ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 最後の一撃 本:『まるで天使のような』(マーガレット・ミラー著)

1962年原著刊行
2015年創元推理文庫

 『悪意の糸』、『狙った獣』、『殺す風』に続く、4冊目のマーガレット・ミラー。
 もうファンと言ってもいいかもしれない。 

IMG_20201123_114948


 タイトルは『ハムレット』に出てくる in action how like an angel 「天使のごとき振る舞い」というセリフから取られている。
 悩める男ハムレットが、「人間」を讃美するモノローグの中の一句である。
 人間の振る舞いを天使のそれに譬えているのだ。
 だから、これはミラーらしい皮肉、ブラックジョークなのだろう。
 本書の登場人物のなかには、殺人者も共犯者も探偵も含め、「天使のごとく」振舞っている人物など見当たらないからだ。
 もっとも、天使が実際どのように振舞うのか、クリスチャンでないソルティは知るところでなかった。

天使


 ミラーの作品の一番の特徴は、いったんページを開いたら、読み終えるまで落ち着かない、ってところにある。
 落ちつかないから、どうしても読み進めてしまう。
 途中で手を止めて、しおりを挟んで「また明日」とするのが難しい。
 文庫で400ページを超える本作も、「速くて二日」くらいのつもりで読み始めたのだが、あっという間に物語に引き込まれてしまい、食事とトイレ時以外は読み続け、結局、数時間で読み上げてしまった。

 『狙った獣』にとりわけ顕著だが、ミラー作品には読む者の精神を不安にさせる要素がある。
 読む者の意識 or 無意識にあるトラウマ、抑圧された欲望や怒り、コンプレックス、狂気、孤独感などの絃を弾き、共振させ、引っ張り出してしまう。
 だから、落ち着かなくなる。
 だから、半世紀以上前に書かれていて、使われているトリックはすでに古びていて、真犯人を見抜くのにたいした苦労や慧眼もいらず、どんでん返しや意外な犯人に驚かされることもなく(ソルティ探偵はトリックも犯人も途中で分かった)、推理小説としては「並」であるにもかかわらず、書店の棚にその名を見れば手に取ってしまうし、寝るのも忘れて読みふけってしまうのだ。

 本作ではしょっぱな、山奥で自給自足の共同生活を送る〈塔〉と呼ばれる新興宗教団体が登場する。
 社会を離れ過去を捨てた信者たちは、〈大師〉と呼ばれるカリスマリーダーのもと独特の教義とルールを守って、ストイックに信仰篤く暮らしている。
 もうこのあたりで、ソルティはミラーの手に捕まってしまった。
 いや、日本人なら誰でも、オウム真理教や統一教会や幸福の科学といった新興宗教団体を思い浮かべざるを得ないだろうし、農業や牧畜を基盤とする人里離れた活動体という点でヤマギシ会を連想する人も少なくないだろう。
 いまの社会のありように疑問や反発を抱きユートピアの創造を夢みる人々、あるいは社会の中で器用に生きることができず居場所を見つけられない人々、あるいは社会や人間関係に絶望し「悟り」や来世に望みをつなぐ人々・・・・そういった人々はこうした宗教団体に引き寄せられて信者となる。あるいはまた、徹底的に人間関係から退いて、“ひきこもり”となる。

 半世紀以上前のミラーの小説がきわめて“今日的”であるのは、現代人および現代社会に関する洞察の鋭さにある。
 ミラーの小説に出てくる人々は、どこか不器用で病んでいる。
 いや、ミラーが人間というものを「どこか不器用で病んでいる」ものと捉えている。
 自らを「どこか不器用で病んでいる」と思っている(たいがいの)読者は、そうした自分をミラーに見抜かれたような気になって落ち着かなくなり、徹夜の罠にはまってしまうのだろう。 

堕天使


 さて、本作には、解説を書いている我孫子武丸言うところの「最後の一撃」が仕掛けられている。
 小説のそれこそ最後の数行でどんでん返しがあって、物語の意味が大きく変わってしまうというものだ。
 安孫子は「最後の一撃」トリックの傑作として、いくつかの洋物ミステリーの名を上げてくれている。クイーン『フランス白粉の謎』、フレッド・カサック『殺人交叉点』、バリンジャー『赤毛の男の妻』など。
 ミステリーと言っていいものかどうか難しいところだが、ソルティは「最後の一撃」トリックの白眉は、本邦の女性作家・乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だと思う。


P.S. 本作にはちょっとした作者(あるいは訳者?)のミスがあるのではないか。犯人のある特徴に関する記述について矛盾が見られる。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● ジェラルディン・ペイジの怪演 映画:『白い肌の異常な夜』(ドン・シーゲル監督)


1971年アメリカ
105分

 ソフィア・コッポラ監督『ビガイルド 欲望のめざめ』(2018)と原作を同じくする約半世紀前の先行作品。
 ストーリーはほぼ同じだが、主要キャラクター設定が微妙に異なり、その違いが馬鹿にならない。

 たとえば、シーゲル版で登場する学園に住み込みで働いている黒人奴隷女性が、コッポラ版には登場しない。
 南北戦争中の南部の女子学校が舞台という設定を考えれば、シーゲル版のほうが自然でリアリティがあり、物語に奥行きも出る。
 コッポラは人種差別問題に触れたくなかったのかもしれない。

 また、最後まで生徒たちを守り抜く気丈なマーサ校長の人物設定もかなり違う。
 コッポラ版のマーサ(=ニコール・キッドマン)は、久しぶりに接する若く逞しくハンサムな脱走兵(=コリン・ファレル)を前に惑溺・葛藤しはするものの、基本的には美しく凛とした女校長であり続ける。
 一方、シーゲル版のマーサ(=ジェラルディン・ペイジ)は、重すぎる背徳を抱えたある種の精神障害者であり、脱走兵(=クリント・イーストウッド)に抱く感情も複雑極まりないものがある。
 このジェラルディン・ペイジの演技が圧巻。
 業に囚われ、性愛の天国と地獄を知った女を、絶妙な表情とたたずまいで演じきっている。
 これにはさしものニコール・キッドマンも形無し。

 どちらの作品がより原作に沿っているのかは知らないが、明らかにシーゲル版のほうが人間心理の奥まで抉り出し、より恐ろしく残酷な物語になっている。
 演出も、撮影も、役者の演技や貫禄も、官能性も、シーゲル版に軍配は上がる。


IMG_20201121_181801
脱走兵(イーストウッド)と女校長(ジェラルディン・ペイジ)
黒魔術の儀式のような背徳感あふれる
硬派のシーゲル&イーストウッドには珍しいシーンである


 コッポラ版では女校長の視点に同調して映画を観たソルティ。
 今回のシーゲル版では脱走兵の視点に同調していた。
 男だろうと女だろうと、性別に関係なく主役に同調できるところが、物語鑑賞者としての自分の強みかもしれない。
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● セロトニンの秘密 本:『瞑想脳を拓く』(井上ウィマラ、有田秀穂共著)

2007年佼成出版社
 
 井上ウィマラは、曹洞宗とミャンマーのテーラワーダ仏教で出家し、瞑想を極めた(?)人。還俗して、現在は高野山大学スピリチュアルケア学科で教鞭をとっている。
 有田秀穂(ひでほ)は、東大医学部卒業後、脳神経の研究に従事してきた科学者。瞑想や坐禅が脳神経に及ぼす影響を科学的手法で検証している。
 有田の研究に興味を持った井上が、実験の被験者として参加したことから、二人の関係が始まったようである。
 本書は、二人の対談をメインに、副題の通り、「脳生理学があかすブッダのサイセンス」を追究している。

IMG_20201119_211252


 修行者が瞑想で得られる様々な(神秘)体験・境地・智慧を科学的に解明することに対して、あるいは、悟りを単なる生理学用語に還元してしまうことに対して、不快な思いを抱く人もいるかもしれない。
「悟りはそんな単純なもんじゃない」
「なんでもかんでも科学で解明できると思うのは、唯物論者の傲りにほかならない」
「人間はそんな機械的なものではない」
といった声が聞こえてくる(空耳?)

 ソルティはそんなことはない。
 瞑想で体験することに何らかの科学的根拠があるのは当然だと思うし、悟りや禅定はある程度まで脳内現象で説明できるはず、と思っている。
 そこに、神秘的な何か――たとえば、プレアデスからの光線とか、守護霊のお導きとか、阿弥陀仏の慈悲とか、アセンデッド・マスターの計略とか、別次元にいるソウルグループの援助とか――を持ち出すほうが、むしろ抵抗を感じる。  
 というのも、ソルティは「悟りは人類の次なる進化の段階」と思っているからだ。 
 
 つまるところ、地球上の生き物の進化とは、脳の進化にほかならないと思う。小さな脳から大きな脳へ、単純な脳から複雑な脳へ、一つの脳から複数の脳へ。
 あるいは遺伝子の進化といってもよいのだろうが、生き物の基本的機能をもっとも強く規定するのが脳および脳の出す指令であることは否定できまい。遺伝子はその脳の形成に関わっている。
 だから、人類の脳が地球上の生き物の中でもっとも緻密で複雑であるものと仮定して、まだ人類に進化する余地が残されているとしたなら、それは「脱人類」へ向かっての脳のさらなる進化に違いないだろう。
 それが「悟り」なんじゃないか。
 (逆に言えば、この進化をやり損なったら人類は早晩、滅亡するんじゃないか)


evolution-3885331_1920
 
 
 
 本書で、有田は脳内にある“心に関係する”神経として、次の3つを上げている。
  1.  ドーパミン神経 ・・・・・・「快」に反応する神経。
  2.  ノルアドレナリン神経 ・・・「ストレス」に反応する神経。
  3.  セロトニン神経 ・・・・・・上の両者を制御できる神経。
 ドーパミンは、美味しいものを食べたり、セックスしたりすると分泌される。個体が生存し、種が存続するのに必要な食欲と性欲とにかかわる。これが過剰に出ると、欲望が高じ、依存性をもたらす。
 ノルアドレナリンは、副腎髄質から分泌されるアドレナリンと共に、闘争あるいは逃避反応を生じさせる。怒りや攻撃性や不安や恐怖を呼び起こす。
 セロトニンは、食欲や性欲を抑制する働きをもち、外からのストレスに対して反応しないという。上の二つの物質をコントロールし、精神を安定させる。

 これがあたかも仏教で言う「貪(むさぼり)」、「瞋(いかり)」、「痴(無知)」に相応するところが興味深い。欲と怒りをコントロールするセロトニンの働きは、「智慧」や「中道」を意味しているように見える。
 あるいは、本書でも示唆されているように、釈迦国の王子時代のブッダ(ドーパミン過剰期)と、苦行時代のブッダ(ノルアドレナリン過剰期)、そして悟ったあとのブッダ(セロトニン充足期)を暗喩しているようで面白い。

有田:ドーパミン神経という快の神経と、ストレスの神経のノルアドレナリン神経と、その両者を制御できるセロトニン神経の三つが、心の模様をつくっていると思われますが、この三者を比べたとき、それぞれの役割の違いだけではなく、重要なのはその神経が果たして鍛えられるかどうかということです。おそらくセロトニン神経だけが鍛えられるという事実に、ブッダも気づいたと思うのです。

 もちろん、ブッダは脳科学など知らなかったし、セロトニンの存在も知らなかった。
 ただ、自らを実験台として、「どうすれば欲と怒りを抑制できて、中道の状態が持続できるか」を発見したのであろう。
 発見とは、すなわち道諦であり、八正道であり、ヴィパッサナー瞑想である。

ウィマラ:宗教の怖さの一つに、トランス状態にもっていったりとか、泣かせたり、涙を流させることでマインドコントロールして、ある信念体系のなかに入れてカルト教団をつくっていったという歴史が一部にあります。その宗教体験はほとんどの場合、神秘体験が鍵を握ります。
 一方、ブッダの瞑想の特徴は、このセロトニンを鍛えていくことに深くつながっている、と言えます。つまり、ブッダの気づきの瞑想の特徴は、涙を流すという感覚あるいは自己溶解体験にもあてはまらない、トランスとエクスタティックな状態にも留まらないということ。その体験を一時的なものとして通過し、その体験自体を見守る、ずっと見続けていられる安定したバランスのいい「見守り」を育ててくれるのです。

 有田によれば、セロトニン神経を活性化させるのは、腹筋を使った呼吸、咀嚼、歩行などのリズム運動を“意識的に”継続することだという。同じ歩行でも、雑念があったり周囲に気が散ったりするような散歩ではダメだという。
 「今ここ」で起こっていることに対する“気づき”が大切なのだ。
 一方、セロトニン神経には自己制御機能があって、ある程度の量が分泌されるとそれ以上は出ないように、自動的に抑制回路が働き出して分泌を減少させる。
 つまり、セロトニンによる効果は一時的である。
 この自己制御機能を鈍化させ、脳内回路を変えるためには、長期間の持続的かつ意識的なリズム運動が必要だという。
 それがセロトニン神経を鍛える、つまり修行の意味というわけだ。

 瞑想修行が精神を安定させ、ひとを幸福にすることの科学的根拠を示す本として、一読の価値がある。

  


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● ダメ男と尽くし女 映画:『夫婦善哉』(豊田四郎監督)

1955年東宝
121分、白黒

 昭和初期の大阪を舞台とする人情ドラマ。
 船場の化粧品問屋のボンボン育ちのダメ男・柳吉(=森繁久彌)と、下町の芸者あがりで陽気でしっかり者の女・蝶子(=淡島千景)の切っても切れない関係を描く。
 当時の船場問屋の風景、狭い路地の入り組む法善寺界隈、難波や曾根崎新地でのお座敷遊びなど、戦前の大阪の風俗ドラマとしても楽しめる。

 柳吉は二枚目ではないが、女性がほうっておけないような魅力がある。外で強がっていても、飼い主の前では平気で腹を見せて寝転ぶドラ猫のような魅力というか。
 それはそのまま役者としての森繁の魅力に通じているようである。
 どうしようもないダメ男なのに、憎めない。
 蝶子もまた、淡島千景その人をモデルにしたかのようなキャラで、役柄と演者がぴったり重なっている。といって、素顔の千景がどんな人なのか知らないが・・・・・。
 あくまでイメージである。
 二人のコンビネーションが凹凸しっくりなじんで、本当の夫婦(内縁だが)のように見える。

IMG_20201119_151937
森繁久彌と淡島千景


 切っても切れない「ダメ男と尽くし女」。
 現代人の視点からすれば、この男女関係は、成瀬巳喜男『浮雲』の主役の二人(高峰秀子と森雅之)同様、「共依存」と定義されてしまうところであろう。
 戦後生まれの、とりわけフェミニズムの洗礼を受けた人間が見たら、ダメ男に尽くし続けて自分の人生を棒に振る蝶子のありように苛立つかもしれない。

 ソルティも、浪花節的人情ドラマ(=演歌の世界)が苦手なので、こういった映画というか関係は避けてきた。
 が一方、自立した近代的な男女(あるいは男男でも女女でも)が、互いの世界観をぶつけ合い駆け引きする米国TVドラマに見るような関係も、なんだか疲れる。
 結局、本人たちが幸せならば、周りはとやかく言うことはない。
 (それが、眞子内親王の結婚問題に対するソルティの気持ちである。30年近く不自由な暮らしに耐えてきたのだから、持参金くらいつけてあげたらいい)

 文芸映画の巨匠・豊田四郎の作品を観るのはこれが初めて。
 岸恵子主演の『雪国』、岡田茉莉子がお岩に扮した『四谷怪談』、同じ森繁×淡島コンビによる『花のれん』、芥川龍之介原作の『地獄変』など、観たいものが結構ある。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


●  Vic553-delta の謎 本:『死体絵画』(アストリット・パブロッタ著)

2004年原著刊行
2006年講談社文庫

IMG_20201117_095118


 ドイツの女性作家によるミステリー。
 有能で感受性豊かな30代の女性警部イナを主人公とするシリーズ3作目で、ドイツ・ミステリー大賞を受賞した。
 前2作は邦訳されていないようだ。

 ホームレス連続殺人の犯人を追うイナは、被害者の共通項として、彼らとテレビの犯罪報道番組の人気女性キャスター・デニーゼとの関係を知る。デニーゼは精神病院に入院していた過去があり、その頃からつきあっているエリートの恋人がいた。一方、デニーゼはストーカー被害にもあっていた。
 第一の被害者が残した Vic553-delta というメモの謎は?
 そして、殺されたホームレスたちにグロテスクな化粧がほどこされていた理由は?

 580ページという長編だが、テンポが良く(次々と被害者が増えていく)、謎の提示もうまく、デニーゼのような魅力あるキャラクター(森博嗣ミステリーに出てくる天才プログラマー・真賀田四季を思わせる)が登場するので、ドイツ人の名前に慣れたのちは、面白く、二日たらずで読めた。
 そのおかげで寝不足になった。

 なによりグロテスクなのは真相である。
 いつだって、個人の犯罪より企業の犯罪、企業の犯罪より国家の犯罪のほうが恐ろしい。
 
 

おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損







● 本:『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著)

1854年刊行
1998年宝島社文庫(真崎義博訳)

 Bライフ修験道に関する本を読むなど、最近、“森(山)の生活”への憧れが募っているソルティである。 
 と来れば、むろん、この古典を手にするのも時間の問題であった。

IMG_20201024_105059


 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)は、1845年に故郷マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン湖畔の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月送った。その回想録が『ウォールデン 森の生活』である。 
 本書は、自然の中での自給自足のBライフを夢みる人々の、持続可能性ある社会を唱えロハスを実践する人々の、そして騒々しい都会やせわしない日常やメンドクサイ人間関係から離脱したい人々の、バイブルである。
 ただし、ソロー自身は、人生や生活から逃避するつもりで森へ入ったのではなかった。
 こう言っている。

ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。生活といえない人生など生きたくなかった。


 なるべく人工的なものを排した根源的な生活、文字通り“地に足の着いた”生活を送りたかったのである。
 当然、電気はない。水道もない。暖房は薪ストーブ。森の動物を狩り、湖の魚を獲り、小さな畑で豆やトウモロコシやジャガイモをつくり、村人に売って最低限必要な日常品を購入する。
 静寂と孤独とありあまる時間の中に身をおいて、いろいろなことを思索し、文を書く。
 そんな生活を2年以上送ったのである。

ソローの小屋の絵
妹ソフィアが描いたソローの小屋


 森の生活の中から生まれたソローの思想が書き留められている前半が面白い。
 後半は、森の生活の情景描写(自然や動物の観察など)が中心で、読み物としてはやや退屈である。

 心を打ったソローの言葉をいくつか引用する。

 世間の評判というものは、ぼくら自身の個人的な意見にくらべたら、ひ弱な暴君だ。人の運命を決めるもの、いやむしろそれを示すもの、それは自分が自分をどう思っているかということだ。

 自分の生活に敬意を払い、変化の可能性を拒否して生きてゆくことを、ぼくらは徹底的に心の底から強要されているのだ。これが唯一のやり方さ、とぼくらは言う。けれど、じっさいは、ひとつの円の中心から無数の半径がとれるように、無数のやり方があるのだ。あらゆる変化は見る目には奇蹟だけれど、それは刻一刻と起きている奇蹟なのだ。

 ぼくらは、いったい何にいちばん近く住みたいと思っているのだろう? 食料品店とか、ビーコン・ヒルとか、いちばん人が集まるファイヴ・ポインツなどではなく、生命の永遠の源の近くだろう。そこは、ちょうど水のそばにあるヤナギの木がその方向に根をのばすのと同じように、ぼくらの経験から、生命がそこから流れ出すということを知った場所なのだ。

 自分の生活を簡素にするにつれ、宇宙の法則から複雑さが消えてゆき、孤独が孤独でなく、貧しさが貧しさでなく、弱さが弱さでなくなるだろう。

 なぜぼくらはそれほど成功を急ぎ、それほど必死に企てをしなければならないのだろう? 人が自分の仲間と歩調を合わせていないとすれば、それは、たぶん仲間とは別のドラマーのリズムを聞いているからだ。どんなリズムのものであれ、どんな遠くから聞こえてくるものであっても、自分に聞こえる音楽に合わせて歩けばいいのだ。
 

 2年2か月の森の生活を経て、ソローは社会に帰還する。
 こう言っている。

 ぼくは、森へ入ったのと同じように、それなりの理由があって森をあとにした。たぶん、ぼくには生きるべき人生がもっとあって、それ以上の時間を森で費やすことができなかったからだと思う。

 
 その後は特に定職に就くこともなく、様々な賃仕事をしながら、執筆や講演や奴隷解放運動に携わった。
 ソローは、世捨て人でも、隠者でも、ひきこもりでもなかった。
 その点は誤解してはなるまい。


森の中の池
注:ウォールデン湖ではありません


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 古びるものと変わらないもの 映画:『BOYS ボーイズ』(ミシャ・カンプ監督)

2014年オランダ
80分

 オランダでTV映画として制作され、放映後に大反響を巻き起こし、急遽劇場公開、またたく間に世界展開となった“ボーイズラブ”もの。
 思春期の少年のひと夏の恋の経験が、一編の美しい詩のように、高い完成度で描かれている。
 自然あふれる田舎町の瑞々しい風景、きらめく陽光と水しぶき、丁寧な心理描写、俯瞰やアオリ(仰角)や逆立ち映像などを効果的に使った演出の冴え、適度な長さ(TV映画として作られた恩恵か)。
 BL映画の古典たり得る傑作である。

IMG_20201115_092913


 この映画と、より最近(2019年)日本で制作・上映されたLGBT映画『アスリート』をくらべたときに、時の経過により「古びるもの」と「変わらないもの」についての考察を試みざるを得ない。
 どちらも、主人公の男(少年)が、自らの中に呼び覚まされた同性に対する恋心に困惑し、抵抗し、葛藤し、逡巡しながら受け入れていく、という点では変わらない。
 相手が同性だろうが異性だろうが、人が人を好きになるという感情や、それに付随して起こるさまざまな思いは同じである。また、世の中では多かれ少なかれ“異端視”される同性愛を、自らのものとして受け入れていく困難も、洋の東西問わず、同じである。
 こういった感情の部分は古びない。
 
 一方、登場人物が抱えるそうした感情をどう表現していくかという段階で、陳腐になったり、旧態依然であったり、斬新であったり、新しい価値観を世に送ることになったり、という違いが生じてくる。
 つまり、素材は同じでも調理法が違えば、出来上がった料理はまったく違うものになる。
 調理法とは、創作者(主として監督)の感性、世界観、価値観、人間観、思想性、世の中との距離の取り方などの反映であり、映画の場合、具体的には脚本や演出にあらわれる。
  
 この映画を「ボーイズラブもの」とくくってしまうのにいささか抵抗をおぼえるのは、これが LGBT 映画というよりも、思春期の少年の心情を描いた“普通”の映画という印象を受けるからだ。
 普遍性がある。
 そこには、「同性愛というのは別に特別なものじゃない」というミシャ監督の揺るぎない世界観があり、観る者はそこに新しい料理を発見し、飛びつくのである。(オランダではTVで放映されたという点に国民性を感じる)


IMG_20201115_093022
 俯瞰で描く、少年たちのはじめてのキスシーン



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損





● 本:『イザベラ・バードの旅 「日本奥地紀行」を読む』(宮本常一著)

1984年未來社より刊行
2014年講談社学術文庫

IMG_20201114_124732


 イザベラ・バード(1831-1904)は、英国の旅行家、探検家、紀行作家。
 1878年(明治11年)の6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側を北上し北海道に至る旅をし、その見聞を『日本奥地紀行』にまとめた。
 
 本書は、著名な民俗学者である宮本常一が、『日本奥地紀行』を題材にして行った講義録をもとに編まれている。
 江戸時代の風俗が色濃く残る北日本の田舎を、一人の西洋人女性がどのように見たか。その見方の背景をなす要因はなにか。日本各地の風俗に詳しい宮本が解説してくれるところが、本書のミソである。

一人の外人が日本を見たその目は、日本人が見たよりわれわれに気付かせてくれることが多く、今われわれの持っている欠点や習俗は、その頃に根を下ろし、知らないうちにわれわれの生活を支配していることもよくわかるのです。(宮本)


 昔の日本および日本人、とくに庶民の生活ぶりを知ることの面白さは、現在われわれが持っている価値観や習俗が、ある特定の時代につくられた仮設のものであることを知るところにある。
 われわれが抱いている「日本人とはこういう民族だ」という自己イメージは、別の時代、別の場所に行けば、まったく適合しないものになる。日本人のDNAに書きこまれた縄文時代から綿々と続く性質――なんてものでは全然ないのだ。

 たとえば、今回のコロナ禍でしきりに言われた「日本人のきれい好き」。
 本書を読むと、まったくそれが当てはまらない事実に直面させられる。
 イザベラ・バードは行く先々で、蚤としらみに悩まされる。着たきり雀で、身体も着衣もめったに洗わない庶民の不潔さに閉口している。そうした不衛生が、さまざまな病気の温床になっていることを指摘している。
 
その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。石鹸がないこと、着物をあまり洗濯しないこと、肌着のリンネルがないことが、いろいろな皮膚病の原因となる。虫に咬まれたり刺されたりして、それがますますひどくなる。この土地の子どもは、半数近くが、しらくも頭になっている。(イザベラ・バード)

 むろん、こうした不衛生の背景にあるのは、貧困と無知である。
 
 ほかにも、「日本人は排他的」なんてイメージも再考する必要がある。
 イザベラ・バードはどこに行っても、あっという間に物見高い群集に取り囲まれ、注目の的にされてしまう。
 湯沢のまちではこんな有様である。
 
何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子をもってきて隣の屋根に上った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された。(イザベラ・バード)

 まるで、かぐや姫を垣間見んとするスケベな男達のよう(笑)。
 外人を見たことのない者ばかりなのだから仕方あるまい――と理屈づけたい向きもあろうが、そうとばかり言えないのは、このあと北海道でアイヌの村に入ったとき、「イザベラ・バードが行っても皆が物見高く集まるということはなく、無関心である」。
 江戸時代に黒船がやってきたときも、幕府は神経をとがらせ警戒したけれど、庶民は「久里浜沖に泊まった船の間を全然警戒なしに漕ぎ回って」いたという。
 日本人は子どものように好奇心むき出しで、見知らぬ相手を「敵」ととらえず、まずは興味と感心をもって受け入れるところがあったのだ。
 
私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。(イザベラ・バード)
 
 この安全神話は、かなり劣化したとはいえ、今でも有効であろう。

 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● ギブアップ 映画:『ナポリの饗宴』(エットレ・ジャンニーニ監督)

1954年イタリア
124分
カラー

 カンツォーネと踊りと色彩と美男美女あふれる、全編ほぼセットによるナポリ讃歌。
 生粋のイタリア映画といった感じである。

 イタリア好き、歌好きのソルティ、かなり期待してレンタルしたのだが、いかんせん、ストーリーがごった煮で、展開がめまぐるしいばかりで、面白くない。
 一応オムニバス形式になっているが、エピソードの切れ目がわかりづらく、話についていけない。脚本が良くない。

 弱冠二十歳のソフィア・ローレンがチョイ役で出演するシーンまで(開始半分くらい)我慢して観たが、それ以上はギブアップ。

IMG_20201112_185904
ソフィア・ローレン


おすすめ度 :

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










  

● 初期症状もどきとPCR体験

 一週間ほど前から倦怠感と喉のつかえが続き、「風邪かなあ?」と思い様子を見ていたが、一昨日から下痢が始まった。
 いつもなら2回くらいトイレに行けば終息するのだが、4回、5回と繰り返す。食べるそばから水様便となって出ていく。おなかもグルグル鳴り続ける。滅多にないことである。
 熱はないものの、鼻の奥のほうに圧迫された感覚がある。
 「よもや?」と、ネットで『コロナ 初期症状』と検索かけると、案の定どれも当てはまった。
 
 思い返せば、まったく心当たりがないというわけではない。
 10月末に高尾山の麓の温泉施設に行ったとき、混みあった露天風呂と食事処に1時間以上は居続けた。当然、自分も周囲もマスクしていない。大声で喋っている若者グループも近くにいた。
 11月初めには、夜遅く乗った列車が人身事故でストップしたため帰宅できなくなり、会員カードを持っている繁華街のネットカフェで一晩過ごした。ブースの中で寝ているとき、知らぬ間にマスクをはずしていた。夜中、どこかのブースから咳が聞こえていた。
 ほかにも、列車のつり革や手すり、バスの降車ボタンやシート、エレベータのボタン、レンタルショップのDVDパッケージ、ドリンクバーの氷つかみ(トング)・・・・新型コロナウイルスと接触しうる可能性を数え上げたらキリがない。
 
 自分が一人暮らしならば、そして介護関連の仕事に関わっていなければ、「風邪だろう。食あたりだろう。更年期障害だろう」と自己判断し、そのままやり過ごしてしまうところだ。
 が、80を過ぎた両親と同居の身で、70~90歳の高齢者と日常的に触れ合う立場にいる。自分が直接彼らに触れないとしても、職場の同僚にうつしたら、そこから感染が広がりクラスターが発生してしまうかもしれない。
 
 昨日、思い切って仕事を休み、PCR検査を受けに行った。
 ネットで検索し、もっとも検査料の安いクリニックを選んだ。
 自宅からかなり離れているけれど、背に腹はかえられない。
 
混雑病院



 午前10時過ぎにクリニックに着くと、入口に掲示があった。

 「PCR検査を受ける方は、特設会場にお越しください」

 クリニックの建物の中ではなく、そこからやや離れた駐車場のような野外スペースに天幕が張られ、仮設の検査所が設けられていた。プレハブというかコンテナというか小さな建物が左右にいくつか並んだ中央のスペースに、パイプ椅子が20脚ほど間隔を置いて並べられ、完全防護したスタッフが忙しそうに立ち回っている。なんだか、野戦病院のよう(って映画でしか見たことないが)。
 
 平日の午前中だったので、それほど混んでなく、受付で待たされることはなかった。
 が、問診票への記入を済ませ、パイプ椅子に座って診察の順番を待っていると、見る間に人が増えていき、1時間くらいしたら椅子は全部埋まり、その周囲に数十名が立って順番待ちするくらいになった。土日、祝日はどれだけ混むことか。(そのクリニックは土日もやっている)
 幸い小春日和だったので、屋外でも長袖ジャケット一枚で過ごせたけれど、冬になったらどうするんだろう? 寒風の中、待たされるのだろうか?
 
 15分くらいで名前が呼ばれ、プレハブの一つに案内された。
 中には誰もおらず、パソコンの乗ったテーブルとその前に椅子があるだけ。
 その椅子に腰かけるよう指示された。
 遠隔モニターによる診察であった。
 モニターの中の医師から症状の確認があった。
 
 また外で待つこと10分。
 名前を呼ばれ、こんどは一角にある奇妙な小屋の前に案内される。
 それは密閉された四角いブースで、一つの壁面の上半分だけが透明シールドに覆われている。シールドの下部に、二つの穴が横に並んで空いている。戦前のサーカスの見世物小屋を思わせる(って映画でしか見たことないが)。
 受検者がシールドの正面に置かれた椅子に腰かけると、ブースの中にいる看護師が、二つの穴から手袋をはめた両腕を突き出し、受検者の鼻の穴に綿棒を突っ込む。看護師は、粘液がついた綿棒を試験管に密封する。
 はたで見ていると面白い光景なのだが、いざ自分の番になると、鼻の穴に綿棒が突っ込まれるのはなんとも気色悪い。

IMG_20201110_140630
絵ごころなし

 
 検査が終わり、待つこと20分。
 名前を呼ばれ、会計となった。
 ネットに書かれていた通りに万札を用意していたが、「発熱、咳、倦怠感など何かしら症状がある人」は保険が適用されるとのこと。
 ソルティの場合、薬の処方料も入れて2000円であった。
 2000円なら、それほど敷居も高くない。
 3ヶ月に1回くらいは受けてもいいかもしれない。
 
 結果は、陽性(感染の可能性大)の場合、事前登録した電話番号に5~6時間後に連絡が来る。連絡がなければ陰性である。
 もちろん、体操選手の内村航平のように擬陽性(ほんとうは陰性なのに陽性判定されること。100人に1人くらい)が出ることもある。擬陰性(ほんとうは陽性なのに陰性判定されること。100人に30人!くらい)のケースもある。
 結果は100%保障できないのだ。
 陰性結果をもらっても、症状が続くようなら、再受診・再検査の必要がある。


紅葉の自転車

 
 今回、検査を受けようと決めるにあたって、このウイルスの厄介さをつくづく思った。
 発熱や倦怠感や喉のつかえや下痢を主な症状とする病気など、それこそ風邪や細菌感染を含めゴマンとある。コロナ特有の症状ではない。
 なんらかの体調不良があったとき、そのたびコロナ感染を疑っていたら、しまいにはノイローゼになってしまうだろう。キリがない。
 と言って、1%でも感染の可能性がある限り、「他の人、特に家族や高齢者にうつしてはいけない」という思いが働き、検査を考えずにはおれない。
 「ならば、はじめから感染する/させるリスクのある行動をとらなければいいではないか」と言いたいところだが、残念ながら感染リスクはそこいらじゅうに潜んでいる。そこがこのウイルスの厄介なところである。
 コロナウイルスは日常生活でうつる。とくに、介護や医療や接客業のような仕事に就いている場合、リスクを完全に避けることはほとんど不可能に近い。
 
 HIV(エイズウイルス)と比較すると分かりやすい。
 HIVの初期症状もまた「インフルエンザに似た」もので、発熱や倦怠感や筋肉痛が起こる。(コロナ同様、まったく無症状の場合もある) 
 この初期症状を「すわ、エイズ!」と思って、不安に陥る人も少なくない。
 しかるに、HIVは日常生活ではうつらない。バスや電車や温泉やスポーツジムや料理店やカラオケではうつらない。相手の体液(血液、精液、膣分泌液)とじかに接触する性行為でしかうつらない。
 つまり、予防できる。きちんと予防できているという自覚も持てる。
 発熱や倦怠感があっても、それに先立って「思い当たる行為=予防しない性行為」がなかったならば、HIV感染の可能性はないと断言できる。検査は必要ない。
 たとえ、感染の可能性ある行為をしていたとしても、他人にうつさない選択は簡単にできる。
 一方、コロナの場合、家に閉じこもって他人との接触を断たない限り、完璧な予防は難しい。
 どこまで予防すれば安全と言えるのか、どこまで気をつければ他人にうつさずに済むのか、誰も確かなことが言えない。
 HIVと違って、日常生活こそが危ない。(検査会場には老若男女がいた。若者が圧倒的に多いHIV検査会場との顔ぶれの違いは、まさに感染経路の違いによるものだ)
 
 毎日マスク通勤し、多かれ少なかれ周囲と会話しつつ仕事して、昼は外食し、休日はできるだけ大人しく遊ぶ、あるいは気晴らしに買い物に行き、家族や友人とGOTOキャンペーンを利用し小旅行する。コロナ禍におけるごく一般的な庶民の生活である。
 それでソルティのように発熱や倦怠感や喉の痛みなどが生じて、自分の過去数日の行動を振り返ったとき、「感染するような行為、思い当たる機会はまったくなかった」と言い切れる人が果たしているものだろうか?
 たとえば、今大ヒット中の映画『鬼滅の刃』を満席の劇場で観て、隣席の人が上映中に飲食し、くしゃみした。席を移ることもできない。数日経って38度を超える熱が出た。
 「もしかしたら、あの時?」といったん思い始めたら、感染不安のループにはまり込むのは必定である。

不安のループ


 これからの風邪の季節、「初期症状」に振り回される人が増えることは間違いない。 
 ノイローゼにならない為には、感染予防に関する自分なりの“行動ルール”の設定と、感染リスクの評価に関する自分なりの“線引き”が必要かもしれない。
 つまり、コロナについて心配する閾値(しきいち)を作っておくのだ。
 まあ、その前に、何と言ってもふだんの体調管理に気を付けるに如くはないが・・・・。


 結果的にクリニックからの連絡はなかった    




● フェミニズム回避 映画:『めし』(成瀬巳喜男監督)

1951年東宝
97分、モノクロ

 原作は林芙美子の遺作小説。
 監修に川端康成の名が上がっている。
 
 熱烈な恋愛の末、周囲の反対を押し切って結ばれた初之輔(=上原謙)と三千代(=原節子)であったが、二人だけの生活も5年もするとマンネリ化してくる。三千代は、「台所と茶の間を行ったり来たり」だけの人生でいいのか、と思い悩む。
 そんなとき、東京に住む初之輔の姪・里子が、親の決めた縁談を嫌い、家出して夫婦のもとに転がり込んでくる。奔放な里子の振る舞いに眉を顰め、里子と初之輔の仲の良さに嫉妬する三千代であった。
 
 倦怠期の夫婦を描いた作品と解説されることが多いが、これはむしろ、フェミニズム的テーマを含んだ問題作の片鱗がある。
 片鱗――というのは、原作は未完で、林芙美子がどういう結末を用意していたか誰にも分からないからだ。
 原作は、三千代が「これからの人生を考える」ために東京の実家に帰ったところで終わる。
 三千代がこのまま初之輔と別れ、東京で仕事をみつけて自立するなら、本作はフェミニズム小説(映画)になりえただろう。
 だが、実際の映画は、東京まで迎えに来た初之輔に三千代が情愛を感じ、一緒に列車に乗って大阪に戻るところでエンドクレジットとなる。
 窓外を流れる景色を見ながら、三千代は心の中で呟く。
「愛する男と一緒に幸福を求めながら生きていくことが、女の幸福なのかもしれない」
 
 ソルティは林芙美子を読んだことがないので作風も人物も知らないのだが、流行作家としてジャーナリズムを賑わせたことから察するに、「結婚して家に入って炊事・洗濯・夫と子供の世話に明け暮れる」ことを女の幸福と考える人じゃないのは確かだと思う。
 この映画の結末は、東宝サイドの「二人を離婚させるな」という要望を汲んでのことらしく、林芙美子ファンの間では評判が良くないようだ。
 さもありなん。
 
 だが、当時の観客の多くにとっては(男はもちろん女の観客も)、三千代が夫のもとに戻る結末にホッとしただろうし、上記の三千代の独白にも「そのとおり」と頷いたことだろう。
 女性の自立を映画で描くには、20年ばかり早かったのだ。
 
 往年の美男美女スターである上原謙と原節子は、ここでは円熟の色を見せている。美より技を感じさせる演技である。(いや、二人とも十分美しいが)
 三千代の母親役の杉村春子も、ここではいつもの「おきゃんで口やかましい下町風おばさん」とは違った、やさしい日本のおふくろを演じ、その穏やかな笑顔は心にしみる。
 
 戦後の日本、とくに夫婦が住む大阪の風景(中之島公園、大阪城、道頓堀など)が映し出され、興味深い。
 
IMG_20201110_104252
上原謙(42)と原節子(31)



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● どんでん現象、あるいは遅れてきたセクマイ 映画:『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』(大江崇允監督)

2019年
89分

 レンタルDVDショップで見つけた LGBT映画。

IMG_20201108_211554

妻に捨てられた中年の海堂(=ジョーナカムラ)はやけ飲みした晩に、年下の美青年ユタカ(=こんどうようぢ)と出会う。二人は互いの孤独を埋めるように共に暮らし始める。そのうち、これまで男性経験のないノンケだった海堂は、ユタカを愛するようになる。だが、もとからゲイであるユタカには家族との関係など屈折した感情があり、二人の溝はすんなり埋まらない。

 どこかで聞いたような話だなあ~、と既視観が起こるのも無理はない。
 ちょっと前に一世を風靡したテレビドラマ『おっさんずラブ』の主人公・春田創一(= 田中圭)と同居人・牧凌太(=林遣都)の関係にかぶっている。春ちゃん:牧=海堂:ユタカ、である。
 もっとも、春ちゃんは中年と言うにはまだ早い。海堂と違って結婚もしてなければ子供もいない。

 LGBTドラマに昔からよくあるパターンとして、ゲイがノンケを好きになって叶わぬ思いに苦しむというのがある。マニュエル・プイグ原作『蜘蛛女のキス』とか、橋口亮輔監督『渚のシンドバッド』とか・・・。イバン・コトロネーオ監督『最初で最後のキス』なんかは、そのパターンのもっとも悲劇的な結末を描いている。
 『おっさんずラブ』のヒットの影響からか、あるいは実際に巷でそういう現象が増えているのか、ノンケの男がふとしたはずみで同性愛に目覚めてしまうという、これまでとは逆ベクトルのストーリーが昨今求められている(?)ようである。
 もちろん、腐女子もといBL(ボーイズラブ)の世界では、そうした設定は「王道」と言ってもいいくらいの使い古されたパターンであるが、それが今、BL界を越えて世間に流出してきたかのようだ。
 ちなみに、そういう現象を業界用語で「どんでん」と言ったものだが、今でも使われているのだろうか?

 既視感はもうひとつある。
 ソルティは観ている途中で、この映画の制作年を確認せざるをえなかった。
 「2019年」って昨年じゃないか。
 令和元年じゃないか。
 『おっさんずラブ』以後じゃないか。

 しかるに、この映画のタッチというか、雰囲気というか、描かれている世界観というか、LGBTに対するイメージというか、ともあれ全体の質感が、ほとんど80年代のゲイ映画、いやもっと特定するなら当時新宿や上野の専門映画館で上映されていた薔薇族映画のそれとよく似ているのだ。
 つまり、なんだか暗くて、後ろめたくて、隠花植物的で、十字架を背負っている風で・・・・といった感じである。

 ユタカの近所に住む若い女性たちが通り過ぎるユタカを見て、「あの人、ゲイだって。気持ち悪いよね~」と聞こえよがしに言ったり、新宿2丁目で飲んでいるノンケらしい二人組の若いリーマンが道に立つ女装子を見て、「おかま、無理無理」と口にしたり、どうにもこうにも古いのだ。
 いや、もちろん同性婚が政治テーマに浮上した令和の今だって、差別はある。偏見を持つ人はたくさんいる。当事者にだって、周囲にカミングアウトしてゲイリブに生きる人から、昭和時代を背負ったまま年を重ねたクローゼットまで、いろいろいる。なにも無理して、「明るくポジティブで未来志向の LGBT像」を描いてくれなくてもよい。
 が、ここに描かれる LGBT観はあまりにも旧式である。

 いったい、なんでこんなことが起こったのだろう?
 世間の流れに疎いソルティが知らないだけで、2丁目界隈にちょっとしたバックラッシュが起きているのだろうか?
 あるいは、生粋の(?)当事者自身がもつ令和時代の LGBT観と、最近「どんでん」したばかりの元ノンケ(遅れてきたセクシャルマイノリティ)のもつ LGBT観の、ギャップによるものなのか?
 なるほど、この映画はゲイであるユタカの視点より、元ノンケである海堂の視点が濃い。
 ひょっとして、制作サイドに生粋の当事者がいないのでは?

 WAHAHA本舗の「梅ちゃん」こと梅垣義明が、ゲイバーのママ役で出演しているのが見物。



おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損



● 本:『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(石原慎太郎、坂本忠雄著)

2019年新潮新書

 坂本忠雄は1935年生まれ。元『新潮』編集長で、三つ年上の石原とはかつての作家と担当編集者の間柄。
 80をとうに回った二人が、昔話に花を咲かせる対談集である。
 むろん、主役は慎太郎。坂本はそこここで慎太郎を持ち上げ気分良くさせながら、名伯楽さながら、話を引き出している。


IMG_20201108_110149


 川端康成、三島由紀夫、小林秀雄、大岡昇平、江藤淳、大江健三郎といった戦後の文壇を彩った作家たちとの交流、佐藤栄作、田中角栄、美濃部亮吉、アンドレ・マルローら大物政治家の知られざる顔、石原自身による自作の誕生秘話など、興味深いエピソード盛り沢山で一気に読んでしまった。

 押しも押されもせぬベストセラー作家であり、映画スターであり、政治家であり、ヨットやスポーツカーや射撃の達人であり、太平洋戦争を知る最後の世代であり、そのうえ昭和の大スター石原裕次郎の実兄である。話が面白くないわけない。
 石原慎太郎を「好きか嫌いか」と聞かれたら「嫌い」と答えるソルティだけれど、「面白いと思うかどうか」と問われたら「面白い」と言わざるを得ない。(ただし、小説は読んでいない)
 本書を読むと、文学者にありがちな湿った面倒くさい自意識や、政治家にありがちな表裏を使い分ける陰湿さとは程遠い、慎太郎の分かりやすい性格がうかがえる。
 やはり、育ちが良いのだろう。

 ここで披露される数々のエピソードの中でもっとも印象に残ったのは、慎太郎夫婦が平成天皇と美智子妃にお茶に呼ばれたときの話である。
 平成天皇が葉山の別荘にご静養に行かれるときに「何時間も泳ぎ回るので心配」、と口にされた美智子妃に、慎太郎はこう言い放つ。

「あんなところ、海は遠浅で危ないことなんかありませんよ。伊豆の姉崎の別荘下なら僕もダイビングで時々潜りますけど、回遊魚も来るきれいな海ですよ。陛下も素潜りじゃなくてダイビングで深く潜って海の底を眺められると、人生観変わりますよ」

 平成天皇は「はあ、人生観ですか」と言ったきり、うつむいてしばらく黙ってしまわれたという。

 石原慎太郎と言えば「失言の王者」といったイメージがあるが、もしかしたらアスペルガーの気があるのかもしれないな。


尾瀬
尾瀬沼


おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ミシェル・ファイファー、礼賛! 映画:『オリエント急行殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)

2017年アメリカ
114分

 筋も犯人も分かっていて、評判の高いシドニー・ルメット監督による最初の映画版(1974年)も観ているので、たいして期待せず、暇つぶしに見始めた。

 のっけから、エルサレムの街の美しい映像に引き込まれた。
 テレビ朝日の『世界の車窓から』ばりの完璧な旅情が味わえる。
 そして、ブルジョワ志向のポワロの周囲に次々現れる贅沢な風物――むろん、その頂点がオリエント急行の一等客室である!――に、ヨーロッパ上流文化の粋を楽しめる。
 この二点だけでも観る価値はある。

 語りのスピードとリズムは、そのまま列車のスピードとリズムに受け継がれ、まったく淀むところがない。
 観る者は、自然とオリエント急行の乗客の一人となっている自分を発見するだろう。
 やはり、ケネス・ブラナーの演出の才は非凡。
 そのうえ、主役のポワロを見事に演じるのだから、たまげてしまう。

 ルメット作品でポワロを演じたアルバート・フィニー、あるいは1978年『ナイル殺人事件』におけるピーター・ユスティノフ、そして英国のテレビドラマで足かけ24年間も同役を演じ続けたデヴィッド・スーシェ。
 こうしたベテラン名優たちに伍して新たなポワロ像を打ち出すのは、相当な冒険に違いない。ただでさえ、世界中のクリスティ愛読者ひとりひとりの中に、それぞれのポワロ像があるところに・・・。
 だが、役者としても間違いなく天才であるケネス・ブラナーは、上記3人とはまったく違う魅力的なポワロを生みだしている。(むろん八の字髭は同じだが)

 ソルティは、ケネス=ポワロが気に入った。
 原作にもっとも近いのはおそらくデヴィッド・スーシェのポワロであろうが、人間的魅力の点でケネス=ポワロは図抜けている。作品自体の風格を高めるほどのオーラーを発していて、映画をゴージャスにする。
 それにくらべると、スーシェのポワロはいかにもテレビにこそふさわしい。


IMG_20201107_124859
精悍なところのあるケネス=ポワロ


 他の役者では、主要人物であるハバード夫人を演じるミシェル・ファイファーが素晴らしい。
 ダーレン・アロノフスキー監督の『マザー!』でも、ヒロインをいじめるビッチでサイコな中年女を演じ、気を吐いていた。
 まさに今が“旬”の女優である。
 オスカーも近いのではなかろうか。

 ジョニー・ディップの悪党ぶりも見物である。
 こういった憎まれ役でも平気で引き受け、しっかり役作りできるのは、ただのイケメン人気スターではない証明である。目つきから違う。
 いまさら言うまでもないことだが。

 このミステリーの特徴の一つは、最終的に謎を解明したポワロが、ある事情から真犯人を見逃すところである。
 殺人犯を警察につき出さず、真相を伏せてしまうのだ。
 原作では、そのあたりのポワロの逡巡や葛藤は描かれていない。
 時代が時代であった。読者もそこまで一介の探偵に正義をもとめはしなかったと思う。
 本で読むのと映画で見るのとの違いもあるかもしれない。

 本作では、ポワロの逡巡や葛藤がしっかり描きこまれている。
 「情に流されずに犯人を告発し正義を貫くべきか。それとも、犯罪を見逃したという汚点を自らの輝かしい経歴に残すべきか」
 こうした葛藤あるゆえに、ケネス=ポワロの人間性が増して、原作にはない深みが生み出されている。
 74年のルメット版にはない感動が味わえた。

 
IMG_20201107_125000
この乗客たちの中に真犯人がいる!


 ケネス=ポワロの第2弾は近々公開予定の『ナイル殺人事件』である。
 今度はエジプト旅行。
 コロナに注意しつつ、久しぶりに映画館の大スクリーンで観てみようかな?
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


● 檀家山 本:『修験道という生き方』(宮城泰年、田中利典、内山節共著)

2019年新潮社

 自分の前世の一つは修験者(山伏)であったと思う。
 山歩きが好きで、仏教が好きで、秩父を巡礼し、四国を遍路し、孤独が苦にならない。
 一方で、修験道と言えば、比叡山の千日回峰行に代表される苦行の世界であるが、ソルティは苦行が好きでない。ナンセンスとさえ思っている。
 四国を歩き通したと言うと、「苦行好き」のイメージで見られることもあるが、現代の四国遍路は、フィールドアスレチック+オリエンテーリング+生身の自分が主人公となるロールプレイングゲーム+観光旅行のようなものである。そこに宗教的要素が加わりはするが、苦行とはまったく思わなかった。(苦行にならないレベルで歩いた、というべきか)
 おそらく、前世は軟弱で中途半端な修験者だったのだろう。

yamabushi

 本書は、修験界を代表する二人の高僧(宮城泰年、田中利典)と、西洋哲学を専門とする内山節による鼎談をメインとしている。序章として、内山が修験道の概要を歴史に沿って解説している。
 仏教用語など専門的な部分もあるが、概して庶民の日常生活に接続する具体的なレベルの話題が多く、本書で修験の世界にはじめて触れる者にとっても、読みやすくわかりやすいものとなっている。
 というより、「庶民の日常生活に接続する具体性」こそが、修験道の肝であることが明らかにされている。

 山伏に象徴される修験者は、現代人の目から見れば、日常から遠く離れた特殊の世界の人というイメージであるが、明治初期に「神仏分離令」に次いで「修験道廃止令」が出されるまでは、すなわち江戸時代までは、修験者は里にあって様々な役割を担いながら庶民の日常生活に溶け込んでいる点景の一つだったのである。(蘆屋道満などの陰陽師もまたその仲間であろう)
 修験道廃止令で失職した修験者は17万人もいたという。(当時の日本の人口は約3千万人台)

IMG_20201104_190748


 修験道とはなにか?

 修験道は古来の自然信仰を受け継ぎ、それが道教の「無為自然」(おのずからのままに=自然のままに生きる)思想とも融合しながら、大乗仏教の思想をも取り込んでいくかたちで成立した。

 その開祖は役小角(634~ )というのが通例である。
 が、役小角は書き物を残していないし、親鸞における唯円『歎異抄』のように、師の言葉を書き留めた弟子もいなかったので、役小角の思想なり修験道の理念なりというのは実はよくわからない。あってないようなものである。

 修験道は山での修業がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。知で生きる人間から身体で生きる人間へと自己を変えながら、身体と自然の一体化を得て自然的人間として生まれ変わることをめざした信仰だといってもよい。

 おそらくははるか昔から存在した自然信仰や人々の願いを集約し、仏教を取り込みながらひとつの型を創りだしたのが役小角だったのだろう。あるいはすでに各地で活動していた山岳信仰の行者たちに、ひとつの方向性を示したのが役小角だったと考えたほうがよいのかもしれない。
 
 自然信仰(アニミズム)が基盤となっているという点で、修験道はもっとも古い日本人の宗教と言える。太古から今日まで日本人の心の深層に脈々と流れ、いきづいているエッセンスである。(神道との関係について、本書ではなぜか触れられていない)
 それは、哲学とか思想とかというものではなく、日本という風土に生き、自然とともに暮らす人々の血の中を流れる“性分”のようなものだろう。がゆえの「身体性」である。
 また一方、仏教=大乗仏教を取り込みながら発展したというところにも特徴がある。
 仏教伝来以降、役小角、行基、景戒、空也をはじめとする、いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれ諸国を流浪する行者たちによって、官の仏教とは別のカタチで仏教が庶民に広まっていったわけであるが、それは各地でもとからあった民間信仰と融合していく。
 修験道は、主として山岳信仰と融合した民衆仏教の一形態なのである。
 風土仏教とでも言うべきか。

 『オオカミの護符』で書かれていた武蔵御嶽山や秩父三峰山への信仰(講)はまさにその表れであり、つい最近まで修験道が庶民に根付いていたことを知らしめるものである。
 ある意味、これこそが日本人の多く(=庶民)が古来なじんできた宗教――宗教とは意識しないほどに血肉化した――なのかもしれない。
 昨今、パワースポットブームも手伝ってか、修験道に関心を寄せる人が増えているそうである。

 日本列島に暮らした人たちが、もしかすると縄文時代以来、気の遠くなるような長い歴史の中で帰属してきたのは何かというとそれは風土という言葉に集約されると思うのです。自然とともに人々が、自然との独特な関係をつくりながら、社会システムや文化をつくりだしていった。そうやってできあがっていった風土に人々は長いあいだ帰属してきたのですが、それが明治からのわずか百五十年、あるいは戦後の七十数年のあいだに壊れていった。
 ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。そこから、自分たちは何を忘れてしまったのだろうという空洞感のようなものが広がってきた。ですので、自分は何に帰属して生きていったらよいのかをみつけ直そうという思いが、今日では広がりはじめていると思うのです。企業のような皮相的で幻想でしかない帰属先ではなく、本質的な帰属先です。そういった思いを抱きはじめたとき、自然がつくり出した風土とか、その風土と寄り添っていた人々の側の信仰が視野に入ってきたのではないでしょうか。
 
 確かに、自分が山登りを好むのは、山に包まれて、そこに自分が帰属しているという安心感が得られるからかもしれない。
 檀家寺を持つより、檀家山を持つほうが、自分の性に合っている。
 高尾山こそ、ソルティの檀家山なのかも・・・・。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● 映画:『英国王のスピーチ』(トム・フーパー監督)

2011年イギリス、オーストラリア、アメリカ
118分

 エリザベス2世の父親ジョージ6世の吃音症とのたたかいを描いた、実話をもとにした映画。
 ジョージ6世役のコリン・ファース、妻で王妃であるエリザベス役のヘレナ・ボナム=カーター、そしてジョージの主治医役(実際には「ドクター」の資格は持っていなかったらしいが)のジェフリー・ラッシュ、主要3人の演技が素晴らしい。
 とくに、吃音症の皇族という難役に挑み、“自然な”どもりをマスターしているコリン・ファースの役者魂は賞賛に値する。

IMG_20201103_171612
ヘレナ・ボナム=カーターとコリン・ファース


 老人ホームで働いていた時、90歳以上の利用者に戦時中や戦後の混乱期の話をよく聞いた。
 当時、彼らは20歳前後の若者であった。
 1945年8月15日の玉音放送の話題もよく出た。
 「昭和天皇が何を話しているかわかりましたか?」
 と尋ねると、みな決まって、
 「全然わからなかった。でも、日本が負けたことだけはわかった」と言う。
 「たえがたきをたへ、しのびがたをしのび、ってところだけわかった」と言う人も多かった。
 原稿は漢文の読み下しみたいな堅苦しい文語で、難しい言葉も多く、平明な日本語とは程遠かった。
 当時の放送技術もラジオの音質も良くはなかった。
 それに輪をかけ、当時40代半ばの昭和天皇の口調は、こもりがちのうえ独特の節回しがあって、明瞭とは言えなかった。

レトロラジオ


 ソルティがリアルタイムで昭和天皇の声を聞いたのは晩年(70年代以降)のことだが、やっぱり、何を言ってるかいつも分からなかった。
 国民の多くがそうだったと思う。
 でも、それが気になることもなければ、もっとわかりやすい言葉で滑舌よく話してほしい、とも思わなかった。
 
 「巧言令色、少なし仁」
 「男は黙ってサッポロビール」
 我々日本人が、スピーチに与える重要性は決して高くない。
 首相の就任演説も、アメリカ大統領のそれにくらべれば、なんと軽く扱われていることか。

 彼我の文化の違いを感じさせる映画である。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『だれがコマドリを殺したのか?』(イーデン・フィルポッツ著)

1924年原著刊行
2015年創元推理文庫

IMG_20201101_123728


 イーデン・フィルポッツと言えば、『赤毛のレドメイン家』である。
 江戸川乱歩が激賞し、世界本格ミステリーベストテンの上位にランクされてきたこの小説を、創元推理文庫で最初に手にした時、期待と興奮とで胸が躍った。
 高校生の時分である。
 のっけから、美しいコモ湖畔の描写と世にも稀なる美女の登場に心をつかまれた。
 この先、どんな物語が紡ぎ出され、どんな不可思議な殺人事件が発生し、どんな奇抜なトリックが用いられ、どんな個性的な探偵が出てきて名推理を展開するのか、ページをめくるのももどかしい思いであった。
 
 が、読み終えたときの正直な感想は、

 なんでこれがベストテン入りするの???

 拍子抜けした。
 お面白くないことはない。海外ミステリーの古典として読む価値は十分ある。
 しかし、『Yの悲劇』、『アクロイド殺し』、『樽』、『黄色い部屋の謎』、『長いお別れ』、『幻の女』など、他のベストテン常連作品と同レベルのものを想定していた者にとって、『赤毛のレドメイン』は物足りなかった。
 過大評価という気がした。
 国内のベストテン選者たちは、斯界の大御所である乱歩に忖度しているのかな?と思った。

 実際、上記の傑作群は一度しか読んでいないものであっても、数十年経った今でも話の筋やトリックを覚えているけれど、『赤毛のレドメイン』の筋はすっかり忘れている。美しい湖畔風景の中で警部が美女に恋する話、という以外は・・・・。
 その後、フィルポッツのもう一つの代表作と言われる『闇からの声』も読んだが、こちらもまた全然覚えていない。
 その後しばらくして、フィルポッツがミステリー作家として高い評価を得ているのは日本くらいで、海外のベストテンでは名前が挙がることもないと知った。
 
 そのフィルポッツと数十年ぶりに図書館で出会った。
 しかも上記二つの代表作以外のミステリーと知って、「懐かしさ半分、怖いもの見たさ半分」で借りてみた。
 
 タイトルにも惹かれた。
 原題は Who killed Cock Robin ? 
 「だ~れが、殺した、クックロビン?」
 知る人ぞ知る、魔夜峰央のギャグ漫画『パタリロ』のクックロビン音頭である。
 
パタリロ

 
 ソルティは、しかし、パタリロよりも萩尾望都の『ポーの一族』の印象が強い。
 ドイツのギムナジウム(中等学校)を舞台としたエピソード『小鳥の巣』において、この詩というか童謡が、モチーフとして非常に効果的かつ印象的に使われていたからである。
 言うまでもなく、童謡のもとはマザーグースである。
 
 Who killed Cock Robin?
 I, said the Sparrow,
 with my bow and arrow,
 I killed Cock Robin.
 
 クックロビン(駒鳥)を殺したのは誰?
 「わたし」と、スズメが言った。
 「わたしの弓と矢でもって
 クックロビンを殺したの」
 
 ――で始まる長い詩である。
 クリスティの『アクロイド殺し』の新聞連載時の原題 Who Killed Ackroyd? も、この詩の冒頭の一節が下敷きになっているわけで、幼い頃からマザーグースに馴染んでいる英国人ならすぐにピンとくるであろう。

IMG_20201101_145516 
 萩尾望都『ポーの一族』(小学館)
 

 物語は、英国の美しい田園風景の中で、一人の青年医師が類まれなる美女と出会う場面から始まる。『レドメイン』そっくり。
 美女の名前はダイアナ、愛称がクックロビン(駒鳥)であった。 
 青年とダイアナは互いに一目惚れし、熱烈な恋に落ちて、周囲の反対や懸念をよそに結婚する。
 それが悲劇の始まりであった。

 タイトルがばらしている通り、ダイアナ=クックロビンは何者かの手によって命を奪われることになるのだが、それが起こるのは物語も半分を過ぎてからである。
 しかも、最初のうちは病死と思われていて、それが毒殺であることが明らかになり容疑者が逮捕されるのは、なんと物語も2/3を過ぎてからである。
 なんとまあ悠長な展開か。
 つまり、肝心なミステリー部分は本書の終わり1/3であって、そこまでは主として田園を背景に、中流階級以上の若者たちの織り成す恋愛ドラマなのである。
 その意味で、フィルポッツの小説はジェイン・オースティンに近いところがある。
 自然描写の巧みさ、語りのうまさ、魅力ある性格造型、心理の綾を丁寧にたどっていく手腕、品のある文章・・・・。
 ミステリー小説としてでなくとも十分に面白いし、ぐいぐいと引き込まれる。
 高校時代は、推理小説としての評価ばかりに注意がいって、この小説家の本来の魅力に気づかなかった。そこまでの読書眼がなかった。
 乱歩が推奨したのも、一般の推理小説以上の文学性をそこに見たからなのかもしれない。
 
 終盤1/3はまさに本格ミステリーそのものとなる。
 大胆なトリック、様々な伏線の浮上、名探偵の根気ある調査とひらめき、逃亡劇、カーチェイス、あっと驚く真犯人(ソルティは見抜くことができた)、性格と情念とが絡み合った動機の解明、大団円。
 古典的スタイルの一級のミステリーで、今読んでも十分に楽しめる。
 単純にミステリーとしては『レドメイン』より出来がいいのではないか?
 
 だれがコマドリを殺したのか?
 その答えを知った時、読む者はフィルポッツの老獪さに舌を巻くであろう。
 そして、その英国男らしい女性観に苦笑いするであろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

IMG_20201029_213206


 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

IMG_20201021_092926


 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
IMG_20201029_135829
 
 
 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 映画:『マザー!』(ダーレン・アロノフスキー監督)

2017年アメリカ
115分

 ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』を撮った監督である。
 幻想的で印象に強く刻まれる映像を紡ぎだす才には恵まれているが、表現する世界がマニアック過ぎて、メジャーには収まりきれない人だと思う。
 この映画も批評家の間では賛否が分かれ、一般観客からは酷評を得たという。

 映像は凄い。
 が、ストーリーが意味不明、というか破綻している。
 出演している俳優たちも、最後まで物語が、そして自分の役が、理解できなかったのではなかろうか?
 DVDの特典映像では、主演のジェニファー・ローレンス――『ウィンターズ・ボーン』での名演技が記憶に新しい――をはじめ、参加スタッフたちが一様に本作の独創性を讃え上げ、アロノフスキー監督と共に仕事できたことに感謝の意を表明している。(ほかに言いようもないだろうが)
 本心はどうなのだろう?と思わざるを得ない。
 
 不気味で不可解な現実が一転してサバト(悪魔の宴)と化していくルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』に通じるような破壊性と超越性を、本作にも見てとることもできよう。
 観る者の予想を裏切り、想像をはるかに超えた、あたかも高熱で寝込んだ夜に見る悪夢のような恐ろしくも不条理な展開に、ヒロインともども徹底的に打ちのめされ絶望する、マゾヒスティックな快感に酔う者もいよう。
 だが、次々と襲い来る不条理について悪魔(魔女)という根拠をもつ『サスペリア』に対し、本作では不条理の根拠を欠いている。
 不条理は不条理のまま投げ出され、解明は拒まれる。
 あるいは、観る者に下駄は預けられる。
 無責任なまでに――。
 
 そこをどう取るかで、評価は分かれるだろう。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文