ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 新しい日常 映画:『アニアーラ』(監督:ペッラ・カーゲルマン、フーゴ・リリヤ)


2018年スウェーデン・デンマーク合作
106分

 北欧発のSF大作。
 原作はスウェーデンのノーベル文学賞作家ハリー・マーティンソンの長編叙事詩。オペラ化もされているようだ。

 豪華設備の整った巨大宇宙船アニアーラ号が、8000人の乗客を乗せて旅立った。
 放射性物質で汚染された地球から火星へ、人々を運ぶためである。
 しかし、衝突事故によって燃料は失われ、火星への軌道を外れ、修復不能なまま宇宙空間に投げ出される。
 もはや、地球にも火星にも到着できる可能性はゼロに等しい。
 
 ――といった苛酷な状況において、宇宙船の中でいったい何が起こるか、船内に閉じ込められ希望や目的を失った人々がどのように振舞うようになるかを、3週間後、1年後、3年後、10年後、24年後・・・と時系列で切り取って描いていく。
 言うなれば、終わりなき日常に閉じ込められた人間たち、ゴールの見えない自粛生活を強いられる人間たちに起こり得るドラマである。
 なんとまあ、今のコロナ世界を予言していたことか! 

 “ミーマ”と呼ばれる「美しい地球を体験する」ヴァーチャルリアリティ装置に依存する人々、カルト宗教の発生、支配-非支配関係の醸成、職務に忠実たろうとする者、自暴自棄になる者、恋や育児に希望を見出す者、精神を病む者・・・・さまざまな人間の振る舞いが描き出されていく。

 映像のクオリティは高い。
 美しく見ごたえある。

 北欧制作らしいと言うべきか、主役の女性はレズビアンで、同僚女性との恋愛やセックス、共同育児の様子などが描かれる。むろん、船内の誰もそれを特別視することはない。
 子供の誕生と成長は人類の希望の最たるものであるが、悲しいことに、心を病んだ恋人は子どもを殺めて自害してしまう。
 
 軌道への復帰を可能にするエネルギー源(謎の飛行物体)の捕獲に成功し、いったんは希望に湧いた船内であったが、結局その物体は人間の手におえる物質ではないと判明し、人々はさらなる絶望に追いやられる。
 あらゆる希望が失われたところで、物語は終わる。
 
 なんともまあ救いのない話で、北欧人の現実主義を見る思いがする。
 しかも、最後のシーンで描かれるのは「598万年後」ときた。
 琴座に達したアニアーラ号は、破壊され、残骸となって漂う。

 598万年という時空から見れば、598万年前に起こったアニアーラ号の事件など、いかほどのものであろうか。
 そこでの喜怒哀楽・悲喜こもごもの人間ドラマなど、「一瞬」の数億分の一にもならない。
 宇宙的ものさしで見た人類の価値、人間の営みという、「無」を示す地点までカメラを引き切って、ジ・エンドとなる。
 この圧倒的な非ヒューマニズム。
 さすがノーベル文学賞というべきか。

 
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アニアーラ号
 

 思うに、人は希望を持つから絶望する。
 はなから希望など持たなければ、落胆も失望も後悔もすることなく、たんたんと日々を生きられる。
 そこが地球だろうが、火星だろうが、宇宙空間だろうが、閉鎖された宇宙船の中であろうが、人間がやっていることは基本、「食べて・動いて・まぐわって・クソして・寝る」だけだからである。
 衣食住と安全さえ保障されて、プラス孤独や退屈を紛らわす手段や仲間があれば、基本どこでも生きられるし、自暴自棄になる必然性はない。
 アニアーラ号ではそれは保障されていた。(食材が尽きたあとは、自主栽培の藻を食料とした)
 そう考えると、アニアーラ号の人々は「新しい日常」に馴染めなかったのである。
 
 いろいろ考えさせられるところの多い秀作である。
 

 
おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 第2回(第6~11番)


 2018年9月下旬のある日、四国遍路88札所と別格20札所、あわせて108の霊場を歩いてめぐる旅に出た。これはその記録である。
 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。
 お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを説いたものが多い。
 ここでは、やはり寺の名前を盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などをオリジナル御詠歌にして詠んでみた。


【徳島県】


6番札所: 温泉山 安楽寺(おんせんざん あんらくじ)

6番

 安楽を 求めてひとり 道ゆけば
 「お接待よ」と かかる声あり

御本尊: 薬師如来
本歌: かりの世に 知行争う 無役なり 安楽国の 守護をのぞめよ
コメント: 安楽寺を出たところで遍路最初のお接待にあずかった。車から降りた妙齢のご婦人は豆パンを差し出すと、こちらにお礼も言わせないまま、さっと去っていった。そのスマートなやり方にいたく感心した。すぐ近くの路傍に遍路の父・真念上人の立てたしるべ石(道標)があったので、いったんお供えしてから食べた。
【次の札所まで1.2㌔】


6番安楽寺山門
6番安楽寺山門


7番への道(真念の碑)
真念しるべ石


7番への道(畑中)
このあたりは牧歌的な景色が広がる



7番札所: 光明山 十楽寺 (こうみょうざん じゅうらくじ)

7番
 御朱印を もらい損ねて 十楽寺
 ゴールはここと 早や決まりけり


御本尊: 阿弥陀如来
本歌: 人間の 八苦を早く 離れなば 至らん方は 九品十楽 
コメント: 翌朝訪れた8番札所で、7番の御朱印ページが白紙のままであることに気づいた。あちゃー! 参拝した後に境内の休憩所で荷を解いて一服したのが原因。納経まで済ませてから休むべきであった。が、「これもきっと何かの縁。最後に戻って来よう」と、気を取り直した。別バージョン⇒「荷を解いて 十分ほどの 楽あれば 御朱印のこと 忘れ去(い)にけり」
【次の札所まで4.2㌔】


7番十楽寺山門
7番十楽寺山門


7番十楽寺大師堂
大師堂
各札所の本堂と大師堂の2カ所で
経をあげるのが基本


7番十楽寺(不動明王)
威圧感ある不動明王
戦没者慰霊のため建てられたもの
(体の比率配分を間違えたか、足が短い)



8番札所: 普明山 熊谷寺 (ふみょうざん くまだにじ)

8番
 突然の 雨に降られて 「くまったに(困ったね)」
 弁天様の 加護を受けしか

御本尊: 千手観音菩薩
本歌: たきぎとり 水くま谷の 寺に来て 難行するも のちの世のため  
コメント: 朝から曇り空だった。熊谷寺の境内に一歩入ったらいきなりの大雨。合羽を出すのも面倒なので、しばらく雨宿りした。あとから思えば、ここには水の神様・弁財天を祀る池があり、本歌にも見るように水と関係の深い札所なのであった。
【次の札所まで2.4㌔】


8番熊谷寺境内
8番熊谷寺境内



9番札所: 正覚山 法輪寺 (しょうかくざん ほうりんじ)

9番
 畑中に 法輪まわす 翁あり
 大福配る 使いとぞ見ゆ


御本尊: 涅槃釈迦如来
本歌: 大乗の ひほうもとがも ひるがえし 転法輪の 縁とこそきけ  
コメント: 広々した畑の中に立つ気持ちよいお寺。88札所中、涅槃像(息を引きとったばかりのお釈迦さま)を本尊とするのはここだけ。境内の東屋で休んでいると、自転車に乗ったお爺さんがどこからともなく現れ、でかい大福もち6個入りのパックをくれた。ありがたい反面、とても食べきれず、増えた手荷物に戸惑った。いくつかは道中のお地蔵さんにお供えした。
【次の札所まで3.8㌔】


9番法輪寺境内
9番法輪寺納経所


10番への道(地蔵)



10番札所: 得度山 切幡寺 (とくどざん きりはたじ)

10番
 切幡の 空へと続く 石段の
 先にまします はたきり乙女


御本尊: 千手観音菩薩
本歌: 欲心を ただひとすじに 切幡寺 のちの世までの 障りとぞなる  

コメント: 仁王門をくぐったところにある333段の石段に圧倒される。「えいっ!」と気合を入れて登りきると、本堂の横に立つ布とハサミを手にしたはたきり観音がなんともたおやかで麗しい。修行中の弘法大師が、僧衣のほころびを繕うために布切れを所望したところ、乙女は織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出したという。
【次の札所まで9.3㌔】


10番幡切寺石段
10番切幡寺の石段


10番幡切寺石段2
鬱蒼とした木立が広がる


10番切幡寺(はたきり観音)
はたきり観音
11番への道(マンジュシャゲ)
台風襲来の前日であった


11番への道(八幡宮)
阿波市(旧市場町)の八幡宮
この近くの交番で道を尋ねたら、でかい車道を教えられ、
かえって遠回りになってしまった
地元民は必ずしもへんろ道に詳しくはないと学んだ


11番への道(八幡宮神殿)
神殿の中
天上には大きな櫂があった
由来を確かめなかった(ご存じの方、教えてください)


11番への道(八幡宮額絵)
飾られていた武士の絵
由来が気になる


11番への道(移動スーパー)
道を教えてくれた移動スーパーのおじさん


11番への道(吉野川)
阿波中央大橋で吉野川を渡る


11番への道(吉野川2)
四国三郎の異名をもつ
利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び
日本三大暴れ川に数えられている


11番への道(吉野川3)
このとき(2018年9月30日)の台風でも氾濫
流域の家々が浸水した


11番への道(JR徳島線)
JR徳島線を渡る


11番への道(鴨島駅)
鴨島駅
歩きへんろが最初に踏み入れるわりと大きな町


11番への道(台風前夜)
ホテルの窓から見た景色
目の前の山々がすっかり煙っている
翌日はこのホテルに缶詰めとなって台風をやり過ごした


ホテルロードサイド
台風一過


11番への道(焼山をのぞむ)
11番への道
我をまねくは焼山


11番藤井寺
11番への参道



11番札所: 金剛山 藤井寺 (こんごうざん ふじいでら)

11番
 この先は へんろころがし ぶじいのり(無事祈り)
 シューズのひもを 結び直さん

御本尊: 薬師如来
本歌: 色も香も 無比中道の 藤井寺 真如の波の たたぬ日もなし  
コメント: 参道の清らかな流れに心洗われる。その名の通り、藤の花が有名なお寺。遍路たちにとっては、これから始まる道中最大の難所を前に、装備をチェックし、身心を整え、地図を確かめ、気合を入れ、無事を祈る、マラソンのスタート地点のような札所である。
【次の札所まで12.9㌔】


焼山寺への道
さあ、いよいよ遍路ころがしのスタートだ!



四国の白地図第2回

CraftMAPの白地図を使用しています。より詳しい四国地図を見たい方は、こちら(地図蔵)を参照ください。  







   

● 奇蹟のトリオ 映画:『白痴』(黒澤明監督)

1951年松竹
166分、白黒

 ドストエフスキーの世界的名作に黒澤が果敢にチャレンジし、残念ながら敗退した――興行的でなく内容的に――作品である。
 
 一番の敗因は思うに、ドストエフスキーあるいはトルストイでもツルゲーネフでもいいが、ロシアの小説を日本の地にそのまま移管できるのか、という点にある。
 チェーホフならできる。
 実際、彼の書いた戯曲は日本でも長い上演の歴史がある。
 だがそれは、日本の役者が赤や金のカツラをかぶって、白粉を塗りたくって、ドレスや狩猟服を着て、アリューシャやミハイロフやイヴァンに成りすまして劇中のロシア人を演じるからである。
 そのとき観客が舞台の上に見ているのは、日本人でなくロシア人なのだ。
 舞台の魔術はそれを可能にする。
 
 黒澤はここで、原作の筋書きはほぼそのままに、舞台を札幌に移し、登場人物の名前をすべて日本名(例:ナスターシャ→那須妙子)に変え、日本で起こった出来事として描いている。
 それが結局、作品からリアリティを奪ってしまった。
 日本人とは相当に異なるであろうロシア人の性格、言動、習慣を、日本人(の役者)がそのまま引き継いでいるので、話が絵空事のようになって、人物たちが浮いてしまっている。
 登場人物がみな異常に激しやすく大仰に見えるのは、ロシア人なら直情径行で短気な国民性(+ウォッカ)ということで納得できるが、日本人が同じことをやると違和感が大きい。
 たとえ、北海道という、日本の伝統的農村文化から最も遠いところにある土地を舞台に設定したとしても。
 
 それを象徴するのが、三船敏郎のガウンである。
 黒澤は、三船演じる乱暴者の赤間伝吉(原作ではロゴージン)の部屋をわざわざロシアっぽい内装にして、暖炉を焚かせ、ロウソクを灯す。三船は、西洋人のようにガウンを着て、グラスに入った洋酒らしきを傾ける。
 そのガウン姿が、どう見ても、これからリングに上がるプロボクサーとしか見えないのである。
 
 赤毛のカツラをつけた日本人が西洋人を演じても通ってしまう舞台とは違って、映画はSFやファンタジーやコメディでない限り、相応のリアリティを要求される。
 とりわけ黒澤作品は、リアリティあってこそ精彩を放つ。
 その読み違いが、この映画の本質的な欠陥と言える。
 
 とは言え、魅力はたくさんある。
 何と言っても、三船敏郎、森雅之、原節子の3大スター競演!
 しかも、知的かつ複雑なキャラを演じることの多い森雅之が、心のきれいな白痴=亀田欽司(ムイシュキン公爵)を演じ、清純かつ優しいキャラを演じることの多い原節子が、暗い過去を持つ魔性の女=那須妙子(ナスターシャ)を演じているのが、興趣をそそる。
 
 名優の誉れ高い森は、さすがに見事に“白痴”を演じてはいる。
 『安城家の舞踏会』で演じたニヒルで皮肉家の没落華族の御曹司とは180度異なる。
 が、どうだろう? 
 作品中で森演じる“白痴”の亀田は、彼と接する周囲の人をその純粋さにより善人に変えてしまうが、ソルティにはそこまでの威力を森の演技からは感じとれなかった。
 もっとも、難しい役には違いないが。

 一方、原の魔性の女は、予想したよりずっとハマっていて素晴らしい。
 雪の白さに映える氷のごとき美貌は、グレタ・ガルボを思わせる孤高さと魔力。
 抑制のうちにも複雑な感情を伝えるその表情や演技も堂に入っている。
 これを観ると、原が「大根女優」と言われたのが信じられない。

 三船はあいかわらず、野郎っぽく、セクシーで、演技もうまい。
 どんな役にもなりきれるカメレオンのようなタイプの俳優である。


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左から、森雅之、三船敏郎、原節子
 

 この主役トリオを他の役者で組むとしたら・・・・・。
 ソルティは次のトリオが面白いと思う。
 
 那須妙子(ナスターシャ)=暗い過去ある魔性の女=小川真由美
 赤間伝吉(ロゴージン)=ナスターシャの男で乱暴者=三國連太郎
 亀田欽司(ムイシュキン公爵)=心のきれいな白痴=河津祐介

 ただし、大野里子(リザヴェータ夫人)役の東山千栄子はそのままで。
 
 いかがだろう?
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108 第1回(第1~5番)

 2018年9月下旬のある日、四国遍路88札所と別格20札所、あわせて108の霊場を歩いてめぐる旅に出た。これはその記録である。
 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。
 お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを説いたものが多い。
 ここでは、やはり寺の名前を盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などをオリジナル御詠歌にして詠んでみた。


【徳島県】
池谷駅
出発はJR高徳線・池谷駅


十輪寺
十輪寺(談議所)
弘法大師はこの寺で僧侶たちに説法し、
四国霊場の開創を談義したという


第1番霊山寺参道
1番霊山寺参道

第1番霊山寺山門
山門に到着


1番札所:竺和山 霊山寺(じくわさん りょうぜんじ)

1番
 霊山の 庭に還れる 日を想い 
 大師の杖を 買いもとめけり 


御本尊: 釈迦如来
本歌 : 霊山の 釈迦の御前に めぐり来て よろずの罪も 消え失せにけり
コメント: 境内の池のほとりのベンチに、着古した白衣をまとったフランス人らしい若い女性がひとり腰かけて、あたりを感慨深げに見回していた。遠い異国での長い巡礼を終えて、お礼参りのために1番に戻ったのだろう。真っ白な衣と買ったばかりの杖をまとった自分は、彼女の目にどのように映っていたことやら。
【次の札所まで1.4㌔】

霊山寺境内
霊山寺境内


阿波一宮神社鳥居
阿波一宮・大麻比古神社
1番から山の手に入った徒歩20分のところにある


阿波一宮神社
四国4県の各一宮神社も参拝、御朱印をもらうことにした


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第2番極楽寺
2番極楽寺山門



2番札所: 日照山 極楽寺(にっしょうざん ごくらくじ)

2番
 極楽へ 通じる道の 二つあり
 団体用と 個人用


御本尊: 阿弥陀如来
本歌 : 極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ
コメント: 札所でバスツアーの団体客とぶつかり、納経所で御朱印をもらう順番を先を越されると、やたら待つこととなり、時間をロスする。それが分かってからは、団体客を見かけるやいなや、参拝より先に納経所に走ることもあった。2番札所には、団体客専用窓口があった。(確か108札所中、ここだけだった)
【次の札所まで2.6㌔】

第2番極楽寺長命杉
境内には弘法大師が植えたと言われる
長命杉(高さ約31m、周囲約6m)がある
それがまことなら樹齢1200年になる・・・


3番への道(遍路札)
へんろ道を示す道標


3番への道(コスモス街道)
町を左手に見やりつつ野辺の道をいく



3番札所: 亀光山 金泉寺(きこうざん こんせんじ)

3番
 長生きを 望むものでもないけれど
 金の泉に 顔探したり


御本尊: 釈迦如来
本歌 : 極楽の 宝の池を 思えただ こがねの泉 澄み湛えたる
コメント: 底を覗いて顔が映ったら長生きできる、と言われている黄金井戸があった。17番井戸寺にも同じ趣向の井戸があり、「専売特許を侵しているなあ。しかも先手を取って・・・」とおかしく思った。(どっちが「元祖」かは不明)
【次の札所まで5.0㌔】


3番金泉寺
金泉寺境内


3番金泉寺井戸
黄金井戸


4番への道(休系所)
4番への道
こうした休憩所がところどころにあるのが有難い


4番への道(山道)
足元の悪い山道に入る


4番大日寺遠景



4番札所: 黒巌山 大日寺(こくがんざん だいにちじ)

4番
 山越えて やっと顔出す 大日や
 へんろの寺は かくもあるべし


御本尊: 大日如来
本歌 : 眺むれば 月白妙の 夜半なれや ただ黒谷に 墨ぞめの袖
コメント: 3番までの平坦なアスファルト舗道から離れて、畦道から切通しの泥道へと入っていった。小さな峠を越えてやっと見えた伽藍の威容に、「これぞ歩き遍路の醍醐味」とありがたく思った。が、これは序の口も序の口・・・・。
【次の札所まで2.0㌔】


4番大日寺境内
大日寺境内
遍路100回を超える関西の男性(86)から
金の納札(おさめふだ)をもらった
30年以上遍路を続けているとかで、ご朱印帳が真っ赤だった


5番への道(五百羅漢2)
番外霊場 五百羅漢
羅漢とは阿羅漢とも言い、最高の悟りに達した人のこと
個性的な表情や動作で表現されることが多い
ここのは真面目なものが多かった


5番への道(五百羅漢)
中にはこんな御方も・・・


5番への道(風景)
五百羅漢裏手から5番地蔵寺に下る階段

 

5番札所: 無尽山 地蔵寺 (むじんざん じぞうじ)

5番
 荘厳な 五百羅漢の 下にいる
 いくさ地蔵は のどかなるかな


御本尊: 勝軍地蔵菩薩
本歌 : 六道の 能化の地蔵 大菩薩 みちびきたまえ この世のちの世
コメント: 番外霊場の五百羅漢のすぐ下にある。静かな悟りの境地にいる阿羅漢たちの像を拝したあとで、夕暮れの地蔵寺はほっとするような懐かしい気配に満ちていた。樹齢600年の大イチョウもまた、厳めしさよりも優しさを感じさせた。第一日の無事終了のためもあろうか。
【次の札所まで6.5㌔】


5番地蔵寺(大師堂)
地蔵寺・大師堂
カラフルで美しい


5番大銀杏
樹齢600年の大イチョウ


別格1番への道(畑)
大山寺への道
すがすがしい朝の大気の中、最初の試練
あの山を登るのか・・・


別格1番大山寺山門
大山寺山門



別格1番札所: 佛王山 大山寺(ぶつおうざん たいさんじ)

1番
 本道を はなれて登る 大山に
 阿波の平野を 俯瞰する我


御本尊: 千手観音菩薩
本歌 : さしもぐさ たのむちかひは 大山の 松にも法の 花やさくらむ
コメント: 最初の別格寺は、88の本道から6キロ以上離れた標高450メートルの山の上にあった。途中の山道から見下ろした、山々を背にした吉野川流域の平和な光景と、我慢できずに野グソを垂れたことが記憶に残っている。
【次の札所まで6.8㌔】


別格1番大山寺
大山寺境内
静かで清浄で緑うるわしく
ああ、ずっとここにいたい!


大山寺からの風景
ついに遍路に来たなあ~




四国の白地図第1回

CraftMAPの白地図を使用しています。より詳しい四国地図を見たい方は、こちら(地図蔵)を参照ください。  







   

● ハレルヤ! 本:『大聖堂』(ケン・フォレット著)

1989年原著
1991年新潮社より邦訳発行
2005年ソフトバンク文庫

 分厚い文庫3冊の長編。
 借りたはいいが、なかなか読み始める決心がつかなかった。
 読み始めても物語世界に入り込むまで、時間がかかった。
 2巻目に入ってからは、ぐんぐん進んだ。
 若い頃はすぐに入り込めたのになあ~。

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 邦題どおり12世紀イングランドを舞台にした大聖堂建築をめぐる人間ドラマである。
 原題 The Pillars of the Earth 「地の柱」も大聖堂の意であろう。
 だが、話のスケールは大聖堂周辺にとどまらず、中世イングランドの一時期を描いた滔々たる大河ドラマ、群像ドラマといった趣きがある。
 2010年にリドリー・スコット総指揮により全8話のテレビドラマとして制作され、日本でも『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』のタイトルで2011年に放映された。DVD化されているようだ。

 ストリーテリングの巧みさ、善人か悪人かはっきりした魅力あるキャラクターたち、喜怒哀楽たっぷりの人間ドラマ、勧善懲悪の結末といったあたりが、お国の文豪チャールズ・ディッケンズを彷彿とさせる。
 フォレットはデビュー作『針の眼』以来、ベストセラーを連発しているらしいので、すでにディッケンズ同様の国民的作家と言ってよいのかもしれない。
 ソルティはこれが初フォレットであり、本作だけで判断するのは早計かもしれないが、ディッケンズにあってフォレットにないものは、ユーモアであろう。
 ユーモアがあれば、もっとスムーズに入り込めたと思う。
 逆に、フォレットにあってディッケンズにないものは、エロ描写である。これは時代的制約で仕方ないところであるが。

 著者あとがきによれば、フォレットはこれを書くにあたり、相当入念な勉強と取材をしたらしい。
 その甲斐あって、中世イングランドの様子が、実に生々しく、リアリティ豊かに描き出されている。
 話の核となる大聖堂建築の詳細はむろんのこと、修道院の日常、庶民の生活や労働のありさま、市(いち)を中心とする経済、王位をめぐる混沌とした争い、火器のない時代の戦の模様、教会政治の権謀術数・・・・。
 聖堂の構造について説明されても、残念ながら日本人で建築シロートのソルティにはほとんど理解できないが――聖堂の構造を各部の名称とともに記した図面を載せてくれたらいいのに!――それ以外については興味を持って読むことができた。


大聖堂


 思うに、中世ヨーロッパ社会の顕著な特徴を2語でまとめるなら、「暴力と信仰」ということになるのではなかろうか。
 これは、「俗と聖」、あるいは「政治と宗教」、あるいは「城壁と聖堂」、あるいは「地上と天上」、あるいは「現実と理想」と言い換えてもいい。
 この小説では、前項のダークサイドを代表するキャラとして、代々の国王や野心家のウォールラン司教や悪徳貴族ウィリアムなどが配され、後者の光の勢力を代表するキャラとして、フィリップ修道院長をはじめとする修道士たちが配される。
 敬虔で意志強固で慈悲深く不屈の精神を持つフィリップは、世俗の暴力に幾たびも襲われる。修道院の領する町を焼かれ、町民を虐殺され、市をつぶされ、石材や職人を不当に奪われ、そのたび聖堂建立のピンチにさらされて、いったんは絶望の淵に追いやられる。
 が、信仰と忍耐と粘り強さ、それに持って生まれた知恵によって不死鳥のごとく蘇る。
 このヘラクレスのような、一休さんのような、難題解決エピソードが、この物語の一つの面白さとなっているのは間違いない。読み手は、フィリップが頓智を駆使して難題を解決し、窮地を脱出するたびに、心の中で喝采を送ることになる。
 
 ラストは勧善懲悪で、フィリップは最後にして最大の逆境を、文字通り奇跡のごとく乗り超えて、世俗勢力を圧倒する。
 なんと、フィリップがイングランド国王を鞭打つシーンで終わるのだ!
 信仰の暴力に対する、宗教の政治に対する、理想の現実に対する、聖の俗に対する勝利を表している。
 ハレルヤ!

復活の光
 
 
 しかるに、十字軍のイスラム侵攻や異端カタリ派虐殺の例を挙げるまでもなく、実際のところ、宗教こそは、教会勢力こそは、巨大なる暴力装置だった。政治と宗教は、「俗 v.s. 聖」の形で対立していたのではなく、俗世間の覇権をめぐって対立していたのが実情である。
 フィリップの敵は教会外部にだけでなく、教会内部にこそいた。ウォールラン司教や副修道院長リミジアスが恰好の例である。
 この世では、ダークサイドの力が圧倒的に強く、フィリップの求める正義や慈悲や理想は負け続ける。
 フィリップの闘いは実に孤独なものだったのである。
 
 これはぜひともDVDを観たい。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損









● ブルー・スカイ・ブルー

 ネットでポップアップテントというのを購入した。
 ワンタッチで組み立てられるポリエステル製のテントである。

 近くの公園で、昼寝したり、読書したり、瞑想したりする際に使ったら、「快適だろうなあ~」と思った。
 強い日射しや虫が防げるし、プライベートな空間がつくれるし、ちょっとしたキャンプ気分も味わえる。
 自粛で引き籠ってばかりのストレスも緩和されよう。
 むろん、ソーシャルディスタンスはばっちりだ。
 
 値段はピンキリだが、山登りに持っていくつもりはないので、3300円のキリにした。
 それでも一応、UVカットコーティングしてあり、小雨くらいならしのげる耐水加工してあり、広げたときのサイズも幅 200 × 奥行 140 × 高さ 110 cm という大型である。
 余裕で寝そべることができ、座禅を組むこともできる。
 それで重さは、持ち運びに便利な1kgなのだから、最近の技術革新には感嘆する。
 
 テントを組み立てるのは本当に簡単で、専用の袋から出して宙に投げるだけでよい。
 その名の通り、ポップコーンのようにPOP UPする(はじける)。
 あとは四隅にペグを差して、大地に固定すればよい。
 わずか30秒で完成。 
 魔法のようだ。


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 厄介なのは収納である。
 元通りにきれいな円形に戻すのにコツがいる。
 商品と一緒に送られてきた説明ビラではまったく理解できなかった。
 ネットで検索したら、たたみ方を丁寧に教えてくれる素人さんの動画があった。
 ありがたや~。
 部屋の中で2回ほど練習してマスターしてから、いざ公園デビュー!


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 夕方いくぶん涼しくなってから出かけ、公園の木陰に設置した。
 が、やはりテントの中は暑い。
 日中はサウナ状態になるのは間違いない。(それはそれで痩身目的に使えるかもしれない)
 また、重量が軽いというメリットは、風に弱いという弱点になるのであった。
 テントの中に人がいる時はいいが、テントから離れているときに強風が吹いたら、西部劇に出てくるタンブルウィードのように転がっていくテントを、追っかける羽目になりそうだ。


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RJA1988によるPixabayからの画像
 

 午後5時を過ぎたらテントの中も涼しくなった。
 テントの中から見える風景を楽しみながら、1時間ほど読書した。
 意外に集中できる。
 移動できるプライベートルームがひとつ増えたような気分。
 次回は瞑想してみよう。


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ポリエステル素材とメッシュ素材、出入り口は二重で開閉できる


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テントのてっぺんのフックは本来はランタンを吊るすため

 
 一点だけミスったかな?と思ったのはテントの色である。
 好きなスカイブルーを選んだのだが、考えてみたらこれは作業用ブルーシートの色にほど近かった。
 なんとなく、公園のホームレスのような感じも・・・。
 (遊んでいる子供らが覗き込んでいったのはそのせいだったのか?)
 
 
 
  




● 新連載予告!  『オリジナル御詠歌でめぐる四国遍路108』

 このところ、一昨年に結願した四国遍路の旅の記憶が、ちょっとしたきっかけで不意によみがえってくることが多い。
 旅を終えたばかりの時に圧縮保存しておいたものが、時間が経つにつれ解凍して記憶の底から浮上してきたみたいな感じ。

 あそこであんなことがあった。
 ここでこんな人と出会った。
 かしこでこんなものを見た。
 そこではこんなことを思った。
 ・・・・・等々。
 
 きっと、ここ数ヶ月のコロナ自粛のせいで旅に出られない欲求不満から、頭の中で自然と四国遍路の記憶を引っ張り出して反芻しているのだろう。
 あるいは、あまりに重すぎてすぐには消化できなかったものが、やっと消化(昇華)できるほどに余裕が生まれたのだろうか。

 ならばこの機会にブログ上でもう一度、四国遍路をめぐってみよう。
 1番札所から順に、徳島→高知→愛媛→香川の108の霊場(88札所+別格20札所)をたどり、撮影した画像とガイドブックと旅日記をたよりに、記憶を新たにしてみようではないか。


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 ただの日誌では芸がないので、ちょっとした趣向を凝らす。

 各札所には御詠歌と呼ばれる短歌がある。
 お寺の名前を歌の中に盛り込み、法の尊さや御仏のありがたさを詠んだものが多い。
 たとえば、徳島にある22番札所・白水山平等寺(はくすいざんびょうどうじ)の御詠歌は、

  平等に へだてのなきと きく時は あらたのもしき 仏とぞみる
  

 これにならって、オリジナルの御詠歌を作ってみたいと思う。
 やはり寺の名前を歌に盛り込みながら、道中の思い出や札所の印象などを一首に込める。

 1回の記事で6つの札所をめぐれば、18回で完遂し、108の歌ができる。
 3日に1度くらいのペースで記事をアップできれば、約2ヶ月で四国一周できる。
 ちょうど自分が実際の旅で要した日数と重なる。

 コロナ自粛でもバーチャルツアーなら可能である。
 読んだ人が、一緒に四国を旅した気分になってもらえれば、つまりソルティと空海と同行三人になってくれたら、うれしい限りである。
四国巡礼坊や


● 阿含経典を読む10 マヤ=アルディス効果

 3月から読み始めた、ちくま学芸文庫『阿含経典』全3巻(増谷文雄訳)が読み終わって、今は引き続き、岩波文庫『真理のことば(ダンマパダ)』(中村元訳)を読んでいる。
 毎朝、少しずつ音読している。

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 この音読=声に出して読むという行為が、実に良い効果を持っていることに気づかされた。

 脳科学のほうで、音読は黙読にくらべて脳の活性化に役立つと言う説がある。
 「読む(目で追う)」にプラスして、「耳で聞く」と「口で話す」を同時に行っていて、脳の異なる部分を使用するからである。
 読んで=インプット、話して=アウトプット、聞く=インプット、という繰り返しも良い刺激になるらしい。
 夜間の睡眠で脳がリセットされている朝起きがけにやることが、とくに効果的という。
 
 真偽のほどは分からないが、朝の音読が頭をすっきりさせ、気持ちよい一日のスタートを切るのに役立つことは実感できる。
 とくに、新聞記事とかエロ小説とかではなく、お経のような一般に「ありがたい」とされるものを読むのは、精神的に良い。これに線香でも焚こうものなら、リラックス効果倍増である。鬱の人にもおすすめだ。
 子供の頃、隣家の老人が毎朝読経を欠かさなかった理由が、ようやく分かった。
 たとえ、経の意味内容は十分に理解できていなくとも、それなりの効果はあるのだ。
 そう、「読む」とは元来、「一字一字声に出して言う」ことを意味する。
 
 ソルティの場合、増谷文雄による分かりやすい和訳を読んでいたので、内容も理解しながら読むことができた。
 しかも、お釈迦様の直説(に近い)とされる『阿含経典』を音読することには、思いもかけない利得があった。
 お芝居をやる人が脚本に書いてあるセリフを口にすることで、その人物になりきっていくように、お釈迦様の言葉を口にすることで、あたかも自分がお釈迦様になって比丘や在家信者や神々や悪魔を相手に語っているような気分になれるのである。
 
比丘たちよ、人間は、現在世においても、類をもって集まり、類をもって結合する。劣れる好みを抱くものは、劣れる好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合する。すぐれた好みを抱くものは、すぐれた好みのものと、類をもって集まり、類をもって結合するのである。
 
 芝居好きのソルティは、お釈迦様の声と話し方を自分なりに作り上げ、お釈迦様のセリフを言う時は、普段よりも低く響く声音で、ゆっくりと穏やかに語る。悪魔のセリフを言う時は、シューベルトの『魔王』を想像し、耳に心地よいが下心を秘めた誘惑者の調子で語る。
 そんなふうに音読していると、自分がお釈迦様になって悪魔を折伏したような心地さえしてくる。
 お釈迦様になりきることができれば、自然と行住坐臥がそれらしく整ってくる。
 これを「マヤ=アルディス効果」という(笑)。

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王女アルディスを演じる北島マヤ
(美内すずえ『ガラスの仮面』白泉社より)

 
 これにすっかりはまって、引き続き『真理の言葉』を読んでいるのだが、個人的な嗜好に過ぎないのかもしれないが、中村元の訳より増谷文雄の訳のほうが「マヤ=アルディス効果」を得やすいようだ。
 後者の訳(セリフ回し)が、ソルティの想像するお釈迦様キャラに近いからだろう。
 
 今後も、音読を朝の日課にしよう。
 
 
 

● 映画:『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)

2019年韓国
132分

 カンヌ映画祭パルム・ドールと米国アカデミー賞作品賞を受賞した話題のブラックコメディ&スリラー。

 カンヌはともかくとして、オスカー作品賞はなぜ?――と思った。
 韓国語作品で制作も韓国だから、外国語映画賞なら分かる。日本映画でもかなり前にモックン主演『おくりびと』(2008年滝田洋二郎監督)が受賞している。
 なぜに作品賞が可能なの?

 調べてみたら、アカデミー作品賞の選考基準は以下の通りであった。

原則として前年の1年間にノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く、など)を満たした映画作品について扱われる。(ウィキペディア『アカデミー賞』より抜粋)
 
 つまり、米国以外の国が制作した英語以外の作品でもOKなのだ。
 『パラサイト』は作品の出来+配給元の力量により、上記の条件を満たし得たのであろう。
 ともあれ、米国アカデミー賞の長い歴史において、英語以外の作品が作品賞を受賞したのは初めてだというから、まぎれもない快挙である。

 この快挙には、やはり社会世相というものが影響しているのは間違いなかろう。
 というのも、本作のテーマは同じ2019年に公開され話題となった『ジョーカー』、『 Us アス』と共通するからであり、はからずも今年になってそれら2作品をミックスして現実化したかのような事件――白人警官の暴力による黒人男性窒息死に端を発しアメリカ全土に広がった暴動――の根っこに潜むひずみを描いているからである。
 すなわち、格差社会である。

 こうした流れを見ていると、映画という表現媒体のもつ先見性というか、嗅覚の鋭さというか、時代を読む力というものに改めて驚かざるを得ない。
 いや、映画に限らず、文学でも絵画でも音楽でも舞踏でも、すぐれた芸術作品は、大衆の無意識や時代の行方を敏感を読んで、先取って表現するものなのだ。

 実際この映画は、コメディとしてもスリラーとしても社会ドラマとしてもよくできている。
 笑って、ハラハラして、ドキドキして、衝撃を受け、最後に重たい気分になり、鑑賞後は深く考えさせられる。
 一級のエンターテインメントでありながら、格差社会の不条理を鋭く打つ力作である。


さいころピラミッド

 
 韓国を代表する名優、ソン・ガンホの演技が素晴らしい。
 格差社会の底辺をしぶとくも楽天的に生きる一家の、愛情深い父親を見事に演じている。
 彼の吐くセリフが深い。

 大雨のため一家の住む貧民街の半地下の家々が水浸しになり、住民たちは近くの体育館に避難し、夜を過ごす。
 製材所に置かれた丸太のように、多くの避難民ととともに体育館の床に並んで横たわりながら、「これからどうするのか?」と聞く息子に対して、父親は語る。

ノープランが一番だ。
計画を立てると必ず、人生そのとおりにいかない。
皆を見てみろ。今日体育館に泊まるって計画したと思うか?
でもどうだ、皆床にころがっている。
だから人は無計画なほうがいい。
計画がなければ間違いもない。最初から計画を持たなければ、何が起きても関係ない。
人を殺そうが、国を裏切ろうが、いっさい関係ない。

 格差社会の底辺から這い上がることもままならず、底が抜けた絶望の果てに生まれた人生哲学。
 アメリカも、韓国も、日本も、国籍に関係ない箴言である。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 風評被害の生まれ方

 このまえの日曜の晩、友人と会食するために、一ヶ月ぶりに都心に出かけた。
 両者の住まいの中間にある池袋で会うことにした。
 池袋駅西口の東京芸術劇場前にある公園、いわゆるウエストゲートパークで待ち合わせた。

 しばらく前までここは工事をしていた。それも終わって、野外舞台のある円形劇場を兼ねた、明るく清潔な公園に生まれ変わった。
 一角にできたカフェもおしゃれで、芸術劇場のコンサート前後に寄るのにあつらえ向きである。

 かつてこの公園は、チーマたちの縄張り争いやホームレスのたまり場として、あまり印象良くなかった。
 ここで待ち合わせなんかしたら、オヤジ狩りに遭ってもおかしくはない雰囲気があった。
 円周の孤に沿って設置されている木のベンチに腰掛け、友人を待ちながら、そんな記憶をたどった。
 
 ベンチに座っている人たちは、隣りの人と1m以上の間隔を空けて横並びに座っている。
 もちろん、みなマスクをつけている。
 何も言わなくとも、自然とそのように配慮できるところが、日本人の美点だろう。


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 友人は酒を飲まないので、駅からやや離れたファミレスに行った。
 なるべく混雑は避けたい。
 さいわい店内は空いていて、テーブル間隔も十分離れているので、ここなら大丈夫だろうと思った。
 やはり、都心の繁華街での会食は気を遣う。
 池袋駅西口はまさに「夜の街」でもあるので、ウイルスが至る所にいるような気さえしてくる。
 見えない敵は厄介である。

 友人は現在テレワーク中で、毎日、自宅で携帯電話とパソコンを使い仕事をしていると言う。
 「自分のペースで働けて、さぼれるからいいねえ」と言ったら、思ったより忙しくて朝から夜までパソコンに向かっているという。
 積もる話をして、気づいたら3時間近く経っていた。
 どちらかがウイルスを持っていたら、相手にうつしていただろう。
 
 
 昨日は、足のリハビリのため、いつもの病院に行った。
 マッサージを受けながら担当の理学療法士と話していたら、こんなことを言う。
 「市内の〇〇という店で、スタッフに感染者が出たそうですよ」

 ソルティも知っている飲食店で、たまに店の前を通ることもある。
 が、主に若者をターゲットにしているこじゃれた店なので、オジサン、入ったことはない。
 「え? それどこからの情報?」と聞くと、
 「この前、髪切りに行って、そこの理容師から聞いたんです。その理容師は友だちから聞いたみたいです」
 「その友だちはどうやって知ったの?」
 「その友だちが、〇〇店の向かいの店でバイトしていて、ある日、〇〇店のシャッターが下りていて、そこに『感染対策を行うため、3日間休業します』と書かれていたんだそうです」
 「ふ~ん」
 
 家に帰って、さっそく家族に伝えようと思い、そこではっとした。
 ソルティの得た情報はまた聞きのまた聞きで、伝言ゲームのように誤って伝わっている可能性大だ。
 しかも、元の情報自体も確かなものではない。
 「感染対策を行う」=「感染者が出た」ではない。
 店内のテーブルの配置や座席の向きを感染対策用に変える、ということかもしれない。
 テーブル間に新たに衝立を設置しているのかもしれない。
 大体、本当にスタッフに感染者が出たら、3日間休業ではすまないのではないか?

 ここで下手に店の名前を口にしてしまったら、そこからまた噂は広がっていくことだろう。
 そのうち、ネットに店名や住所を書くヤツも出てくるかもしれない。
 風評被害ははかりしれない。

 こんなふうにして、自分でもたいして意識しないうちに、コロナ差別に加担してしまうのだなあ。

 
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Gerd AltmannによるPixabayからの画像





● 奇蹟の一枚 映画 : 『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)

1937年日本、ドイツ
106分、白黒

 制作年の1937年とは、日独伊三国防共協定が締結された年であり、日本が満蒙開拓に力を入れていた頃である。
 そんな時代の日独合作であるから、当然、国策映画である。
 ドイツの観客に対しては、日本という国や文化および日本人について知ってもらい好印象を与えること、日本の満州支配について理解を持ってもらうこと、が狙われている。ドイツとは、ナチスドイツである。
 日本の観客に対しては、日本の風土や文化の素晴らしさ、勤勉や礼節や親孝行や愛国心などの美徳、天皇への忠誠を訴えかけ、やはり満州開拓(植民地化)の必要性を説くものとなっている。日本とは、大日本帝国である。
 時代と制作背景を伝えるシーンがある。


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 協同監督として日本からは伊丹万作(伊丹十三監督の父親)が関わっているのだが、制作上の行き違いから両監督の対立となり、結局、ファンク版と伊丹版の二つのフィルムが作られた。現在、観ることのできるのはファンク版のほうである。
 そのことが、かえってこの映画をたいへん興味深い、愉快なものにしている。
 ドイツ人ファンクがはじめて見た日本という国、日本人という国民が、その驚きと感動のままに誇張して描き出されているのである。
 一昔前の西洋人がイメージした典型的な日本のオンパレード。その徹底した「ザ・日本」ぶりに、国策映画と知りながらも、笑いがこみあげてくる。

富士山、 桜吹雪、 相撲、 芸者、 三味線、 日本舞踊、 お能、 お茶、 虚無僧、 キモノ、 日本髪、 藁ぶき屋根、 水田、 棚田、 長襦袢、 地震、 ひな人形、 なぎなた、 剣道、 厳島神社、 お寺、 仏像、 神道、 書道、 たたみ、 襖、 布団、 囲炉裏、 武士道、 浅間山、 鉦つき行者、 蝶々夫人・・・・。

 こうした日本的表象が、時も場所もいっさい脈絡なく、縦横無尽に(でたらめに)次々と繰り出されるものだから、日本人が見たらツッコミどころ満載のへんてこりんになっている。
 たとえば、厳島神社で鹿と遊んでいる振り袖姿の少女が、女中に呼ばれて池のある日本庭園を通り抜けると、東京にある日本家屋のすまいにつながるという、ゴダールびっくりのモンタージュである。

 ストーリーの奇想天外もすごい。
 ドイツに留学した男・輝雄(=小杉勇)は、個人主義を知ってすっかり西欧かぶれしてしまい、帰国したのち、親が決めた婚約者・光子(=原節子)をふる。
 絶望した光子は自害する決心をする。
 しかし輝雄は日本の風土や文化の良さに目が開かれ、周囲の説得を受け、家や親を守ることの大切さに気づく。
 光子との結婚を決めた輝雄は、光子の家に向かう。
 が、光子は書置きを残し、婚礼衣装を手に、浅間山に向かっていた。

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 クライマックスは、噴火中の浅間山で、靴下だけの輝雄が、死に場所を求めている光子を探し回るシーンである。
 なぜ火山なのか不思議に思うところだが、これはファンク監督が山岳映画を得意としていたからである。
 実際、なかなか迫力あるスぺクタルな登山シーンで、「いや、二人とも山頂に達する前に有毒ガスでやられるでしょ?」というツッコミをものともしない。
 振り袖姿に草履ばきのまま、汚れもせずに頂上付近まで登ったナデシコ・ジャパン光子の強靭さには、ドイツの観客たちは恐れ入ったはずだ。
 火山礫が飛び交い、火山灰が降り注ぎ、溶岩が流れ、地震で民家がぺちゃんこに倒壊する中、無事ふもとまで戻った二人は、結婚して子供もできて、新天地満州で幸福に暮らす。

 伊丹万作をはじめとする日本側スタッフが異議を申し立てたくなったのも無理はないと思う。
 が、この破壊的な面白さは日本人には出せなかっただろう。
 日本を知らないドイツの観客を念頭において、日本をよく知らないドイツの監督が撮ったからこそ、ここまで奇想天外で自由な発想が可能だったのだ。

 そしてまた、当時16歳の原節子の破壊的魅力もしかり。
 とんでもない美少女ぶりである。
 同じ年齢時の吉永小百合や後藤久美子、いわんや橋本環奈も、なにするものぞ。
 生来の造形的な美しさのみならず、原節子が内に秘めていたどこか刹那的な空虚のようなものを、ファンク監督は見抜いて引き出している。
 それは、後年、原が小津安二郎監督と出会って、はじめて十全に引き出されたものである。
 ただの美少女タレント、美人女優には決して終わらないであろうことを、このフィルムは予告してあまりある。

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やまとなでしこ!


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この美貌!


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奇蹟の一枚!


 ほかにも、日本のハリウッドスター第1号たる早川雪洲が原の父親役で出演、音楽を山田耕筰、特撮技術を円谷英二が担当しているのも見逃せない。
 
 いろんな意味で永久保存にふさわしい第一級の珍品映画である。

 

おすすめ度 : ★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 映画 : 『名探偵ホームズ/黒馬車の影』(ボブ・クラーク監督)

979年イギリス カナダ
124分

 DVDパッケージ解説の「数あるシャーロック・ホームズの映像化作品の中でも屈指の名作」という謳い文句に誘われ借りてみた。
 「だまされた~」とまでは言わないが、「屈指の名作」は言い過ぎ。

 19世紀ロンドンに実在した連続猟奇殺人魔・切り裂きジャックとの対決を呼び物としているように、コナン・ドイルの原作ではない。
 それはいいとしても、肝心のホームズ(=クリストファー・プラマー)の推理がさえず、謎の解き明かしの大部分を霊媒(=ドナルド・サザーランド)に頼るというのがいただけない。
 しかもこのホームズ、勘も鈍く、運動神経もいまいち。大事なところで気絶するは、人前で涙で頬を濡らすは、怒りにまかせて病院内で乱闘騒ぎを起こすは、黒幕たちを前に法廷弁護士のような縷々の大演説をぶつは、原作のホームズとかけ離れている。
 朋友ワトソンへの愛情あらわなまなざしといい、人間らしさを強調したホームズ像と言えなくもない。
 が、シャーロキアンのソルティにしてみれば、「こんなのホームズじゃない!」とぼっそり呟きたくなる。

 19世紀末のロンドンの街の風情を堪能できる映像はよい。
 朴訥として人の好いワトソンを演じるジェームズ・メイソンの名優ぶりも光っている。


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おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損








● 圧着ハガキ

 先日、厚生労働省から圧着ハガキ(情報保護のため糊付けしてあるやつ)が届いた。
 「なんだろう?」
 はがしてみると、雇用保険の給付に関するお知らせであった。

 「厚生労働省が所管する統計について、長年にわたり不適切な取扱いをしていたことにより」、2004年8月以降の雇用保険の給付額が低く計算されていた。ついては、表記の通り追加給付を行う。
 ――という知らせであった。
 
 ソルティは、2011年7月~2012年4月まで失業保険をもらっていたので、対象者に当たる。全国で1860万人以上が該当するという。
 昨年の秋くらいだったか、最初の通知が届いた。
 「そうか。低くもらっていたのか」と思い、指示に従って同封されてきた用紙に振り込み口座等を記入し、送り返した。
 「9ヶ月分だから結構な額になるかも。飲み代2回分くらいは還付されるのでは・・・」と期待しながら。
 それから、骨折事故があり、コロナも発生し・・・。
 すっかり忘れていた。
 
 「さて、いくらかな?」

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 脱力・・・・・・

 むろん、思ったよりずっと少なかったからということもあるが、それよりも、このわずかな額のために使われた人件費や郵送代などを思ってのことである。

 調べてみたら、追加給付の総額は約300億円だという。
 1860万人に通知するための圧着ハガキ作成費と郵送料と銀行振込み手数料だけでも30億はゆうに超えるだろう。人件費(委託費)を加えたら、いくらになるだろう?
「お役所仕事」という言葉が頭に浮かんだ。

 むろん、不正がただされ、適正に会計処理されることは大切である。
 だが、一般企業で同様なことが起きたら、担当部署は具体的な形でなんらかの責任を取らされざるを得ないだろう。
 アベノマスク然り、GOTOキャンペーンも然り・・・。
















● 阿含経典を読む 9 スバッダの暴言


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増谷文雄 編訳 『阿含経典』(ちくま学芸文庫)


 お釈迦様が亡くなられた。

 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。
 「諸行無常である。生きる者の死なないことがあろうか」と。

 同じ頃、お釈迦様の十大弟子の一人であるマハー・カッサパは、500人の比丘を引き連れて、クシナーラに向かっていた。お釈迦様の後を追って遊行していたのである。
 一行が樹の根方で休んでいると、クシナーラからやって来た一人の男が告げる。
 「お釈迦様は7日前に亡くなられました」
 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。

 ――と、そのときである。
 一人の年老いた比丘が、号泣している比丘たちに向かって、こう言い放った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。われらは、かの大沙門からまったく脱れたのである。<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられたが、いまや、われらは、欲することなし、欲せざることをなさないでよいのである」
 
 この男こそ、スバッダである。
 
 お釈迦様の最期を語る崇高にして美しい物語の中にあって、このスバッダの暴言は悪目立ちしている。あたかも、清らかな流れに一杯の墨を投じたみたいに。
 それゆえ、かえって興味が引かれるのである。
 年老いた比丘なら、悲嘆にくれて正気を失っている若い比丘たちを諭したり、慰めたりしそうなものだが、逆に周囲を不快にし、場を凍り付かせるような、とんでもないことを言う。
 
 一つには、スバッダが長いこと世俗で暮らしてきて、年老いてから出家した男だからである。
 まだ修行も浅く、智慧も浅く、貪瞋痴(欲と怒りと無知)に覆われているのである。お釈迦様に憧れて出家してはみたものの、あまりのサンガの律(規則)の厳しさに、「こんなはずじゃなかった」と後悔している最中だったのかもしれない。とくに、彼のメンター(師)たるカッサパは、教団の中でもっとも厳しく律を守る人であったから、普段からあれこれ細かい注意を受けていた可能性がある。

 あるいは、スバッダは今でいうアスペルガーだったのかもしれない。
 つまり、「空気を読めない」、「他人の気持ちを推測するのが苦手」、「思ったことをすぐに口にしてしまう」、「パニックを起こしやすい」といった特徴があり、集団生活になじまないタイプである。これは脳の構造という先天的なものらしいから、当人を責めるのは酷である。
 
 スバッダの暴言を耳にしたカッサパは、さすがに阿羅漢であった。
 アスペルガー症候群なんてものは当然知らなかったが、スバッダを責めたり叱ったりすることなく(少なくともその場では)、嘆き悲しんでいる比丘たちに向かってこう言った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。友よ、世尊はかつて、こう説かれたではないか。<すべてのいとしみ愛する者といえども、生きて別れ、死して別れ、死してののちはその境界を異にする>と。友よ、かの生じ、生成し、造られ、そして壊するものにして、それが壊することなしなどという道理が、どうしてありえようか」


クロアゲハと彼岸花


 それにしても不思議に思うのは、スバッダの言葉の中味である。
 「<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられた」
 つまり厳しい規則によって、束縛され、抑圧され、管理されてきたことの愚痴を言っている。 
 思わずソルティは突っ込みを入れたくなる。
 「それが嫌なら、なんで出家したの? なんで還俗しないの?」

 別に誰から頼まれて出家したわけでもなかろうに・・・。
 親のあとを継いで檀家寺を守らなければならないとか、現在のタイ国のように一生に一度の出家が義務付けられているというわけではあるまい。
 たとえ、認識が甘く覚悟が足りないまま、いきおいで出家してしまったとしても、やってみて自分に合わないと思ったなら、還俗すればいいだけの話ではないか。我慢してまでサンガに居続ける義務などなかろうに。
 これが会社なら話は別である。給料をもらうため、生活のため、家族を養うため、ちょっとくらい嫌なことがあっても、口うるさい上司や厳しい規則があっても、我慢しなければなるまい。であればこそ、横暴なカリスマ社長が亡くなったら、葬儀の席で“心の中で”呟くことも許される。
 「これで、あの鬼社長から解放された。これからはもっと自由な社風になるだろう」
 
 スバッダの「われら」という言葉から推測するに、どうやら比丘衆の中にスバッダと同じような考えの持ち主が他にもいたんじゃなかろうか。
 カッサパの目の届かないところで、タバコを吸いながら愚痴をこぼし合っている風景が目に浮かぶ。
 「なんだよ、あの規則、意味ねえじゃん」
 「だよなー。便所のあと手を洗おうが洗うまいが、人の勝手だよ」
 「うざいんだよ、あのジジイ。いつも俺たちを見張っていやがる」
 「大方、こっちを支配したいだけなんじゃねえの?」
 (注:「トイレのあと手を洗え」という規則は仏教の「律」にはありません。たぶん・・・・)
 
 このときには、お釈迦様の名声はインドじゅうに広く知れ渡り、各地の領主から篤い尊敬と保護を受け、次々と土地や食べ物や衣類などのお布施が集まり、謁見や出家を願う者が次々と訪れ、組織は巨大化していたであろうことは想像に難くない。
 巨大組織の常で、そこは出家と言えども玉石混交、さまざまなタイプの、さまざまな癖のある、さまざまな機根(悟る潜在力)をもつ、さまざまな思いを抱えた比丘たちがいたであろう。人間関係も複雑になる一方だったに違いない。
 実際、お釈迦様は亡くなる前に侍者のアーナンダに対し、チャンダという名前の比丘の処遇について遺言を残している。チャンダは「暴戻にして非道」で、周りの人間を困らせていたらしい。お釈迦様は彼に梵壇罰を与えた。これは簡単に言うと、「誰も彼とは口をきいてはならない」という罰である。

 各人の出家の理由も、初期のように「悟りや解脱を求めて」、「なにかしら善を求めて」、「どうしようもない苦から逃れるため」といったものだけでなく、より俗っぽいものが混じってきていたのではかなろうか。
 たとえば、「釈尊メンバーとしてのステイタスが得られる」、「お布施をもらいやすいから生活に困らない」、「仲間がいるので孤独が癒される」、「世俗で働くのが嫌」、「結婚を強制するうるさい親族から逃れるため」、「集団の中でパワーゲームに興じられる(人を支配できる)」、「若い比丘たちが老後の面倒を見てくれる」、「罪を犯し村八分になった者の逃げ道として」、「厳しいカースト差別から逃れるため」等々。
 スバッダのような老人は、特に生活と老後不安の点で、出家生活に期するところがあったのかもしれない。
 
 いたずらな想像ついでに。
 あるいは、スバッダは周囲の比丘の苦しみを和らげようと思い、ジョークを言っただけなのかもしれない。悲しみに閉ざされる心を解きほぐそうと試みたのかもしれない。
 ところが、そのジョークは見事はずした。
 だれも笑ってくれなかった。
 まさに親父ギャグ。
 そのうえ悪いことに、冗談やユーモアを解することのまずなさそうな、真面目でお堅いカッサパの耳に入ってしまった。
 この場合、スバッダでなくて、スベッタということになる(――まさに親父ギャグ)。
 
 あれから2500年経った現在からみると、このスバッダの暴言こそが、カッサパをして、「お釈迦様が説かれた法と定められた律をちゃんと形にして残そう」と思わせしめ、その後の五百人結集につながったのである。いま我々が学んでいるお経が口伝として残り、仏教が生まれるきっかけとなったのである。

 そう考えると、スバッダとその暴言にたいして、仏教を愛する者は感謝しなければなるまい。



金閣寺




 
 
 
 

● 晴明と道満 本 : 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(沖浦和光著)

 2004年岩波書店

 コミック『陰陽師』のあまりに現実離れした展開にシラけた反動からか、陰陽師の実像について調べたくなった。
 恰好の本があった。

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 沖浦和光は大阪生まれの研究者で、比較文化論や社会思想史を専門としている。
 三國連太郎との対談本『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)や、当ブログでも紹介した『辺界の輝き 日本文化の深層をゆく』(こちらは五木寛之との対談、ちくま文庫)など、日本文化の周縁あるいは底辺に生き、様々な差別を受けてきた賤民について、長年調査研究し深い造詣を有している人である。
 そう、陰陽師もまた賤民の類いであった。

 いや、安倍晴明は朝廷から正四位下をもらっている貴族ではないか。宮中に出入りし帝への拝謁も許されていた官人ではないか。と反論が起こるのも当然。
 陰陽師には、晴明やその師の賀茂忠行・保憲父子のように律令体制下で国に仕え、中国由来の陰陽五行説を基盤とする占いや天文観測を行う官人陰陽師と、おそらくは渡来人を祖とし播磨地方を中心に起こり、次第に各地に広がっていった民間陰陽師と、二系統あるらしい。
 賤民として差別されてきたのは後者の陰陽師であり、晴明の最大のライバルとして知られる蘆屋道満はその代表格なのである。

 近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈禱、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の製作販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった。
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事する者も少なくなかった。祈禱だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術なども併用した。彼らが「巫術」をもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫(やぶ)医者」と呼ばれていたのである。

 ちょっとした雑学であるが、「やぶ医者」の語源は藪医者ではなくて野巫医者、すなわち「在野で巫術(=シャーマニズム)を行う医者」だそうである。
 なんか蘆屋道満のほうが好感持てる。

晴明と道満
晴明と道満(『北斎漫画』より)


 歴史上人物としての安倍晴明は、現在小説やコミックや映画などで描かれる呪術を駆使するスター超能力者とは違っていたらしい。
 
 史料を調べてみると、安倍晴明が式神を使ったり呪詛を行った事実は出てこない。晴明を含めて平安中期の官人陰陽師が、式神を操ったり、呪詛を行ったという史料は見当たらない。そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていたのである。

 晴明の確かな事跡が史料に出てくるのは、当時の朝廷貴族の日誌・記録である。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などで語られる安倍晴明像は、すべてその死後に語り紡がれた説話であって、実際にあった史実ではない。

 巷間に流布されているスーパースター伝説が語られるようになったのは、室町時代初期に晴明自筆(むろんウソ)と言われる『簠簋(ほき)内伝』という書が現れてからという。

 耳目を惹きつける奇想天外な伝説を喜んで受け入れ、聞き、物語ったのは、むろん第一に庶民であったろう。
 が、もともとの道満系の民間陰陽師たちもまた、自らのステイタスを高めるために、商売繁盛のために、「われこそは晴明の末裔なり」といった流儀でスーパースター伝説を利用したようだ。

 ジブリの映画『かぐや姫の物語』や永久保貴一の漫画『カルラ舞う』に登場する木地師の人たち――彼らもまた被差別の民であった――が、「自分たちは惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫」と称し、山中を移住し暮らしていたのは知られるところである。
 身分社会において差別されてきた人々が、自らのルーツをかえって身分社会の高いところに求めようとするのは、なんとも切ないことである。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 映画 : 『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)

 1974年ドイツ
 109分

 原題は Jeder für sich und Gott gegen alle
 訳すのが難しい。
 直訳すると、「自身のためのそれぞれと、すべての人のための神」
 映画の内容から意訳するなら、「万人のための神は、個人個人を救わない」か。

 舞台は19世紀前半のドイツ。
 といっても、1871年に一つの国として統一される以前の、35の君主国と4つ自由都市からなる「ドイツ連邦」の時代である。
 その中の一つバイエルン王国(あのヴィスコンティの映画で有名な狂王ルードヴィッヒ2世の国)で、実際に起きた出来事を描いたものである。
 
 1828年5月26日、バイエルン王国ニュルンベルクのウンシュリット広場で、16歳ほどの少年が発見される。身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
(ウィキペディア「カスパー・ハウザー」より抜粋)


 映画は、長いこと地下牢に監禁されていたカスパーが、何者かによって外に連れ出されるシーンから始まる。
 どうやら、物心つく前からそこにひとり閉じ込められていたらしく、言葉も知らず、人間や動物の姿も外の風景も見たことがなく、鏡をみたこともない。いわば、中身は赤ん坊そのままで、身体だけ大人になったよう。
 文明社会に引っ張り出されたカスパーは、周囲の助けを借りて、遅ればせながら言葉を覚え、礼儀作法を身につけ、読み書きやピアノを弾くこともできるようになり、“人間らしく”なっていく。
 しかるに、どうしても世間に馴染むことができず、混乱は募るばかり。
 ある日、何者かの手によって、カスパーは刺し殺されてしまう。

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カスパー・ハウザーの肖像

 不思議な話である。
 カスパーの正体は、さる高貴な領主一家の捨て子ではないかとか、ナポレオンの隠し子ではないかとか、いろいろな説があるらしく、いまだに真相はわかっていない。なにやら陰謀めいたものが背景にあるらしい。
 ともあれ、映画のテーマは彼の出生の謎を追うことにはなく、赤ん坊のごとき無垢の人間が文明社会と出会ったとき、いったい何が起こるかを描くことにある。
 その意味で、観ていて連想するのは、涙なしには読めないダニエル・キースの傑作『アルジャーノンに花束を』(早川書房発行)である。
 
 監督のヴェルナー・ヘルツォークは、ヴィム・ヴェンダースやファスビンダーらとともに1970年代に世界映画界を席巻したドイツの巨匠で、芸術性とスケールの大きさが特徴であった。
 クラウス・キンスキーを主演にした『アギーレ/神の怒り』(1972)、『ノスフェラトゥ』(1979)、『フィツカラルド』(1982)など、芸術系の旧作映画を専門に上映する単館、いわゆる「名画座」によくかかっていたのを思い出す。
 BGMとしてクラシック音楽を使うのもお決まりで、本作でもモーツァルト『魔笛』のアリアや『アルビノーニのアダージョ』がここぞとばかり流される。今聞くとスノビズムな感が強い(笑)。

 カスパーの文明化に関して興味深いのは、彼が最期まで神という概念をまったく理解できなかった点である。本作でも、教会のミサの最中に気分を悪くし、外に飛び出してしまうシーンが出てくる。
 この拒絶は、自分をこのような悲惨な目に遭わせた神を受け入れ難いというのとは違う。
 そもそも神という存在自体が理解できなかったのである。 
 まるで、人は無垢を失ってはじめて神が必要となる、とでも言っているかのようだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 


● 本:『江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』(安藤優一郎監修)

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2019年(株)カンゼン

 人類の歴史上、江戸時代の日本くらい男色天国だった場所は、そうそうないだろう。
 比肩できるのは、古代ギリシアと古代ローマくらいか。
 ま、ソルティは同性愛の歴史にはたいして詳しくないのだが・・・。

 「ある時代に、ある国が、同性愛に寛容であった(ある)かどうか」にもっとも強い影響をもつのは、間違いなく宗教である。
 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の影響下にある国々では、同性愛は基本ご法度である。
 仏教は本来、異性間・同性間を問わず、みだらな性行為を戒める。これは思想的・道徳的理由というより、単に修行の邪魔になるからである。大乗仏教の流れで日本にやって来て、なぜか女色一般を禁じるものとなり、寺院では男色がはびこることとなった。
 儒教は宗教というより哲学に近いと思うが、「家」を重んじる教えは、子孫を残さない同性愛行為を喜ばない。
 ヒンズー教についてはよくわからない。イギリス支配下のインドはむろん、キリスト教道徳に洗脳された。
 
 思うに、一神教は同性愛に厳しく、多神教は寛容なのではあるまいか?
 古代ギリシア、古代ローマ、日本の共通点を探すと、多神教=アニミズム文化というあたりに手掛かりがありそうである。
 すべてのものに神を見る感性とは、つまり、「存在するものはなべて喜ばしい」と現世肯定する思想であろう。現実的に一つの現象として同性愛があるのだから、「それはそれでOKじゃん」――ってことなのじゃなかろうか。
 
 本書は、最寄りの図書館で借りたのだが、「まあ、よくこのような本を仕入れて、貸出してくれるなあ~」と感心した。
 江戸時代の少年男娼たる「陰間」について、その生態から分布から仕事ぶりまで事細かに解説しているのはともかく、掲載している図版(浮世絵)が凄い。
 チョンマゲの成人男性が、雁の張った立派なへのこ(ペニス)を少年の菊門(アナル)に挿入しているそのものずばりの図版、いわゆる春画が、カラーグラビアも含めて何十枚と載っている。もちろん、ぼかしも黒塗りもない。
 
 昭和の昔、春画を扱った映画が銀座で上映されるというので、前売りチケットを買って楽しみに待っていたら、事前に司直の手が入り、上映中止になった。
 「なんつー、野暮な!」と憤りを感じたのを覚えている。
 浮世絵人気爆発の昨今であるが、つい最近、大墻敦(おおがきあつし)監督によるドキュメンタリー『春画と日本人』が全国公開された。(ソルティ未見)
 
 日本人のアイデンティティの底にある多神教的感性(別名エロ礼讃)は、そう簡単に塗り替えられるものではないのだろう。


男色春画

 
 

● 阿含経典を読む 8 アーナンダの過失

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)は、ブッダが亡くなる最後の旅の様子を描いたお経である。


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増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)

 
 編者の増谷文雄の研究によると、この経は適切に分断すると、その各部のほとんどを『阿含経典』の他の箇所や律蔵の中に見つけることができるそうだ。
 つまり、ブッダ入滅後の阿羅漢たちによる結集で確認され暗唱されたお経ではなく、その後だいぶ経ってから、編集の趣味ある一比丘なり在家信者なりが、「偉大なるブッダの最後を物語として残そう」と、既存のお経や律などをつぎはぎして、新たに創った作品ということになる。
 おそらく、まったくゼロから作ったわけではなく、ブッダの最後の旅の行程を伝える簡素なお経――結集時から伝えられたもの――はあったのだろう。そこに肉付けして、一つの感動的なストーリーに仕立て上げたのではあるまいか。
 いつの世にも、こういった戯作者まがいはいるものである。
 
 「戯作者まがい」と言うのは、この編集者は結構抜けているのである。
 ブッダより前に亡くなっているはずのサーリプッタ長老を出演させたり(ここからもこれが結集時の作でないことは明らか)、聖人ブッダらしくないエピソードを盛り込んだりしているからだ。
 
 ソルティはとくに、この経の第3章を奇異に感じて仕方ない。
 以下のような筋立てになっている。
 登場人物は、ブッダと侍者のアーナンダと悪魔、それに最後の場面で他の比丘たちである。
  1.  ブッダがアーナンダを相手に、ヴェ―サリーやその他の霊地の楽しさを称える。
  2.  余命を悟ったブッダはアーナンダに向かって、「自分は神通力により、望めばいくらでも長生きすることができる」と言うも、アーナンダはその言葉を無視する。
  3.  アーナンダが去った後、悪魔が現れ、「今こそ涅槃すべき時」とブッダに死をすすめる。ブッダは3か月後の死を決意する。すると、大地震が起こる。
  4.  地震に驚いたアーナンダがブッダのもとに駆け付け、地震の意味を問う。ブッダは「地震の8つの原因」を説く。
  5.  ついでに、「8つの衆」、「8つの勝れた認識(勝処)」、「8つの解脱」について説く。
  6.  ブッダが、最前の悪魔との対話についてアーナンダに伝える。驚いたアーナンダは、ブッダに延命を乞い願う。が、ブッダはアーナンダの願いを却下し、「自分が死を決意したのは、さっきおまえが引き止めなかったせいだ」とアーナンダを非難する。
  7.  一転して、アーナンダに「すべての者は死ぬさだめにある」と諄々と説き、延命があり得ないことを説く。比丘たちを集め、37道品(悟りに至る37の修行法)を説き、自分が3か月後に涅槃することを告げる。

 1~7のそれぞれについて、奇異に感じる点をあげる。
  1.  この世の楽しさを讃えるようなブッダのセリフ。一切行苦ではなかったか?
  2.  神通力でいつまでも長生きできるというセリフ。諸行無常ではなかったか?
  3.  悪魔の存在は、ブッダの心の中の誘惑の声の比喩とみなしてもよかろう。聖者が自ら死ぬ時を知るのもよく聞くところである。地震の発生は、偶然でなければ比喩的表現か。
  4.  地震の8つの原因は非科学的でナンセンスである。
  5.  8つの衆、8つの勝れた認識、8つの解脱の説法は、あまり意義あるものとは思えない。『大般涅槃経』の他の章にある説法――たとえば、有名な「自灯明、法灯明」や「法の鏡」や「サンガの不退法」など――にくらべると、歯が浮くような、とってつけた感がある。戯作者により創作されたものとしても、出来が悪い。
  6.  ここがとくに理解に苦しむ。「お前が望まなかったから、私は死ぬのだ」と、自らの寿命の決定をアーナンダのせいにしている。しかも、「あそこでもそうだった、かしこでもそうだった・・・・」と、過去のことを持ち出して、しつこく何回もアーナンダを責め続ける。一体、なにこれ? パワハラ?
  7.  急にまともに戻る。「すべての生じたものは滅する」と説き、比丘たちに向かう。 

 まるで、死を前にした80歳のブッダが認知症になったか、あるいは精神不安に陥ったかのような聖人らしからぬエピソードである。
 もっとも、世間の尊敬を集めるカリスマ的リーダーが、家族など最も身近な人間に対しては極めて尊大でワガママ、というケースは結構ある。死を前にした人間が、人格障害のような精神不安に陥るケースもよくある(エリザベス・キューブラ・ロスを思い出す)。
 よもや、ここでブッダの人間らしさを表現しているのだろうか?

 続く第4章で、ブッダは鍛冶屋のチュンダの用意した食事を食べたあと体調を悪化させる。
 ブッダは、チュンダがあとから「ブッダの死の因を作ってしまった」と自身を責めなくてすむように、また比丘や信者たちから責められないように、アーナンダに前もって注意を残しておく。
 こんな細やかな慈悲深い配慮のできる人が、延命を乞わなかったことでアーナンダを責め立てるだろうか? 二千年後にも残るような激しい言葉で。
 ソルティにはとても信じられない。信じたくない。

 同じアーナンダを諫めるのであれば、次のような流れこそブッダにふさわしかろう。
  1.  ブッダは自らの死期を悟り、アーナンダに「3か月後」と告げる。
  2.  驚いたアーナンダは号泣しつつ、「神通力を使って、少しでも長生きしてください」と何度も願う。
  3.  ブッダはそれに対し、「一緒に長くいながら何を学んできたのだ。諸行無常、諸法無我と幾たびも教えたではないか!」と叱責する。

 このような過失こそ、愛すべきアーナンダにふさわしかろう。


室戸岬の涅槃像
豪華共演:涅槃するお釈迦さまとそれを守る弘法大師
(高知県室戸岬にて)







● 映画:『CLIMAX クライマックス』(ギャスパー・ノエ監督)

2018年フランス、ベルギー
96分

 三度の飯よりダンスが好きな22人の若者たちが、公演のリハーサル後のパーティーで知らずにLSDを飲んでしまい、次第に常軌を逸して、地獄の饗宴へと化していく様を描く。
 「覚醒剤やめますか? 人間やめますか?」を地で行く作品である。

 演技未経験の若者を集めたらしいが、ダンスは本当にすごい。
 身体能力とリズム感、それに流れている音楽に自然に身をまかすレイブ感覚は、ソルティのようなオジサン・オバサンにはまったく縁のないものである。
 人体の可動範囲の限界に挑戦するかのような振付けもすごい。ルカ・グァダニーノ監督の『サスペリア』を思い出した。
 そう、まさにサバトの夜である。


サバト


 ギャスパー・ノエ監督の作品を観るのはこれが初めてだが、話題になった『アレックス』(2002)はじめ、暴力と異常なセックスをテーマにした斬新な映像が特徴のようだ。
 こういったものを50歳過ぎても撮り続けるには、幼少期の相当なトラウマを必要とするだろう。
 ノエ監督の先が危ぶまれる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 映画:『まぼろしの市街戦』(フィリップ・ド・ブロカ監督)

 1966年フランス、イタリア
 102分

 原題 Le Roi de Cœur は「ハートの王様」
 邦題から戦争映画のイメージがあるが――いや実際、第一次大戦時のフランスを舞台とする反戦映画なのだが――、一風変わったシュールなコメディである。
 その「一風変わったシュールさ」は、主要な登場人物が精神病院から抜け出した患者たちで、戦地における彼らの自由で奇矯な振る舞いを描くことが、この映画のツボだからである。
 精神病院の内と外、いったいどっちが狂ってる?
 患者の人権が唱えられる現在では、もはや容易には創れない作品かもしれない。

 フランスの田舎に残る中世の古い街並みと、色とりどり派手に着飾った精神病患者たちの対比が面白い。
 主演のアラン・ベイツは、ロバート・アルトマン監督の『ゴスフォード・パーク』(2001)で執事ジェニングスを演じた英国の名優。
 最後のシーンで、二人の尼さんを前にして全裸の後ろ姿を披露しているが、このシーンを観たとき、「あっ、この映画、子どもの頃に見た!」と思い出した。
 このシチュエーションに強烈な印象を覚えたのだろう(笑)
 1974年に日曜洋画劇場(解説:淀川長治さん)で放映されている。
  
 いまもカルト的な人気を博している作品で、2018年に4Kデジタル修復版が公開された。


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アラン・ベイツ本人じゃないかもね・・・


おすすめ度 : ★★★

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