ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『あるスキャンダルの覚え書き』(リチャード・エアー監督)

2007年イギリス
98分

 イギリス出身のジュディ・デンチとオーストラリア出身のケイト・ブランシェット。
 25歳の年の差はあれど、どちらもオスカーに輝く、掛け値なしの名女優である。
 映画でエリザベス一世に扮したという共通点もある。
 この二人に、やはりイギリス出身の名脇役ビル・ナイがからむというのだから、期待するなというほうが無理。

 しかも、この映画は、実際にアメリカであった女教師メアリー・ケイ・ルトーノーによる“児童レイプ事件”をモデルとしている。
 34歳のメアリー先生は、教え子である13歳の少年と恋愛関係に陥り、子どもを二人生んだ。
 90年代末に全米を揺るがすスキャンダルとなったこのニュースを、ソルティも何となく覚えている。
 逮捕され懲役刑に処せられたメアリーは、出所したあと、少年(そのときは無論成人していた)と結婚した。二人は愛を貫いたのだ。(2018年に離婚)
 今年の夏、世間がコロナ一色に染まっている中、メアリーは癌により58歳で亡くなった。
 ソルティは彼女の死のニュースを最近ネットで見たばかりであった。

 本作で、この女教師(本作ではシバという名前が与えられている)を演じるのは、もちろんジュディ・デンチでなくて、ケイト・ブランシェットである。
 思春期の少年が夢中になるのも無理はないと思う美しさと天真爛漫な魅力にあふれている。
 いや、それだけ説得力をもった見事な役作りができている。

 一方、ジュディが演じるのはシバの同僚のベテラン教師バーバラ。
 生徒たちにも同僚にも煙たがられている、頑固でお堅い孤独なオールド・ミスである。
 新任の美術教師としてやって来たシバに好意をもったバーバラは、シバの行動を観察し、自らの覚え書きに記していく。
 シバと生徒との許されぬ関係をたまたま目撃しショックを受けるが、その秘密をシバと自分との関係を深めるために利用しようと企み、あえて口を閉ざす。
 そう、バーバラはクローゼットなレズビアンなのである。

 この映画の真のテーマは、女教師の少年レイプ事件を描くことにはなくて、それをダシにしつつ、孤独な初老の女性の不器用な愛を描くことにある。
 したがって、主役はケイトではなくジュディであり、“あるスキャンダル”とは女教師と少年との恋愛&セックスではなくて、抑圧され歪曲したレズビアニズムである。

 深い情熱と高い教養の持ち主であるにもかかわらず、他人と良好な関係を築くことができないストーカー気質の年老いたレズビアン――という、なんとも難しい役を演じるジュディ・デンチがやはり素晴らしい。(ジュディ自身は男性と結婚して娘を生んでいる、おそらくはノンケ女性)
 自らの思い通りにならないシバに対する愛情が一転憎しみに変わるや、シバと少年との秘密を学校関係者に告げ口し、スキャンダルを巻き起こし、シバを苦境に陥れる。
 なんとも陰険でひねくれた、顔も心も醜い女である。

 しかるに、設定上は憎まれ役に違いないのだが、ジュディ・デンチが演じるとただの憎まれ役にはおさまらず、女ひとりが老いて生きることの悲しみと孤独と切なさが、画面を通してじわじわと伝わってくる。
 観る者は、新聞に顔写真がでかでかと載り家族崩壊したシバのこれからの幸せとともに、バーバラの幸せをも願わずにはいられなくなる。
 
 ケイト・ブランシェット然り、ジュディ・デンチ然り。
 名役者というものは、自らが演じる役を――それがどんなに卑劣な、どんなに醜い、どんなに不道徳なキャラであれ――愛するものなのだろう。
 その愛あればこそ、観る者にとっても愛おしいキャラになりうるのだ。


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ジュディ・デンチとケイト・ブランシェット



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

  
 
 
 

● ヘルパーの鏡 本:『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』(宇田川敬介著)

2020年飛鳥新社

 東日本大震災および津波による福島原発事故にまつわる〈怪談〉を集めたもの。
 震災前の不思議な予知現象の数々、震災後の被災地で頻発した心霊現象など、体験した本人に著者がじかに会って聞いた話や知人を介して聞いた証言などが掲載されている。


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 死者15,897名、行方不明者2,533名という大惨事。
 しかもそれが一瞬にして起こり、いくつもの町が海の藻屑と消え、それまでの平和な生活が断たれた。
 「こういった霊的現象はたくさんあっただろうなあ、あるだろうなあ」と当時から思ってはいたが、オカルティックなことだけに、直接被害に遭ったわけではない外部の人間があれこれ穿鑿するのははばかれる。
 あれから10年近い歳月を経て、ようやく表立って語られ始めたわけである。

 「作り話だから」とか「非科学的だから」と排除してもいいものではないように思います。幽霊譚が語られる背景や、話の中に込められた被災地の方々の心に思いをはせるべきではないでしょうか。

 と、「あとがき」で著者が述べているように、霊的現象に遭遇せざるを得ない精神的状況に追いやられている被災者や救援者の心をこそ想像すべきである。
 愛する者の突然の死を受け入れることの大変さ、住みなれた郷土やコミュニティの喪失からくる空虚や絶望や孤独、想像を絶する悲惨な現場で救援活動する人々が抱える心的外傷・・・・・。
 非日常にさらされ続けた人々が、日常世界を超えたところにある世界を垣間見たところで、なんら不思議なことはない。
 本書を読んでいると、「この世とあの世は地続きだ」という丹波哲郎の言葉が、まさに証明されている感を持つ。
 生きている者と死んでいる者との違いは、まんま、“生きているか死んでいるか”だけであって、人が抱く思いの様相はまったく変わらないのである。 

 震災前の日常生活の中であったら、現地のほとんどの大人たちに無視され、鼻で笑われ、あるいは怖れられ、忌避されたであろう幽霊譚が、震災後の非日常空間では、あたかも「あたりまえ」のことのように語られ、受け取られ、幽霊の存在を誰も疑っても怖がってもいないように見えるのが、非常に印象的である。
 亡くなったあとも死者は生者のそばにいて何ごとかを伝えたがっている、あるいは見守ってくれている――という、日本の庶民の中に昔からある「あの世観」は、今も決して無くなってはいないのだろう。
 それをもっとも教えてくれるエピソードをかいつまんで紹介する。

星空の飾り線


 震災後に問題となったことの一つに、仮設住宅での高齢者の孤独死があった。
 生まれ故郷からも地域のつながりからも隔離された土地に移転させられ、生きる気力を失う高齢者は少なくなかった。
 ある町の仮設住宅でおばあちゃんが亡くなった。
 誰も住んでいないはずの部屋から夜な夜な声や物音が聞こえる。
 町役場の職員が、おばあちゃんの介護をしていたおばちゃんヘルパーと連れ立って、確かめに行った。
 と、やはり部屋から声がする。
 見ると、布団を一枚敷いた上におばあちゃんが座っている。
 恐怖で腰を抜かし声も出せない職員をよそに、おばちゃんヘルパーはいつもの訪問どおりに、おばあちゃんに語りかける。
 「おばあちゃん、どうしたの?」

 おばあちゃんは、いつも身につけていた孫の作ってくれた膝掛けを探していたのであった。それが、他の遺品と一緒に倉庫に保管されなかったのが気になって、毎夜探しに出てきたのである。
 「膝掛けを探して持ってくるよ」というおばちゃんヘルパーの約束で、おばあちゃんは落ち着いて、消えていった。
 行政職員は、ヘルパーに問う。

「どうしてあんなことができたのですか」 
「仕方ないじゃない、相手は死んじゃってても、私の担当だったんだから。今まであれだけしてきたんだもの、仲良かったんだもの、何か言いたいことがあるから出てきているだけで、私たちに何か悪いことをしようとすることもないから」
「でも、お婆さんはもう死んでいるんですよ」
「生きているのよ。津波で死んだ人も、ここで死んだ人も、みんな、心の中だけじゃなくて、町のことが心配でここにいるんだよ。あんたみたいな若い役場の人が、早く街を元に戻してくれないと、お婆さんも他の人も心配であの世に行けないから、がんばんなさいよ」

 おばちゃんヘルパー、凄い。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● トロイの木馬 マンガ:『白い旗』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

 表題作ほか『ブーゲンビル上空涙あり』、『田中頼三』、『特攻』を含む戦記マンガ。
 ラバウルで戦った水木自身の体験や戦死した知人の話、伝聞などがもとになっている。

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 コロナ渦でいろいろと不自由や不安を強いられる現在であるが、齢80を超えるソルティの母親がよく口にするのは、「戦争のときにくらべれば全然マシ」
 食べ物も着る物もなく、いつ何時やって来るか分からないB29による爆撃の恐怖にさらされた子供時代(母は横浜に住んでいた)を思えば、「どうってことない」
 そりゃ、そうだ。
 おまけに、今回のコロナ戦争は、どこか特定の国だけが被害を受けているわけでなしに、全世界が平等に戦渦に巻き込まれている。
 日本だけが、日本人だけが苦しんでいるわけではない。

 あまり大っぴらに言うと不謹慎のそしりを免れないが、「もしコロナがなかったら、日本は今どうなっていただろう?」と想像することがある。
 2020 TOKYOオリンピックが大々的に開催され、(熱中症による死者を多数出しながらも)それなりに成功し、インバウンド効果で経済は活性化し、安倍政権は乗りに乗っていたことだろう。
 「ニッポン、チャ・チャ・チャ」のファッショな空気に乗じて国民投票法は成立し、憲法9条改正は既定路線に入っていたであろう。
 安倍政権の存続を願う世論が形成され、自民党の党則が改正されて党首の任期が現行の3期9年から無期限となり、首相の任期制限がないこの国において安倍政権は10年目に入り、ますます巨大な権力を獲得していたことだろう。
 あたかも中国の習近平国家主席さながらに。
 日本は、日本会議の理想とするところの「戦争ができる美しい国」に向かって、どんどん変えられていったことであろう。
 
 それを思うと、「美しい国」に反対のソルティは、今回のコロナを「100%悪い奴」とは受け取れないのである。(もっとも、今後どうなるかわからないが)

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 それにしても、今回のコロナ戦争においては、強大な軍事力を有し対外的に強い国家ほど状況をうまくコントロールできている、とは言えないところが皮肉である。
 対外戦争に一度も敗けたことのないアメリカは、26万人をも超える死者を出している。(11/28現在)
 すでにベトナム戦争時の死者数5万8千人を上回り、太平洋戦争時の29万人を超えるのも時間の問題であろう。(一番死者数が多いのは南北戦争時の49万人)
 外敵への攻撃に対して無類の強さを誇る全米だが、内部に侵入した20 nm (ナノミクロン=0.000 000 02 mm)のウイルスにかくもコテンパンにやっつけられるとは!
 ウイルスってのはまさにトロイの木馬だ。
 国民を守りたいのなら、何が本当に必要かつ大切なのかをコロナは教えてくれる。

 しばらく、水木しげるを読んでいきたい。



おすすめ度 : ★★★

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● 岸田今日子という女優 映画:『地獄』(神代辰巳監督)

1979年東映
131分

 昭和・平成・令和と半世紀以上生きてきたソルティが、「日本社会から消え失せてしまったなあ」と思うものの一つは、エログロである。
 テレビからも映画からも、コミックや週刊誌からも、街頭からも日常会話からも、エロ(猥褻)とグロ(ゲテモノ趣味)はすっかり影を潜めたなあと思う。
 街はキレイになり、脱臭・滅菌志向が国民に行き渡り、コンビニからエロ本は消え、セクハラやパワハラに気を使う男たちは一応モラリストになり、体臭を失った若者は植物化・鉱物化・IT化し、人間関係もまた無機質で表面的なものになった。
 無“性”的で清潔――というのが、令和時代の理想的日本人であろう。
 (今、コロナがそれに拍車をかけている!)

 この映画が作られた昭和50年代、戦後のカストリ雑誌の興隆から続いてきたエログロ人気はすでに下降線にあったと思う。
 いわゆる猟奇趣味は、一部のマニアックな人々の嗜好になっていた。
 「明るく健全」が社会の建前として定着していた。
 が、この映画を観ると、昭和時代のエログロさに今さらながら驚嘆する。
 こんな凄い、PTAクレーム殺到、文部省検閲必死の映画が、メジャーの雄たる東映で制作され、一般公開されていたとは・・・・。
 なんとまあ、寛容な時代であったことか!
 なんとまあ、日本人は猥雑で卑俗であったことか!


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海外で公開されたときのポスター
タイトルはまんま INFERNO (地獄)


 日活ポルノの巨匠・神代辰巳(代表作『赫い髪の女』)のメガホン。
 主演に原田三枝子、共演に岸田今日子、田中邦衛、石橋凌、加藤嘉、林隆三の面々。
 主題歌は山崎ハコ。
 描かれるは、男女のドロドロした愛憎と怨念が渦巻く現世の生き地獄、および来世のほんものの地獄。
 この面子で、このテーマで、健全で清潔でまっとうなものなどできるはずがない。
 『仮面ライダー』で発揮された東映ならではのマンガ的特撮を含め、なんとも形容しがたい、強烈かつ奇天烈な怪作に仕上がっている。
 無類の面白さ!

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閻魔大王(金子信雄)と 茶吉尼天(天本英世)に裁かれるアキ(原田美枝子)


 当時19歳の原田美枝子は、美貌だが演技は素人レベル。
 が、文字通りヌードも辞さない体当たり根性は立派。
 
 その原田を食っているのが、日本が世界に誇る名女優にして怪女優・岸田今日子である。
 この人については、一度考えてみなければならないと思っていた。
 
 ソルティの中で最初にこの女優を意識したのは、山口百恵主演のTBSドラマ『赤い運命』である。
 百恵演じる薄幸の娘・直子の生き別れとなった母親役で出ていた。
「あの腕のホクロ、あれは確かに直子のしるし・・・・」とかいう大映ドラマならではのベタなセリフと過剰な演技が、あの分厚い唇とともに印象に刻まれた。中学生だった。

 それから、子供の頃、毎日曜欠かさず観ていたカルピスまんが劇場『ムーミン』の声がこの人であることを知って驚き、親しみが湧いた。
 
 次のインパクトは、76年の市川崑監督『犬神家の一族』の盲目の琴のお師匠さん役である。
 ほんのちょっとしか出番はないのに、金田一耕助役の石坂浩二や真犯人役の高峰三枝子に匹敵する存在感。それを上回るのは白マスク姿のスケキヨだけであった。
 
 83年フジテレビ系列で放映された『大奥』のナレーションで、岸田は一世を風靡した。
 あの鼻にかかった独特のふるえ声と、婀娜っぽいともストイックともつかぬ語り口。
 ナレーション役が画面に登場するキャラたち――演じるは昭和を代表する錚々たるスターたち――より話題となったのは、後にも先にもあれくらいではなかろうか。
 ソルティもよく岸田のマネをして家族を笑わせたものである。
 
 この頃、都内の映画館で岸田が出演する2本の映画を観た。
 安倍公房原作・勅使河原宏監督『砂の女』と、若尾文子主演・増村保造監督『卍(まんじ)』(どちらも1964年公開)である。
 女優としての真価のほどを見せつけられた。
 どんな役でもこなせるカメレオンのような役者なのだ。
 
 それからは映画に岸田が出てくるたびに嬉しくなり、自然と注目する存在となった。
 なかでも、『この子の七つのお祝いに』(1982年)で岩下志麻サマを完全に食った狂気の母親と、『八つ墓村』(1996年)で物語に不気味な雰囲気を付与する双子の老婆役が記憶に残っている。
 この『地獄』における岸田の演技は、それらを凌駕するインパクトがある。
 地獄にいる脱衣婆や閻魔様より怖い。
 
 残念なことに、ソルティは岸田の舞台を観なかった。
 彼女のマクベス夫人、およびテネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の列車』のブランチは、どんなに素晴らしかっただろう? 
 どちらもまさにピッタリの役である。
 岸田が文学座を脱退した(63年)ことを許さなかった杉村春子は、その後岸田と共演しなかったそうだが、なんともったいないことだろう。
 昭和最高の名女優二人が、テレビでも映画でも共演しなかったのは、誠に残念でたまらない。
 そう、杉村春子を継げるのは、太地喜和子でも、樹木希林でも、大竹しのぶでも、田中裕子でも、小川真由美でも、市原悦子でも、森光子でもなく、岸田今日子だったのではないかと思うのだ。


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 加藤嘉とともに血の池地獄の臼を回す岸田今日子


 冒頭の話題に戻る。
 令和日本から消えたように見えるエログロ。
 もちろん、消えてなどいなくて、インターネットの中に潜り込んだのだ。
 表面から駆除されて、表立って見えないところで一層狂気を増してはびこっている。
 ちょっとネットサーフィンすれば誰にでも分かることだ。
 
 エログロを許さぬ、行政のパンフレットの文句のような“きれいで健全な”社会。
 底に押し込められた魔物が、いつか表面に浮上して復讐するのではないかと危惧するソルティである。
 いや、コロナがそれなのか?
 
 

おすすめ度 : ★★★★

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● 笠智衆33歳 映画:『風の中の子供』(清水宏監督)

1937年松竹
86分、白黒

 原作は坪田譲治の児童文学。
 戦前の岡山を舞台に、大人社会のいざこざに翻弄される兄弟の姿を描く。

 清水宏監督(1903-1966)の作品を観るのは初めて。
 ウィキによると、
 
作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。

 子供たちを主人公とした本作は、まさに清水監督の特質が表れている作品と言えよう。
 テレビドラマにあるような、観る者の情動に訴えかけるドラマチックな演出(セリフや芝居、むろんBGM)は制限されている。
 それがかえって、登場人物たちの置かれている状況や心情を、観る者に汲み取らせる結果を生んでいる。
 観る者は、ただ漫然と受け身で画面を見るのではなく、一つ一つのカットを分析し状況を想像することで、物語の作り手として参与することになる。
 つまり、非常に“映画的”な映画なのだ。
 
 戦前の地方の町の豊かな自然、子どもたちが走り回る路地の佇まい、井戸や囲炉裏や縁側のある伝統的な家屋、街々を巡回する曲芸団、ふんどし一つで川遊びし木登りし喧嘩する子どもら。
 80年以上前の日本の風景がある。
 マスクをつけてスマホをいじりながら塾に通う今の子供たちとは雲泥の差。
 「昔はよかった」は自分にとってNGワードの一つであるが、子どもにとってどっちが幸せなのか、ふと思わざるを得ない。

 いやいや、戦争がないだけ今のほうがよいはずだ。


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主役・三平役の爆弾小僧


 三平兄弟の母親役の吉川満子、伯父さん役の坂本武が味がある。
 当時33歳の笠智衆が端役で出ているのも見逃せない。
 白い制服の似合うなかなかのイケメン巡査である。


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吉川満子と笠智衆



おすすめ度 : ★★★★

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● ゾンビが街にやって来る! 映画:『アナと世界の終わり』(ジョン・マクフェール監督)

2017年イギリス
98分

 原題は、Anna and the Apocalypse(アナと黙示録)

 キュートな女子高生アナを主人公とした、ポップでハートウォーミングな学園ミュージカル――といった風情。
 が、フタを開ければ、イギリス映画のお家芸たるゾンビもの!
 クリスマスを前に、ゾンビが街にやってくる!
 
 ゾンビものとしての新機軸は、ミュージカル仕立てにしたところ。
 教室で、食堂で、講堂で、街路で、ボウリング場で、はたまた血しぶき噴き上げる凄惨なゾンビとの戦いの場で、突如歌い踊り出す若者たちのパフォーマンスが楽しい。
 さすがに、ゾンビたちは歌も踊りもしないが・・・・・。
 
 アナ役のエラ・ハントは将来楽しみな正統派美少女。
 この一作でファンになった男子も多いことだろう。
 気の強そうなところは、往年の国民的美少女ゴクミ(後藤久美子)を思い出させる。


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アナ役のエラ・ハント
 

 音楽もいい。テンポもいい。脚本も演出もいい。
 加えて、さすがイギリスというべきか。随所に差し込まれるブラックジョークがたまらない。
 ゾンビに咬まれ仮死状態となったアナの今一つさえないボーイフレンド。彼の着ているクリスマスツリーデザインのセーターが不意に電飾で光り輝くシーンなど、なぜか知らず、感動で涙が出そうになった。
 
 ゾンビの発生原因は、製薬企業が極秘裏に作ったウイルスの漏出。
 そこから感染が広がった。
 制作陣もまさか3年後の世界がこんなふうになっているとは予想だにしなかったであろう。
 コロナ禍も歌って踊って吹き飛ばしたいところだが、それはもっともやってはいけないことだ。
 こうして家で映画を楽しむのが一番。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

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● 最後の一撃 本:『まるで天使のような』(マーガレット・ミラー著)

1962年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『悪意の糸』、『狙った獣』、『殺す風』に続く、4冊目のマーガレット・ミラー。
 もうファンと言ってもいいかもしれない。 

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 タイトルは『ハムレット』に出てくる in action how like an angel 「天使のごとき振る舞い」というセリフから取られている。
 悩める男ハムレットが、「人間」を讃美するモノローグの中の一句である。
 人間の振る舞いを天使のそれに譬えているのだ。
 だから、これはミラーらしい皮肉、ブラックジョークなのだろう。
 本書の登場人物のなかには、殺人者も共犯者も探偵も含め、「天使のごとく」振舞っている人物など見当たらないからだ。
 もっとも、天使が実際どのように振舞うのか、クリスチャンでないソルティは知るところでなかった。

天使


 ミラーの作品の一番の特徴は、いったんページを開いたら、読み終えるまで落ち着かない、ってところにある。
 落ちつかないから、どうしても読み進めてしまう。
 途中で手を止めて、しおりを挟んで「また明日」とするのが難しい。
 文庫で400ページを超える本作も、「速くて二日」くらいのつもりで読み始めたのだが、あっという間に物語に引き込まれてしまい、食事とトイレ時以外は読み続け、結局、数時間で読み上げてしまった。

 『狙った獣』にとりわけ顕著だが、ミラー作品には読む者の精神を不安にさせる要素がある。
 読む者の意識 or 無意識にあるトラウマ、抑圧された欲望や怒り、コンプレックス、狂気、孤独感などの絃を弾き、共振させ、引っ張り出してしまう。
 だから、落ち着かなくなる。
 だから、半世紀以上前に書かれていて、使われているトリックはすでに古びていて、真犯人を見抜くのにたいした苦労や慧眼もいらず、どんでん返しや意外な犯人に驚かされることもなく(ソルティ探偵はトリックも犯人も途中で分かった)、推理小説としては「並」であるにもかかわらず、書店の棚にその名を見れば手に取ってしまうし、寝るのも忘れて読みふけってしまうのだ。

 本作ではしょっぱな、山奥で自給自足の共同生活を送る〈塔〉と呼ばれる新興宗教団体が登場する。
 社会を離れ過去を捨てた信者たちは、〈大師〉と呼ばれるカリスマリーダーのもと独特の教義とルールを守って、ストイックに信仰篤く暮らしている。
 もうこのあたりで、ソルティはミラーの手に捕まってしまった。
 いや、日本人なら誰でも、オウム真理教や統一教会や幸福の科学といった新興宗教団体を思い浮かべざるを得ないだろうし、農業や牧畜を基盤とする人里離れた活動体という点でヤマギシ会を連想する人も少なくないだろう。
 いまの社会のありように疑問や反発を抱きユートピアの創造を夢みる人々、あるいは社会の中で器用に生きることができず居場所を見つけられない人々、あるいは社会や人間関係に絶望し「悟り」や来世に望みをつなぐ人々・・・・そういった人々はこうした宗教団体に引き寄せられて信者となる。あるいはまた、徹底的に人間関係から退いて、“ひきこもり”となる。

 半世紀以上前のミラーの小説がきわめて“今日的”であるのは、現代人および現代社会に関する洞察の鋭さにある。
 ミラーの小説に出てくる人々は、どこか不器用で病んでいる。
 いや、ミラーが人間というものを「どこか不器用で病んでいる」ものと捉えている。
 自らを「どこか不器用で病んでいる」と思っている(たいがいの)読者は、そうした自分をミラーに見抜かれたような気になって落ち着かなくなり、徹夜の罠にはまってしまうのだろう。 

堕天使


 さて、本作には、解説を書いている我孫子武丸言うところの「最後の一撃」が仕掛けられている。
 小説のそれこそ最後の数行でどんでん返しがあって、物語の意味が大きく変わってしまうというものだ。
 安孫子は「最後の一撃」トリックの傑作として、いくつかの洋物ミステリーの名を上げてくれている。クイーン『フランス白粉の謎』、フレッド・カサック『殺人交叉点』、バリンジャー『赤毛の男の妻』など。
 ミステリーと言っていいものかどうか難しいところだが、ソルティは「最後の一撃」トリックの白眉は、本邦の女性作家・乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だと思う。


P.S. 本作にはちょっとした作者(あるいは訳者?)のミスがあるのではないか。犯人のある特徴に関する記述について矛盾が見られる。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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● ジェラルディン・ペイジの怪演 映画:『白い肌の異常な夜』(ドン・シーゲル監督)


1971年アメリカ
105分

 ソフィア・コッポラ監督『ビガイルド 欲望のめざめ』(2018)と原作を同じくする約半世紀前の先行作品。
 ストーリーはほぼ同じだが、主要キャラクター設定が微妙に異なり、その違いが馬鹿にならない。

 たとえば、シーゲル版で登場する学園に住み込みで働いている黒人奴隷女性が、コッポラ版には登場しない。
 南北戦争中の南部の女子学校が舞台という設定を考えれば、シーゲル版のほうが自然でリアリティがあり、物語に奥行きも出る。
 コッポラは人種差別問題に触れたくなかったのかもしれない。

 また、最後まで生徒たちを守り抜く気丈なマーサ校長の人物設定もかなり違う。
 コッポラ版のマーサ(=ニコール・キッドマン)は、久しぶりに接する若く逞しくハンサムな脱走兵(=コリン・ファレル)を前に惑溺・葛藤しはするものの、基本的には美しく凛とした女校長であり続ける。
 一方、シーゲル版のマーサ(=ジェラルディン・ペイジ)は、重すぎる背徳を抱えたある種の精神障害者であり、脱走兵(=クリント・イーストウッド)に抱く感情も複雑極まりないものがある。
 このジェラルディン・ペイジの演技が圧巻。
 業に囚われ、性愛の天国と地獄を知った女を、絶妙な表情とたたずまいで演じきっている。
 これにはさしものニコール・キッドマンも形無し。

 どちらの作品がより原作に沿っているのかは知らないが、明らかにシーゲル版のほうが人間心理の奥まで抉り出し、より恐ろしく残酷な物語になっている。
 演出も、撮影も、役者の演技や貫禄も、官能性も、シーゲル版に軍配は上がる。


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脱走兵(イーストウッド)と女校長(ジェラルディン・ペイジ)
黒魔術の儀式のような背徳感あふれる
硬派のシーゲル&イーストウッドには珍しいシーンである


 コッポラ版では女校長の視点に同調して映画を観たソルティ。
 今回のシーゲル版では脱走兵の視点に同調していた。
 男だろうと女だろうと、性別に関係なく主役に同調できるところが、物語鑑賞者としての自分の強みかもしれない。
 


おすすめ度 : ★★★★

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● セロトニンの秘密 本:『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)

2007年佼成出版社
 
 井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し、瞑想を極めた(?)人。還俗して、現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で教鞭をとっている。
 有田秀穂(ひでほ)は、東大医学部卒業後、脳神経の研究に従事してきた科学者。瞑想や坐禅が脳神経に及ぼす影響を科学的手法で検証している。
 有田の研究に興味を持った井上が、実験の被験者として参加したことから、二人の関係が始まったようである。
 本書は、二人の対談をメインに、副題の通り、「脳生理学があかすブッダのサイセンス」を追究している。

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 修行者が瞑想で得られる様々な(神秘)体験・境地・智慧を科学的に解明することに対して、あるいは、悟りを単なる生理学用語に還元してしまうことに対して、不快な思いを抱く人もいるかもしれない。
「悟りはそんな単純なもんじゃない」
「なんでもかんでも科学で解明できると思うのは、唯物論者の傲りにほかならない」
「人間はそんな機械的なものではない」
といった声が聞こえてくる(空耳?)

 ソルティはそんなことはない。
 瞑想で体験することに何らかの科学的根拠があるのは当然だと思うし、悟りや禅定はある程度まで脳内現象で説明できるはず、と思っている。
 そこに、神秘的な何か――たとえば、プレアデスからの光線とか、守護霊のお導きとか、阿弥陀仏の慈悲とか、アセンデッド・マスターの計略とか、別次元にいるソウルグループの援助とか――を持ち出すほうが、むしろ抵抗を感じる。  
 というのも、ソルティは「悟りは人類の次なる進化の段階」と思っているからだ。 
 
 つまるところ、地球上の生き物の進化とは、脳の進化にほかならないと思う。小さな脳から大きな脳へ、単純な脳から複雑な脳へ、一つの脳から複数の脳へ。
 あるいは遺伝子の進化といってもよいのだろうが、生き物の基本的機能をもっとも強く規定するのが脳および脳の出す指令であることは否定できまい。遺伝子はその脳の形成に関わっている。
 だから、人類の脳が地球上の生き物の中でもっとも緻密で複雑であるものと仮定して、まだ人類に進化する余地が残されているとしたなら、それは「脱人類」へ向かっての脳のさらなる進化に違いないだろう。
 それが「悟り」なんじゃないか。
 (逆に言えば、この進化をやり損なったら人類は早晩、滅亡するんじゃないか)


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 本書で、有田は脳内にある“心に関係する”神経として、次の3つを上げている。
  1.  ドーパミン神経 ・・・・・・「快」に反応する神経。
  2.  ノルアドレナリン神経 ・・・「ストレス」に反応する神経。
  3.  セロトニン神経 ・・・・・・上の両者を制御できる神経。
 ドーパミンは、美味しいものを食べたり、セックスしたりすると分泌される。個体が生存し、種が存続するのに必要な食欲と性欲とにかかわる。これが過剰に出ると、欲望が高じ、依存性をもたらす。
 ノルアドレナリンは、副腎髄質から分泌されるアドレナリンと共に、闘争あるいは逃避反応を生じさせる。怒りや攻撃性や不安や恐怖を呼び起こす。
 セロトニンは、食欲や性欲を抑制する働きをもち、外からのストレスに対して反応しないという。上の二つの物質をコントロールし、精神を安定させる。

 これがあたかも仏教で言う「貪(むさぼり)」、「瞋(いかり)」、「痴(無知)」に相応するところが興味深い。欲と怒りをコントロールするセロトニンの働きは、「智慧」や「中道」を意味しているように見える。
 あるいは、本書でも示唆されているように、釈迦国の王子時代のブッダ(ドーパミン過剰期)と、苦行時代のブッダ(ノルアドレナリン過剰期)、そして悟ったあとのブッダ(セロトニン充足期)を暗喩しているようで面白い。

有田:ドーパミン神経という快の神経と、ストレスの神経のノルアドレナリン神経と、その両者を制御できるセロトニン神経の三つが、心の模様をつくっていると思われますが、この三者を比べたとき、それぞれの役割の違いだけではなく、重要なのはその神経が果たして鍛えられるかどうかということです。おそらくセロトニン神経だけが鍛えられるという事実に、ブッダも気づいたと思うのです。

 もちろん、ブッダは脳科学など知らなかったし、セロトニンの存在も知らなかった。
 ただ、自らを実験台として、「どうすれば欲と怒りを抑制できて、中道の状態が持続できるか」を発見したのであろう。
 発見とは、すなわち道諦であり、八正道であり、ヴィパッサナー瞑想である。

ウィマラ:宗教の怖さの一つに、トランス状態にもっていったりとか、泣かせたり、涙を流させることでマインドコントロールして、ある信念体系のなかに入れてカルト教団をつくっていったという歴史が一部にあります。その宗教体験はほとんどの場合、神秘体験が鍵を握ります。
 一方、ブッダの瞑想の特徴は、このセロトニンを鍛えていくことに深くつながっている、と言えます。つまり、ブッダの気づきの瞑想の特徴は、涙を流すという感覚あるいは自己溶解体験にもあてはまらない、トランスとエクスタティックな状態にも留まらないということ。その体験を一時的なものとして通過し、その体験自体を見守る、ずっと見続けていられる安定したバランスのいい「見守り」を育ててくれるのです。

 有田によれば、セロトニン神経を活性化させるのは、腹筋を使った呼吸、咀嚼、歩行などのリズム運動を“意識的に”継続することだという。同じ歩行でも、雑念があったり周囲に気が散ったりするような散歩ではダメだという。
 「今ここ」で起こっていることに対する“気づき”が大切なのだ。
 一方、セロトニン神経には自己制御機能があって、ある程度の量が分泌されるとそれ以上は出ないように、自動的に抑制回路が働き出して分泌を減少させる。
 つまり、セロトニンによる効果は一時的である。
 この自己制御機能を鈍化させ、脳内回路を変えるためには、長期間の持続的かつ意識的なリズム運動が必要だという。
 それがセロトニン神経を鍛える、つまり修行の意味というわけだ。

 瞑想修行が精神を安定させ、ひとを幸福にすることの科学的根拠を示す本として、一読の価値がある。

  


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ダメ男と尽くし女 映画:『夫婦善哉』(豊田四郎監督)

1955年東宝
121分、白黒

 昭和初期の大阪を舞台とする人情ドラマ。
 船場の化粧品問屋のボンボン育ちのダメ男・柳吉(=森繁久彌)と、下町の芸者あがりで陽気でしっかり者の女・蝶子(=淡島千景)の切っても切れない関係を描く。
 当時の船場問屋の風景、狭い路地の入り組む法善寺界隈、難波や曾根崎新地でのお座敷遊びなど、戦前の大阪の風俗ドラマとしても楽しめる。

 柳吉は二枚目ではないが、女性がほうっておけないような魅力がある。外で強がっていても、飼い主の前では平気で腹を見せて寝転ぶドラ猫のような魅力というか。
 それはそのまま役者としての森繁の魅力に通じているようである。
 どうしようもないダメ男なのに、憎めない。
 蝶子もまた、淡島千景その人をモデルにしたかのようなキャラで、役柄と演者がぴったり重なっている。といって、素顔の千景がどんな人なのか知らないが・・・・・。
 あくまでイメージである。
 二人のコンビネーションが凹凸しっくりなじんで、本当の夫婦(内縁だが)のように見える。

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森繁久彌と淡島千景


 切っても切れない「ダメ男と尽くし女」。
 現代人の視点からすれば、この男女関係は、成瀬巳喜男『浮雲』の主役の二人(高峰秀子と森雅之)同様、「共依存」と定義されてしまうところであろう。
 戦後生まれの、とりわけフェミニズムの洗礼を受けた人間が見たら、ダメ男に尽くし続けて自分の人生を棒に振る蝶子のありように苛立つかもしれない。

 ソルティも、浪花節的人情ドラマ(=演歌の世界)が苦手なので、こういった映画というか関係は避けてきた。
 が一方、自立した近代的な男女(あるいは男男でも女女でも)が、互いの世界観をぶつけ合い駆け引きする米国TVドラマに見るような関係も、なんだか疲れる。
 結局、本人たちが幸せならば、周りはとやかく言うことはない。
 (それが、眞子内親王の結婚問題に対するソルティの気持ちである。30年近く不自由な暮らしに耐えてきたのだから、持参金くらいつけてあげたらいい)

 文芸映画の巨匠・豊田四郎の作品を観るのはこれが初めて。
 岸恵子主演の『雪国』、岡田茉莉子がお岩に扮した『四谷怪談』、同じ森繁×淡島コンビによる『花のれん』、芥川龍之介原作の『地獄変』など、観たいものが結構ある。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
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●  Vic553-delta の謎 本:『死体絵画』(アストリット・パブロッタ著)

2004年原著刊行
2006年講談社文庫

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 ドイツの女性作家によるミステリー。
 有能で感受性豊かな30代の女性警部イナを主人公とするシリーズ3作目で、ドイツ・ミステリー大賞を受賞した。
 前2作は邦訳されていないようだ。

 ホームレス連続殺人の犯人を追うイナは、被害者の共通項として、彼らとテレビの犯罪報道番組の人気女性キャスター・デニーゼとの関係を知る。デニーゼは精神病院に入院していた過去があり、その頃からつきあっているエリートの恋人がいた。一方、デニーゼはストーカー被害にもあっていた。
 第一の被害者が残した Vic553-delta というメモの謎は?
 そして、殺されたホームレスたちにグロテスクな化粧がほどこされていた理由は?

 580ページという長編だが、テンポが良く(次々と被害者が増えていく)、謎の提示もうまく、デニーゼのような魅力あるキャラクター(森博嗣ミステリーに出てくる天才プログラマー・真賀田四季を思わせる)が登場するので、ドイツ人の名前に慣れたのちは、面白く、二日たらずで読めた。
 そのおかげで寝不足になった。

 なによりグロテスクなのは真相である。
 いつだって、個人の犯罪より企業の犯罪、企業の犯罪より国家の犯罪のほうが恐ろしい。
 
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
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● 本:『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著)

1854年刊行
1998年宝島社文庫(真崎義博訳)

 Bライフ修験道に関する本を読むなど、最近、“森(山)の生活”への憧れが募っているソルティである。 
 と来れば、むろん、この古典を手にするのも時間の問題であった。

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 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)は、1845年に故郷マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送った。その回想録が『ウォールデン 森の生活』である。 
 本書は、自然の中での自給自足のBライフを夢みる人々の、持続可能性ある社会を唱えロハスを実践する人々の、そして騒々しい都会やせわしない日常やメンドクサイ人間関係から離脱したい人々の、バイブルである。
 ただし、ソロー自身は、人生や生活から逃避するつもりで森へ入ったのではなかった。
 こう言っている。

ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。生活といえない人生など生きたくなかった。


 なるべく人工的なものを排した根源的な生活、文字通り“地に足の着いた”生活を送りたかったのである。
 当然、電気はない。水道もない。暖房は薪ストーブ。森の動物を狩り、湖の魚を獲り、小さな畑で豆やトウモロコシやジャガイモをつくり、村人に売って最低限必要な日常品を購入する。
 静寂と孤独とありあまる時間の中に身をおいて、いろいろなことを思索し、文を書く。
 そんな生活を2年以上送ったのである。

ソローの小屋の絵
妹ソフィアが描いたソローの小屋


 森の生活の中から生まれたソローの思想が書き留められている前半が面白い。
 後半は、森の生活の情景描写(自然や動物の観察など)が中心で、読み物としてはやや退屈である。

 心を打ったソローの言葉をいくつか引用する。

 世間の評判というものは、ぼくら自身の個人的な意見にくらべたら、ひ弱な暴君だ。人の運命を決めるもの、いやむしろそれを示すもの、それは自分が自分をどう思っているかということだ。

 自分の生活に敬意を払い、変化の可能性を拒否して生きてゆくことを、ぼくらは徹底的に心の底から強要されているのだ。これが唯一のやり方さ、とぼくらは言う。けれど、じっさいは、ひとつの円の中心から無数の半径がとれるように、無数のやり方があるのだ。あらゆる変化は見る目には奇蹟だけれど、それは刻一刻と起きている奇蹟なのだ。

 ぼくらは、いったい何にいちばん近く住みたいと思っているのだろう? 食料品店とか、ビーコン・ヒルとか、いちばん人が集まるファイヴ・ポインツなどではなく、生命の永遠の源の近くだろう。そこは、ちょうど水のそばにあるヤナギの木がその方向に根をのばすのと同じように、ぼくらの経験から、生命がそこから流れ出すということを知った場所なのだ。

 自分の生活を簡素にするにつれ、宇宙の法則から複雑さが消えてゆき、孤独が孤独でなく、貧しさが貧しさでなく、弱さが弱さでなくなるだろう。

 なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死に企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別のドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんな遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。
 

 2年2か月の森の生活を経て、ソローは社会に帰還する。
 こう言っている。

 ぼくは、森へ入ったのと同じように、それなりの理由があって森をあとにした。たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費やすことができなかったからだと思う。

 
 その後は特に定職に就くこともなく、様々な賃仕事をしながら、執筆や講演や奴隷解放運動に携わった。
 ソローは、世捨て人でも、隠者でも、ひきこもりでもなかった。
 その点は誤解してはなるまい。


森の中の池
注:ウォールデン湖ではありません


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● 古びるものと変わらないもの 映画:『BOYS ボーイズ』(ミシャ・カンプ監督)

2014年オランダ
80分

 オランダでTV映画として制作され、放映後に大反響を巻き起こし、急遽劇場公開、またたく間に世界展開となった“ボーイズラブ”もの。
 思春期の少年のひと夏の恋の経験が、一編の美しい詩のように、高い完成度で描かれている。
 自然あふれる田舎町の瑞々しい風景、きらめく陽光と水しぶき、丁寧な心理描写、俯瞰やアオリ(仰角)や逆立ち映像などを効果的に使った演出の冴え、適度な長さ(TV映画として作られた恩恵か)。
 BL映画の古典たり得る傑作である。

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 この映画と、より最近(2019年)日本で制作・上映されたLGBT映画『アスリート』をくらべたときに、時の経過により「古びるもの」と「変わらないもの」についての考察を試みざるを得ない。
 どちらも、主人公の男(少年)が、自らの中に呼び覚まされた同性に対する恋心に困惑し、抵抗し、葛藤し、逡巡しながら受け入れていく、という点では変わらない。
 相手が同性だろうが異性だろうが、人が人を好きになるという感情や、それに付随して起こるさまざまな思いは同じである。また、世の中では多かれ少なかれ“異端視”される同性愛を、自らのものとして受け入れていく困難も、洋の東西問わず、同じである。
 こういった感情の部分は古びない。
 
 一方、登場人物が抱えるそうした感情をどう表現していくかという段階で、陳腐になったり、旧態依然であったり、斬新であったり、新しい価値観を世に送ることになったり、という違いが生じてくる。
 つまり、素材は同じでも調理法が違えば、出来上がった料理はまったく違うものになる。
 調理法とは、創作者(主として監督)の感性、世界観、価値観、人間観、思想性、世の中との距離の取り方などの反映であり、映画の場合、具体的には脚本や演出にあらわれる。
  
 この映画を「ボーイズラブもの」とくくってしまうのにいささか抵抗をおぼえるのは、これが LGBT 映画というよりも、思春期の少年の心情を描いた“普通”の映画という印象を受けるからだ。
 普遍性がある。
 そこには、「同性愛というのは別に特別なものじゃない」というミシャ監督の揺るぎない世界観があり、観る者はそこに新しい料理を発見し、飛びつくのである。(オランダではTVで放映されたという点に国民性を感じる)


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 俯瞰で描く、少年たちのはじめてのキスシーン



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
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● 本:『イザベラ・バードの旅 「日本奥地紀行」を読む』(宮本常一著)

1984年未來社より刊行
2014年講談社学術文庫

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 イザベラ・バード(1831-1904)は、英国の旅行家、探検家、紀行作家。
 1878年(明治11年)の6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側を北上し北海道に至る旅をし、その見聞を『日本奥地紀行』にまとめた。
 
 本書は、著名な民俗学者である宮本常一が、『日本奥地紀行』を題材にして行った講義録をもとに編まれている。
 江戸時代の風俗が色濃く残る北日本の田舎を、一人の西洋人女性がどのように見たか。その見方の背景をなす要因はなにか。日本各地の風俗に詳しい宮本が解説してくれるところが、本書のミソである。

一人の外人が日本を見たその目は、日本人が見たよりわれわれに気付かせてくれることが多く、今われわれの持っている欠点や習俗は、その頃に根を下ろし、知らないうちにわれわれの生活を支配していることもよくわかるのです。(宮本)


 昔の日本および日本人、とくに庶民の生活ぶりを知ることの面白さは、現在われわれが持っている価値観や習俗が、ある特定の時代につくられた仮設のものであることを知るところにある。
 われわれが抱いている「日本人とはこういう民族だ」という自己イメージは、別の時代、別の場所に行けば、まったく適合しないものになる。日本人のDNAに書きこまれた縄文時代から綿々と続く性質――なんてものでは全然ないのだ。

 たとえば、今回のコロナ禍でしきりに言われた「日本人のきれい好き」。
 本書を読むと、まったくそれが当てはまらない事実に直面させられる。
 イザベラ・バードは行く先々で、蚤としらみに悩まされる。着たきり雀で、身体も着衣もめったに洗わない庶民の不潔さに閉口している。そうした不衛生が、さまざまな病気の温床になっていることを指摘している。
 
その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。石鹸がないこと、着物をあまり洗濯しないこと、肌着のリンネルがないことが、いろいろな皮膚病の原因となる。虫に咬まれたり刺されたりして、それがますますひどくなる。この土地の子どもは、半数近くが、しらくも頭になっている。(イザベラ・バード)

 むろん、こうした不衛生の背景にあるのは、貧困と無知である。
 
 ほかにも、「日本人は排他的」なんてイメージも再考する必要がある。
 イザベラ・バードはどこに行っても、あっという間に物見高い群集に取り囲まれ、注目の的にされてしまう。
 湯沢のまちではこんな有様である。
 
何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子をもってきて隣の屋根に上った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された。(イザベラ・バード)

 まるで、かぐや姫を垣間見んとするスケベな男達のよう(笑)。
 外人を見たことのない者ばかりなのだから仕方あるまい――と理屈づけたい向きもあろうが、そうとばかり言えないのは、このあと北海道でアイヌの村に入ったとき、「イザベラ・バードが行っても皆が物見高く集まるということはなく、無関心である」。
 江戸時代に黒船がやってきたときも、幕府は神経をとがらせ警戒したけれど、庶民は「久里浜沖に泊まった船の間を全然警戒なしに漕ぎ回って」いたという。
 日本人は子どものように好奇心むき出しで、見知らぬ相手を「敵」ととらえず、まずは興味と感心をもって受け入れるところがあったのだ。
 
私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。(イザベラ・バード)
 
 この安全神話は、かなり劣化したとはいえ、今でも有効であろう。

 


おすすめ度 : ★★★

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● ギブアップ 映画:『ナポリの饗宴』(エットレ・ジャンニーニ監督)

1954年イタリア
124分
カラー

 カンツォーネと踊りと色彩と美男美女あふれる、全編ほぼセットによるナポリ讃歌。
 生粋のイタリア映画といった感じである。

 イタリア好き、歌好きのソルティ、かなり期待してレンタルしたのだが、いかんせん、ストーリーがごった煮で、展開がめまぐるしいばかりで、面白くない。
 一応オムニバス形式になっているが、エピソードの切れ目がわかりづらく、話についていけない。脚本が良くない。

 弱冠二十歳のソフィア・ローレンがチョイ役で出演するシーンまで(開始半分くらい)我慢して観たが、それ以上はギブアップ。

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ソフィア・ローレン


おすすめ度 :

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● 初期症状もどきとPCR体験

 一週間ほど前から倦怠感と喉のつかえが続き、「風邪かなあ?」と思い様子を見ていたが、一昨日から下痢が始まった。
 いつもなら2回くらいトイレに行けば終息するのだが、4回、5回と繰り返す。食べるそばから水様便となって出ていく。おなかもグルグル鳴り続ける。滅多にないことである。
 熱はないものの、鼻の奥のほうに圧迫された感覚がある。
 「よもや?」と、ネットで『コロナ 初期症状』と検索かけると、案の定どれも当てはまった。
 
 思い返せば、まったく心当たりがないというわけではない。
 10月末に高尾山の麓の温泉施設に行ったとき、混みあった露天風呂と食事処に1時間以上は居続けた。当然、自分も周囲もマスクしていない。大声で喋っている若者グループも近くにいた。
 11月初めには、夜遅く乗った列車が人身事故でストップしたため帰宅できなくなり、会員カードを持っている繁華街のネットカフェで一晩過ごした。ブースの中で寝ているとき、知らぬ間にマスクをはずしていた。夜中、どこかのブースから咳が聞こえていた。
 ほかにも、列車のつり革や手すり、バスの降車ボタンやシート、エレベータのボタン、レンタルショップのDVDパッケージ、ドリンクバーの氷つかみ(トング)・・・・新型コロナウイルスと接触しうる可能性を数え上げたらキリがない。
 
 自分が一人暮らしならば、そして介護関連の仕事に関わっていなければ、「風邪だろう。食あたりだろう。更年期障害だろう」と自己判断し、そのままやり過ごしてしまうところだ。
 が、80を過ぎた両親と同居の身で、70~90歳の高齢者と日常的に触れ合う立場にいる。自分が直接彼らに触れないとしても、職場の同僚にうつしたら、そこから感染が広がりクラスターが発生してしまうかもしれない。
 
 昨日、思い切って仕事を休み、PCR検査を受けに行った。
 ネットで検索し、もっとも検査料の安いクリニックを選んだ。
 自宅からかなり離れているけれど、背に腹はかえられない。
 
混雑病院



 午前10時過ぎにクリニックに着くと、入口に掲示があった。

 「PCR検査を受ける方は、特設会場にお越しください」

 クリニックの建物の中ではなく、そこからやや離れた駐車場のような野外スペースに天幕が張られ、仮設の検査所が設けられていた。プレハブというかコンテナというか小さな建物が左右にいくつか並んだ中央のスペースに、パイプ椅子が20脚ほど間隔を置いて並べられ、完全防護したスタッフが忙しそうに立ち回っている。なんだか、野戦病院のよう(って映画でしか見たことないが)。
 
 平日の午前中だったので、それほど混んでなく、受付で待たされることはなかった。
 が、問診票への記入を済ませ、パイプ椅子に座って診察の順番を待っていると、見る間に人が増えていき、1時間くらいしたら椅子は全部埋まり、その周囲に数十名が立って順番待ちするくらいになった。土日、祝日はどれだけ混むことか。(そのクリニックは土日もやっている)
 幸い小春日和だったので、屋外でも長袖ジャケット一枚で過ごせたけれど、冬になったらどうするんだろう? 寒風の中、待たされるのだろうか?
 
 15分くらいで名前が呼ばれ、プレハブの一つに案内された。
 中には誰もおらず、パソコンの乗ったテーブルとその前に椅子があるだけ。
 その椅子に腰かけるよう指示された。
 遠隔モニターによる診察であった。
 モニターの中の医師から症状の確認があった。
 
 また外で待つこと10分。
 名前を呼ばれ、こんどは一角にある奇妙な小屋の前に案内される。
 それは密閉された四角いブースで、一つの壁面の上半分だけが透明シールドに覆われている。シールドの下部に、二つの穴が横に並んで空いている。戦前のサーカスの見世物小屋を思わせる(って映画でしか見たことないが)。
 受検者がシールドの正面に置かれた椅子に腰かけると、ブースの中にいる看護師が、二つの穴から手袋をはめた両腕を突き出し、受検者の鼻の穴に綿棒を突っ込む。看護師は、粘液がついた綿棒を試験管に密封する。
 はたで見ていると面白い光景なのだが、いざ自分の番になると、鼻の穴に綿棒が突っ込まれるのはなんとも気色悪い。

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絵ごころなし

 
 検査が終わり、待つこと20分。
 名前を呼ばれ、会計となった。
 ネットに書かれていた通りに万札を用意していたが、「発熱、咳、倦怠感など何かしら症状がある人」は保険が適用されるとのこと。
 ソルティの場合、薬の処方料も入れて2000円であった。
 2000円なら、それほど敷居も高くない。
 3ヶ月に1回くらいは受けてもいいかもしれない。
 
 結果は、陽性(感染の可能性大)の場合、事前登録した電話番号に5~6時間後に連絡が来る。連絡がなければ陰性である。
 もちろん、体操選手の内村航平のように擬陽性(ほんとうは陰性なのに陽性判定されること。100人に1人くらい)が出ることもある。擬陰性(ほんとうは陽性なのに陰性判定されること。100人に30人!くらい)のケースもある。
 結果は100%保障できないのだ。
 陰性結果をもらっても、症状が続くようなら、再受診・再検査の必要がある。


紅葉の自転車

 
 今回、検査を受けようと決めるにあたって、このウイルスの厄介さをつくづく思った。
 発熱や倦怠感や喉のつかえや下痢を主な症状とする病気など、それこそ風邪や細菌感染を含めゴマンとある。コロナ特有の症状ではない。
 なんらかの体調不良があったとき、そのたびコロナ感染を疑っていたら、しまいにはノイローゼになってしまうだろう。キリがない。
 と言って、1%でも感染の可能性がある限り、「他の人、特に家族や高齢者にうつしてはいけない」という思いが働き、検査を考えずにはおれない。
 「ならば、はじめから感染する/させるリスクのある行動をとらなければいいではないか」と言いたいところだが、残念ながら感染リスクはそこいらじゅうに潜んでいる。そこがこのウイルスの厄介なところである。
 コロナウイルスは日常生活でうつる。とくに、介護や医療や接客業のような仕事に就いている場合、リスクを完全に避けることはほとんど不可能に近い。
 
 HIV(エイズウイルス)と比較すると分かりやすい。
 HIVの初期症状もまた「インフルエンザに似た」もので、発熱や倦怠感や筋肉痛が起こる。(コロナ同様、まったく無症状の場合もある) 
 この初期症状を「すわ、エイズ!」と思って、不安に陥る人も少なくない。
 しかるに、HIVは日常生活ではうつらない。バスや電車や温泉やスポーツジムや料理店やカラオケではうつらない。相手の体液(血液、精液、膣分泌液)とじかに接触する性行為でしかうつらない。
 つまり、予防できる。きちんと予防できているという自覚も持てる。
 発熱や倦怠感があっても、それに先立って「思い当たる行為=予防しない性行為」がなかったならば、HIV感染の可能性はないと断言できる。検査は必要ない。
 たとえ、感染の可能性ある行為をしていたとしても、他人にうつさない選択は簡単にできる。
 一方、コロナの場合、家に閉じこもって他人との接触を断たない限り、完璧な予防は難しい。
 どこまで予防すれば安全と言えるのか、どこまで気をつければ他人にうつさずに済むのか、誰も確かなことが言えない。
 HIVと違って、日常生活こそが危ない。(検査会場には老若男女がいた。若者が圧倒的に多いHIV検査会場との顔ぶれの違いは、まさに感染経路の違いによるものだ)
 
 毎日マスク通勤し、多かれ少なかれ周囲と会話しつつ仕事して、昼は外食し、休日はできるだけ大人しく遊ぶ、あるいは気晴らしに買い物に行き、家族や友人とGOTOキャンペーンを利用し小旅行する。コロナ禍におけるごく一般的な庶民の生活である。
 それでソルティのように発熱や倦怠感や喉の痛みなどが生じて、自分の過去数日の行動を振り返ったとき、「感染するような行為、思い当たる機会はまったくなかった」と言い切れる人が果たしているものだろうか?
 たとえば、今大ヒット中の映画『鬼滅の刃』を満席の劇場で観て、隣席の人が上映中に飲食し、くしゃみした。席を移ることもできない。数日経って38度を超える熱が出た。
 「もしかしたら、あの時?」といったん思い始めたら、感染不安のループにはまり込むのは必定である。

不安のループ


 これからの風邪の季節、「初期症状」に振り回される人が増えることは間違いない。 
 ノイローゼにならない為には、感染予防に関する自分なりの“行動ルール”の設定と、感染リスクの評価に関する自分なりの“線引き”が必要かもしれない。
 つまり、コロナについて心配する閾値(しきいち)を作っておくのだ。
 まあ、その前に、何と言ってもふだんの体調管理に気を付けるに如くはないが・・・・。


 結果的にクリニックからの連絡はなかった    




● フェミニズム回避 映画:『めし』(成瀬巳喜男監督)

1951年東宝
97分、モノクロ

 原作は林芙美子の遺作小説。
 監修に川端康成の名が上がっている。
 
 熱烈な恋愛の末、周囲の反対を押し切って結ばれた初之輔(=上原謙)と三千代(=原節子)であったが、二人だけの生活も5年もするとマンネリ化してくる。三千代は、「台所と茶の間を行ったり来たり」だけの人生でいいのか、と思い悩む。
 そんなとき、東京に住む初之輔の姪・里子が、親の決めた縁談を嫌い、家出して夫婦のもとに転がり込んでくる。奔放な里子の振る舞いに眉を顰め、里子と初之輔の仲の良さに嫉妬する三千代であった。
 
 倦怠期の夫婦を描いた作品と解説されることが多いが、これはむしろ、フェミニズム的テーマを含んだ問題作の片鱗がある。
 片鱗――というのは、原作は未完で、林芙美子がどういう結末を用意していたか誰にも分からないからだ。
 原作は、三千代が「これからの人生を考える」ために東京の実家に帰ったところで終わる。
 三千代がこのまま初之輔と別れ、東京で仕事をみつけて自立するなら、本作はフェミニズム小説(映画)になりえただろう。
 だが、実際の映画は、東京まで迎えに来た初之輔に三千代が情愛を感じ、一緒に列車に乗って大阪に戻るところでエンドクレジットとなる。
 窓外を流れる景色を見ながら、三千代は心の中で呟く。
「愛する男と一緒に幸福を求めながら生きていくことが、女の幸福なのかもしれない」
 
 ソルティは林芙美子を読んだことがないので作風も人物も知らないのだが、流行作家としてジャーナリズムを賑わせたことから察するに、「結婚して家に入って炊事・洗濯・夫と子供の世話に明け暮れる」ことを女の幸福と考える人じゃないのは確かだと思う。
 この映画の結末は、東宝サイドの「二人を離婚させるな」という要望を汲んでのことらしく、林芙美子ファンの間では評判が良くないようだ。
 さもありなん。
 
 だが、当時の観客の多くにとっては(男はもちろん女の観客も)、三千代が夫のもとに戻る結末にホッとしただろうし、上記の三千代の独白にも「そのとおり」と頷いたことだろう。
 女性の自立を映画で描くには、20年ばかり早かったのだ。
 
 往年の美男美女スターである上原謙と原節子は、ここでは円熟の色を見せている。美より技を感じさせる演技である。(いや、二人とも十分美しいが)
 三千代の母親役の杉村春子も、ここではいつもの「おきゃんで口やかましい下町風おばさん」とは違った、やさしい日本のおふくろを演じ、その穏やかな笑顔は心にしみる。
 
 戦後の日本、とくに夫婦が住む大阪の風景(中之島公園、大阪城、道頓堀など)が映し出され、興味深い。
 
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上原謙(42)と原節子(31)



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● どんでん現象、あるいは遅れてきたセクマイ 映画:『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』(大江崇允監督)

2019年
89分

 レンタルDVDショップで見つけた LGBT映画。

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妻に捨てられた中年の海堂(=ジョーナカムラ)はやけ飲みした晩に、年下の美青年ユタカ(=こんどうようぢ)と出会う。二人は互いの孤独を埋めるように共に暮らし始める。そのうち、これまで男性経験のないノンケだった海堂は、ユタカを愛するようになる。だが、もとからゲイであるユタカには家族との関係など屈折した感情があり、二人の溝はすんなり埋まらない。

 どこかで聞いたような話だなあ~、と既視観が起こるのも無理はない。
 ちょっと前に一世を風靡したテレビドラマ『おっさんずラブ』の主人公・春田創一(= 田中圭)と同居人・牧凌太(=林遣都)の関係にかぶっている。春ちゃん:牧=海堂:ユタカ、である。
 もっとも、春ちゃんは中年と言うにはまだ早い。海堂と違って結婚もしてなければ子供もいない。

 LGBTドラマに昔からよくあるパターンとして、ゲイがノンケを好きになって叶わぬ思いに苦しむというのがある。マニュエル・プイグ原作『蜘蛛女のキス』とか、橋口亮輔監督『渚のシンドバッド』とか・・・。イバン・コトロネーオ監督『最初で最後のキス』なんかは、そのパターンのもっとも悲劇的な結末を描いている。
 『おっさんずラブ』のヒットの影響からか、あるいは実際に巷でそういう現象が増えているのか、ノンケの男がふとしたはずみで同性愛に目覚めてしまうという、これまでとは逆ベクトルのストーリーが昨今求められている(?)ようである。
 もちろん、腐女子もといBL(ボーイズラブ)の世界では、そうした設定は「王道」と言ってもいいくらいの使い古されたパターンであるが、それが今、BL界を越えて世間に流出してきたかのようだ。
 ちなみに、そういう現象を業界用語で「どんでん」と言ったものだが、今でも使われているのだろうか?

 既視感はもうひとつある。
 ソルティは観ている途中で、この映画の制作年を確認せざるをえなかった。
 「2019年」って昨年じゃないか。
 令和元年じゃないか。
 『おっさんずラブ』以後じゃないか。

 しかるに、この映画のタッチというか、雰囲気というか、描かれている世界観というか、LGBTに対するイメージというか、ともあれ全体の質感が、ほとんど80年代のゲイ映画、いやもっと特定するなら当時新宿や上野の専門映画館で上映されていた薔薇族映画のそれとよく似ているのだ。
 つまり、なんだか暗くて、後ろめたくて、隠花植物的で、十字架を背負っている風で・・・・といった感じである。

 ユタカの近所に住む若い女性たちが通り過ぎるユタカを見て、「あの人、ゲイだって。気持ち悪いよね~」と聞こえよがしに言ったり、新宿2丁目で飲んでいるノンケらしい二人組の若いリーマンが道に立つ女装子を見て、「おかま、無理無理」と口にしたり、どうにもこうにも古いのだ。
 いや、もちろん同性婚が政治テーマに浮上した令和の今だって、差別はある。偏見を持つ人はたくさんいる。当事者にだって、周囲にカミングアウトしてゲイリブに生きる人から、昭和時代を背負ったまま年を重ねたクローゼットまで、いろいろいる。なにも無理して、「明るくポジティブで未来志向の LGBT像」を描いてくれなくてもよい。
 が、ここに描かれる LGBT観はあまりにも旧式である。

 いったい、なんでこんなことが起こったのだろう?
 世間の流れに疎いソルティが知らないだけで、2丁目界隈にちょっとしたバックラッシュが起きているのだろうか?
 あるいは、生粋の(?)当事者自身がもつ令和時代の LGBT観と、最近「どんでん」したばかりの元ノンケ(遅れてきたセクシャルマイノリティ)のもつ LGBT観の、ギャップによるものなのか?
 なるほど、この映画はゲイであるユタカの視点より、元ノンケである海堂の視点が濃い。
 ひょっとして、制作サイドに生粋の当事者がいないのでは?

 WAHAHA本舗の「梅ちゃん」こと梅垣義明が、ゲイバーのママ役で出演しているのが見物。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 本:『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(石原慎太郎、坂本忠雄著)

2019年新潮新書

 坂本忠雄は1935年生まれ。元『新潮』編集長で、三つ年上の石原とはかつての作家と担当編集者の間柄。
 80をとうに回った二人が、昔話に花を咲かせる対談集である。
 むろん、主役は慎太郎。坂本はそこここで慎太郎を持ち上げ気分良くさせながら、名伯楽さながら、話を引き出している。


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 川端康成、三島由紀夫、小林秀雄、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎といった戦後の文壇を彩った作家たちとの交流、佐藤栄作、田中角栄、美濃部亮吉、アンドレ・マルローら大物政治家の知られざる顔、石原自身による自作の誕生秘話など、興味深いエピソード盛り沢山で一気に読んでしまった。

 押しも押されもせぬベストセラー作家であり、映画スターであり、政治家であり、ヨットやスポーツカーや射撃の達人であり、太平洋戦争を知る最後の世代であり、そのうえ昭和の大スター石原裕次郎の実兄である。話が面白くないわけない。
 石原慎太郎を「好きか嫌いか」と聞かれたら「嫌い」と答えるソルティだけれど、「面白いと思うかどうか」と問われたら「面白い」と言わざるを得ない。(ただし、小説は読んでいない)
 本書を読むと、文学者にありがちな湿った面倒くさい自意識や、政治家にありがちな表裏を使い分ける陰湿さとは程遠い、慎太郎の分かりやすい性格がうかがえる。
 やはり、育ちが良いのだろう。

 ここで披露される数々のエピソードの中でもっとも印象に残ったのは、慎太郎夫婦が平成天皇と美智子妃にお茶に呼ばれたときの話である。
 平成天皇が葉山の別荘にご静養に行かれるときに「何時間も泳ぎ回るので心配」、と口にされた美智子妃に、慎太郎はこう言い放つ。

「あんなところ、海は遠浅で危ないことなんかありませんよ。伊豆の姉崎の別荘下なら僕もダイビングで時々潜りますけど、回遊魚も来るきれいな海ですよ。陛下も素潜りじゃなくてダイビングで深く潜って海の底を眺められると、人生観変わりますよ」

 平成天皇は「はあ、人生観ですか」と言ったきり、うつむいてしばらく黙ってしまわれたという。

 石原慎太郎と言えば「失言の王者」といったイメージがあるが、もしかしたらアスペルガーの気があるのかもしれないな。


尾瀬
尾瀬沼


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ミシェル・ファイファー、礼賛! 映画:『オリエント急行殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)

2017年アメリカ
114分

 筋も犯人も分かっていて、評判の高いシドニー・ルメット監督による最初の映画版(1974年)も観ているので、たいして期待せず、暇つぶしに見始めた。

 のっけから、エルサレムの街の美しい映像に引き込まれた。
 テレビ朝日の『世界の車窓から』ばりの完璧な旅情が味わえる。
 そして、ブルジョワ志向のポワロの周囲に次々現れる贅沢な風物――むろん、その頂点がオリエント急行の一等客室である!――に、ヨーロッパ上流文化の粋を楽しめる。
 この二点だけでも観る価値はある。

 語りのスピードとリズムは、そのまま列車のスピードとリズムに受け継がれ、まったく淀むところがない。
 観る者は、自然とオリエント急行の乗客の一人となっている自分を発見するだろう。
 やはり、ケネス・ブラナーの演出の才は非凡。
 そのうえ、主役のポワロを見事に演じるのだから、たまげてしまう。

 ルメット作品でポワロを演じたアルバート・フィニー、あるいは1978年『ナイル殺人事件』におけるピーター・ユスティノフ、そして英国のテレビドラマで足かけ24年間も同役を演じ続けたデヴィッド・スーシェ。
 こうしたベテラン名優たちに伍して新たなポワロ像を打ち出すのは、相当な冒険に違いない。ただでさえ、世界中のクリスティ愛読者ひとりひとりの中に、それぞれのポワロ像があるところに・・・。
 だが、役者としても間違いなく天才であるケネス・ブラナーは、上記3人とはまったく違う魅力的なポワロを生みだしている。(むろん八の字髭は同じだが)

 ソルティは、ケネス=ポワロが気に入った。
 原作にもっとも近いのはおそらくデヴィッド・スーシェのポワロであろうが、人間的魅力の点でケネス=ポワロは図抜けている。作品自体の風格を高めるほどのオーラーを発していて、映画をゴージャスにする。
 それにくらべると、スーシェのポワロはいかにもテレビにこそふさわしい。


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精悍なところのあるケネス=ポワロ


 他の役者では、主要人物であるハバード夫人を演じるミシェル・ファイファーが素晴らしい。
 ダーレン・アロノフスキー監督の『マザー!』でも、ヒロインをいじめるビッチでサイコな中年女を演じ、気を吐いていた。
 まさに今が“旬”の女優である。
 オスカーも近いのではなかろうか。

 ジョニー・ディップの悪党ぶりも見物である。
 こういった憎まれ役でも平気で引き受け、しっかり役作りできるのは、ただのイケメン人気スターではない証明である。目つきから違う。
 いまさら言うまでもないことだが。

 このミステリーの特徴の一つは、最終的に謎を解明したポワロが、ある事情から真犯人を見逃すところである。
 殺人犯を警察につき出さず、真相を伏せてしまうのだ。
 原作では、そのあたりのポワロの逡巡や葛藤は描かれていない。
 時代が時代であった。読者もそこまで一介の探偵に正義をもとめはしなかったと思う。
 本で読むのと映画で見るのとの違いもあるかもしれない。

 本作では、ポワロの逡巡や葛藤がしっかり描きこまれている。
 「情に流されずに犯人を告発し正義を貫くべきか。それとも、犯罪を見逃したという汚点を自らの輝かしい経歴に残すべきか」
 こうした葛藤あるゆえに、ケネス=ポワロの人間性が増して、原作にはない深みが生み出されている。
 74年のルメット版にはない感動が味わえた。

 
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この乗客たちの中に真犯人がいる!


 ケネス=ポワロの第2弾は近々公開予定の『ナイル殺人事件』である。
 今度はエジプト旅行。
 コロナに注意しつつ、久しぶりに映画館の大スクリーンで観てみようかな?
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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