今だと70歳くらいの感じかもしれない。なんと言っても磯野波平54歳だ――に接し、円熟した男の発する渋い魅力にはじめて目をひらかされた。
 いや、波平の魅力ではない。
 ショーン・コネリーだ。
 髪が薄くなって頭皮が見えても、白い髭が生えていても、目元にしわが刻まれていても、胴回りが太くなっても、カッコいいってのはあるなあと思った。
 カッコいいというより“味がある”というべきなのかもしれない。
 まさにショーン・コネリーは、年を取るにつれて“味”が増していく俳優の一人だった。


ショーン・コネリー
薔薇の名前の1シーン
(後ろはクリスチャン・スレーター)


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 締切病 本:『幸福のモト 人生のモト』(水木しげる著)

2016年PHP研究所

 漫画家・水木しげるのエッセイ。
 ガキ大将で不思議な体験の多かった子供時代、九死に一生を得た戦争体験、戦後の混乱期のドサクサ、つげ義春や荒俣宏といった周囲の奇人変人・・・・・とにかく面白いネタの宝庫である。
 エッセイストとしても一流なのであった。

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 ときに、今年一年を振り返って思うことの一つは、「働かなかったなァ~」ということである。
 合計すると、365日のうち働いた日(=賃金を得た日)は65日しかない。
 週5日働く人の1/4しか働かなかった。

 1~3月は骨折のため労働保険の療養補償給付をもらい、家で養生していた。
 4月から職場復帰したが、結局、「この足で介護の仕事はもう無理」と判断し、6月いっぱいで退職。
 今の仕事が決まる10月半ばまで完全無職であった。
 失業保険はもらえなかった。
 というのも、失業保険の受給資格(最低、過去一年間納付が前提)は、労災をもらっている期間は組み入れられないため、該当しなかったからである。
 現在はパートタイムで、週3~4日の勤務である。
 
 こんな働き方でなんとかやっていけるのは、実家住まいだからである。
 無職の3か月間などは、ほとんど8050状態だった。
 これが独身でなくて結婚していて子供がいたら、こんな悠長なことは言ってられまい。
 独身バンザイ!
 
 しかし、働かなかったのはこの一年だけでなく、昨年も、一昨年も、実はそんなに働いていない。
 昨年は失業保険で始まり労災保険で終わるという“福祉ゴロ”のような一年だった。
 働いたのは都合120日ばかり。
 一昨年は8月まで働いて、その後は秩父巡礼や四国遍路に費やした。
 働いたのは都合130日ばかり。
 年々働く日数が減っている。
 それでなんとかやっていけるのだから、いい世の中である。

 子供の養育費や教育費はともかく、親の介護費用とか自分の老後資金のことを考えれば、今のうちにしっかり稼いで、ある程度まとまったお金を蓄えておくべきなのだろう。
 それは分かっているのだが、どうにもバリバリ働けない自分がいる。
 ほかの人と同じように週5日みっちり働くことが、しばらく前から億劫になってしまった。
 億劫というか、負担というか、意義を感じないのだ。
 週5日みっちり働いて心身を壊すよりも、給料は低くとも週4日パートで働いて自分の時間をより多く持ったほうがいい、という選択を自然としている。
 たとえば、一日多く働いて稼いだ分を何に一番使いたいかと問われたら、間違いなくこう答える。
 「そのお金で自分の自由になる時間を買います!」
 ならば、はじめから時間を買っておくことである。
 というわけで、ここ数年、週4日勤務に甘んじてきた。

 そうやって得た自由時間を何に使ってきたかといえば、読書や映画鑑賞や瞑想やボランティアやブログ作成や山歩きなどである。
 ボランティアを除けば社会的にはまったく意義がない活動で、もっぱら自己満足の世界である。
 ほんと贅沢な話で、独身貴族とはよく言ったものである。
(――と思ったのだが、コロナ禍の今、上記の活動は社会的意義ありありではないか!)

 昨今は「ワークライフ・バランス」という便利な言葉があるので、こうした働き方もある程度理解してもらえるようになった。
 非正規雇用の人が正社員になるため苦労している記事などを読むと申し訳ない気もするのだが、ソルティには正社員になりたいという強い思いは不思議とない。 

原住民



 水木しげるは戦時中にラバウルで出会った現地の人々(水木言うところの“土人”)の暮らしに終生憧れた。
 
 僕にとって土人の生活は天国だった。働かずとも自然はバナナとかパイナップルとかいうめぐみをあたえ、人は一日に二時間ばかり畑に行って芋を植えるくらいで、一生のんびりすごす。 

 しかしながら、売れっ子漫画家となった水木の実際の生活は、365日休みなしの昼から明け方までの働きずくめであった。
 いくつもの締切に追われ、しまいには“体がなんでも早く解決(締切)しないと、おさまらなく”なってしまう「締切病」になってしまう。
 墓場を買ってあの世行きの準備をして、早く人生を締切ってしまいたいという衝動にかられる。

 いや、マンガ家だけでなく、日本人は大なり小なり、この締切病みたいなものにとりつかれているのではないだろうか。
 だいたい、歩き方にしても、みな締切に追われているような歩き方だし、日常生活だって自由なんかない、みな何らかの締切に追われた生活だ。
 一つの締切が終わると、次の締切が待っているのだ。

 この感じ、よくわかる。
 ソルティも、たとえば休みの日に部屋を掃除しているときに考えるのは、「早く掃除を終えて、ゆっくりお茶でも飲もう」ということだ。
 で、掃除が終わってお茶を飲む。
 飲みながら考えているのは、「これから買い物に行って、あれを買おう、これを買おう」といったことである。
 お茶の味も香りももはや楽しまず、買い物リストなど作成している。
 で、買い物に行く。
 買い物しながら考えているのは、「早く家に帰って、ゆっくりお茶でも飲もう」といったことである。
 常に、先のことを考えている。
 これではいつになっても「ゆっくり楽しむ」時は訪れない。

 最近、働き方改革が叫ばれている。
 それは結構なことだが、ただ単に暇な時間を増やせばいいというだけではなかろう。
 「いま、ここ」にいられる感性を育みたいものだ。

 この灰色の文明社会、幼稚園からシケンに追われ、一生安らぎのない文明社会、はげしい競争して勝ったって幸福になれるわけでもない文明は、さまざまなものを作るが、それは人間にとって、必ずしも必要でないものなのだ。ただ生活を複雑にするだけのものだ。便利になったからって人間は幸福になれるものではない。僕はなにか世界の大半を占める文明というものが、知らず知らずのあいだに世界を地獄にしているのではないかと思う。

 小さい頃に見ていた『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌は、水木しげるの本心からの願いだったのだ。

 来年も、なるべく仕事に追われない一年でありますように。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 男女7人、老い物語 映画:『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』(ジョン・マッデン監督)

2012年イギリス
124分

 インドのジャイプールが舞台。
 ジャイプールにオープンした“高齢者向け豪華リゾート”という触れ込みのマリーゴールド・ホテルに、それぞれの事情からやって来た老男老女7人の英国人のふれあいを描く。
 肩の凝らない、楽しくハートウォーミングなヒューマンコメディである。

 『あるスキャンダルの覚え書き』のジュディ・デンチ、『パレードへようこそ』のビル・ナイ、『ダウントン・アビー』のペネロープ・ウィルトン、そして『ミス・シェパードをお手本に』のマギー・スミスなど、イギリスの名優たちの競演が最大の見物である。
 やっぱり、シェークスピアのお国、演劇の本場と言えば英国である。
 高い鑑賞眼を持つ観客らによって長年鍛えられた彼らの芝居は、骨董品のような価値がある。
 とくに、ジュディ・デンチは、『あるスキャンダルの覚え書き』のストーカーまがいの女教師とも、『オリエント急行殺人事件』の貫禄たっぷりな貴族婦人とも、全く違う魅力的なキャラクターに扮して、芸の幅を感じさせる。
 
 「中国人は世界のどこに行っても中国人」と言われるが、英国人もしかり。
 どこに行っても、普段の生活スタイルを変えないような、ある種の保守性を感じる。
 一番わかりやすい例を言えば、「午後の紅茶」であろう。
 それは、個性を大切にする、心の軸がぶれないといった安定性や信頼感を形づくるものではあるが、一方、変化に柔軟に対応できない硬直さにもつながる。
 とりわけ、老いた者ほどその傾向が強い。
 パソコンやスマホ、無人レジ、キャッシュレス社会、ZOOM会議・・・・・。
 時代についていけなくなる一方だ。
 ソルティも、30年ばかり時を戻してほしいと思うことがたまにある。
 若返りたいという意味ではなく、インターネットのなかった時代にという意味で・・・・・。

 しかし、変化しなければ人は老いる。
 人生は縮小し、心は硬直化する。
 新しい出会いは、新しい自分を発見させてくれる。
 イキイキさせてくれる。

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 誇大広告もいいところで、老朽化し閉鎖寸前のマリーゴールドホテルに行きついた7人。
 新しい珍奇な世界(なんたってインドである!)にすぐ馴染み楽しんでしまう者もいれば、宿に閉じこもってイギリスに帰ることばかり考えている者もいる。
 現地で仕事や恋人を見つけて新たな人生へと踏み出す者もいれば、マンネリの関係に見切りをつけ別れを決める夫婦もいる。
 かつて理不尽な別れをしたインド人の同性の恋人を探し出して再会し、人生の重荷を下ろし、そのまま昇天する者もいる。
 外国人への偏見強く馴染むまでに時は要ったものの、現地の不可触民との出会いを通じて一気に変化を遂げる者もいる。
 人それぞれの身の処し方が味わい深い。

 変化のない穏やかな老後というのは一つの理想であろう。
 だが、死ぬまで何が起こるかわからないというのが現実である。
 良くも悪くも・・・・。
 流れに身をまかせるのが良さそう。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 本:『オスカー・ワイルド書簡集 獄中記』(宮崎かすみ編訳)

2020年中央公論社

 1895年、オスカー・ワイルドは同性愛の罪で投獄された。
 そのときに娑婆にいる16歳年下の愛人アルフレッド・ダグラスに宛てて綴った手紙が『獄中記』である。
 
 ソルティは大学時代に岩波文庫の『獄中記』(阿部知二訳)を読んだが、内容は全く覚えておらず、読後の印象も残っていない。なにも残らなかったのだろう。
 今回、英文学者宮崎かすみによる新たな訳で読み直してみたら、これがなんと滅茶、面白かった! 
 ワクワク、ドキドキの人間ドラマがそこにあった。
 こんなに面白いものをなんで忘れることができたのだろう? 
 
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 答えは、本書の編訳者まえがきに記されていた。
 日本でこれまでに訳されて単行本として売られていた『獄中記』は、ワイルドの死後、友人であり著作権管理人でもあったロバート・ロスが編集し発表した『深淵より』(1905年)を底本とする「簡約版」だったのである。
 それは、ワイルドが獄中で書いた大量の手紙のうち、「ダグラスに対する誹謗中傷にあたる部分を大幅に削除し、その他の文章も改変した」ものという。
 いきおい残された部分は、獄中生活の苦難や悲惨、贅沢や不道徳を身上とする過去の生活に対する反省や悔悟、自らの受難をダブらせたイエス・キリスト論、ワイルドならではの芸術論が中心となる。
 ワイルド研究者にとっては興味深く重要なものには違いなかろうが、一般読者にしてみれば、さして面白くはない。
 とくに、『ドリアン・グレイの肖像』や『サロメ』や『ウィンダミア夫人の扇』といった、機知にあふれスキャンダラスかつ退廃美に輝くワイルドの作品を愛する者にとっては・・・・。
 
 本書には、単行本としては初めて、ワイルドがダグラスに宛てた手紙の全文が訳し出されている。
 ワイルドとダグラスの恋愛ドラマ、二人の“すったもんだ”の一部始終が描かれている。
 そのうえに、裁判・逮捕・投獄の憂き目を見る以前のワイルドの輝かしき半生、二人の関係を巡る互いの家族の反発や非難、ダグラスの父クィーンズベリー侯爵との訴訟合戦、ロスを始めとするワイルドの友人たちの厚い友情、妻コンスタンスとの複雑な関係、そして刑期を終えたワイルドの辿ったその後の苦難の生と壮絶な死・・・・まさに「悲哀の道化師の物語」というサブタイトル通り、世紀末を生きた一人の芸術家のドラマチックでスキャンダラスな人生がいきいきと描き出されている。
 あたかも、オスカー・ワイルドという巨大な重力と輝きを持つ恒星を中心に、彼の人生に関わった人間たちが衛星のごとく近づいては遠ざかる軌道を描き、互いに影響を及ぼし合いながら銀河を旅しているようである。
 力作評伝にして、無類のエンターテインメントである。
 
 一等の面白さは、「簡約版」ではほとんど触れられていないワイルドとダグラスの“すったもんだ”、「簡約版」からは読み取ることのできない二人の“奇態な関係”である。
 と言っても、ホモセクシュアルといった点ではない。
 イギリスにソドミー法があった19世紀は遠い昔、同性愛がばれるとスキャンダルとなった20世紀もすでに過去。現代はもはや、ホモセクシュアルを特別視するような時代ではない。
 性別や性的志向とはまったく関係なしに、二人の人間の恋愛模様、というか依存関係、というか桎梏、というか因縁――あたりが興味の中心となる。


ワイルドとダグラス
ワイルドとダグラス


 アルフレッド・ダグラスは貴族の子弟であった。
 それだけでも十分特別で、多少のワガママや浪費癖や常識の無さはむしろあって当然だろう。
 が、それだけでは済まなかった。
 ダグラスの祖父と兄は自殺しており、父親のクィーンズベリー侯爵は頑固な癇癪もちでダグラスとは終生憎み合った。
 ワイルド亡き後に結婚してできたダグラスの息子は、統合失調症で生涯を病院で過ごしたという。
 遺伝によるものか環境によるものかその両方なのかはともかく、ダグラスには精神上の負因があった。
 ワイルドと出会った十代の時分から、すでに性格異常の一面をのぞかせていたのである。
 ダグラスの性格を評するワイルドの言葉は、非常にきつい。

 君の卑劣きわまりない動機、下卑た嗜欲、非常に俗っぽい情熱は、君の掟となった。それにより他人の人生をも常に従わせ、必要とあらばためらいもなく他人をその犠牲にすることを厭わぬ掟となったのだ。癇癪を起して醜態を演じれば自分の思い通りにできることを知ってから、ほとんど無意識だろうと思いたいが、君の狂気じみた激情の発作が激しさを増してゆくのは自然のなりゆきだった。
 
 君の性格のじつに致命的な欠点であるところの、想像力の完全なる欠如
 
 君の人生についての考え、君の哲学――君に哲学などというものを思考する頭があればの話だが――とは、君自身がしたことはすべて誰か他のものに支払わせるべき、というものだった。ぼくは金のことだけを言っているのではない。君の哲学を日々の生活に実際に適用したのは、責任の転嫁が及びうる全領域で、その言葉の真の意味においてであった。
 
 感情をコントロールする力が君に根本的に欠落しているのは、不機嫌に黙りこんで怒りを仄めかすような態度と同様、癲癇のように突然怒り狂いだす発作からも明らかだった。
 
 しかしながらぼくの過ちは、ぼくが君と別れなかったことではなく、あまりにも頻繁に別れたことである。ぼくの数えるところによれば、ぼくは、いつもきっかり三ヶ月ごとに君との交友に終止符を打っていたが、ぼくが別れを切り出すたびに君は、懇願やら電報やら手紙やら、君の友人による仲裁からぼくの友人の仲裁に至るその他様々な手段を使って、何とかぼくが君を許す気になるよう全身全力で努力した。

(以上、ワイルドの手紙より抜粋) 

 上記の文章から、ダグラスという人間をどう見るだろうか?
 ソルティは、境界性パーソナリティ障害の典型と見た。
 二人の“奇態な関係”は、あたかも症例報告を読んでいるかのようで、ワイルドはダグラスの“ターゲット”となって完全に振り回されている。
 そもそもワイルドが男色の罪で投獄されることになったのも、元はと言えば、父クィーンズベリー侯爵を憎むダグラスがワイルドをそそのかし、侯爵を名誉棄損で訴えるよう強く求めたからであった。
 ワイルドはいつものようにダグラスに根負けし、侯爵を提訴する。
 が、逆に侯爵から男色の罪で訴えられる羽目となる。
 証拠はいともたやすく集められ、ワイルドは有罪となった。
 つまるところ、クィーンズベリー父子の近親憎悪のとばっちりを受けたのである。

 ひとたび境界性パーソナリティ障害の“ターゲット”にされると、気力と精力を完膚なきまで奪われ生活を破壊されることが多い。(ある芸能人一家の次男に起きたケースが思い出されよう。彼は相手の女性と別れられるなら「引退してもいい」とまで言った)
 境界性パーソナリティ障害の相手とのいびつにして不毛な関係を終わらせたいのであれば、関係を“立ち切る”しかない。
 友人同士なら一定の距離を置いてつき合うことも可能だろうが、恋人同士なら完全に別れて居場所も連絡先も教えないことである。
 中途半端はNGだ。
 情けは禁物である。
 相手ととことん付き合う覚悟と度量がない限り、お互いに傷つけあうだけになりかねない。
  
 獄中で冷静に二人の関係を見つめ直し、自らの愚かなまでのお人よしに気づいたワイルドは、もう二度とダグラスに近づくまいと決心する。
 獄中生活を物心ともに支えてくれる忠実な友ロスへの手紙の中で、ダグラスについてこう書き記す。
 
 彼のことを悪しき影響を及ぼす存在のように感じる。あわれな奴だ。彼と一緒にいると、ぼくがようやく解放されていると思っている地獄へとまた舞い戻ることになるだろう。彼とは二度と会いたくない。 

 二人が関係を断つことが最善と知っているロスをはじめとするワイルドの友人たちも、ワイルドとの間にできた子供の将来を心配するワイルドの妻も、息子の常軌を逸した振る舞いの矯正をとうにあきらめているダグラスの母親も、ワイルドの決心を喜び、安堵する。
 ところが、2年の刑期を終え出所したワイルドは、性懲りもなく、ダグラスのもとに戻ってゆく。
 「なんでまた・・・・!」
 ロスら一同が怒り、あきれ返り、疲弊するのも無理はない。
 ワイルドはロスへの手紙にこう記す。
 
 ぼくがボウジー(ソルティ注:ダグラスの愛称)のもとに戻るのは心理的な必然なのだ。自己実現を求める情熱を伴った魂の内面云々については棚上げするにしても、世界がぼくにそうするように仕向けたのだ。
 ぼくは愛の気配のないところで生きてゆくことはできない。ぼくは愛し、愛されなくてはいられない。そのためにいかなる代価を払おうとも、だ。君と共に一生を過ごすこともできただろう。だが君には君でやるべきことがある。とても心の優しい君のことだからそうしたことをおざなりにもできないだろう。結局、君が僕に与えることのできたのは一週間の友人関係がせいぜいだった。 

 この手紙を読んだ時のロスの心情はいかばかりだったろうか?
 想像するだに哀れだ。

 つまるところ、ワイルドもまたダグラスに劣らぬほど、恩知らずで自己中心的な男なのである。
 ダグラスに負けぬほどの逸脱者なのである。
 ダグラスに対してと同様に、ワイルドに対しても、「普通の市民的人生」や「常識的ふるまい」を求めるほうがどだい無理な話なのであった。
 一般に流布しているオスカー・ワイルドのイメージ――公の場での派手な衣装、奇抜なふるまい――を鑑みるに、現代精神医学の見地からすれば彼もまたパーソナリティ障害(=演技性パーソナリティ障害)と診断されるかもしれない。
 だとしたら、二人はお神酒どっくりのようにお似合いだ。
 運命の相手というべきか。

お神酒徳利

 
 出所後、ワイルドは世間や妻や友人たちの目を逃れ、遠いナポリの地でダグラスと暮らし始める。
 が、結局、金の切れ目が縁の切れ目、生活力のない二人はとたんに行き詰まってしまう。
 元の木阿弥。
 またしても決裂する二人。
 ダグラスはイギリスに帰り、フランスに渡ったワイルドは梅毒にかかって安ホテルの一室で息を引き取った。
(ロスと来た日には、死の床にいるワイルドのもとを毎日のように訪れ、なにくれとなく世話を焼き、看取った。彼もまた“お人よし”というほかない。あるいは、それこそワイルドの芸術の魅力なのか?)

  
 孤独な獄中における深い洞察の瞬間に、ワイルドは次のように書いている。
 
 ぼくにとっては、君(ソルティ注:ダグラス)さえもが、恐ろしい出来事に恐ろしい帰結をもたらすよう、何か目に見えない秘密の力によって動かされている操り人形にすぎないと思う時がある、だが操り人形にも感情がある。自分たちが今演じているものに新しいプロットを持ち込み、定められた有為転変の結末を、自分の気まぐれや欲求に沿うよう捻じ曲げてしまうのだ。全き自由な状態にあること、と同時に法に完全に支配されてもいるというのは、我々がいついかなる時にも思い知る、人生における永遠のパラドックスである。 

 この文章は、栄光の頂点にいてダグラスと出会ったばかりのワイルドが書いた、最も有名な戯曲の中のセリフと不思議と響き合っている。
 
恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。
恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。
(福田恆存訳『サロメ』、岩波文庫) 

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おすすめ度 : ★★★★

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● 君は二十歳の高峰三枝子を見たか 映画:『按摩と女』(清水宏監督)

1938年松竹
66分、白黒

 同じ監督による『風の中の子供』、『みかへりの塔』にも言えることだが、戦前の作品にもかかわらず、画質がまずまず良い。
 保存状態が良かったのであろう。
 ありがたいことだ。

 この画質の良さによって、着物姿の高峰三枝子の美しさが映える。
 二十歳とはとうてい思われない落ち着きと気高さ。
 デビュー間もない頃であり演技はお世辞にも巧いとは言えないけれど、どことなく陰あるたたずまい、愁いを含んだ眼差し、挙措の品の良さは、この映画の薄幸のヒロインをして高峰三枝子の名を永遠に映画史に残らしめる。
 そぼふる雨の中、唐笠差して振り返った女のはかなさに、胸を突かれない者がいるだろうか?
 湯治場を去る馬車の中、見送りに来た人々に向ける女の哀しさに、心騒がない者がいるだろうか?
 この名シーンに匹敵するものとして、わずかに『天城越え』(1983年松竹)の田中裕子を思い出すのみである。
 女は日陰者であった。

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 温泉地から温泉地へと旅をする按摩の青年・徳市(=徳大寺伸)の片恋を描いた一篇。
 恋慕する相手は、東京から来た正体不明の女。
 浮浪者と盲目の少女との交流を描いたチャップリンの『街の灯』(1931年)を思わせるメロドラマで、ユーモラスでとぼけた味のあるところもよく似ている。
 盲目の徳市が杖を突きながらひょこひょこ歩いている姿は、ステッキを振り回すチャップリンさながら。
 ヴァイオリンを効果的に入れた伊藤宣二の音楽もまた、かの作品に通じている。
 清水監督は『街の灯』に影響されてこの作品を作ったのではなかろうか。
 
 「人生の10本」に入れたいくらいの珠玉の名編と言いたいところだが、なんとなく引っかかるものがある。
 それは、高峰三枝子のあの麗しい着物姿も、湯治場を去る馬車が小さくなっていく光景も、山里の美しい自然も、主人公である徳市の目には見えないからである。
 映画を観ている我々に見えているすべてが、肝心の徳市には見えていないという事実が、この映画を「美しい」と単純に言い切ることに抵抗を感じさせる。
 徳市の心の中に見えている映像と、我々鑑賞者がスクリーン(モニター)に見ている映像とはまったく異なっている。
 風景も、恋慕する女の姿も、肝心の徳市自身の姿さえも!
 目あきと目くら――二つの世界は隔たっている。
 そのことが、単純に徳市の心に入って共感することにためらいを覚えさせるのだ。

 この映画は2008年に『山のあなた~徳市の恋』(石井克人監督)というタイトルでリメイクされている。
 徳市は草彅剛が演じ、東京から来た女は元モデルのマイコ、妻夫木聡の奥さんである。
 



おすすめ度 : ★★★★

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● サスペンス&ファミリードラマ 映画:『少年は残酷な弓を射る』(リン・ラムジー監督)

2012年イギリス
112分

 原題は “We Need to Talk About Kevin”
 アメリカの女性作家ライオネル・シュライヴァーの小説を原作とする。
 リン・ラムジー監督の手腕は、『ビューティフル・デイ』で確認済み。
 
 邦題は、明らかに『エヴァンゲリオン』の主題歌をパロっている。
 が、実際の内容も、アーチェリーが得意な16歳の少年ケヴィンが、通っている高校のクラスメートたち及び実の父親と妹を矢で射殺すというもので、タイトルまんまである。
 DVDの映画情報には、伊藤英明主演『悪の教典』(2012)の予告が収録されていた。
 これはサイコパスの少年の成育過程を実の母親の視点から描いた、サスペンス&ファミリードラマなのである。

弓を射る像


 幼年期のケヴィンを演じる子役、および思春期のケヴィンを演じるエズラ・ミラー、どちらも妖しく不気味な美少年ぶりで、往年のホラー映画『オーメン』のダミアン少年のよう。
 名女優ティルダ・スウィントンは、得体の知れない実の息子に戸惑い、その成長に怯え、それでも愛そうとする母親としての苦悩と、とんでもない凶悪事件を起こした殺人犯の母親(夫と娘を殺された被害者でもある)としての救いようのない苦悩とを、熱演している。
 ソルティは先に、ティルダがカリスマダンサー&魔女を演じる『サスペリア』(2018)を観ていたので、その禍々しいイメージも手伝って、怖さ倍増であった。
 
 有名なスペインのトマト祭りのシーンに始まって、赤ペンキや赤ワインや点滅するサイレンなど、全編が“赤”で覆われている。
 もちろん、赤は血の色であり、血縁の象徴(赤い絆)である。
 それゆえ、ケヴィンが人を傷つけたり殺したりする残酷そのもののシーンは一つも出てこないのに、禍々しさと忌まわしさと背筋がぞっとするような恐ろしさが充溢している。
 
 おそらく、観る者が最後に抱く一番の疑問は、これである。
 「少年はなぜ母親を殺さなかったのだろう?」
 
 サイコパスも自らの存在証明のための目撃者が欲しいのか。



おすすめ度 : ★★★

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● 日本軍の稀に見る美談 漫画:『敗走記』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

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 表題作他、『ダンピール海峡』、『レーモン河畔』、『KANDERE』、『ごきぶり』、『幽霊艦長』を掲載。
 『白い旗』同様、水木しげる自身の体験はじめ、友人・知人などから聞いた話をもとにしている。
 多少の脚色は施してあろうが、根本的にはノンフィクションと言っていいのだろう。

 なかで、ラバウルがあるニューブリテン島で出会った現地の美女姉妹をめぐる逸話『レーモン河畔』が興味深い。
 明日死ぬかもしれない第一線にひょっと現れた現地の美女たちが、無傷で後方まで下がり、無事戦後まで生きのびたという。

 姉妹の父親であるホセは食べるものに困り、日本軍に食糧を求めてきた。
 その見返りとして中隊長が求めたのが、姉妹たちが200名の兵隊のための性処理係になること、つまり従軍慰安婦になることであった。
 日本語は解せないものの趣意を察し、声を上げて泣き出す姉妹の母親。
 爆発寸前の欲望を抑えながらも、一家を可愛そうに思った兵隊たちの意見で、結局、ホセ一家は後方に送られることになった。
 若い女が目に見えるところにいることが、男の心をかき乱すからである。 

 戦後、姉妹の一人は日本人と結婚し、日本に移住した。
 ホッとする話であるが、これが日本軍の“稀に見る美談”として語られたというのだから、通常ならばどうであったか推して知るべし。



おすすめ度 : ★★★

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● 本:『高峰秀子と12人の女たち』(高峰秀子対談)


2018年河出書房新社

 昭和の大女優高峰秀子(1924-2010)が、やはり同時代を中心に活躍した12人の女性有名人と、丁丁発止に語り合う。
 高峰の晩年に養女となった、元文春編集者の斎藤明美が企画に関わっている。

 まずは対談相手の錚々たる顔ぶれに唸る。
 越路吹雪、ミヤコ蝶々(+南都雄二)、佐多稲子(+ぬまやひろし)、安達瞳子、岸恵子、原由美子、佐藤愛子、大宅昌・映子親娘・・・・。
 自伝エッセイ『わたしの渡世日記』で見られた、高峰秀子の広い交友関係、誰からも慕われる気取りのなさ、各界の大物に対するものおじしない態度が、ここでも存分発揮されている。


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 ソルティにとって一番の読みどころは、日本映画史上最高の女優競演が実現した幸田文原作・成瀬巳喜男監督『流れる』キャスト面々との対談である。
 表紙を飾っている山田五十鈴、田中絹代とのスリーショットは、日本映画に詳しい人なら眩暈するようなゴージャスさであるし、高峰の役者人生に決定的な影響を及ぼした先輩・杉村春子との顔合わせでは、気の強い杉村が、気の置けない後輩女優との対談において、夫を亡くした淋しさを語る気弱な姿が見られ、珍しい。
 年齢で言えば、杉村(1906年)、田中(1909年)、山田(1917年)、そして高峰(1924年)の順であるが、高峰は田中や山田と共に並んで容姿はもちろん、風格においても見劣りすることない。
 杉村に対しても何ら臆することなく、身内の叔母さんとでも話しているような気安さで接し、しまいには本気で高峰の夫・松山善三と三人でのハワイ旅行を誘っている。
 山田五十鈴、杉村春子、田中絹代のビッグ3とここまでフランクに付き合える後輩女優は、高峰秀子をおいて他にいなかったのではあるまいか。
 
 高峰がこれだけの風格を持ち得たのは、生まれ持っての気質もあろうが、やはり、子役から始まった芸歴の長さと、木下惠介や成瀬巳喜男らに重用されて磨かれた演技力への自負、数々の現場で身につけた自信あってのことだろう。
 映画界における芸歴の長さで言うと、高峰のデビューは1929年(当時5歳)なので、田中(1924年)、杉村(1927年)、山田(1930年)とほぼ互角である。
 
 山田、田中との対談では、同業の男優である森繁久彌森雅之に対する評価が聞けて興味深い。
 ただ、これは3女優の膝つき合わせた鼎談ではなくて、朝日新聞記者にして映画評論家の津村秀夫(1907-1985)による3女優への共同インタビューみたいな形なので、一番年かさの津村の偉そうな態度と強引な仕切りが目立ち、3女優の関係性が見えず、ちょっと残念である。
 
 全体に、高峰はどこでも“大女優”らしく自分の話ばかりして、相手の話を聞かない。
 相手が岸恵子(1932年生)のような同年輩の女優だと、会話の主導権争いのような態をなしている。

 都合11の対談から見えてくるのは、高峰秀子の非凡な半生である。
 子役時代はあっても子供時代がなかった、学校にも動物園にも行けず撮影所の大人たちの中で育った、強烈なステージママによる支配と依存関係、めまぐるしい撮影スケジュール、女優としての華々しい成功、育ての親との壮絶な確執・・・・。
 彼女は自分から女優になりたくてなったのではなかった。
 気づいたら、システムの中にいて、大人数の家族・親戚の暮らしを支える大黒柱(人柱?)になっていたのである。
 そこが、自ら女優を志した杉村や田中や山田とは違う。
 本書のあちこちに見られる、「女優になりたくなかった」、「女優をしているのが嫌だった」という高峰のセリフが興味深い。



おすすめ度 :★★ 

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● 父、北斎 映画:『百日紅 ~Miss HOKUSAI~』(原恵一監督)

2015年 Production I.G 制作
90分、カラーアニメ

 江戸末期の浮世絵師・葛飾北斎とその娘お栄を主人公とする風俗ドラマ。
 原作は杉浦日向子の漫画。
 ちなみに、「さるすべり」と読む。

百日紅とお堂
さるすべり

 アニメの質の高さについてはもう、言うも愚か。
 風鈴、虫の声、せせらぎ、風の音、物売りの掛け声など、江戸の季節感あふれる音声も良い。
 特段、ドラマチックな話ではないが、絵師の生活と江戸の風俗が淡々と丁寧に描き出されている秀作である。

 杉浦の原作漫画を読んでいないので比較はできないものの、少なくともこの映画の中心テーマは、葛飾北斎やお栄を中心とした実在の浮世絵師の評伝というよりも、「家族」にあると思う。
 つまり、杉浦と同じ漫画家・一ノ関圭の『茶箱広重』や『鼻紙写楽』のような芸術家の肖像を描くことを狙いとした芸道ものではなく、葛飾北斎と妻と娘二人をめぐる「ある一家の物語」といった側面が強い。
 北斎は、絵に命をかける偉大な芸術家ではなしに、末娘の病と死におびえる気弱な父親として登場する。
 そこが、平成・令和の現代にも、有名人でも芸術家でもない庶民にも通用し、理解し得る部分である。
 
 原恵一監督は、涙なしには観られない初期の傑作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001年)を筆頭に、『カラフル』(2010年)、若き木下惠介を描いた実写映画『はじまりのみち』(2013年)など、家族の絆をテーマにしたものが多い。
 この作品もその流れを汲んでいる。
 おそらく、原恵一監督自身、温かい家庭に子供時代を送ったのであろうし、その作品はいつも、原が尊敬する二人の先輩作家――家族を描いて卓抜なる小津安二郎と木下惠介に対するオマージュになっているのであろう。

 ところで、作中、お栄が処女を捨てるために男を買いに行くシーンが出てくる。
 そこが陰間茶屋であると、すぐ分かる人はどれだけいるだろう?
 

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おすすめ度 : ★★★

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● 強烈無比のサスペンス 本:『遮断地区』(ミネット・ウォルターズ著)

2001年原著刊行
2013年東京創元文庫

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 現代英国ミステリーの女王と言われるミネット・ウォルターズの野心的な異色作。
 ミステリーというより、群集パニック&犯罪サスペンスの感が強い。

 原題 ACID ROW は「LSDの街」の意。(ROWには「騒動」という意味もある)
 「教育程度が低く、ドラッグが蔓延し、争いが日常茶飯事の場所」であるバシンデール団地に、二人の男が引っ越してきた。
 愚かな保健師の失言から、どちらかの男に小児性愛の前科があることが広まってしまう。
 小さな子供を持ち不安におびえる母親たちは、彼らを追い出すべくデモ行進を企画する。

 少し離れた別の団地では、離婚した母親に連れられて、母親の新たな同棲相手の一家と暮らす10歳の少女エイミーが行方不明になっていた。
 その陰にはどうやら大人の男の影がちらつく。
 警察は、エイミーがなんらかの事件に巻き込まれたものと推定し、少女の実父や母親の元愛人など関係者への尋問を開始する。

 前科者排斥運動と少女失踪――この二つの事件が結びついたとき、すなわち、エイミーがバシンデールに住む小児性愛者の毒牙にかかったという根拠なき噂が生まれたとき、平和裡に行うはずのデモが、死者数名、負傷者多数の暴動に発展する。
 LSDやアルコールで常軌を逸した不良少年たちは、鬱積したエネルギーのはけ口を見つけ、火炎瓶を住宅に投げつけ、車をひっくり返し、スーパーの商品を奪い、小児性愛者の住む家を打ち壊して押し入り、ついには間違った相手をリンチ死に至らしめる。

 二つの事件を結びつけるキーワードが「小児性愛」である。
 この言葉一つで、登場人物たちは色めき立ち、反感と嫌悪を露わにし、それと疑われた男を攻撃・成敗する正当性を身にまとう。
 読者もまた、この言葉の持つスキャンダラスで背徳的で残忍な匂いに惹きつけられつつ、少女の行方を案じ、暴動の一部始終を固唾をのんで見守ることになる。
 物語の冒頭にこれから語られる異常な事件への予告があり、期待感とともに本章に入るや、高いテンションと凄まじい潮流とでぐいぐい核心へ引きずり込まれてしまう。
 その構成と語り口の上手さ、それに多彩なキャラクターの描写力は、さすが「女王」と冠されるだけある。

 実際には、少女エイミーをさらったのはバシンデールの小児性愛者ではなかった。(彼は羊のように大人しい少年愛好者だった)
 誘拐の真犯人もまたロリコンではなく、恐喝が目的だった。
 二つの事件に関わった人々は、「小児性愛」という言葉に踊らされたのであった。
 
 この小説には、イギリスはじめ先進国の抱える様々な社会問題が織り込まれている。
 小児性愛犯罪の増加、LSDなど薬物問題、移民による人種問題、少年の凶悪犯罪、貧困、高齢化、もちろん家庭崩壊。
 といって、ウォルターズには「一石投じたい」、「新たな視点から問題提起したい」といったような“社会派”の気負いは感じられない。
 そこが、『三秒間の死角』、『死刑囚』、『熊は踊れ』、『ボックス21』などで人気のスウェーデンの作家アンデシュ・ルースルンド+1とは違う。
 暴動の中で子どもが亡くなったり、小児性愛者と間違えられた老人が悲惨な姿で窓から吊り下げられたり、といった残酷なシーンがあるにもかかわらず、読んでいる間も読後も、重さや暗さはない。
 ただただ、強烈なサスペンスに酔い、寝不足な日中に弱るばかり。



おすすめ度 : ★★★★

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