ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● バブルの香り 映画:『ブルージャスミン』(ウディ・アレン監督)

2013年アメリカ
98分

 ウディ・アレンを観るのは久しぶり。

 この監督は70~80年代、都会で暮らす大人の女性のオシャレな恋愛コメディを連発して、一世を風靡した。
 スクリーンの中ではいつも、ミア・ファローやダイアン・キートンといったアメリカンな美女たちが、フランス映画のヒロインのように饒舌な自分語りをしていた。
 ソルティの中では、バブル時代の香りをまとった“ちょっと時代遅れ”の監督といったイメージがあるのだが、今なおこうして質の高い作品を発表し続けている。
 テーマやスタイルこそ変化に乏しく、悪く言えばマンネリなのだが、この作品が示すようにケイト・ブランシェットのような名女優と組むと、俄然センスの輝く一級品となる。
 偉大な監督の一人であるのは間違いない。
 
 ケイト・ブランシェットは、この作品で主演女優賞を総ナメにした。
 それも納得の天才的演技である。
 『あるスキャンダルの覚え書き』(2007年)でも思ったが、彼女は演じるキャラクターの癖やら姿勢やら目つきや笑い方まで作り上げてしまう。
 ケイト・ブランシェットという人格がどこかに隠れて、別のキャラクターが登場する。
 一種の憑依か、多重人格のようにすら思える。


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Angeles BalaguerによるPixabayからの画像

  
 この『ブルージャスミン』は、優雅な暮らしを享受していたセレブの女性ジャスミンが、夫の逮捕と自殺がもとですべてを失い、一転、文無しの居候の身に追いやられる話である。
 昔日の栄華が忘れられないジャスミンは、セレブ生活で身につけた習慣やプライドを捨てられず、現実的でない不相応な夢ばかり描いている。
 ケイト・ブランシェットは、セレブ時代のジャスミンと転落後のジャスミンを完璧に演じ分けているばかりでなく、どちらの時期にあっても共通して存在しているジャスミンの生来の不安定な気質を見事に表現している。
 それは、幼い頃に両親を失い、里親に育てられたジャスミンの成育環境にまで思いをいたさざるをえないほどの深みある表現である。(その点では、ジャスミンと同じ里親のもとで育てられた血のつながっていない妹ジンジャーを演じるサリー・ホーキンスも、同様に素晴らしい)
 であればこそ、観る者は、ワガママで見栄っ張りで見るからに“イタい”女であるジャスミンを愛おしく感じるのである。

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セレブ時代のジャスミン(ケイト・ブランシェット)

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すべてを失ったジャスミン

 
 少女時代のジャスミンの姿、あるいは本作のラストで、居候していた妹の家をなんの当てもなしに飛び出したあとのジャスミンの姿は、かなり悲惨で不幸なものであろう。
 そこまで描くともはやコメディの枠からはみ出して、暗く重いドラマになってしまう。
 ウディ・アレンはいつもそこまでは追わない。
 そこが、「バブルの香り」と言いたくなるゆえんである。
 
 

おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 

● ワンチームの是非 本:『扉を開けて』(共同通信ひきこもり取材班著)

2019年かもがわ出版

 副題は「ひきこもり、その声が聞こえますか」

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 共同通信の記者たちによるルポルタージュ。
 ひきこもり当事者(と言っても“元ひきこもり”になるのはやむをえまい)、その家族、行政や民間の支援者、精神科医の斎藤環らにインタビューし、この問題を多角的視点でとらえている。
  • 多額の費用を受け取り、ひきこもりを強制的に家から引っ張り出し、刑務所のような収容施設に閉じ込め、何ら自立支援らしいことは行わない悪徳自立支援ビジネス。
  • 社会復帰を目指すひきこもりに就労の場を提供し、あたたかく見守る地域の経営者。
  • 女性のひきこもり当事者の抱える男性当事者とは異なる問題(たとえば、男性恐怖の人が多いので男性がいる会合には参加しづらい、母親との関係に悩む人が多いなど)
  • 親の高齢化や認知などの要介護化あるいは死によって、ひきこもりを可能ならしめてきた経済的基盤が失われ、生命の危機に直面する当事者。
 ひきこもり人口が全国で60万人を超え、年齢も10~70代と広い層におよび、ひきこもりが絡んだ悲惨な事件報道が増え、また当事者の中から声を上げる人が出てくるにつれて、この問題の複雑で多様な相が一挙にあぶり出されてきた感を持つ。
 
 問題が家庭内で隠されてきたこと、あるいは問題が社会に認識されない状態が長くあったことを思えば、ひきこもりが社会問題として陽の目を見た今の状況は、前進というべきなのだろう。
 とりわけ、政治的な支援の必要が認識され、厚労省肝いりで各県に「ひきこもり地域支援センター」が設置(平成21年~)されたのは大きい。
 やはり、2019年6月に東京練馬で起きた元農林水産事務次官によるひきこもりの息子殺害事件が、官僚や政治家たちにショックを与えたのだろうか。
 KHJ 全国ひきこもり家族連絡会のような当事者家族による互助&政策提言活動も全国に広がっている。(KHJ は Kazoku Hikikomori Japan の略)
 ひきこもり新聞といった紙媒体やネットを利用した情報発信や交流など、当事者自身の活動も盛んになってきた。
 地殻変動につながるような巨大で静かなうねりが起こっている気がする。
 日本社会のパラダイムを変えうるような・・・・。

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 ソルティがひきこもり問題を最初に知ったのは、90年代中頃であった。
 当時は、人間関係をつくるのが不得手で社会に出て働くのが困難、といった軽度の精神障害者などの居場所づくりが各地で盛んだった。
 80年代に不登校が大きな社会問題となっていたので、なんとなく「その延長かな?」、つまり「80年代に不登校だった子供たちが成人して、今度は社会に出られず、日中を過ごす“居場所”を必要としているのかな?」と思った。
 が、そうした居場所に出てこられる人はまだいいほうで、家から一歩も外に出てこられない若者たちがいる、という話であった。
 そのころ住んでいた地方都市で、ひきこもり(という命名があったかどうか覚えていない)に関するシンポジウムが初めて開かれて、知人に誘われて参加した。
 登壇していたのは、地元の精神科医やフリースクール運営者やアルコール依存症の自助グループの代表などであった。
 元当事者や家族の姿は、少なくとも壇上にはなかったと思う。
 話の内容はほとんど覚えていないのだが、一つ気になったのは、壇上にいる演者がみな、「ひきこもりが家から出て社会参加することが一番」というモードで語っていた点であった。
 当時も今も天邪鬼のソルティは、「なんでひきこもっていたらいけないんだろう?」、「なんで社会参加しないといけないんだろう?」と思った。
 質疑応答の場で思い切って手を上げて、こう問うた。
 「本人が暴力をふるって家族が困っているとか、家計が苦しいといった場合は別として、そうでない場合、そもそもなんでひきこもっていたらいけないのですか?」
 会場が凍りついた。

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Siggy NowakによるPixabayからの画像
 

 福祉の現場ではしばらく前から社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)という用語がブームとなっている。
 
 社会的包摂(しゃかいてきほうせつ)あるいはソーシャル・インクルージョン(英: social inclusion)とは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。 社会的排除の反対の概念である。
(ウィキペディア「社会的包摂」より抜粋) 

 ソルティも一人のマイノリティ(LGBT)として、また介護分野において福祉にたずさわる者として、このコンセプトには全面的に賛成であり、今回のコロナ感染者差別にみるような社会的排除は「もってのほか」と思っている。
 が一方、心のどこかで、「個人が社会というものに(半ば強制的に)取り込まれなければならない」ということに息苦しさを覚えてしまう。
 それが、行政が主導して用意する枠組みにしたがってのことなら、なおさらに。
 “ワンチーム”とか“一岩となって”という晴れがましい掛け声にちょっと引いてしまうところがある。

 単なるワガママ(自我の強さ)なのかもしれない。
 近代個人主義の弊害なのかもしれない。
 ただ、この国は同調圧力が強く、「右へならえ」の傾向が多分にあるので、あんまり“ワンチーム化”しないほうがいいのではないかという思いがあるのだ。
 たとえば、だれもが「一員として取り込まれる」先の“社会”がもし良からぬものであったら、一体だれがその“社会”の暴走に歯止めをかけるのであろう?
 お隣り中国における個人の自由の制約のさまを見るがいい。
 民主化への社会変革がどれだけ困難になってしまったかを見るがいい。
 つまり、ひきこもりの社会参加を語るのであれば、その“社会”の質こそがまず問われなければならないと思うのである。

 本書の中で、ソルティの琴線に触れた一節をちょっと長くなるが紹介したい。
 神奈川県でひきこもり当事者や家族支援を行っている丸山康彦氏へのインタビューである。
 1964年生まれの丸山氏は、28歳から7年間ひきこもっていた。

【なぜ人はひきこもるのでしょうか】
 当事者に直接会ったり、親御さんの相談を受けたりして感じるのは、ひきこもりは異常でも悪行でもなく、特有の心理状態による生きざまだといいうことです。一般の人は自宅と社会がセットで行ったり来たりできるのですが、ひきこもりの人の場合は自宅と社会の間が裂けていて、そこに生まれた「第三の世界」に心がある状態です。本人もどうしてそうなるのか分からないので、私は「無意識の指令」と呼んでいます。
 
【無意識の指令とは】
このままだと潰れてしまう、行き詰ってしまうということを予知して、本能的に自らを防御するということです。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがありましたが、あれは絶品なタイトルですね。まさに、自分を守るために逃避したというのがひきこもり状態なのかなと思います。

【もう少し詳しく説明していただけますか】
 当事者がよく口にするのは「普通でありたい」という言葉です。何が普通かというのは時代によって違いますが、現代であれば学校や仕事に行くのが当たり前で、仕事というのは企業などに雇われて、歯車として働くということでしょう。しかし、昔は町に1人や2人はぶらぶらしている人がいて、居候という言葉も珍しくなかった。
 今はそういう人がはじかれやすい世の中です。大気汚染から公害病が生まれるように、時代の空気に苦しくなった人たちが、心が折れて、ひきこもり状態になるのではないでしょうか。 

 この言葉を読んでソルティの心にすぐさま浮かんだのは、一つは渥美清演じる寅さん、こと車寅次郎の姿であり、今一つは戦後日本から消えてしまったサンカと呼ばれた人々のことである。
 日本には長いこと、国家の身分制度の外にいて一般庶民には蔑視されながらも、自然とともにたくましく生きる“化外の民”がいた。
 いわゆるマージナル・マン
 彼らは百姓を代表とする常民(=定住の民)の周縁にあって、村から村、山から山、川から川、浜から浜へと漂泊する民であった。
 ジブリ映画の『かぐや姫の物語』に出てくる竹取の翁や木地師の一家は、まさにそうした人々である。
 このような制度の外にいて日本中を漂泊する人々の存在が、「既存の日常性を破る異化効果をもたらした」と文化人類学者の沖浦和光は述べている。
 
 ひきこもりの存在を、こういった視点から見てみることも有意義なのではなかろうか。
 


 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● 妖怪大協定 本&絵:『水木しげるのラバウル戦記』

1994年筑摩書房
1997年ちくま文庫
 
 敗戦後ラバウルから帰還した水木しげるが、主として昭和24~26年頃に記憶を頼りに描いた絵に、文章を添えた従軍記である。


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 なによりもまず、水木しげるの映像記憶の凄さに感心する。
 まるで、目の前の光景をその場で素描しているかのような生々しさ、臨場感がある。
 頭のなかにシャッターがついているかのよう。
 やっぱり天性の絵描きなんだなあ~。
 
 次に思うのは、軍隊のキチガイぶりである。
 ビンタをはじめとする上官の日常的暴力、無意味な労働、無駄な行軍
 水木がラバウルに派遣された昭和18年末はすでに日本の敗色濃厚だったので、戦地には自暴自棄の空気が漂っていたとは思う。
 が、それにしても頭の悪い・・・・。

 ソルティの高校時代の部活動(軟式テニス部だった)を振り返ってもそうだが、つい最近まで、日本のスポーツ界というのは疑似軍隊であった。
 先輩・OBの命令は絶対で、意味のないシゴキが付き物で、どんな炎天下であろうが運動中に休憩をとらせず、水も飲ませない。
 そうやって精神を鍛えることが選手の身心を強くし勝利を導く、とマジで考えられていたのである。
 科学的かつ合理的精神にもとづき、エビデンスを元に効率的に選手を育成するという視点に欠けていた。
 「神風特攻精神」に象徴される頭の悪さが、日本の敗戦の主因であろう。

 が、頭の悪いのは日本に限ったことではない。
 日米は、ラバウルほか太平洋の島々で熾烈な殺戮合戦を繰り返すが、はた迷惑なのは現地の住民たちである。
 家や畑を焼かれ、食べ物を盗まれ、強制徴用され、銃撃や空爆の脅威にさらされ・・・・・。
 文明国を気取っている日本やアメリカが、文明は持たなくとも素朴に平和に暮らしている人々(水木しげるは敬愛の意を込めて彼らを“土人”と呼んでいる)を虐げる。

 彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしたりしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。
 まァ優雅な生活というやつだろうが、自然のままの生活というのだろうか。

 土人は“満足をする”ということを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意を払っている。

 我々文明国の人間は、金や土地や資源や栄誉や安全など欲しいものを手に入れ満足するために戦争するわけだが、文明国でない人々は最初から満足を手に入れている
 文明とはいったいなんだろう?

 もう一つ思ったのは、水木しげるのタフさ、大らかさ、運の良さである。
 若かった(当時23、4歳)こともあろうが、上官からの度重なるビンタをものともせず、初めて足を踏み入れた南の島の自然や動植物や昆虫や食べ物に多大なる好奇心を持ち、楽しんでいる。
 兵営近くの部落の土人たちとすぐ仲良くなって、終戦時には「畑をやるからこのまま島に残ってほしい」と彼らに哀願されるほどの関係を築いている。
 一体に先入観を持たない大らかさがある。

 水木が夜の見張りのために小屋を離れた時に、攻撃を受けた部隊は全滅する。
 その後も、一人ジャングルの中を命からがら逃走し、最後は爆撃によって左腕を失う不運に遭ったものの、九死に一生を得る。
 いや、左腕を無くし野戦病院に送られたがゆえに、命ばかりは助かったのだ。
 そのまま最前線に残っていたら、生きて日本に帰れなかった可能性が高い。

 水木しげるがラバウルで死んでたら、鬼太郎や河童の三平は生まれなかった。
 目玉おやじもねずみ男も猫娘も生まれなかった。
 きっと、荒俣宏も京極夏彦も『妖怪ウォッチ』も生まれなかった。

 水木しげるは、日本とラバウルの妖怪たちの協定により守られたに違いない。

ダイダラボッチ


おすすめ度 : ★★★

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● 映画:『クローゼットに閉じこめられた僕の奇想天外な旅』(ケン・スコット監督)

2018年フランス、アメリカ、ベルギー、シンガポール、インド合作
96分

 原作小説のタイトルは、『IKEAのタンスに閉じこめられたサドゥーの奇想天外な旅』。

 インドから“父を尋ねて”フランスにやって来た文無し青年が、家具売り場のクローゼットの中で一夜を過ごそうとしたところ、気づいたらイギリスに運ばれ、難民となっていた。
 そこからヨーロッパを股にかけた奇想天外な旅が始まるという冒険コメディ。

 難民や貧困の問題などは出てくるが、インド・フランス・イタリアなどいろいろな国の風景が映し出され、いろいろな人種が登場し、インド映画お約束の華麗なる歌&舞踏シーンもあり、難しいこと抜きに気楽に楽しめる。

 主人公アジャが一目惚れした女性マリーを演じるアメリカ女優エリン・モリアーティは、容姿といい演技といい、ニコール・キッドマンの若き日を思わせる。
 いい女優になってほしい。

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おすすめ度 :★★ 

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● 本:『箕作り弥平商伝記』(熊谷達也著)

2007年講談社

 「みつくり やへい しょうでんき」と読む。

 大正末期の秋田の片田舎の平和な村で、日本古来の農具の一つである箕を作っては売り歩いている、愛すべき熱血青年・田辺弥平の青春物語である。
 熊谷達也ははじめて読んだ。

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 同じ熱血青年の青春記(ビルディングストーリー)であっても、漱石の『坊ちゃん』とは味わいが異なるのは、この小説が差別問題を扱っているからである。
 長い間、箕作りは、関東以南の地では「サンカの仕事」として忌み嫌われ、厳しい蔑視と差別を受けてきたのである。

 箕作りの村の箕作りの家に生まれ育った弥平は、長じるとともに素晴らしい腕を身につけ、また失敗を重ねながらも次第に行商のコツを覚え、一人前の職人になっていく。
 ある時、販路拡張のために親友と共に意気揚々と南下し、利根川を渡り関東平野に入ったものの、弥平たちの箕は全然売れない。
 どころか、あちこちの家や店先から毛虫のように追い払われ、あげくのはてに不審者として警察に捕まり留置されてしまう。
 そこではじめて弥平は、箕作り職人が謂れのない差別を受けている現実を知る。
 当地の被差別部落に住む箕作りの一家とひょんなことから知り合った弥平は、一家の娘で口のきけないキヌに一目惚れし、結婚を考えるようになる。
 が、全国で高まりつつある部落解放運動の気運を面白く思わない周辺住民たちは、ある晩、キヌ一家の住む部落を集団で襲い、焼き討ちにかける。

 どこかで聞いた話と思ったら、最後の部落襲撃エピソードは、大正14年に群馬県で実際にあった世良田村事件をモデルとしているようだ。関東大震災時に千葉県福田村で起きた行商殺害事件――香川県から来た行商グループが“朝鮮人”と間違われて村人に虐殺された――についても触れられている。
 どちらの事件も、筒井功の『差別と弾圧の事件史』(河出書房新社)に取り上げられていた。

 事件後にキヌの一家は村と家を捨ててしまう。
 弥平の初恋は実を結ばず、結末はハッピーエンドとはいかない。
 絵物語を許さぬ厳しい現実があった。

 頑固で短気で涙もろい主人公・弥平が魅力的。
 生まれつき片ちんばの足をヒョコヒョコ引きずりながら、箕作り職人としての誇りを胸に歩く姿が目に見えるようだ。
 職業に貴賤はない。
 大切なのは、自分のやっている仕事に誇りを持つことだ。



おすすめ度 : ★★★

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● 名探偵ホーソーン登場 本:『メインテーマは殺人』(アンソニー・ホロヴィッツ著)

2017年原著刊行
2019年創元推理文庫

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 昨年、シャーロック・ホームズもののパスティーシュ『絹の家』(2013年邦訳)を読んで、はじめて知った英国作家である。
 実は、『絹の家』の後に翻訳された『カササギ殺人事件』、本作、そして今秋刊行されたばかりの『その裁きは、死』の3作が、3年連続で「別冊宝島このミステリーがすごい!」と「週刊文春ミステリーベスト10」の外国作品ベスト1に輝いている。
 まさに今、世界のミステリー界を牽引し、日本でも話題沸騰の人気作家なのであった。
 
 『絹の家』ですでに証明されていたが、この作家はプロットづくりがたいへん上手い。
 読者のツボを心得て飽きさせない語り口、卓抜な構成力、さりげない伏線の配置と回収、ほど良い息抜きシーン挿入、ここぞと言うところで冒険小説風のスリルとサスペンス。
 いったん読み始めたら、ページをめくる手が止まらなくなった。
 スティーヴン・キングを思わせる一級のエンターテイナーである。
 
 それもそのはず、この作家は英国の人気TVドラマ『名探偵ポワロ』、『バーナビー警部』、『刑事フォイル』の脚本家として知られた人なのであった。
 それ以前にも、ヤングアダルト向けの「女王陛下の少年スパイ! アレックス」シリーズで英国では子供たちの幅広い人気を得ていたようだ。
 物書きとして十分な実力と名声を身につけた上での大人向けミステリーデビューが、『絹の家』だったのである。
 
 と、作者の履歴を記したのはほかでもない。
 実はこの作品、ホロヴィッツ自身を語り手とする、一見ノンフィクションの形を取っているフィクションだからである。
 映画・TV業界で活躍するホロヴィッツの脚本家としての日常がそのまま描き出され、彼のこれまでの経歴が語られ、『絹の家』を含めこれまで制作に関わった作品名が次々と出てくる。
 スピルバーグ監督や『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督が実名で登場し、ホロヴィッツと新企画の映画について検討するシーンが出てくる。
 ホロヴィッツの家族も顔を出す。(妻と二人の息子がいるらしい)
 こういった作者の周囲の現実世界を舞台に設定した上に、殺人事件と推理ドラマいうフィクションを載せている。
 虚実入り乱れの面白さ!
 そして、「虚」の部分では、ホームズばりの観察眼と推理力そして偏屈ぶりを発揮する元警部ホーソーンという“一匹狼型”名探偵を創造し、ホロヴィッツ自身は頭の鈍いワトスン役に甘んじる。
 相性がいいのか悪いのか(今のところ)分からない二人の関係性が面白い。
 ホーソーンは激しいホモフォビア(同性愛嫌悪)の持ち主なのだが、その理由が気になるところだ。
 「実」の部分では、なんといっても映画・TV業界のことなら何でも知っている海千山千のベテラン脚本家である。業界の内輪ネタが読者の好奇心をそそらないわけがない。
 どこまでが事実で、どこからが創作か。
 それを探るのも一興である。
 
探偵

 
 推理小説としてもよく出来ている。
 犯人探しに必要な情報をしっかり読者に与えつつ、読者を誤った推理におちいらせる撒きエサ、いわゆるレッドへリング(red herring、赤いニシン)もたくみに仕掛け、一方、犯人には動機と機会をしっかり用意している。
 ホーソーンの推理も納得ゆくもので、すべてが解き明かされていくラストの気持ち良さはクリスティやクイーンといったミステリー黄金期の古典を彷彿とする。
 重厚で悲惨で残酷なものが多い昨今人気の北欧ミステリーに比べ、全体に明るく軽やかな雰囲気なのも読みやすさの秘訣だ。
 個人的な嗜好だが、英国が舞台なのもポイント高い。
 現代の英国社会の世相が垣間見えるのが興味深い。
 物語の中のホロヴィッツは、ホーソーンの元同僚であるメドウズ警部――ホームズものに出てくるレストレード警部にあたる役どころを担う――に、ホーソーンのゲイ嫌いの理由を尋ねる。
 メドウズ警部は「知らない」と言った後、次のように付け加える。

「きょうび、警察じゃ誰も自分の意見なんか口にしない。ゲイや黒人についてなにかうっかりしたことを言おうもんなら、その場で首になりかねんからな。このごろじゃもう、“マンパワー(労働力)”なんて言葉も、男女平等に配慮して言いかえなきゃならん。十年前なら、何かまずいことを口走っちまっても、ぴしりと引っぱたかれるくらいですんだ。それだけで、後を引くことはなかったんだ。だが、きょうび、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)は一介の警察官より重要ってわけさ」
 

 ソルティは、半分くらいで犯人が分かった。
 動機も推測できた。
 「損傷の子に会った、怖い」という、最初の被害者が残したダイイングメッセージの意味も見当ついた。(ソルティは英文学が好きなので)
 物語の最後の最後に明かされる、ホーソーンがホロヴィッツを自分のワトスン役として巻き込むために仕掛けた姑息なトリックも、早い段階で見抜けた。
 すなわち、途中から謎はなくなった。
 それでも、まったく飽きることなく楽しく読み続けられたというところに、かえってこの作家の筆力のほどを感じたのである。
 
 次は、『カササギ殺人事件』を借りよう。
 

 
おすすめ度 :★★★★ 

★★★★★ 
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● 笠智衆の水着姿 映画:『みかへりの塔』(清水宏監督)

1941年松竹
111分、白黒

 なんだか某宗教団体の機関紙のようなタイトルだが、「みかへりの塔」は実在する大阪府立の児童自立支援施設・修徳学院(明治41年創設)のシンボルとなっている鐘楼である。


みかへりの塔
現在のみかへりの塔
(全国児童自立支援施設協議会のホームページより)


 非行少年・少女を収容し感化善導をはかる目的で建てられた感化院は、その後、少年教護院(1933年)→教護院(1947年)と名称を変え、1998年の児童福祉法改正により児童自立支援施設と呼ばれるようになって現在に至っている。
 この映画は、少年教護院時代の修徳学院の3代目院長・熊野隆治と小説家・豊島与志雄の共著『みかへりの塔』を原作としたもので、実際の修徳学院をロケ地にしている。

 Googleで見ると、同校はJR関西本線・高井田駅(大阪府柏原市)近くにある。
 映画の中で汽笛を鳴らしながらたびたび登場する蒸気機関車は、関西本線のものだろう。
 やはり映画の中に登場する池も、高台の森の中に見える。
 学園や森の周囲は住宅街のようである。
 今現地に行けば、映画の中に記録された昔の風景とのギャップに驚くことだろう。


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修徳学院の風景(約80年前)


 親のいない子、親の手にあまる素行不良の子200名あまりが、山間の広々した地で共同生活を送っている。
 子供たちは男女別に数班に分けられる。
 各班は独立した家に住み、寝食を共にし、家事など生活の基本を身につける。
 そこに一人の寮母がつき、子供たちは彼女を「おかあさん」と呼んでいる。
 疑似家庭をつくっているのだ。
 子どもたちはそれぞれの「家」から学校に通い勉強し、将来社会に出て自活するため、衣類の縫製や家具づくりや農作業などを身につける。
 
 もちろん、大人しく収容されて規則に従っている子供たちではない。
 喧嘩や盗みや脱走は日常茶飯事。
 先生たちも「おかあさん」たちも並大抵でない苦労で、気の休まる時がない。
 一方、淋しがり屋で感情的に未発達なところのある子供たちの多くは、寝小便がなかなか抜けない。
 毎朝、布団を物干し竿にかけるシーンにはリアリティがある。
 
 こういった環境における様々なエピソードと喜怒哀楽がテンポよく描かれる。
 起伏ある広い敷地を所せましと走り回る子供たちの姿を見るのは楽しく、泣いたり拗ねたりシュンとしたりの子供たちの表情は可愛らしく、『二十四の瞳』不良版といった感じの先生や寮母と子供たちとの交流のさまを見るのも面白い。
 清水宏監督は、実に子供を撮るのがうまい。
 とくに、やんちゃな男の子の演技といったら、演出というより“現行犯”と言いたいような子供の天真爛漫ぶりと活力とをフィルムに焼き付けている。
 こういった無鉄砲で野放図な子供の姿を見なくなって久しい。(コロナの今は特に!)
 
 「おかあさん」役として三宅邦子が、先生役として笠智衆が出ている。
 この二人は小津安二郎作品――とりわけ『東京物語』での名演――の印象が強いのだが、この『みかへりの塔』における演技も素晴らしく、両人と清水監督との相性の良さを感じる。
 どちらも、もともと持っている“人としての地の良さ”が、不運な境涯にある少年少女を見守り育成するという恰好の役どころを得たことで、自然に表出されているのだろう。
 子供たちと水遊びをする笠智衆の水着姿は、笠ファンにとっては必見である!!


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意外と毛深い笠さんに驚き!


 清水監督の素晴らしいところは、作意を感じさせない絵づくり、演出にある。
 『風の中の子供たち』でも見られたように、観る者の情動を揺り動かして、「ここで泣かしてやる」、「ここで感動させてやる」といったわざとらしさ(よく言えば「親切さ」)がないのである。
 心理状況を説明するセリフや「さびしい」「うれしい」といった感情を表すセリフは、ほとんど削がれている。
 凡庸な演出家であったなら、役者たちの表情をアップにし、感動的なセリフを言わせ、涙腺を崩壊させるBGMを差しはさむであろう「ここぞ」と言うところで、それらを却下し、単に絵と音だけで、つまりカットつなぎだけで、人物の心の動きや感情を表現してしまう。
 その節度ある抑制は、観る者の目をして、画面そのものに集中せしめ、人間の生の営みの背景に潜む自然や事物の“途方もない美しさ”に気づかせしめる。
 
 この映画の中でそれが端的に表れているのは、二人の少年が脱走するシーンである。
 日暮れ時に施設から逃げ出し、池の浅瀬を渡った二人は、そこで「みかへりの塔」の鐘の音を耳にする。いつもの晩鐘である。
 すると、二人は向こう岸でそろって立ち止まる。
 無言で立ち尽くす二人。
 響く鐘の音。
 次の瞬間、二人はそろって池を渡って、こちら岸に戻ってくる。
 
 ただそれだけのシーンである。
 あえて解説すれば、脱走しようと思った少年たちは、聴きなれた「みかへりの塔」の晩鐘に夕飯を思いだして、条件反射のように自然と「家」に足を向けた。
 このシーンを清水監督は、カメラ固定のロングショットで長回しで撮っている。
 むろん、少年たちのセリフもなければ、表情のアップもない。
 BGMもない。いや、鐘の音のみBGMだ。

 
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 このシーンの“途方もない美しさ”は、少年たちの“本人自身も気づいていない”心の変化、つまり学院をいつのまにか自らの「家」と感じるようになっているという現象を、セリフでも表情でもBGMでもなく、少年たちの同時的な動きと、跳ね上がる水しぶきと、遠方にかすんで見える森と、深い鐘の音だけで、鮮やかに表現しきっているからである。
 そのとき、少年たちの心はそのまま、水面の照り返しであり、水しぶきであり、こんもりした森であり、鐘の音である。
 音声も含め画面に映るすべてが、表現になっている。
 これぞ映画の醍醐味。
 
 清水監督を知ったのは、最近一番の僥倖である。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 映画:『ザ・バニシング 消失』(ジョルジュ・シュルイツァー監督)

1988年オランダ、フランス共同制作
106分

 人間消失をテーマとする犯罪サスペンス。
 名匠スタンリー・キューブリックが「人生でいちばん怖いと思った映画」と評した、というDVDパッケージの宣伝文句に惹かれて借りてみた。
 
 車でフランス旅行中の若いオランダ人カップル。
 途中のドライブインで飲み物を買いに車を降りた女は、そのまま行方知れずとなる。
 残された男は、彼女の消息が気になって、歳月が立っても通常の生活に戻れず、メディアを利用するなどして必死に探し続けている。
 数年後、女を連れて行った犯人からと思われるメッセージが、男のもとに届くようになった。
  「女がどうなったのか知りたいのであれば、俺と一緒に来い」
 誘いに応じ、男は犯人の車の助手席に乗る。

 物語自体はシンプルで、女の“その後”をのぞけば取り立てて謎めいたところもないし、どんでん返しのような凝った仕掛けもない。
 犯人の顔や素性、犯行の手口も、早々に明らかにされる。
 レイプや暴力といった目を覆いたくなるような残酷シーンもない。
 全体に、淡々と静かなタッチで描かれている。
 なので、上記のキューブリックのコメントは、ちょっとオーバーな気がする。
 個人的には、よっぽど、キューブリック自身の『時計じかけのオレンジ』のほうが怖いと思う。

 ただし、エドガー・アラン・ポーのある有名な短編小説や、つのだじろうのオカルト漫画『うしろの百太郎』に出てくるあるエピソードを読んで、主人公が置かれた“その状態”に心底恐怖を覚える人であるならば、これにまさる恐怖はないだろう。
 ソルティも実は「●●恐怖症」の気があるので、この映画の結末はさすがに怖気をふるった。

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Dawn I'll never tellによるPixabayからの画像


 犯人は、良い妻と二人の娘を持ち、学校で高等数学を教えている、どこにでもいるような優しいフランスのパパである。
 その正体がサイコパスであることのギャップもまた、この映画が公開された88年にあっては衝撃的で、身も凍る「怖さ」を観客に与えた一因だったのかもしれない。
 90年公開の映画『羊たちの沈黙』の大ヒット以降、つまりハンニバル・レクター博士の華々しい登場以降、あるいは国内においては『黒い家』や『悪の教典』の貴志祐介デビュー以降、我々はずいぶんサイコパス慣れしてしまった。
 プロダクション・アイジーによるアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』などは、続編に次ぐ続編の人気シリーズだしな・・・・。
 みんな結構、サイコパスが好きなんだ。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『介護殺人 追いつめられた家族の告白』(毎日新聞大阪社会部取材班)

2019年新潮社より刊行
2016年新潮文庫

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 8年前介護施設に就職して、先輩職員に付いてはじめて認知症フロアに足を踏み入れたとき、
「自分はこんな人たちの世話ができるのだろうか?」
 とずいぶん不安になった。
 そのときは10人あまりの高齢者が、鍵や暗証番号で閉じ込められたフロアにいた。
  • 今がいつでここがどこだか分からない。
  • 訪れてくる息子や娘を他人と間違える。
  • ちょっと前に食事をとったことを忘れ、再度要求する。
  • 自分の部屋が分からず、他人の部屋に入ってそこで寝てしまう。
  • 歯磨きの仕方を忘れ、歯ブラシをポケットに入れて持ち運ぶ。
 ・・・・といったような、いわゆる認知症の“中核症状”は多かれ少なかれ誰にも見られた。
 そのこと自体は驚かなかったし、対応に困ることもなかった。
 がんぜない子供の相手をしていると思えば、可愛らしくもあった。
 だが、それだけですむ利用者ばかりでなかった。
  • 出口を探してフロアを一日中歩き回る。
  • 来訪者が来たタイミングにエレベータに乗り、外に出てしまう。
  • 他人の部屋に入って衣類をいじり、物を持っていってしまう。
  • 入浴や服薬や着替えを拒否する。
  • 失禁した自分の便をいじる。
  • 食べられない物品を口に入れる。
  • 大声や奇声を上げ続け、周囲を怯えさせる。
  • 他の利用者や職員に暴力を振るう。
  • 昼夜逆転して、夜間に動き回る。
 認知症の“周辺症状”と言われるこうした行動が手にあまった。
 それもフロアに一人だけでなく複数同時にいたときは、介護するこちらがパニックになり、ストレスで鬱になり、仕事を辞めたくなった。
 
 しかるに、ソルティは先輩職員の指導を離れ一人立ちしたあとは、どういうわけか認知症フロアに回されることが多かった。
 若い子より修羅場になれていると思われたのか、あるいは若い子に辞められたら困るのでツブシが効かないオヤジが貧乏くじを引かされたのか。
 三度の食事および就寝介助の時以外は、基本たった一人で10人から14人(満床時)の認知症患者を見なければならなかった。
 ずいぶん鍛えられたものである。

 上記の中核症状は認知症患者の脳の障害によるものなので、今の医学では薬などによって進行を遅らせることはできても、改善して治すことはできない。
 一方、周辺症状は患者の身体状態、周囲の環境、介護者の関わり方などに影響されるところが大きい。
 たとえば、徘徊の原因は便秘が4日続いていたことにあり、ナースが座薬を挿入し排便をうながしたら、すっかり落ち着いた――なんてこともよくあった。
 観察と推理、適切な医療介入、そして何より介護者の対応の仕方が大切なのだ。
 仕事を始めて一年くらいしてそのあたりが分かってくると、今度は“問題行動”の多い認知症の利用者をいかにして落ち着かせ、介護拒否をなくし、フロアを平和にしていくかに、やりがいや面白みを感じるようになった。
 「ソルティさんが入っているときはフロアが落ち着いているね」
 「この利用者は他の職員の言うことは聞かないけれど、ソルティさんの言うことなら聞くんだよね」
 なんて、他のスタッフに言われるのはまんざらでもなかった。
 入社時は動物園か精神科の入院病棟のように思えたフロアが、いつの間にか長閑な田園地帯のように思われ、「1年持てば御の字」と思っていた職場に6年以上も在籍していた。
 
 とは言うものの、ベテラン介護士やナースでもどうしても手におえない認知症患者はいる。
 家族やケアマネからの懇願を受けいったん施設で受け入れたものの、数晩あるいは一週間以内に「お引き取り」願うケースもままあった。
 お引き取り先は、主として精神科病院のことが多かった。
 
白ユリ

 
 女性利用者P子さんを思い出す。
 入所手続きを済ませた家族が帰った直後から、P子さんは出口を探してフロアを歩き回り、介護者の声掛けをいっさい受け付けなかった。
 どんどん表情が険しくなっていく。
 夕食を終えても、トイレ介助を許さず、パジャマに着替えることもなく、ずっと歩き回る。
 他の人の部屋に押し入り、驚いた部屋の主と喧嘩を始める。
 二人いる職員が他の利用者の就寝介助をしている隙に、ステーション(職員詰所)にある内線電話を見つけて110番してしまう。
 「私は悪者に誘拐されて閉じ込められている。助けて!」
 内線の110番は、施設の事務所につながっている。
 事情を知っている施設の事務員が出て、適当に話を合わせ、彼女をなだめてくれた。
 歩き回って疲れたのか大人しくなったP子さんは、気難しい顔をしたまま自分の部屋に行き、ベッドに横になった。
 安心した昼間の職員は帰った。

 真夜中、ふと目を醒ましたP子さん、暗闇で状況がかいもく分からず、パニックになった。
 またしてもフロアを歩き回る。
 一人シフトの夜勤職員はずっとついているわけにもいかず、しばらく放っておいた。 
 と、P子さんの目に入ったのが、フロアの目立たぬ壁にあった非常ベル(自動火災報知機)。
 中央のガラスを強く押した。

警報器
 
 全館に鳴り響く警報。
 驚き、慌てふためく各階の夜勤職員と入居者たち。
 施設の非常ベルは消防署と連動している。
 またたく間に施設は何台もの消防車に取り巻かれてしまった。
 混乱する施設の内と外。
 集まってきた不安そうな近所の人々。
 対応に追われる職員。
 そんななか、P子さんはいっこうに落ち着くことなく、ベルの音に起こされ部屋から出てきた他の入居者に襲いかかり、転倒させ、ケガさせてしまった。
 消防車が引くのと入れ違いに、救急車とパトカーがやって来た。
 事情を確かめにフロアまで上がってきた警官に、P子さんは一言。
 「今頃来ても遅いのよ!」

 ここまで来ると、施設で見るのは無理である。
 翌日、勝ち誇った顔のP子さんは、憔悴しきった夜勤職員らに見送られ、呼び出された家族とともに車で精神科病院へ向かった。
 ソルティは、あとから夜勤職員に一部始終を聞いたのだが、
 「もう自分が殺すしかないな・・・・」
 と去り際に家族は言っていたそうだ。


泣く天使

 
 本書では、副題通り、家族の介護に追いつめられた結果、殺害に走ってしまった人々の事例が掲載されている。
 介護保険施行後、おおむね2010~2015年に起こった事件を取り上げている。
 警察庁の統計によれば、2007~2014年の8年間に全国で起きた未遂を含む介護殺人は、371件にのぼるという。
 年平均46件、8日に1件のペースで起きている。
 加害者となった介護人と被害者となった要介護者との関係、要介護者の病状や必要な介護の程度、各家庭の生活事情、周囲のサポートの有無、殺害に至るまでの経緯などは、ケースごとに異なるので一概には言えないのであるが、ある程度の共通項は見ることができる。
  • 被害者は、認知症や精神・知的障害が多い。(身体的介護の軽重は関係ない)
  • 加害者は、犯行時、介護疲れで「うつ」や「不眠」が続いている。
  • 加害者は、責任感が強く、愛情深い人が多く、周囲に助けを求めるのが苦手。
  • 加害者となるのは、娘より息子、妻より夫が多い。つまり、女性より男性(7割)が多い。
 本書では、刑事事件となった様々なケースの経緯を、刑を終えた加害者本人へのインタビューや周囲で心配しながら二人を見守っていた人々(ご近所さん、民生委員、ケアマネ、ヘルパー、遠方に住む家族)の証言を中心にたどり、事件の背景となった要因を探っている。
 介護保険制度の不備や行政の杓子定規な対応、核家族化や地域コミュニティの希薄化、貧困問題や福祉の欠如など、いろいろな要因があるのは間違いない。
 が、本書を読んで意外に思ったのは、テレビの同種の事件報道から自然と持たされていた「周囲から見捨てられた老々介護の夫婦が絶望して心中」といった世の冷たさを知らしむるケースよりも、むしろ、加害者を含めた周囲の人々が「善意」で関わっていながらも、否応なしに事件が起こってしまったケースが多い点である。
 
 作家の重松清が解説でこう記している。
 
 本書のサブタイトルは〈追いつめられた家族の告白〉である。
 では、なにが家族を追いつめたのだろう?
 行政の冷たさか? 社会の無関心か? 医療の進歩によって「生きてしまう」超高齢化社会のジレンマなのか?
 どれも少しずつ正しい。けれど、やはり、最も大きなものは、家族愛なのではないか。まわりに迷惑をかけてはいけないという責任感なのではないか。
 
 家族を愛していなければ、もっと割り切って、自分一人で介護を背負い込まなくてもすむ。もっと身勝手に、逃げ出してしまうこともできる。そうすれば、家族を殺めてしまうという最悪の選択だけはしないでもすんだのかもしれない。
 
 ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』(2012)に残酷なまでに描かれているように、加害者となった介護者と被害者となった要介護者(たとえば、夫と妻)には、他の家族の成員をふくめ余人には決して知ることも侵すこともできない、長年積み上げてきた特別の(依存)関係がある。
 そこに他人が踏み込むことは、たとえ何らかのリスクを感じ取っていても、なかなか難しいところであろう。
 
 多くの経験者が口を酸っぱくして言うことがある。介護が始まったら、とにかく一人で抱え込まず、時には手を抜くことが大切だ、ということだ。

 他人の介護に仕事で関わる者として、また、そのうち始まるかもしれない実親の介護に息子として関わる者として、銘記しておきたい言葉である。
 と同時に、自分と親との関係のあり方を今のうちに見直しておかなければ・・・・。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ほすぴたる記その後23 高尾登頂(事故後丸1年)


 12月5日で、転落による左足踵骨の骨折後、丸1年になる。
 今さらであるが、月日の速さにギョッとする。
 
 この1年はおそらく(世界中の)誰にとっても “おかしな一年” だったろう。
 新型コロナウイルスに関する国内最初の報道は、2019年12月31日だったというから、まさに「コロナで始まりコロナで終わった一年」になってしまった。

 黒船来航時の江戸庶民の騒ぎもかくや、と思わせたダイヤモンドプリンセス号横浜着岸(2月3日)のニュースを、ソルティは抜糸手術のための2度目の入院中、病室のテレビで観た。
 退院後(2月中旬)にリハビリ通院しながら、「こんな田舎までよもやコロナも来るまい」と余裕をかましていたが、今や全国各地に感染は広がってしまった。
 ソルティの入院していた病院は、つい最近クラスター化した。
 世話になった看護師やリハビリ職員は大丈夫だろうか?
 
 社会的にはコロナの一年だったが、個人的には骨折に始まり、骨折により生活上の変化を余儀なくされ(身体介護の仕事をあきらめ事務系に転職した)、骨折と共に生きた一年であった。
 ウィズ骨折だ。
 手術後は、時の経過とリハビリにより日に日に可動域は広がって、痛むことも少なくなり、日常生活でできることがどんどん増えていった。
 コロナの第一波がやわらいだ6月からは、最寄りのスポーツ施設で水中ウォーキングを開始した。
 空いている平日の夜間帯を狙って、30分ほど歩き、15分ほど泳いでいる。

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 現在は、起床時に立ち上がって歩きはじめるのに難儀するのが一番のネック(足首だけに)。
 寝ている間に足が固まってしまうからだ。
 しばらくは外くるぶしの筋に痛みを覚えつつ、足を引きずって歩く。
 朝食を終え仕事に出かける頃には、痛みも消え、杖を持たずに普通に歩ける。
 駅の階段の上り下りも支障ない。(階段にはずいぶん注意するようになった)
 正坐も坐禅も組めるようになった。
 つま先立ちできるようになった。
 まだ走れないが、速足はできる。
 ケガする前と同レベルではないが、また、おそらくはどんなに頑張っても何らかの後遺症は残るだろうが、「一年後の予後良好」と言っていいのだろう。
 病院には感謝である。

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 10月末に我が檀家山たる高尾山に挑戦し、3合目あたりで挫折した。
 昨日、装備万端で再チャレンジし、ついに山頂(599m)まで登ることができた。
 感無量である。


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山頂から見た都心の風景

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 山頂ひろば
ケガの前なら90分で登れたところ、150分かかった
 
 前回、人混みの休日に行き、あとからコロナ感染不安に陥ったことの反省もあって、今回は平日に登った。
 人はまばらで、登り道でも山頂でもマスクをつける必要はまったく感じなかった。
 マスクを外し、思いっきり新鮮な大気を吸い込むことの気持ち良さったら!
 秋の陽射しに輝く紅葉もとても美しかった。


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天狗様よ、そのヤツデのうちわで
コロナを吹き払いください
 
 下山の途中に真言宗薬王院に寄り参拝、今年初めてのおみくじを引いた。
 大吉だった。
 有効期限はあと一ヶ月なのか・・・?
 宝くじでも買ってみようか。  


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 「あまりにも良すぎて位負をするほどの強い運です」
 ここまで良いくじは人生初めて
 
 下りにはまだ不安があるので、薬王院から先はリフトを使った。
 もう少し鍛えてからチャレンジする。
 下山後は、前回同様、麓の極楽湯でゆったり過ごした。(ここも空いていた)

 一日の歩行数は17000歩強。 
 趣味の山登りができるまで復活した。
 それ自体が「大吉」なのかも・・・。
 

 
 
 
 

● 映画:『あるスキャンダルの覚え書き』(リチャード・エアー監督)

2007年イギリス
98分

 イギリス出身のジュディ・デンチとオーストラリア出身のケイト・ブランシェット。
 25歳の年の差はあれど、どちらもオスカーに輝く、掛け値なしの名女優である。
 映画でエリザベス一世に扮したという共通点もある。
 この二人に、やはりイギリス出身の名脇役ビル・ナイがからむというのだから、期待するなというほうが無理。

 しかも、この映画は、実際にアメリカであった女教師メアリー・ケイ・ルトーノーによる“児童レイプ事件”をモデルとしている。( “  ” をつけたのは、ソルティはこれをレイプと言っていいのか疑問に思うからである)
 34歳のメアリー先生は、教え子である13歳の少年と恋愛関係に陥り、子どもを二人生んだ。
 90年代末に全米を揺るがすスキャンダルとなったこのニュースを、ソルティも何となく覚えている。
 逮捕され懲役刑に処せられたメアリーは、出所したあと、少年(そのときは無論成人していた)と結婚した。二人は愛を貫いたのだ。(2018年に離婚)
 今年の夏、世間がコロナ一色に染まっている中、メアリーは癌により58歳で亡くなった。
 ソルティは彼女の死のニュースを最近ネットで見たばかりであった。

 本作で、この女教師(本作ではシバという名前が与えられている)を演じるのは、もちろんジュディ・デンチでなくて、ケイト・ブランシェットである。
 思春期の少年が夢中になるのも無理はないと思う美しさと天真爛漫な魅力にあふれている。
 いや、それだけ説得力をもった見事な役作りができている。

 一方、ジュディが演じるのはシバの同僚のベテラン教師バーバラ。
 生徒たちにも同僚にも煙たがられている、頑固でお堅い孤独なオールド・ミスである。
 新任の美術教師としてやって来たシバに好意をもったバーバラは、シバの行動を観察し、自らの覚え書きに記していく。
 シバと生徒との許されぬ関係をたまたま目撃しショックを受けるが、その秘密をシバと自分との関係を深めるために利用しようと企み、あえて口を閉ざす。
 そう、バーバラはクローゼットなレズビアンなのである。

 この映画の真のテーマは、女教師の“少年レイプ事件”を描くことにはなくて、それをダシにしつつ、孤独な初老の女性の不器用な愛を描くことにある。
 したがって、主役はケイトではなくジュディであり、“あるスキャンダル”とは女教師と少年との恋愛&セックスではなくて、抑圧され歪曲したレズビアニズムである。

 深い情熱と高い教養の持ち主であるにもかかわらず、他人と良好な関係を築くことができないストーカー気質の年老いたレズビアン――という、なんとも難しい役を演じるジュディ・デンチがやはり素晴らしい。(ジュディ自身は男性と結婚して娘を生んでいる、おそらくはノンケ女性)
 自らの思い通りにならないシバに対する愛情が一転憎しみに変わるや、シバと少年との秘密を学校関係者に告げ口し、スキャンダルを巻き起こし、シバを苦境に陥れる。
 なんとも陰険でひねくれた、顔も心も醜い女である。

 しかるに、設定上は憎まれ役に違いないのだが、ジュディ・デンチが演じるとただの憎まれ役にはおさまらず、女ひとりが老いて生きることの悲しみと孤独と切なさが、画面を通してじわじわと伝わってくる。
 観る者は、新聞に顔写真がでかでかと載り家族崩壊したシバのこれからの幸せとともに、バーバラの幸せをも願わずにはいられなくなる。
 
 ケイト・ブランシェット然り、ジュディ・デンチ然り。
 名役者というものは、自らが演じる役を――それがどんなに卑劣な、どんなに醜い、どんなに不道徳なキャラであれ――愛するものなのだろう。
 その愛あればこそ、観る者にとっても愛おしいキャラになりうるのだ。


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ジュディ・デンチとケイト・ブランシェット



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

  
 
 
 

● ヘルパーの鏡 本:『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』(宇田川敬介著)

2020年飛鳥新社

 東日本大震災および津波による福島原発事故にまつわる〈怪談〉を集めたもの。
 震災前の不思議な予知現象の数々、震災後の被災地で頻発した心霊現象など、体験した本人に著者がじかに会って聞いた話や知人を介して聞いた証言などが掲載されている。


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 死者15,897名、行方不明者2,533名という大惨事。
 しかもそれが一瞬にして起こり、いくつもの町が海の藻屑と消え、それまでの平和な生活が断たれた。
 「こういった霊的現象はたくさんあっただろうなあ、あるだろうなあ」と当時から思ってはいたが、オカルティックなことだけに、直接被害に遭ったわけではない外部の人間があれこれ穿鑿するのははばかれる。
 あれから10年近い歳月を経て、ようやく表立って語られ始めたわけである。

 「作り話だから」とか「非科学的だから」と排除してもいいものではないように思います。幽霊譚が語られる背景や、話の中に込められた被災地の方々の心に思いをはせるべきではないでしょうか。

 と、「あとがき」で著者が述べているように、霊的現象に遭遇せざるを得ない精神的状況に追いやられている被災者や救援者の心をこそ想像すべきである。
 愛する者の突然の死を受け入れることの大変さ、住みなれた郷土やコミュニティの喪失からくる空虚や絶望や孤独、想像を絶する悲惨な現場で救援活動する人々が抱える心的外傷・・・・・。
 非日常にさらされ続けた人々が、日常世界を超えたところにある世界を垣間見たところで、なんら不思議なことはない。
 本書を読んでいると、「この世とあの世は地続きだ」という丹波哲郎の言葉が、まさに証明されている感を持つ。
 生きている者と死んでいる者との違いは、まんま、“生きているか死んでいるか”だけであって、人が抱く思いの様相はまったく変わらないのである。 

 震災前の日常生活の中であったら、現地のほとんどの大人たちに無視され、鼻で笑われ、あるいは怖れられ、忌避されたであろう幽霊譚が、震災後の非日常空間では、あたかも「あたりまえ」のことのように語られ、受け取られ、幽霊の存在を誰も疑っても怖がってもいないように見えるのが、非常に印象的である。
 亡くなったあとも死者は生者のそばにいて何ごとかを伝えたがっている、あるいは見守ってくれている――という、日本の庶民の中に昔からある「あの世観」は、今も決して無くなってはいないのだろう。
 それをもっとも教えてくれるエピソードをかいつまんで紹介する。

星空の飾り線


 震災後に問題となったことの一つに、仮設住宅での高齢者の孤独死があった。
 生まれ故郷からも地域のつながりからも隔離された土地に移転させられ、生きる気力を失う高齢者は少なくなかった。
 ある町の仮設住宅でおばあちゃんが亡くなった。
 誰も住んでいないはずの部屋から夜な夜な声や物音が聞こえる。
 町役場の職員が、おばあちゃんの介護をしていたおばちゃんヘルパーと連れ立って、確かめに行った。
 と、やはり部屋から声がする。
 見ると、布団を一枚敷いた上におばあちゃんが座っている。
 恐怖で腰を抜かし声も出せない職員をよそに、おばちゃんヘルパーはいつもの訪問どおりに、おばあちゃんに語りかける。
 「おばあちゃん、どうしたの?」

 おばあちゃんは、いつも身につけていた孫の作ってくれた膝掛けを探していたのであった。それが、他の遺品と一緒に倉庫に保管されなかったのが気になって、毎夜探しに出てきたのである。
 「膝掛けを探して持ってくるよ」というおばちゃんヘルパーの約束で、おばあちゃんは落ち着いて、消えていった。
 行政職員は、ヘルパーに問う。

「どうしてあんなことができたのですか」 
「仕方ないじゃない、相手は死んじゃってても、私の担当だったんだから。今まであれだけしてきたんだもの、仲良かったんだもの、何か言いたいことがあるから出てきているだけで、私たちに何か悪いことをしようとすることもないから」
「でも、お婆さんはもう死んでいるんですよ」
「生きているのよ。津波で死んだ人も、ここで死んだ人も、みんな、心の中だけじゃなくて、町のことが心配でここにいるんだよ。あんたみたいな若い役場の人が、早く街を元に戻してくれないと、お婆さんも他の人も心配であの世に行けないから、がんばんなさいよ」

 おばちゃんヘルパー、凄い。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● トロイの木馬 マンガ:『白い旗』(水木しげる作画)

1991年(株)コミックスより刊行
2010年講談社文庫

 表題作ほか『ブーゲンビル上空涙あり』、『田中頼三』、『特攻』を含む戦記マンガ。
 ラバウルで戦った水木自身の体験や戦死した知人の話、伝聞などがもとになっている。

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 コロナ渦でいろいろと不自由や不安を強いられる現在であるが、齢80を超えるソルティの母親がよく口にするのは、「戦争のときにくらべれば全然マシ」
 食べ物も着る物もなく、いつ何時やって来るか分からないB29による爆撃の恐怖にさらされた子供時代(母は横浜に住んでいた)を思えば、「どうってことない」
 そりゃ、そうだ。
 おまけに、今回のコロナ戦争は、どこか特定の国だけが被害を受けているわけでなしに、全世界が平等に戦渦に巻き込まれている。
 日本だけが、日本人だけが苦しんでいるわけではない。

 あまり大っぴらに言うと不謹慎のそしりを免れないが、「もしコロナがなかったら、日本は今どうなっていただろう?」と想像することがある。
 2020 TOKYOオリンピックが大々的に開催され、(熱中症による死者を多数出しながらも)それなりに成功し、インバウンド効果で経済は活性化し、安倍政権は乗りに乗っていたことだろう。
 「ニッポン、チャ・チャ・チャ」のファッショな空気に乗じて国民投票法は成立し、憲法9条改正は既定路線に入っていたであろう。
 安倍政権の存続を願う世論が形成され、自民党の党則が改正されて党首の任期が現行の3期9年から無期限となり、首相の任期制限がないこの国において安倍政権は10年目に入り、ますます巨大な権力を獲得していたことだろう。
 あたかも中国の習近平国家主席さながらに。
 日本は、日本会議の理想とするところの「戦争ができる美しい国」に向かって、どんどん変えられていったことであろう。
 
 それを思うと、「美しい国」に反対のソルティは、今回のコロナを「100%悪い奴」とは受け取れないのである。(もっとも、今後どうなるかわからないが)

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 それにしても、今回のコロナ戦争においては、強大な軍事力を有し対外的に強い国家ほど状況をうまくコントロールできている、とは言えないところが皮肉である。
 対外戦争に一度も敗けたことのないアメリカは、26万人をも超える死者を出している。(11/28現在)
 すでにベトナム戦争時の死者数5万8千人を上回り、太平洋戦争時の29万人を超えるのも時間の問題であろう。(一番死者数が多いのは南北戦争時の49万人)
 外敵への攻撃には無類の強さを誇る全米だが、内部に侵入した20 nm (ナノミクロン=0.000 000 02 mm)のウイルスにかくもコテンパンにやっつけられるとは!
 ウイルスってのはまさにトロイの木馬だ。
 国民を守りたいのなら、何が本当に必要かつ大切なのかをコロナは教えてくれる。

 しばらく、水木しげるを読んでいきたい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



 


● 岸田今日子という女優 映画:『地獄』(神代辰巳監督)

1979年東映
131分

 昭和・平成・令和と半世紀以上生きてきたソルティが、「日本社会から消え失せてしまったなあ」と思うものの一つは、エログロである。
 テレビからも映画からも、コミックや週刊誌からも、街頭からも日常会話からも、エロ(猥褻)とグロ(ゲテモノ趣味)はすっかり影を潜めたなあと思う。
 街はキレイになり、脱臭・滅菌志向が国民に行き渡り、コンビニからエロ本は消え、セクハラやパワハラに気を使う男たちは一応モラリストになり、体臭を失った若者は植物化・鉱物化・IT化し、人間関係もまた無機質で表面的なものになった。
 無“性”的で清潔――というのが、令和時代の理想的日本人であろう。
 (今、コロナがそれに拍車をかけている!)

 この映画が作られた昭和50年代、戦後のカストリ雑誌の興隆から続いてきたエログロ人気はすでに下降線にあったと思う。
 いわゆる猟奇趣味は、一部のマニアックな人々の嗜好になっていた。
 「明るく健全」が社会の建前として定着していた。
 が、この映画を観ると、昭和時代のエログロさに今さらながら驚嘆する。
 こんな凄い、PTAクレーム殺到、文部省検閲必死の映画が、メジャーの雄たる東映で制作され、一般公開されていたとは・・・・。
 なんとまあ、寛容な時代であったことか!
 なんとまあ、日本人は猥雑で卑俗であったことか!


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海外で公開されたときのポスター
タイトルはまんま INFERNO (地獄)


 日活ポルノの巨匠・神代辰巳(代表作『赫い髪の女』)のメガホン。
 主演に原田三枝子、共演に岸田今日子、田中邦衛、石橋凌、加藤嘉、林隆三の面々。
 主題歌は山崎ハコ。
 描かれるは、男女のドロドロした愛憎と怨念が渦巻く現世の生き地獄、および来世のほんものの地獄。
 この面子で、このテーマで、健全で清潔でまっとうなものなどできるはずがない。
 『仮面ライダー』で発揮された東映ならではのマンガ的特撮を含め、なんとも形容しがたい、強烈かつ奇天烈な怪作に仕上がっている。
 無類の面白さ!

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閻魔大王(金子信雄)と 茶吉尼天(天本英世)に裁かれるアキ(原田美枝子)


 当時19歳の原田美枝子は、美貌だが演技は素人レベル。
 が、文字通りヌードも辞さない体当たり根性は立派。
 
 その原田を食っているのが、日本が世界に誇る名女優にして怪女優・岸田今日子である。
 この人については、一度考えてみなければならないと思っていた。
 
 ソルティの中で最初にこの女優を意識したのは、山口百恵主演のTBSドラマ『赤い運命』である。
 百恵演じる薄幸の娘・直子の生き別れとなった母親役で出ていた。
「あの腕のホクロ、あれは確かに直子のしるし・・・・」とかいう大映ドラマならではのベタなセリフと過剰な演技が、あの分厚い唇とともに印象に刻まれた。中学生だった。

 それから、子供の頃、毎日曜欠かさず観ていたカルピスまんが劇場『ムーミン』の声がこの人であることを知って驚き、親しみが湧いた。
 
 次のインパクトは、76年の市川崑監督『犬神家の一族』の盲目の琴のお師匠さん役である。
 ほんのちょっとしか出番はないのに、金田一耕助役の石坂浩二や真犯人役の高峰三枝子に匹敵する存在感。それを上回るのは白マスク姿のスケキヨだけであった。
 
 83年フジテレビ系列で放映された『大奥』のナレーションで、岸田は一世を風靡した。
 あの鼻にかかった独特のふるえ声と、婀娜っぽいともストイックともつかぬ語り口。
 ナレーション役が画面に登場するキャラたち――演じるは昭和を代表する錚々たるスターたち――より話題となったのは、後にも先にもあれくらいではなかろうか。
 ソルティもよく岸田のマネをして家族を笑わせたものである。
 
 この頃、都内の映画館で岸田が出演する2本の映画を観た。
 安倍公房原作・勅使河原宏監督『砂の女』と、若尾文子主演・増村保造監督『卍(まんじ)』(どちらも1964年公開)である。
 女優としての真価のほどを見せつけられた。
 どんな役でもこなせるカメレオンのような役者なのだ。
 
 それからは映画に岸田が出てくるたびに嬉しくなり、自然と注目する存在となった。
 なかでも、『この子の七つのお祝いに』(1982年)で岩下志麻サマを完全に食った狂気の母親と、『八つ墓村』(1996年)で物語に不気味な雰囲気を付与する双子の老婆役が記憶に残っている。
 この『地獄』における岸田の演技は、それらを凌駕するインパクトがある。
 地獄にいる脱衣婆や閻魔様より怖い。
 
 残念なことに、ソルティは岸田の舞台を観なかった。
 彼女のマクベス夫人、およびテネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の列車』のブランチは、どんなに素晴らしかっただろう? 
 どちらもまさにピッタリの役である。
 岸田が文学座を脱退した(63年)ことを許さなかった杉村春子は、その後岸田と共演しなかったそうだが、なんともったいないことだろう。
 昭和最高の名女優二人が、テレビでも映画でも共演しなかったのは、誠に残念でたまらない。
 そう、杉村春子を継げるのは、太地喜和子でも、樹木希林でも、大竹しのぶでも、田中裕子でも、小川真由美でも、市原悦子でも、森光子でもなく、岸田今日子だったのではないかと思うのだ。


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 加藤嘉とともに血の池地獄の臼を回す岸田今日子


 冒頭の話題に戻る。
 令和日本から消えたように見えるエログロ。
 もちろん、消えてなどいなくて、インターネットの中に潜り込んだのだ。
 表面から駆除されて、表立って見えないところで一層狂気を増してはびこっている。
 ちょっとネットサーフィンすれば誰にでも分かることだ。
 
 エログロを許さぬ、行政のパンフレットの文句のような“きれいで健全な”社会。
 底に押し込められた魔物が、いつか表面に浮上して復讐するのではないかと危惧するソルティである。
 いや、コロナがそれなのか?
 
 

おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







 

● 笠智衆33歳 映画:『風の中の子供』(清水宏監督)

1937年松竹
86分、白黒

 原作は坪田譲治の児童文学。
 戦前の岡山を舞台に、大人社会のいざこざに翻弄される兄弟の姿を描く。

 清水宏監督(1903-1966)の作品を観るのは初めて。
 ウィキによると、
 
作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。

 子供たちを主人公とした本作は、まさに清水監督の特質が表れている作品と言えよう。
 テレビドラマにあるような、観る者の情動に訴えかけるドラマチックな演出(セリフや芝居、むろんBGM)は制限されている。
 それがかえって、登場人物たちの置かれている状況や心情を、観る者に汲み取らせる結果を生んでいる。
 観る者は、ただ漫然と受け身で画面を見るのではなく、一つ一つのカットを分析し状況を想像することで、物語の作り手として参与することになる。
 つまり、非常に“映画的”な映画なのだ。
 
 戦前の地方の町の豊かな自然、子どもたちが走り回る路地の佇まい、井戸や囲炉裏や縁側のある伝統的な家屋、街々を巡回する曲芸団、ふんどし一つで川遊びし木登りし喧嘩する子どもら。
 80年以上前の日本の風景がある。
 マスクをつけてスマホをいじりながら塾に通う今の子供たちとは雲泥の差。
 「昔はよかった」は自分にとってNGワードの一つであるが、子どもにとってどっちが幸せなのか、ふと思わざるを得ない。

 いやいや、戦争がないだけ今のほうがよいはずだ。


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主役・三平役の爆弾小僧


 三平兄弟の母親役の吉川満子、伯父さん役の坂本武が味がある。
 当時33歳の笠智衆が端役で出ているのも見逃せない。
 白い制服の似合うなかなかのイケメン巡査である。


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吉川満子と笠智衆



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
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● ゾンビが街にやって来る! 映画:『アナと世界の終わり』(ジョン・マクフェール監督)

2017年イギリス
98分

 原題は、Anna and the Apocalypse(アナと黙示録)

 キュートな女子高生アナを主人公とした、ポップでハートウォーミングな学園ミュージカル――といった風情。
 が、フタを開ければ、イギリス映画のお家芸たるゾンビもの!
 クリスマスを前に、ゾンビが街にやってくる!
 
 ゾンビものとしての新機軸は、ミュージカル仕立てにしたところ。
 教室で、食堂で、講堂で、街路で、ボウリング場で、はたまた血しぶき噴き上げる凄惨なゾンビとの戦いの場で、突如歌い踊り出す若者たちのパフォーマンスが楽しい。
 さすがに、ゾンビたちは歌も踊りもしないが・・・・・。
 
 アナ役のエラ・ハントは将来楽しみな正統派美少女。
 この一作でファンになった男子も多いことだろう。
 気の強そうなところは、往年の国民的美少女ゴクミ(後藤久美子)を思い出させる。


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アナ役のエラ・ハント
 

 音楽もいい。テンポもいい。脚本も演出もいい。
 加えて、さすがイギリスというべきか。随所に差し込まれるブラックジョークがたまらない。
 ゾンビに咬まれ仮死状態となったアナの今一つさえないボーイフレンド。彼の着ているクリスマスツリーデザインのセーターが不意に電飾で光り輝くシーンなど、なぜか知らず、感動で涙が出そうになった。
 
 ゾンビの発生原因は、製薬企業が極秘裏に作ったウイルスの漏出。
 そこから感染が広がった。
 制作陣もまさか3年後の世界がこんなふうになっているとは予想だにしなかったであろう。
 コロナ禍も歌って踊って吹き飛ばしたいところだが、それはもっともやってはいけないことだ。
 こうして家で映画を楽しむのが一番。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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     読み損、観て損、聴き損

 

● 最後の一撃 本:『まるで天使のような』(マーガレット・ミラー著)

1962年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『悪意の糸』、『狙った獣』、『殺す風』に続く、4冊目のマーガレット・ミラー。
 もうファンと言ってもいいかもしれない。 

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 タイトルは『ハムレット』に出てくる in action how like an angel 「天使のごとき振る舞い」というセリフから取られている。
 悩める男ハムレットが、「人間」を讃美するモノローグの中の一句である。
 人間の振る舞いを天使のそれに譬えているのだ。
 だから、これはミラーらしい皮肉、ブラックジョークなのだろう。
 本書の登場人物のなかには、殺人者も共犯者も探偵も含め、「天使のごとく」振舞っている人物など見当たらないからだ。
 もっとも、天使が実際どのように振舞うのか、クリスチャンでないソルティは知るところでなかった。

天使


 ミラーの作品の一番の特徴は、いったんページを開いたら、読み終えるまで落ち着かない、ってところにある。
 落ちつかないから、どうしても読み進めてしまう。
 途中で手を止めて、しおりを挟んで「また明日」とするのが難しい。
 文庫で400ページを超える本作も、「速くて二日」くらいのつもりで読み始めたのだが、あっという間に物語に引き込まれてしまい、食事とトイレ時以外は読み続け、結局、数時間で読み上げてしまった。

 『狙った獣』にとりわけ顕著だが、ミラー作品には読む者の精神を不安にさせる要素がある。
 読む者の意識 or 無意識にあるトラウマ、抑圧された欲望や怒り、コンプレックス、狂気、孤独感などの絃を弾き、共振させ、引っ張り出してしまう。
 だから、落ち着かなくなる。
 だから、半世紀以上前に書かれていて、使われているトリックはすでに古びていて、真犯人を見抜くのにたいした苦労や慧眼もいらず、どんでん返しや意外な犯人に驚かされることもなく(ソルティ探偵はトリックも犯人も途中で分かった)、推理小説としては「並」であるにもかかわらず、書店の棚にその名を見れば手に取ってしまうし、寝るのも忘れて読みふけってしまうのだ。

 本作ではしょっぱな、山奥で自給自足の共同生活を送る〈塔〉と呼ばれる新興宗教団体が登場する。
 社会を離れ過去を捨てた信者たちは、〈大師〉と呼ばれるカリスマリーダーのもと独特の教義とルールを守って、ストイックに信仰篤く暮らしている。
 もうこのあたりで、ソルティはミラーの手に捕まってしまった。
 いや、日本人なら誰でも、オウム真理教や統一教会や幸福の科学といった新興宗教団体を思い浮かべざるを得ないだろうし、農業や牧畜を基盤とする人里離れた活動体という点でヤマギシ会を連想する人も少なくないだろう。
 いまの社会のありように疑問や反発を抱きユートピアの創造を夢みる人々、あるいは社会の中で器用に生きることができず居場所を見つけられない人々、あるいは社会や人間関係に絶望し「悟り」や来世に望みをつなぐ人々・・・・そういった人々はこうした宗教団体に引き寄せられて信者となる。あるいはまた、徹底的に人間関係から退いて、“ひきこもり”となる。

 半世紀以上前のミラーの小説がきわめて“今日的”であるのは、現代人および現代社会に関する洞察の鋭さにある。
 ミラーの小説に出てくる人々は、どこか不器用で病んでいる。
 いや、ミラーが人間というものを「どこか不器用で病んでいる」ものと捉えている。
 自らを「どこか不器用で病んでいる」と思っている(たいがいの)読者は、そうした自分をミラーに見抜かれたような気になって落ち着かなくなり、徹夜の罠にはまってしまうのだろう。 

堕天使


 さて、本作には、解説を書いている我孫子武丸言うところの「最後の一撃」が仕掛けられている。
 小説のそれこそ最後の数行でどんでん返しがあって、物語の意味が大きく変わってしまうというものだ。
 安孫子は「最後の一撃」トリックの傑作として、いくつかの洋物ミステリーの名を上げてくれている。クイーン『フランス白粉の謎』、フレッド・カサック『殺人交叉点』、バリンジャー『赤毛の男の妻』など。
 ミステリーと言っていいものかどうか難しいところだが、ソルティは「最後の一撃」トリックの白眉は、本邦の女性作家・乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だと思う。


P.S. 本作にはちょっとした作者(あるいは訳者?)のミスがあるのではないか。犯人のある特徴に関する記述について矛盾が見られる。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● ジェラルディン・ペイジの怪演 映画:『白い肌の異常な夜』(ドン・シーゲル監督)


1971年アメリカ
105分

 ソフィア・コッポラ監督『ビガイルド 欲望のめざめ』(2018)と原作を同じくする約半世紀前の先行作品。
 ストーリーはほぼ同じだが、主要キャラクター設定が微妙に異なり、その違いが馬鹿にならない。

 たとえば、シーゲル版で登場する学園に住み込みで働いている黒人奴隷女性が、コッポラ版には登場しない。
 南北戦争中の南部の女子学校が舞台という設定を考えれば、シーゲル版のほうが自然でリアリティがあり、物語に奥行きも出る。
 コッポラは人種差別問題に触れたくなかったのかもしれない。

 また、最後まで生徒たちを守り抜く気丈なマーサ校長の人物設定もかなり違う。
 コッポラ版のマーサ(=ニコール・キッドマン)は、久しぶりに接する若く逞しくハンサムな脱走兵(=コリン・ファレル)を前に惑溺・葛藤しはするものの、基本的には美しく凛とした女校長であり続ける。
 一方、シーゲル版のマーサ(=ジェラルディン・ペイジ)は、重すぎる背徳を抱えたある種の精神障害者であり、脱走兵(=クリント・イーストウッド)に抱く感情も複雑極まりないものがある。
 このジェラルディン・ペイジの演技が圧巻。
 業に囚われ、性愛の天国と地獄を知った女を、絶妙な表情とたたずまいで演じきっている。
 これにはさしものニコール・キッドマンも形無し。

 どちらの作品がより原作に沿っているのかは知らないが、明らかにシーゲル版のほうが人間心理の奥まで抉り出し、より恐ろしく残酷な物語になっている。
 演出も、撮影も、役者の演技や貫禄も、官能性も、シーゲル版に軍配は上がる。


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脱走兵(イーストウッド)と女校長(ジェラルディン・ペイジ)
黒魔術の儀式のような背徳感あふれる
硬派のシーゲル&イーストウッドには珍しいシーンである


 コッポラ版では女校長の視点に同調して映画を観たソルティ。
 今回のシーゲル版では脱走兵の視点に同調していた。
 男だろうと女だろうと、性別に関係なく主役に同調できるところが、物語鑑賞者としての自分の強みかもしれない。
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
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● セロトニンの秘密 本:『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)

2007年佼成出版社
 
 井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し、瞑想を極めた(?)人。還俗して、現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で教鞭をとっている。
 有田秀穂(ひでほ)は、東大医学部卒業後、脳神経の研究に従事してきた科学者。瞑想や坐禅が脳神経に及ぼす影響を科学的手法で検証している。
 有田の研究に興味を持った井上が、実験の被験者として参加したことから、二人の関係が始まったようである。
 本書は、二人の対談をメインに、副題の通り、「脳生理学があかすブッダのサイセンス」を追究している。

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 修行者が瞑想で得られる様々な(神秘)体験・境地・智慧を科学的に解明することに対して、あるいは、悟りを単なる生理学用語に還元してしまうことに対して、不快な思いを抱く人もいるかもしれない。
「悟りはそんな単純なもんじゃない」
「なんでもかんでも科学で解明できると思うのは、唯物論者の傲りにほかならない」
「人間はそんな機械的なものではない」
といった声が聞こえてくる(空耳?)

 ソルティはそんなことはない。
 瞑想で体験することに何らかの科学的根拠があるのは当然だと思うし、悟りや禅定はある程度まで脳内現象で説明できるはず、と思っている。
 そこに、神秘的な何か――たとえば、プレアデスからの光線とか、守護霊のお導きとか、阿弥陀仏の慈悲とか、アセンデッド・マスターの計略とか、別次元にいるソウルグループの援助とか――を持ち出すほうが、むしろ抵抗を感じる。  
 というのも、ソルティは「悟りは人類の次なる進化の段階」と思っているからだ。 
 
 つまるところ、地球上の生き物の進化とは、脳の進化にほかならないと思う。小さな脳から大きな脳へ、単純な脳から複雑な脳へ、一つの脳から複数の脳へ。
 あるいは遺伝子の進化といってもよいのだろうが、生き物の基本的機能をもっとも強く規定するのが脳および脳の出す指令であることは否定できまい。遺伝子はその脳の形成に関わっている。
 だから、人類の脳が地球上の生き物の中でもっとも緻密で複雑であるものと仮定して、まだ人類に進化する余地が残されているとしたなら、それは「脱人類」へ向かっての脳のさらなる進化に違いないだろう。
 それが「悟り」なんじゃないか。
 (逆に言えば、この進化をやり損なったら人類は早晩、滅亡するんじゃないか)


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 本書で、有田は脳内にある“心に関係する”神経として、次の3つを上げている。
  1.  ドーパミン神経 ・・・・・・「快」に反応する神経。
  2.  ノルアドレナリン神経 ・・・「ストレス」に反応する神経。
  3.  セロトニン神経 ・・・・・・上の両者を制御できる神経。
 ドーパミンは、美味しいものを食べたり、セックスしたりすると分泌される。個体が生存し、種が存続するのに必要な食欲と性欲とにかかわる。これが過剰に出ると、欲望が高じ、依存性をもたらす。
 ノルアドレナリンは、副腎髄質から分泌されるアドレナリンと共に、闘争あるいは逃避反応を生じさせる。怒りや攻撃性や不安や恐怖を呼び起こす。
 セロトニンは、食欲や性欲を抑制する働きをもち、外からのストレスに対して反応しないという。上の二つの物質をコントロールし、精神を安定させる。

 これがあたかも仏教で言う「貪(むさぼり)」、「瞋(いかり)」、「痴(無知)」に相応するところが興味深い。欲と怒りをコントロールするセロトニンの働きは、「智慧」や「中道」を意味しているように見える。
 あるいは、本書でも示唆されているように、釈迦国の王子時代のブッダ(ドーパミン過剰期)と、苦行時代のブッダ(ノルアドレナリン過剰期)、そして悟ったあとのブッダ(セロトニン充足期)を暗喩しているようで面白い。

有田:ドーパミン神経という快の神経と、ストレスの神経のノルアドレナリン神経と、その両者を制御できるセロトニン神経の三つが、心の模様をつくっていると思われますが、この三者を比べたとき、それぞれの役割の違いだけではなく、重要なのはその神経が果たして鍛えられるかどうかということです。おそらくセロトニン神経だけが鍛えられるという事実に、ブッダも気づいたと思うのです。

 もちろん、ブッダは脳科学など知らなかったし、セロトニンの存在も知らなかった。
 ただ、自らを実験台として、「どうすれば欲と怒りを抑制できて、中道の状態が持続できるか」を発見したのであろう。
 発見とは、すなわち道諦であり、八正道であり、ヴィパッサナー瞑想である。

ウィマラ:宗教の怖さの一つに、トランス状態にもっていったりとか、泣かせたり、涙を流させることでマインドコントロールして、ある信念体系のなかに入れてカルト教団をつくっていったという歴史が一部にあります。その宗教体験はほとんどの場合、神秘体験が鍵を握ります。
 一方、ブッダの瞑想の特徴は、このセロトニンを鍛えていくことに深くつながっている、と言えます。つまり、ブッダの気づきの瞑想の特徴は、涙を流すという感覚あるいは自己溶解体験にもあてはまらない、トランスとエクスタティックな状態にも留まらないということ。その体験を一時的なものとして通過し、その体験自体を見守る、ずっと見続けていられる安定したバランスのいい「見守り」を育ててくれるのです。

 有田によれば、セロトニン神経を活性化させるのは、腹筋を使った呼吸、咀嚼、歩行などのリズム運動を“意識的に”継続することだという。同じ歩行でも、雑念があったり周囲に気が散ったりするような散歩ではダメだという。
 「今ここ」で起こっていることに対する“気づき”が大切なのだ。
 一方、セロトニン神経には自己制御機能があって、ある程度の量が分泌されるとそれ以上は出ないように、自動的に抑制回路が働き出して分泌を減少させる。
 つまり、セロトニンによる効果は一時的である。
 この自己制御機能を鈍化させ、脳内回路を変えるためには、長期間の持続的かつ意識的なリズム運動が必要だという。
 それがセロトニン神経を鍛える、つまり修行の意味というわけだ。

 瞑想修行が精神を安定させ、ひとを幸福にすることの科学的根拠を示す本として、一読の価値がある。

  


おすすめ度 : ★★★★

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● ダメ男と尽くし女 映画:『夫婦善哉』(豊田四郎監督)

1955年東宝
121分、白黒

 昭和初期の大阪を舞台とする人情ドラマ。
 船場の化粧品問屋のボンボン育ちのダメ男・柳吉(=森繁久彌)と、下町の芸者あがりで陽気でしっかり者の女・蝶子(=淡島千景)の切っても切れない関係を描く。
 当時の船場問屋の風景、狭い路地の入り組む法善寺界隈、難波や曾根崎新地でのお座敷遊びなど、戦前の大阪の風俗ドラマとしても楽しめる。

 柳吉は二枚目ではないが、女性がほうっておけないような魅力がある。外で強がっていても、飼い主の前では平気で腹を見せて寝転ぶドラ猫のような魅力というか。
 それはそのまま役者としての森繁の魅力に通じているようである。
 どうしようもないダメ男なのに、憎めない。
 蝶子もまた、淡島千景その人をモデルにしたかのようなキャラで、役柄と演者がぴったり重なっている。といって、素顔の千景がどんな人なのか知らないが・・・・・。
 あくまでイメージである。
 二人のコンビネーションが凹凸しっくりなじんで、本当の夫婦(内縁だが)のように見える。

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森繁久彌と淡島千景


 切っても切れない「ダメ男と尽くし女」。
 現代人の視点からすれば、この男女関係は、成瀬巳喜男『浮雲』の主役の二人(高峰秀子と森雅之)同様、「共依存」と定義されてしまうところであろう。
 戦後生まれの、とりわけフェミニズムの洗礼を受けた人間が見たら、ダメ男に尽くし続けて自分の人生を棒に振る蝶子のありように苛立つかもしれない。

 ソルティも、浪花節的人情ドラマ(=演歌の世界)が苦手なので、こういった映画というか関係は避けてきた。
 が一方、自立した近代的な男女(あるいは男男でも女女でも)が、互いの世界観をぶつけ合い駆け引きする米国TVドラマに見るような関係も、なんだか疲れる。
 結局、本人たちが幸せならば、周りはとやかく言うことはない。
 (それが、眞子内親王の結婚問題に対するソルティの気持ちである。30年近く不自由な暮らしに耐えてきたのだから、持参金くらいつけてあげたらいい)

 文芸映画の巨匠・豊田四郎の作品を観るのはこれが初めて。
 岸恵子主演の『雪国』、岡田茉莉子がお岩に扮した『四谷怪談』、同じ森繁×淡島コンビによる『花のれん』、芥川龍之介原作の『地獄変』など、観たいものが結構ある。



おすすめ度 : ★★★

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