ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語を見て、旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、ボランティアして、デモに行って、無いアタマでものを考えて・・・・そんな平凡な日常の記録である。

● 本:『ブッダは実在しない』(島田裕巳著)

2015年角川新書
 
 ブッダは実在しない。
 簡単に言えば、結論はそういうことだ。 
 ブッダは実在の人物ではなく、一つの観念であり、その観念から人物としてのブッダが生み出されていった。
 そして、実在の証としてブッダの遺骨とされるもの、仏舎利を祀る仏塔が建てられ、それを核として仏教という宗教が生み出されていった。
 
 ――という衝撃的結論を掲げる本書が、日本のお寺関係者や仏教研究者たち、あるいは一般信徒や一般読者の間でどのような反響をもたらしたのか、ソルティは寡聞にして知らない。サンガ新書発行のその名もずばり、『ブッダは実在しないのか?』(2016年発行)という本の中で、島田裕巳と浄土真宗住職でテーラワーダ仏教を信奉する藤本晃とが対談しているようだが、未読である。読んだ人の感想をうかがうに、突っ込んだ議論には至らなかったらしい。
 なんとなく、この「ブッダ非実在論」は島田の言いっ放しのまま、各方面から放置されているような感を受ける。
 気のせいだろうか?

ブッダは実在しない

 
 本書において、島田が、「ブッダすなわちゴータマ・シッダールタが実在しなかった」と唱える根拠は、ソルティの解するところ、以下のとおりである。
  1.  仏教の初期の段階では、ブッダの生涯が一人の人物の一貫したものとして語られていない。
  2.  ブッダが実在したことを証明する同時代の資料がまったく存在しない。
  3.  ブッダの直説に近いとされる初期の経典『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)の内容は、あまりに単純であっけなく、仏教の基本教義とされる「八正道」や「十二縁起」の教えなども含まれておらず、世界宗教につながるような要素が見出せない。
  4.  初期の経典においては、ブッダ(悟りを求めて修行する人、の意としている)という言葉は複数形で使われており、必ずしも一人の人間に限定されるものではない。
  5.  インドに仏像が誕生するのはブッダが亡くなって600年以上経ってから。こんなタイムラグが生じたのは、仏像のモデルとなるブッダの存在が曖昧だったから。
  6.  紀元前にインドで建てられた仏塔を飾るレリーフの「仏伝図」をみると、描かれているのは、「出家」、「成道」、「涅槃」などの個々のエピソードであり、同一人物の人生上の出来事を表現したものとして物語化されていない。
 以上から、島田は次のように断定する。
 
 つまり、もともとブッダという人物が実在していたわけではなく、長い時間をかけて、一人の人物が作り上げられてきたことになる。そう考えなければ、ブッダということばが最初に複数形で用いられたことも、仏伝図が一人の人物の生涯としてまとめあげられていなかったことも説明できないのだ。

仏伝図
仏伝図レリーフ


 ソルティは学者でも研究者でも僧侶でもないので、島田の説に反論することはできない。上記の6つの論拠一つ一つについて、具体的な資料をもって反証する能力はないし、それをするつもりもない。
 ただ、ブッダは2500年以上前の人物(イエス・キリストより500年以上昔)で、当時のインドには記録を文字として残すという習慣がなかったのだから、2の論拠については致し方ないところである。実在したことの証明にも、実在しなかったことの証明にもならないであろう。

 ブッダの実在性について疑問を持ち研究すること自体、何ら問題はない。あたりまえと思われていることに懐疑の目を向け、真相を確かめようとする研究姿勢は学者として立派である。
 また、各経典の成立時期や内容・形式から、仏教の中心教義の成立過程を調べる作業も有益であるに違いない。
 ソルティはいまテーラワーダ仏教(いわゆる小乗仏教)の聖典である『阿含経典』を読んでいる最中だが、すべてのお経がブッダの直説あるいはブッダオリジナルの思想であるとはまったく思っていない。なにしろ、ブッダ入滅後の数度の結集において弟子たちが記憶・暗唱するには、あまりに膨大な量であるから。
 また、現時点で最も古い経典と学界でみなされている『スッタニパータ』と、仏教の中心教義(十二因縁・五蘊・六処・四諦・三相・八正道)が体系的に説かれている『相応部経典』の内容や形式は、同じ『阿含経典』の中にあっても、かなり印象が異なる。それこそ、二人のブッダを想定したくなるくらいに・・・。
 確かに、この違いにはなんらかの筋の通った説明が必要かもしれない。(たとえば、『スッタニパータ』はゴータマ・シッダールタの直説であるが、『相応部経典』は弟子の阿羅漢たちが直説をもとに理論構築したとか・・・)
 
 島田でもほかの誰でも、「ブッダは実在するか?」と問いを立て、自分なりに調ベ上げて、説得力ある論拠と共に「非実在説」を立てることに何の問題もない。
 ただ、新奇な説を唱えるには――それがラジカルなものであればあるほど――丁寧かつ揺るぎない論証が必要とされるであろうに、ここでの論旨はかなり杜撰に思える。
 一例であるが、5の「仏像が作られるようになるまでのタイムラグ」について、それならば当時のインドにおける仏教以外の他の宗教(たとえばバラモン教)の神像の制作事情がどうであったか、が問われなければならないだろう。そこにはまったく触れられていない。
 門外漢のソルティが言うのもなんだが、

ヴェーダ時代(紀元前1500~紀元前500年頃まで)は、インドの文化や思想形成のうえで重要な時期であった。しかし、ヴェーダの宗教においては、前述のような祭祀が重視され、哲学的思索が発達した一方で、神像、神殿のような造形作品はその需要がなく、この時代はインド美術史における空白時代となっている。(ウィキペディア「インドの美術」より抜粋)

 仏像に限らず、偶像崇拝自体がなかったのではあるまいか。


鋸山の仏像
釈迦と弟子たち(千葉県鋸山の日本寺


 さらに、島田の困ったところは、仮説からいきなり断定に走り、断定が暴論を生んでいる点である。
 
ブッダが実在しなければ、ブッダが説いた教えというものも存在しない。教えが存在しないのであれば、仏教という宗教自体が存立し得ない。すべてが後世に作られたものであれば、仏教の教えとされるものの価値や根拠はどこにも見出せなくなってしまう。
 
 言葉の用法にもっと気をつかってほしいところであるが、上記の「ブッダ」は仏教の祖とされるゴータマ・シッダールタ個人のことである。彼が実在しなかったのであれば仏教には価値がない、と言っている。
 しかし、島田自身が「ブッダ」は複数の人物であった可能性があると述べているではないか。複数の優れた「ブッダ」による教えが仏教として残ることに、それが時を経るにつれ仏法としてまとめ上げられることに、なんの問題があるのだろう?(ソルティ自身は、ゴータマ・シッダールタは実在したカリスマ的教祖と思っている)
 それに、「後世に作られたものであれば、価値や根拠は見出せない」と言うのであれば、島田が「魅力的」と述べている大乗仏教の教えは、まさに価値も根拠も根こそぎ剥ぎ落とされてしまうのではないか?
 
 大乗仏教においては、空や唯識といったことが説かれ、あらゆる存在に仏性が備わっているという主張もなされた。あるいは、称名念仏による西方極楽浄土への往生といったことも、誰もが実践できる信仰として説かれるに至った。
 そうした大乗仏教の教えに比べると、原始仏教の思想は、極めてシンプルなものに感じられるかもしれないが、内容は曖昧で、何より実践性に乏しい。空の思想のように、それに接する人間に衝撃を与えるものにはなっていないのだ。
 
 島田はほんとうに原始仏教を知っているのであろうか、という疑問が浮かび上がらざるをえない。
 どう見たって、「内容が曖昧で、実践性に乏しい」のは大乗仏教(と一括りにするのも乱暴であるが)のほうである。
 原始仏教にはアビダンマという、それこそ重箱の隅をつつくような緻密にして周到な論理体系がある。曖昧には程遠い。
 また、八正道や種々の瞑想法という具体的な実践が懇切丁寧に経典に説かれている。タイやミャンマーやスリランカの坊さんたちが、一体何をしていると言うのだろう?
 人類に与える衝撃の度合いについては何をかいわんや!
 
 どうも島田の本心は、仏説に近いとされる原始仏教を矮小化することにあるように見受けられる。
 原始仏教を矮小化し、大乗仏教を持ち上げ、中でも神秘主義的側面の濃い密教を肯定し、つまるところ何がしたいのだろう?
 
 このように、仏教は絶えず発展し、変化をとげていく宗教であり、原点に回帰するという方向性をもたない。原点が明確でない以上、キリスト教のように、正統と異端というとらえ方も成り立たない。仏教は融通無碍で、無限の自由を有しているとも言えるし、逆にとりとめがなく、無節操であるとも言えるのである。
 
 「異端で、無節操」な仏教風宗派があってもいいじゃないか!
 そう言いたいのではあるまいか?
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 逆打ち伝説 映画 : 『死国』(長崎俊一監督)

1999年
100分

 原作は坂東眞砂子のホラー小説。
 四国と四国遍路のイメージ悪化に寄与した作品である(笑)
 
 四国遍路を札所の順番通り(時計回り)に回ることを順打ち、順番とは逆に回ることを逆打ち(さかうち)と言う。
 一昨年の秋、ソルティが遍路しているときも、逆打ちのお遍路さんとずいぶん擦れ違ったものである。歩きだけでなく、自転車の人も多かった。(自転車だと、「逆打ちのほうが下りが多くてラク」と言っていた)
 大方は、すでに順打ちを何回か済ませているので今回は逆打ちに挑戦してみた、という人が多かった。
 しばしば耳にしたが、「逆打ちは順打ちの2倍のご利益がある」そうである。
 ソルティも、いつの日か逆打ちに挑戦してみたい。(そのためにも足のリハビリ頑張らねば!)

 この映画では、なんとその逆打ちが恐ろしい所業として描かれる。
 「死んだ子の歳の数だけ逆打ちすると、その子が生き返る」という設定で。
 弘法大師も真念上人もビックリである。


前山おへんろ交流サロン
88番札所手前にある前山おへんろサロン
 
 高知の山間の村に古くから住む日浦家は、口寄せを家業とする。呪術を使い、亡くなった人の霊を呼び出して巫女に乗り移らせ、生者にメッセージを伝える。
 呪術者である母親(=根岸季衣)の命で、子供の頃から巫女をやらされてきた莎代里(=栗山千明)は、十六の歳に事故で死んでしまう。
 母親は莎代里を生き返らせようと、白装束に身を固め、編み笠をかぶり、わらじを履き、金剛杖をつき、逆打ちの旅に出る。

 妄執に憑かれた母親を演じる根岸季衣がイイ味を出している。
 実際、こんな女と遍路の山道で会ったら怖いだろうなあ~。
 ソルティは、お四国病にかかって何周もぐるぐるしている、独り言の多い目つきの怪しいオジサン遍路は見かけたが・・・。

 死国からよみがえった莎代里を演じる栗山千明は、本作が本格的な映画デビューだったそうだが、実に役にハマっていて、胸元まで伸びた漆黒のストレートヘアが怖いながらも美しい。
 先輩俳優に伍しながら存在感ピカ一で、目が離せない。
 その後の活躍がうなずける鮮烈なデビューと言えよう。
 (この人が2006年にやったTVドラマ・横溝正史作『女王蜂』の大道寺智子も良かった)


IMG_20200718_134925
莎代里を演じる栗山千明


 2020年現在の四国には、このような禍々しい物語が生み出される土俗的雰囲気も、このような映画が撮影できる昔ながらのロケ地も残ってはいまい。
 インターネットのおかげで四国遍路もすっかり国際色豊かになり、外国人遍路を見ない日のほうが少なかった。
 いまや四国遍路は、「大人のオリエンテーリング」と言ってもそうはずしてはいまい。(ただし、所要時間を競うものではないが)


 新型コロナのせいで、現在、遍路する人は激減している。(4月中旬から5月初旬までほとんどの札所の納経所は閉鎖していたようだ)
 少しでも早く、コロナに終息がもたらされ、四国遍路がよみがえるよう、札所の名前を88から逆に唱えてみました。
 ――というのは冗談で、遍路で覚えた光明真言を唱えてみました。
 
 オンアボキャ ベイロシャノウ
 マカボダラ マニ
 ハンドマジンバラ ハラバリタヤウン


 不空真実なる大日如来よ 
 偉大なる光明により
 暗き世を明るく照らしたまえ
 

大日如来



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損



● 必聴映画 : 『ギルティ』(グスタフ・モーラー監督)

2018年デンマーク
85分

 とてつもない映画である。
 創作表現の可能性の限りなさを、観る者に衝撃とともに知らしめる。

 まず、ほぼ一人芝居に終始する。
 登場人物は複数いるものの、ストーリーにからむ主要キャラは、主役で出ずっぱりの警官アスガー(=ヤコブ・セーダーグレン)をのぞけば、電話の向こうの声のみ。あとは、画面には映るけれど背景的人物にすぎない。
 次に、物語の舞台すなわち撮影現場は一カ所のみである。カメラはその部屋から一歩たりとも、一秒たりとも、外に出ない。
 最後に、映画的時間と物語的時間とが完全に一致している。つまり、85分間の上映(=鑑賞)時間はそのまま、アスガー含む登場人物たちが過ごす映画の中の85分の生活時間と重なる。
 これ以上にない見事な三一致。
 その上に、この映画は手に汗握る極上の犯罪サスペンスなのだ。

三一致の法則
演劇用語。「三統一の規則」または「三単一の法則」ともいわれる。戯曲は24時間以内の、一つの場所で起こる、筋が一つの物語を扱わねばならないとするもの。
(小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋)

 なぜこんな離れ業が可能なのかと言えば、物語の舞台が緊急通報指令室、すなわち日本の110番みたいな市民からの緊急通報を集約するオペレーションセンターで、主役の警官アスガーは――どういう理由からかは最後まで明かされないが――そこでボランティアのオペレーターをしているからである。
 物語は、アスガーがたまたま受信した、女性からの緊急通報に端を発する誘拐事件のてんまつを、電話のこちら側とあちら側の人の声と物音のみを拾いながら描いていく。
 聴覚が想像力を刺激し、音が物語を作っていく。
 ここにあるのは、映画を「観る」というより、映画を「聴く」という無類の体験なのである! 

 とは言え、この趣向には先例がある。
 2013年のイギリス映画『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』(スティーヴン・ナイト監督)が、やはり三一致の法則に徹した一人芝居で、電話をうまく利用したスリラー&人間ドラマであった。  
 おそらく、有名作曲家に似た名前をもつモーラー監督は、『オン・ザ・ハイウェイ』を観て、この犯罪ドラマの設定を思いついたのだろう。
 その意味では二番煎じなのであるが、「模倣」、「マネっこ」、「二匹目のどじょう」といった悪口はまったく出てこないほどの、緊迫感あふれる見事な作品に仕上がっている。

 アスガー役のヤコブ・セーダーグレンの主演男優賞総なめ確実の演技(芝居に自信がある男優で、この役をやりたがらない者がいるだろうか?)、計算し尽くされた無駄のない脚本、観る者(聴く者)を仰天させる犯罪サスペンスとしての出来の良さ、そして・・・・・映画の本当の主役と言える「音」の絶大なる効果。

 まさに必見、いや必聴の一編である。



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






● 漫画:『陰陽師1~13巻』(画:岡野玲子、原作:夢枕獏)

2005年白泉社より最終巻発行

IMG_20200715_100727


 平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を主人公とする歴史オカルトファンタジー。
 幻想的で耽美な世界を構築する岡野の画力と、平安風俗や陰陽道に関する研究熱心さは、賞賛に値する。

 しかるに、これは夢枕獏の原作を読んでいる人が、「原作がどのように劇画化されているか」を楽しむ作品であろう。
 原作を読んでいないソルティのような者にとっては、清明によってしばしば繰り広げられる陰陽五行説の専門的な説明ははなはだ難しく、煩わしく、物語への興味をそがれる。
 巻が進むほどにそれが顕著になり、内容も理解できぬまま字面を追っていることになる。

 しかも後半、清明がどんどん神(あるいは魔?)がかってきて、実在した歴史上の人物らしさを失い、受難を負ったイエス・キリストみたいなカリスマ的存在になっていく。
 なんだかなあ~。
 怪異ミステリーとして純粋に物語的面白さを楽しめる前半が良い。

 実際の安倍晴明は、あの藤原道長の権力固めに協力したようで、本作の清明とも、羽生結弦の清廉高潔なイメージとも異なり、かなり老獪なる狸オヤジだったのではなかろうか。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 




● 三船敏郎のケツと汗 映画:『野良犬』(黒澤明監督)

1949年東宝
122分、白黒

 いまさら評すまでもない黒澤映画の傑作。
 同じ黒澤の『天国と地獄』と並び、その後の日本の刑事ドラマ――『砂の器』、『七人の刑事』、『太陽にほえろ!』、『西部警察』、『踊る大捜査線』等々――の基本型をつくった作品と言えよう。
 全編に漲るリアリティ、庶民性、迫力、抒情性、そして志村喬をはじめとするベテラン役者たちの演技に魅了される。
 主演の三船敏郎の色気にはクラクラさせられる。
 あのケツの肉付きよ!

 舞台は闇市が立ち並び、コケた頬の復員服姿の男がうろうろする戦後の東京。
 新米刑事の村上(=三船敏郎)は、混雑するバスの中でピストルを掏られる。
 そのピストルを使用した強盗や殺人、先輩刑事への襲撃が続く中で、村上は苦悩し、犯人探しに執念を燃やす。

 戦後の日本の貧しさ、汚らしさ、暑苦しさが実によく描かれ、生々しく伝わってくる。
 とくに暑苦しさ!

 物語は夏の盛りで、登場人物たちは誰もみな、吹き出る汗をハンカチでしきりにぬぐい、団扇や扇子で顔や胸をひたすら扇ぎ、扇風機を一人占めにし、「暑い、暑い」と繰り返す。
 一昔前の日本の夏はそんなに暑かったのか?
 ――と一瞬思うが、むろん今のほうが暑い。
 
 気象庁のデータを見ると、この映画が撮られた1949年8月の東京の平均気温は26.6度、前後3年(1946~52年)の平均をとってもそのくらいである。
 一方、2019年8月の東京の平均気温は28.4度だった。過去6年(2013年~)を加味した平均は 27.6度。
 つまり、映画製作当時よりも真夏の平均気温が1度上昇している。
 たった1度と思うなかれ。
 月の平均気温が1度上がるということは、3日に1日は30度近い日(26.6+3.0)があるということだ。最高気温でなく、一日の平均気温が!・・・である。


流氷に乗った白熊

 全編を覆うこの映画の暑苦しさの理由は、もちろんシロクマくん(=エアコン)がなかったからである。
 エアコンが一般家庭に普及したのは昭和40年代に入ってからで、平成に入ってやっと6割を超えた。現在の普及率9割程度である。(参考「ガベージニュース」)
 つまり、昭和時代、会社やホテルや喫茶店や公共施設は別として、一般家庭でエアコンがあるのは4割以下に過ぎず、しかも今のように各部屋に一台ずつ備わっているなんてのは、スネ夫の家のような、よっぽどの金持ちに限られていたのだ。
 外回りして聞き込み捜査する刑事たちは、汗みずくにならざるをえなかった。
 真っ黒に日焼けせざるを得なかった。

 ソルティは、平成以降の刑事ドラマにどうにも興味が湧かないのであるが、たぶんその理由の一つは、登場する刑事たちが汗をかかなくなった、シャツを背中に張り付かせなくなった、清潔に(無機質に)なってきた、というあたりにある。
 だってねえ、三船敏郎の汗の美しさといったら・・・。


三船敏郎の汗



おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





● ほすぴたる記 その後20 護符と男密

 梅雨の晴れ間の日曜日、秩父温泉・満願の湯に行ってきた。
 
 コロナ感染が再び広がっている中、不要不急の移動はなるべく控えるべきところだが、同じ県内移動だし、梅雨時だし、山の中だし、そのうえ早い時間帯に行けば、3密となる可能性は少ないだろう。
 何と言っても、この温泉に行くのを一つの目標として、ここまで治療とリハビリを頑張ってきたので、行かないことには区切りがつかない。
 足のケガにはもちろん、最近とみにひどい肩こりにもきっと良い効果があるだろう。
 とにもかくにも、自然の気を浴びたい! 
 
 電車を乗り継いで、まずは秩父鉄道・秩父駅へ。
 梅雨らしいどんよりした日々が続いていたが、今日はさわやかな五月晴れの予感。
 秩父の雄・武甲山が迎えてくれた。
 ちなみに、「五月晴れ」とは本来、梅雨の晴れ間のことを言ったそうな。
 昔(太陰暦)の皐月(さつき)は、今(太陽暦)の六月にあたるのだ。
 
IMG_20200712_094622
秩父鉄道・秩父駅

 
 駅近くの秩父神社に参詣する。
 ここは秩父34札所巡礼の際に立ち寄って、御朱印をいただいた。
 清新な気の満ちる、気持ちのよい境内である。

 
秩父神社本殿
秩父神社本殿
 

 主祭神は 
  • 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
  • 知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)
  • 天之御中主神(あめのみなかねのみこと) 
  • 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)
 の四神なのだが、摂社の日御𥔎宮(ひのみさきぐう)には、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が祀られている。

ひのみさきぐう
日御𥔎宮


 スサノオノミコトは、日本神話のヤマタノオロチ退治で有名な英雄だが、神仏習合においては、インドの祇園精舎の守護神であった牛頭天王(ごずてんのう)の垂迹神とみなされ、厄病除けの神様として知られる。
 秩父神社の縁起にはこう記されているそうだ。
 
天武天皇白鳳四年(676)、天下疫病大いに流行し、其の災禍を禳わんことを祈る為に、国造奏請して社殿を造営し始めて、鎮祭せられたり
 
 秩父神社では、新型コロナウイルスの沈静化と氏子の皆様の平穏無事を祈って、悪疫病除けの護符『素戔嗚尊』を作成し、参詣者に無料で配布している。
 それがこれだ。

IMG_20200713_141900


 アマビエ、あるいは元三大師降魔札いわゆる角大師と、いずれが一番効くだろうか?


 土地の神への挨拶と骨折治癒の御礼を終えたあと、秩父鉄道に乗る。
 空いていた。
 普段の日の晴れの休日なら、長瀞観光や山登り客で賑わいでいるところだ。
 向かい席の40代の父親と10代の息子は明らかに鉄チャンで、マニアックかつメカニックな会話のやりとりが面白かった。この親子はきっと、子供が思春期を迎えても、成人しても、会話が無くなることはないだろう。羨ましい気がした。

 皆野駅から町営バスに乗る。
 乗客はわずか4人、秩父温泉バス停で下りたのは自分ひとりだった。
 時刻は午前11時。

IMG_20200712_145240
皆野駅ホーム風景


IMG_20200712_144352
秩父温泉・満願の湯


 「おや?」と思うほど駐車場が埋まっていたので、イヤな予感がした。
 入館して、更衣室の暖簾をくぐってみると、若い男がいっぱい。
 「なぜ? しかもこんな早い時刻から?」
 午後ならばまだ、登山を終えた汗臭い客やツーリング族であふれるのは分かるのだが・・・。

 混雑している洗い場を素通りし、日野沢川の渓流を見下ろす露天風呂に直行する。
 二つある湯舟はどちらも、やはり若い男の群れに占領されていた。
 しかも、次から次からへと、新たな一団がやってくる。
 3密ならぬ、男密・・・。

 彼らの会話を聞いて、わけが分かった。
 満願の湯の裏手には、コテージやトレーラーハウスが並ぶ「満願ビレッジ」というオートキャンプ場がある。
 彼らは、前日に仲間と車でやって来て、そこに泊まっていたのであった。
 午前10時のチェックアウト後、たいがいはアルコールを抜く為、ちょうど開館したばかりの温泉に押し掛けたのである。
「う~ん、そこまでは読めなかった」

 会話を聞いていると、「明日からまたテレワークだよ」、「だれだれ先輩の結婚式、コロナで延期になったんだよな」などと言う話も聞こえ、中にはマスクをつけたまま入浴している男もいた。
 なんて卑猥な・・・(笑)
 
 正午を過ぎると、急に閑散としてきた。
 ゆっくりと露天風呂で体をほぐし、夏の緑に覆われた渓谷と滝の眺めを楽しみ、渓流と鳥の声を堪能した。
 どんなにかこの瞬間を待ちわびていたことか!

 「ほすぴたる記」もこれで一段落。
 これからも忍耐と根気を必要とするリハビリは続くが、日常の行住坐臥はほぼ原状復帰と言ってよかろう。
 走ったり、階段をスムーズに下りたり、山登りしたり、重労働したり、長時間座禅を組んだりするのは、今後の課題として残っているけれど、ここまで回復したことに感謝。

 心身ともにさっぱりしたあとは、長かった闘病生活のご褒美を享受した。


IMG_20200712_131059
秩父名物・わらじカツ
足のケガにはぴったり!













 
 
 
 


● 映画:『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン監督)

2011年アメリカ
102分

 TUTAYAのサスペンス&ミステリーのコーナーにあったので、「結末は誰にも教えないでください」的なサイコストーリーかと思ったら、案外ちゃんとした心理ドラマであった。

 カルト団体での2年間の集団生活から逃げ出した少女マーサの後遺症を、丁寧に描いたものである。
 映像が見事。

 カルト団体に加入したばかりの新人に対し、古くからの仲間たちは言う。
 「ここでのあなたの役割を見つけなさい」
 集団の中で独自の役割を持たせること。
 それが団体依存させるコツなのだろう。
 
 マーサの姉役のサラ・ポールソンが好演している。
 ニコール・キッドマン似の金髪美女で、2007年にレズビアンをカミングアウトしている。
 カミングアウト後もヘテロ女性の役を普通に演じられるところが、アメリカショービズ界のふところの深さか・・・。
 演技なのだから、演じる俳優のセクシュアリティは演じる役のそれとは本来なら関係ないのだけれど、日本だったらどうだろう・・・?


百合



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 
 
  

● 平安宝塚 本:『はなとゆめ』(冲方丁著)

2013年角川書店

 タイトルといい、表紙絵といい、ベタなまでの少女趣味に、図書館のカウンターに持っていくのが、オジサンちょっと恥ずかしかった。
 装画は、北沢平祐というイラストレーターによる。
 カラフルで柔らかいタッチの絵を描く人である。

IMG_20200705_160445


 一条天皇の妃であった中宮定子の晩年の数年間を、女房として仕えた清少納言が物語る、半分ノンフィクション、半分フィクションの伝記といったところ。
 別記事『枕草子のたくらみ』に見たように、『枕草子』だけを読んでいては分からない、当時の凄まじい政争や、一時は頂点を極めながらも藤原道長に蹴落とされ転落していく定子一家の受難や、その嵐の中で凛と気高く生きて王朝最高の「華」を咲かせた定子の生きざまが、史実を踏まえながら、そこに『枕草子』の記述や「我こそは中宮の番人」と自負する清少納言のモノローグを編みこむようにして語られていく。
 冲方丁(うぶかたとう)の本はこれがはじめてだが、非常に巧みな、力ある書き手という印象を持った。

 『枕草子』の有名な段である「香炉峰の雪」、「九品蓮台」、「すさまじきもの(除目の話)」などを、ストーリーにうまく組み込んでドラマを盛り立てる手腕が鮮やか。
 平安風俗や宮中行事など煩瑣な注釈が必要となりそうな事柄を、簡潔にわかりやすく、よどむところなく伝える文章力もすばらしい。

 ここでもまた、定子への尽きせぬ愛が『枕草子』誕生の最大のモチベーションとなっている。
 同性からこれほど慕われた女君が、日本の歴史上、ほかにいるだろうか。
 定子サロンって、ある意味、宝塚に近かったのかも。
 そう思うと、一昔前の少女漫画のようなベタなタイトルと表紙絵も腑に落ちる。



おすすめ度 :★★★★ 

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

● 本:『描かれた被差別部落 映画の中の自画像と他者像』(黒川みどり著)

2011年岩波書店

 部落解放同盟による映画『橋のない川』上映阻止事件について調べていたら、この書に行き当たった。
 著者の黒川みどりの講演を聴いたことがある。ドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』の上映会に際してであった。日本近現代史を専門とする大学教授で、部落問題についてくわしい人である。

IMG_20200704_163636


 本書は、「戦後における部落問題の変遷を映画作品を通して明らかにしようとする」試みで、題材として取り上げられている映画は以下の通り。
  1.  1947年 木下惠介監督 『破戒』
  2.  1960年 亀井文夫監督 『人間みな兄弟 部落差別の記録
  3.  1962年 市川崑監督 『破戒
  4.  1969年 今井正監督 『 橋のない川 第一部
  5.  1970年 今井正監督 『橋のない川 第二部
  6.  1986年 小池征人監督 『人間の街――大阪・被差別部落』
  7.  1988年 小池征人監督 『家族――部落差別を生きる』
  8.  1992年 東陽一監督 『橋のない川』
 今のところソルティが観ているのはリンクを付けた4作品だけなので、本書での著者の所論についてコメントする立場にはない。
 単なる感想を言えば、たいへん興味深く、面白かった。
 映画評論としても読めるし、部落問題の研究書としても啓発的であるし、マイノリティの解放運動における芸術表現のありようを考えるといった視点からも考えさせられることが多かった。

 3つめの「マイノリティの解放運動における芸術表現のありよう」というのは、たとえば、こういうことである。
 
部落問題の深刻さ、部落外との格差の大きさを強調すればするほど、それは差別の徴表を際だたせることになり、そこからは、被差別部落の作り手と被差別当事者の一致する範囲を超えて、当事者が望まない被差別部落表象が受け手の側に生まれることも十分にありうる。(表題書より引用)
 
 つまり、きびしい差別の現実を深刻に描けば描くほど、当事者に付与されているスティグマ(=マイナスイメージ)を強固にしてしまい、映画を観る非当事者の間に、さらなる差別意識を植えつけてしまうリスクがある、ということだ。
 基本的にはこれが、解放同盟が今井正監督『橋のない川』を批判し、上映阻止行動に走った要因と思われる。

 一方、当事者自身が自ら望むスタイルと内容でもって――たとえば、「ブラック・イズ・ビューティフル!」とか「ゲイプライド!」といったような――自己表現したときに、当事者の自己肯定を高める効果は見逃せないものの、それが果たして社会にどれだけのインパクトを与えられるかというと、いささか心もとない感がある。
 なぜなら、この情報過多&スポンサー重視&刺激追求社会で、少しでも多くの人に視聴してもらい、感情を揺り動かし、マイノリティの置かれている現状に関心を持ってもらい、運動を支援してもらうためには、残念ながら、受け手に「ショックを与える」演出が求められるからである。
 とりわけ、なんらかの政治的成果を短期間で得たいならば、メディアに取り上げられ、世論を動かし、政治家が重い腰を上げたくなるような「悲劇的物語」が望まれる傾向がある。
 
 これはなにも部落問題に限ることなく、障害者、LGBT、在日外国人、アイヌ、HIV感染者、ハンセン病患者などマイノリティ全般に共通する解放運動上のジレンマと言えよう。 
 本書の副題にある「自画像と他者像」とはそういった意味合いと思われる。
 当事者自身が望んで描く「自画像」と、多くの非当事者からなる社会が期待しイメージする「マイノリティ像(=他者像)」との間には、少なからぬギャップがあるのだ。

 そこで、老獪なる運動家であるほど、ぬらりくらりとした戦略をとる。
 ある政治的局面では、社会が望む「他者像」をとりあえず肯定し、自らもそのように振舞い、余人の注意を引きつける。別の局面では、社会から押し付けられる「他者像」を否定し、自ら望む「自画像」を訴え出る。
 よっぽど当事者のスティグマを強化しそうに個人的には思われる1960年『人間みな兄弟 部落差別の記録』が解放同盟のお墨付きを受けたのに、それよりもずっとソフトな内容と思われる1969、70年の今井正版『橋のない川』が同団体から批判の矢を浴びたのは、そういった時代・政治的背景や当事者の権利意識や自己表現力の向上といった点を考慮に入れる必要があるのだろう。
 
 いずれにせよ、芸術作品というものは、作った人間の意図を離れて、時代や地域や文化や大衆の意識の変化などに応じて、様々に評価され、様々に解釈され、様々に翻案・脚色・編集・演出され、新しい命を与えられる。
 それが芸術作品の宿命であり、特権なのだ。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

 

● 世界十大小説 TVドラマ:『赤と黒』(ジャン=ダニエル・ヴェラーグ監督)

1997年フランス・イタリア・ドイツ合作
200分

 1954年にイギリス作家サマセット・モームは「世界の十大小説」を発表した。
  1. ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、1749年イギリス 
  2. ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、1813年イギリス 
  3. スタンダール『赤と黒』、1830年フランス 
  4. オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』、1835年フランス 
  5. チャールズ・ディッケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、1850年イギリス 
  6. ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、1856年フランス 
  7. ハーマン・メルヴィル『白鯨』、1851年アメリカ 
  8. エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、1847年イギリス 
  9. フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、1879年ロシア 
  10. レフ・トルストイ『戦争と平和』、1869年ロシア
 欧米ものばかりに偏っているのが解せない。
 たとえば、アーサー・ウェイリーによって1933年には英訳されていた『源氏物語』や、1936年に出版されたマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』が入っていないのは、個人的には不可解かつ不愉快である。

 ともあれ、ソルティはこの中で、1と4と7が未読。
 他の作品もおおむね20代までの青臭い頃に読んでいるので、人間関係の機微など汲み取りようもなく、深く理解して読んだとは到底言いかねる。
 今後、古典作品を読み直していきたいと思っている。
 その点で、長くなった老後には意味があろう。

 『赤と黒』のフランス文学における地位は、日本文学における『源氏物語』みたいなものだろうか。
 映画では、美男の貴公子ジェラール・フィリップが主役のジュリアン・ソレルを演じた、1954年版が有名である(ソルティ未見)。
 たしか、「赤」は軍服を意味し、「黒」は僧服を意味するのではなかったか?

 美しい人妻と、若く野心的な青年の道ならぬ恋を描いた話である。
 この種のテーマはフランス文学のお家芸みたいなもので、すぐに思いつくだけでも、『ボヴァリー夫人』、『クレーヴの奥方』、『椿姫』、『アドルフ』、『エマニエル夫人』などが上がる。(最後のはちがう?)
 おそらくそのルーツをたどると、『トリスタンとイゾルデ』に代表されるような中世騎士道における王妃への敬愛の念あたりにあるのだろう。
 さらに、そのまたルーツをたどれば、聖霊の妻たる聖母マリアに対する信仰か?
 
 本作はテレビドラマとして制作されたものだが、映画と言っても通るくらい、野外ロケも屋内ロケもセットも美術も撮影もカメラも演出も、すべてにわたって丁寧かつ贅沢にできていて、見ごたえがある。
 ジュリアン役のキム・ロッシ・スチュアートは、まさにフランス美青年。すらりとした体型と翳りある眼差しが魅力で、恋と野心で身を滅ぼす孤独で生真面目な青年を熱演。
 不倫相手のレーナル夫人役は、シャネルのモデルを務めていたこともあるキャロル・ブーケ。まさにクールビューティという言葉がぴったりの、彫像のような醒めた美貌の持ち主。ダニエル・シュミット監督『デ・ジャ・ヴュ』(1987)で見せた神秘的な美しさが記憶に強い。
 当然、二人のラブシーンがたびたび出てくるのだが、残念ながらそこはテレビドラマのことゆえ、エロチックには欠ける。
 
 ナポレオンが失墜したあとの19世紀初期フランスが舞台で、コスチュームプレイ(時代劇)としても十分楽しめる。
 個人的には、このような大仰で激しい恋愛ドラマには辟易するが・・・。


IMG_20200704_121906
キム・ロッシ・スチュアートとキャロル・ブーケ



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● マルセイバターサンド臭の謎

 数週間前ほどから、頭皮から甘ったるい匂いがして、気になっていた。
 むろん、オヤジ臭あるいは加齢臭であっても、ちっともおかしくない年齢なのだけれど、その匂いはあまりにもきつく、異様に甘ったるい。
 六花堂名物のマルセイバターサンドを頭皮に擦り込んだような、ココナッツミルクを頭からかぶったような、強い洋菓子臭である。
 これが加齢臭なら、ケーキバイキング好きの若い女性が寄ってきそうである。


ケーキバイキング
 
 
 頭皮を触って手についた匂いは、ちょっとやそっと洗ったくらいでは落ちない。
 コロナ対応で家の各所に設置してある消毒液を塗りこんでも消えなくて、そのうち鼻腔にもついて、始終その匂いに包まれるようになり、さすがに気持ち悪くなった。

 もしや、身体に異変があるのか?
 血管内の過剰な糖分が、汗腺からにじみ出しているのでは?
 つまり、糖尿病?
 
 たしかに昨年末の骨折と今年に入ってのコロナ自粛で、運動不足は否めない。
 夕食後、映画を観ながらのスナックぼりぼりも続いていた。
 体重はここ半年で4キロ増えた。
 おなか周りもプヨプヨである。
 加えて、 
  • おしっこが近くなった。
  • 慢性的な疲労感がある。
  • 皮膚が乾燥して痒い。
  • 感染症にかかりやすくなった。
  • 目がかすむ。
  • 切り傷やその他の皮膚の傷が治りにくい。
  • 性機能の低下(ED)も・・・。 
 ネットで見つけた糖尿病(2型)の初期症状のほとんどに見事当てはまる。

 高血圧、インスリン投与、腎不全、透析治療、失明、動脈硬化、脳卒中・・・・

 起こり得る事態がすぐさま浮かんできてしまうのが、いろんな病人を見てきた介護職の因果なところである。
 そういえば、最後に健康診断を受けたのは一昨年の夏であった。

 
 先週、透析治療をやってる近所のクリニックに行き、ドクターに症状を話し、尿検査と血液検査をしてもらった。
 数日後、結果を聞きに行った。
 血糖値69(基準値は70~109)。
 尿に糖やタンパクは出てなかった。
 「とくに異常はありませんよ」
 糖尿病ではなかった。
 
 しかし、渡された検査報告書を見てがくぜんとした。

 総コレステロール    262 (基準値120~219)
 LDLコレステロール  183 (基準値70~139)
 中性脂肪        234 (基準値35~149)

 生活習慣病予備軍と言ってよかろう。
 このまま行けばマジで、糖尿病や動脈硬化や心筋梗塞への道をたどってしまう。
 帰り道、間食や夜食をやめて、運動不足解消に努めようと夏空に誓った。


夏空と信号



 先日はとても暑かった。
 30度を超える気温は、冷蔵庫の外に置きっぱなしにされた、牛乳をヨーグルトに変え、大豆を納豆に変え、麦茶をビールに変え、バナナをナマコに変える、そんな苛烈さだった。
 外出から帰ったソルティは、いつものように玄関の靴棚の上にあるアルコール消毒液をプッシュして、手に擦り込んだ。
 その瞬間、甘ったるい匂いの正体に気がついた。

 消毒液が原因だったのである!

 消毒液がついた手で、いつもの癖で髪の毛をいじっていたから、頭皮に匂いが移ったのだ。
 すぐさま、「消毒液、甘い匂い」と検索をかけて、裏をとった。
 犯人が特定できた。

 ジアセチル(diacetyl, C4H6O2)
 
 酵母や乳酸菌などの微生物による発酵の際に生成する有機化合物である。
 
ジアセチルは強いバター様・チーズ様の匂いを持ち、低濃度では蒸れたような匂いを発する。共存する物質により異なるが、弁別閾値は低く、製品中0.1mg/L程度の濃度で問題となる。2,3-ペンタンジオンも同様の匂いを持つが、揮発性が低いため匂いは弱い。一般に、発酵バターや一部のチーズなど乳酸発酵により製造される乳製品には不可欠な香りであるが、酒類などアルコール発酵により製造される飲食品では好ましくない異臭とされる。
(ウィキペディア「ジアセチル」より抜粋)

 おそらく、空気中の乳酸菌が消毒液のボトルの中に侵入し、アルコール発酵したのだろう。
 その日は特に暑かったので発酵の度合いが激しく、それと気づくほどに匂いがきつかったのである。
 臭いを消そうと消毒液を擦り込めば擦り込むほど、逆効果だった。

 このジアセチル、醸造業界ではダイアセチルとも呼ばれ、なんと「つわり香」と呼ばれているそうである。
 なるほど、妊娠初期の女性にとってはつらい刺激臭である――って分かるのか!

 また、ジアセチルは30~40代の男の「おやじ臭」の原因物質でもある。
 現在50代のソルティが発する「加齢臭」は、ノネナールという成分が原因であり、両者は化粧品業界によって厳密に区別されているらしい(笑)。
 言われてみれば、マルセイバターサンドは10年前くらいの頭皮の匂いだったかも・・・?

 くだんの消毒液は取り換えた。
 一件落着。

IMG_20200703_111649




● 阿含経典を読む 7 悟りの方程式

 増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)も3巻目に入った。
 前2巻で採録された「相応部経典」から離れて、「中部経典」、「長部経典」、お釈迦様の最期の日々を伝える「大般涅槃経」、お経誕生の経緯を記した「五百人の結集」などが取り上げられている。


IMG_20200318_114703


 しょっぱなに登場する「数学者モッガラーナの問い」(中部経典107)が興味深い。

 数学者モッガラーナの問い、「法と律とにおいて、順序をふんで学ぶべきこと、順序をふんでなすべきこと、順序をふんで行くべき道はあるか」に対し、お釈迦様が答えたお経である。
 すなわち、仏教において、悟りあるいは解脱にいたるための段取りが記されている。

 お釈迦様は次のような順序を語る。
  1.  すべからく戒を具する者となれ
  2.  すべからく諸根(6つの感覚器官)の門を守るがよい
  3.  食において量を知るがよい
  4.  行住坐臥のつつしみを修することに専念するがよい
  5.  すべからく正念(ただしい気づき)と正知(ただしい智慧)を身につけるがよい
  6.  ただ一人して住すべき人里はなれた空閑処をえらび、結跏趺坐し、身を正して、正念が目のあたりに現前するがごとくにして坐するがよい
  7.  五蓋(貪欲・瞋恚・惛眠・掉悔・疑惑)を除き、心を清浄にするがよい
  8.  さすれば、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に至る
 相手が数学者だけに、お釈迦様もあたかも方程式を解くように、理路整然と語られたのだろう。
 
 上記7にある五蓋(ごがい)とは、禅定をつくることを妨げる五つの心のはたらきのこと。
 テーラワーダ仏教の比丘であるスマナサーラ長老と、浄土真宗誓教寺住職・藤本晃共著による『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』を参考に、簡潔に定義すると、
  • 貪欲(どんよく) ・・・・色声香味触の刺激を受けたい気持ち
  • 瞋恚(しんに)    ・・・・怒り
  • 惛眠(こんみん) ・・・・心が小さく縮こまること、眠くなること
  • 掉悔(じょうご) ・・・・混乱すること、後悔すること
  • 疑惑(ぎわく)  ・・・・ブッダの教えを試そうともせず、ただ嫌がって拒否すること

 ソルティは五蓋のうち、とくに惛眠につけこまれやすい。
 いや、日本人は意外とその傾向が強いのか、たまに瞑想会などに参加すると、みな瞑想の合間にコーヒーばかり飲んでいて、指導してくれる外国のお坊さまをあきれさせたりする。
 電車の中の居眠りも日本人の得技で、外国ではなかなか見られない光景という。

車内睡眠

 
 また、掉悔(じょうご)について言えば、仏教では後悔はNGである。
 
 仏教では後悔は罪だと思っています。「後悔する人は罪を犯している」と考えます。「悔い改める」という言葉がありますが、天国に行きたければ、「悔やんで改める」のではなく、ただ「改める」だけにした方がいいのです。
 
 瞑想するときも開き直った方がいいのです。今までどんな悪いことをしていても、そんなものはどうでもいい、と開き直って明るい心で始めるしかないのです。後悔すると、過去の失敗や罪を思い出すと、心が暗くなってエネルギーが消えます。それで超越的な知識が生まれなくなります。

(『ブッダの実践心理学 第二巻 心の分析』、サンガ文庫)
 
 何十人をも殺害した凶賊アングリマーラでさえ、お釈迦様と出会って改心し、修行して、阿羅漢となれた。
 仏教の楽天性、ここに極まれり。




● 映画:『夏の夜は三たび微笑む』(イングマール・ベルイマン監督)

 1955年スウェーデン
 108分

 タイトルがいいねえ~。
 原題は Sommarnattens leende 「夏の夜の笑み」

 シェークスピアあるいはオスカー・ワイルド風の、機知とアイロニーに富んだロマンチックコメディ。
 複数の男女の錯綜する恋愛模様が、北欧の美しい風景と上流階級の瀟洒な屋敷を舞台に描かれる。
 重厚なイメージのあるベルイマンだが、こういう大人の恋愛喜劇も滅法うまい。

 我々日本人にとって味わうべきは、北欧の夏の名物の風情である。
 登場人物たちが、とある郊外の屋敷で一晩を過ごすのだが、戸外はいつまでたっても明るいままで、曇りの日の昼間のよう。
 「なんだ、ベルイマン、撮影をミスったか?」と一瞬思い、「ああ、白夜か!」と気がついた。
 そこではじめて、映画の最初のほうに出てくるシーンに得心がいった。
 
 主人公の中年弁護士が、その日の仕事を終えてから、年若い妻と観劇に行くエピソードがある。
 帰宅して妻や息子と夕食を終える。
 「これからおめかしして外出か?」と思いながら観ていると、弁護士は妻に言う。
 「出かける前に、昼寝しておこう」

 えっ? これから寝るの?
 開演に間に合うの?
 それも昼寝?
 ああ、出かける前の一戦(エッチ)という意味か・・・。
 さすが若妻をもらうとお盛ん。
 
 が、次のシーンでは、夫婦は本当にパジャマを着てナイトキャップをかぶって、寝台に仲良く横になっている。
 「本当に寝るのか。ずいぶん遅い開演時刻なんだなあ~」
 次のシーンは劇場。
 観劇の途中で妻は気分を害し、二人は途中退席し、帰宅する。
 妻が寝たのを見届けるやいなや、夫はまたもやマントを羽織って、一人外出する。
 「えっ! こんな真夜中にまた出かけるの? 元気なオッサンだなあ」

 ちょっと予想外の展開に戸惑ったのだが、答えは“白夜”であった。
 夜がないので、催し物の開演時刻は遅い。
 その前にゆっくり夕食と仮眠がとれるわけである。
 長い長いたそがれは、戸外で恋を語り、愛し合うに最高のマジカルタイムである。
 それゆえ、「三たび微笑む」のだ。
 
 ソルティは北欧に行ったことがない。
 体験したことがないと、なかなかそれと気づかないものである。


 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

 

● 本:『平安人の心で「源氏物語」を読む』(山本淳子著)

2014年朝日新聞出版

IMG_20200701_192909


 『枕草子のたくらみ』が面白かったので、同じ著者の今度は『源氏物語』をテーマにしたエッセイを読んでみた。
 『源氏物語』54帖のあらすじを紹介しながら、平安貴族社会の風俗や慣例や人々の価値観を、同時代の様々な古典文学からのエピソードをも引いて、通勤電車内で読めるような軽いタッチで教えてくれる。
 それらを知ることでまた、紫式部と同時代を生き、『源氏』の書写本を手にした読者の心に寄り添い、より深く、より面白く、『源氏』を読むことができる。
 たとえば、「秘密が筒抜けの寝殿造」、「平安京ミステリーゾーン」、「伊勢の斎宮と賀茂の斎院の違い」、「女性を三途の川で待つ“初開の男”とはなんぞや?」、「ヒゲ面はもてなかった」、「平安の医者と病」、「親王という生き方」、「平安の葬儀」、「平安の不動産事情」、「平安貴族の勤怠管理システム」等々、『源氏』ファンのみならず、王朝文学好きにとって、知って得する雑学のオンパレードである。

 また、山本は、紫式部が『源氏物語』を執筆した動機の一つとして、一条天皇の中宮・定子の悲惨な晩年をリアルタイムで目撃したことを上げ、一条天皇と定子との宿命的な恋愛こそが、『源氏』の桐壷帝と桐壺更衣のそれのモデルとなった、という説を掲げている。
 紫式部自身は、同じ一条天皇の后となった藤原道長の娘・彰子の女房であったので、「ライバルのお姫様のことを題材にするかなあ~」と単純に思いそうだが、実は、紫式部が『源氏』の執筆に手を染めたのは、彰子に仕えるよりも前のこと。
 それなら、十分あり得る。


IMG_20200701_193008
ポプラ社の古典文学全集


 さて、ソルティと『源氏』との出会いは、小学校高学年のとき。
 親に買ってもらったポプラ社の中学・高校生向け『古典文学全集』(上画像)のシリーズ中の一冊であった。
 編者(訳)は国文学者の塩田良平。
 同じシリーズの『平家物語』が平氏滅亡の話なのに、なんで『源氏物語』には源頼朝や牛若丸こと義経や弁慶、そして北条政子は出てこないんだろう?――と不思議に思った。
 大人の色恋沙汰などわかるはずもなく、ましてや「もののあはれ」など爪の先ほども感じ取れなかったけれど、なぜか面白くて、はまった。
 ロスト・セレブ・コンプレックスはこの頃から発動していたのだ。
 
 その後、高校時代の古典の授業をはさみ、大学生になってから「与謝野源氏」を、社会人になって「谷崎源氏」を読んだ。
 むろん、前者は情熱の歌人・与謝野晶子の、後者は究極の女性崇拝者・谷崎潤一郎による現代語訳である。
 この二人の輝かしい文豪による『源氏』を読んでしまうと、それ以降の現代作家による『源氏』にはなかなか手が出せなかった。
 橋本治の『窯変源氏物語』(1993年中央公論社)には執筆時より惹かれるものがあったが、完結してから読もうと待っていたところ、完結したらあまりにも長いので、怖じて手が出せないでいる。
 
 ここ最近、また『源氏物語』の新訳の刊行が続いている。
 当ブログでその著書『本当はエロかった昔の日本』ほかを紹介した大塚ひかり(2010年ちくま文庫)、リンボウ先生こと林望(2013年祥伝社)、流行作家の角田光代(2020年河出書房新社)などである。
 
 大塚や山本の著作で知られるように、新しい知見や視点からの文学研究の成果が蓄積されている。
 また、20代で読んだ『源氏』と、50代で読む『源氏』は違って然るべきだろう。
 そろそろ新訳に挑戦してみよう。




おすすめ度 :★★★ 

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損

 





 

● 本:『悪霊論 異界からのメッセージ』(小松和彦著)

1989年青土社

 『神隠しと日本人』、『日本妖怪異聞録』に続く3冊目の小松ワールド。

 
IMG_20200629_145105


 この著者の書くものには、学術志向(専門書)とエンターテインメント志向(娯楽教養本)の中間をねらった、巧みな販売戦略を感じる。
 べつに悪口ではない。
 民俗学というものが、そもそも日常生活に密着した学問ゆえに親しみやすい様相を呈しているところに、この著者の専門領域が、「妖怪、憑依、シャーマニズム、幽霊、異人、神隠しe.t.c.」といった怪異全般と来ている。
 ソルティのようなオカルト好き、スピリチュアル・マニアの読者の気を惹かぬわけない。(副題のつけ方も確信的)
 
 タイトルになっている悪霊論のほかに、「異人殺し伝説、村八分、天皇制、鬼と雷神、稲荷と狐」などに関する論考が並んでいる。
 現代日本人が忘却したフォークロア(伝承)の数々に、昔の人間の迷信深さや信心深さ、非科学的精神をみるのはたやすい。
 が、それとともに、こうしたフォークロアが、共同体を守るための恰好の仕掛け、いわゆる「方便」として働いていたことも考慮すべきである。
 神隠し現象に見るように、あえて身も蓋もない真実を暴き出して共同体崩壊の危機を招くよりは、とりあえず誰もが納得できる共同幻想(=物語)を創作し、成員がそれを信じるふりをして、真実を闇に葬る。
 怪異を伝える伝承にはそういう側面もあったのだ。
 
 いや、現代日本人がそこから脱したとは到底言えない。
 たとえば、天皇制はいまも日本最大の共同幻想であろう。
 
 前近代の民俗のなかには天皇の姿をはっきりと認めることができない。
 ところが、近代に入って、天皇制国家の成立とともに、村落共同体を変容させる新しい都市文化・西欧文化と一体化しつつ天皇が村の中に入り込んでくる。
 そこで、民俗学は、どうして民俗社会はいともたやすく特殊イデオロギーに支えられた明治の天皇制国家観つまり天皇信仰を受け入れたのか、と問うことになった。
(本書第2章、「天皇制以前あるいは支配者の原像」より。以下同)
 
 江戸時代の庶民や百姓は、天皇信仰など持っていなかった。
 ときの将軍様の名前は言えても、ときの天皇が誰かは知らなかったであろう。
 明治になって、天皇信仰は津々浦々に入り込んだのである。
 
 上記の問いに対する、小松の同業者である伊藤幹治(いとうみきはる、1930-2016)の結論を紹介している一節が興味深い。
 
 彼(ソルティ注:伊藤幹治)は、家族国家観という近代天皇制の特殊イデオロギーを「家」の原理から把握しようとする。
 そして、柳田国男や有賀喜左衛門などの「家」研究と神島二郎などの政治思想史や法制史などの研究を重ね合わせることで、家族国家観とは「家」と国家という異質の制度を接合しようとした特殊イデオロギーであったが、このイデオロギーが半世紀近くもこの日本社会に存続し続けたのは、集団の統合原理として人びとの間で機能していた「家」とそれを支えるための民俗的イデオロギーとしての先祖観が存在していたからだ、という結論に達した。
 つまり、国家が「家」に、「家」の先祖が天皇家の神話的先祖に擬制され、それを通じて国家という最大の「家」が創出され、すべての国民がその「家」の「家中」(=子分)にされてしまったというわけである。
 
 木下惠介の映画『陸軍』を想起した。
 
 日本人の天皇観や天皇との距離感は、時代によって、地域によって、身分や職業によって、かなり異なるはずである。
 天皇が「現人神」であった大日本帝国時代はむろんのこと、メディアの発達した現在の我々のほうが、たとえば江戸時代の庶民より、よっぽど統一的・画一的な天皇観を抱かされているのかもしれない。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 
 

● 集団免疫戦略 映画:『ディストピア パンドラの少女』(コーム・マッカーシー監督)

 2016年イギリス
 111分
 原題 : The Girl with All the Gifts 「万能少女」

 何を期待してレンタルしたのか思い出せないが、よもやこういう話だとは思わなかった。
 牢獄のようなところで、武装した兵士たちに厳しく監禁されている子供たちのシーンから始まるので、ちょっと前に見た『レベル16 服従の少女たち』同様、子供虐待ストーリーかと思っていた。
 
 ところが、施錠されたまま暗い牢獄から連れ出された主役の少女メラニーの前に、明るい戸外の光景が広がったとたん、「えっ、これはそういう話だったの!」という驚きが走った。
 そこからは、完全にお馴染みのモンスターパニックの世界である。

 このモンスターの正体こそは、ある未知の細菌に感染し、脳を侵され、食人病にかかった人間たち、すなわちゾンビである。
 この映画は、ゾンビものの新機軸だったのである!
 
 ゾンビに覆いつくされたロンドンで、人類の生存をかけた死闘が繰り広げられる。
 ゾンビは人の匂いや物音に反応するので、匂い消しのジェルを身体に塗って静かに歩けば、ゾンビの大群の中も通り抜けられるという設定が面白い。(ゾンビは目が利かないらしい)
 ゾンビの母親から生まれた第2世代は、第1世代より進化して、知能を獲得できるという設定も画期的。(どうやって胎児が生まれたかはグロテスク過ぎて書けない・・・)

 上記の監禁された子供たちこそ、第2世代だったのである。

 
ゾンビ少女


 
 これがアメリカ映画ならば、激闘の果てに人類の生き残りの道(=希望)が示されるのだろうが、イギリス映画はやはりブラック&シニカルである。
 人類と心を通わせる能力をもつ第2世代の天才少女メラニーは、人類からゾンビへの覇権交替の道をあえて選ぶ。
 つまり、集団免疫獲得の選択をする。

 なるほど、ゾンビは細菌感染した病者であってみれば、かれらもまた“人類”には違いない。
 “人類”は生き残った・・・。  
 本作のユニークかつ目新しいところは、“ゾンビ V.S. 人類”という往年の対立構造が問われている点かもしれない。

 それにしても、タイムリー。




おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損


●  本 :『かもめ』(チェーホフ作)

1896年初演
2010年岩波文庫(訳:浦雅春)

かもめ


 「演劇史に燦然と輝く名作」と称されるチェーホフ『かもめ』をはじめて読んだ。
 むろん、舞台も見たことない。

 読んでみて、正直、「なんでこれが名作なの?」という思いが湧いてくる。
 登場人物こそ多くて、恋愛模様こそ賑やかであるが、舞台上では事件らしい事件も起こらず、単調で退屈な筋立てである。
 「結局、何が言いたいの!?」と思わず呟きたくなる。
 実際の舞台を見れば、また印象が違うのだろうか?

 ――と思って、はたと気づいた。

 まさにこうやって、非日常的なドラマチックな事件を求める心の習性が、日常を蝕んでいく様を描いているのが、この戯曲なのだ。
 登場人物のだれもが、「今ではないいつか」、「ここではないどこか」、「この自分ではない理想の自分」を求めて葛藤し、現在を否定し、欲求不満に陥っている。
 子どものように「いまここ」に安らいで幸福を味わうことのできる感性をとうの昔に喪失し、不毛な人間関係と中身のないセリフのやり取りだけが舞台上に繰り広げられる。
 つまり、現代人の多くが陥っている状況が描き出されている。

 今回のコロナ禍のポジティヴな面をしいてあげるとすれば、平凡な日常の営みの価値を気づかせてくれたことだろうか。




おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 

● 伊藤雄之助、絶賛 !! 映画:『橋のない川 第2部』(今井正監督)

1970年
140分、白黒

 第1部に登場した被差別部落・小森の子供たちも青年となり、社会に出て働くようになっている。
 ここで彼らは様々な現実の壁にぶつかる。
 恋愛、結婚、就職、職場での差別、抜け出せない貧困の構造・・・・。
 青年たちそれぞれの人生に降りかかる差別のエピソードとともに、第2部では1918年の米騒動を契機に、部落の人々の間で社会闘争の気運が高まっていく様子が描かれる。
 それが、1922年の京都での『水平社宣言』につながるところで、全編は終了する。

 第1部以上に、飲んだくれの厄介者・永井藤作を演じる伊藤雄之助の熱演が目立つ。
 いつのまにか荷車引きをやめて靴みがきになっている。
 女郎屋に売った実の娘のところに酔っぱらって出向いては小遣いをせがむ。
 本当にどうしようもないやくざ者である。
 しかし、滑稽なところや無頼な一面も合わせ持っていて、本作における道化役、狂言回しとなっている。
 俳優・伊藤雄之助の「生涯の一本」と言っていいのではないか。

IMG_20200626_110158
米問屋に入り込んで米俵を群集に投げる藤作(=伊藤雄之助)

 
 藤作らによる米問屋の打ち壊しや官警相手の乱闘、その報復としての資本家の手先による小森部落襲撃といった迫力あるアクションシーン。
 第1部では無残に破れた孝二の初恋のほの甘い続き。一方、愛し合いながらも無理やり周囲に別れさせられる誠太郎と主家の娘の悲恋。
 加藤嘉、南美江、大滝秀治といった実力ある役者の投入、華のある大型新人・原田大二郎の起用、そして小森の腕白小僧の可愛らしさ。
 第1部よりも明らかにエンターテインメント性が高まっている。
 140分を長く感じることはなかった。
 
 ただし、完成度から見れば第1部にかなわない。
 肝心かなめの水平社創立にこぎつけるまでの“熱い”ドラマが見事にすっ飛ばされて、終盤は取ってつけたような、尻すぼみのラストになっている。
 監督自身の言によれば、もともと3部構成だったところ、解放同盟の妨害が厳しくなって、2部と3部を合体させて製作せざるをえなかったという。
 たしかに、第2部のクレジットには部落解放同盟の名前はない。
 
 ソルティの実感では、第2部も第1部同様、差別を助長する映画とはまったく思えなかった。
 上記のような欠陥はあるものの、それは構成的なものであり、内容的には差別の理不尽さ、惨さを訴えながらも、小森部落の人々を(永井藤作をも含め)愛情もって生き生きと描いており、観る者は自然、彼らに共感し、不正に立ち上がらんとする彼らを応援したくなるはずだ。
 
 そのうちに住井すゑの原作を読んでみよう。



おすすめ度 :★★★ 

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 北林谷栄、絶賛 ‼ 映画 :『橋のない川 第1部』(今井正監督)

1969年
127分、白黒(一部カラー)

 この映画、ずっと気になっていた。
 というのも、おそらくは島崎藤村『破戒』と並んで、部落差別をテーマにした小説としてはもっとも知られていて800万部を超えるベストセラーになった住井すゑの大作『橋のない川』の最初の映画化(2度目は1992年東陽一監督による)である本作が、当の部落解放同盟によって「差別助長映画」と批判されたことを聞いていたからである。
 原作に対するそうした批判は聞いていない――でなければ2度目の映画化などありえなかったろう――ので、今井正監督による本作に、どこか当事者を苛立たせるような、原作と離れたセリフなり演出なり脚色なりがあるのだろうと思った。
 
 ところが、冒頭のクレジットでいきなり驚いた。
 「部落解放同盟中央本部」協力と大きく出ているではないか。
 解放同盟は自ら制作協力したものについて、あとから後悔し、自己批判したのだろうか?
 脚本の段階で、あるいは撮影を終えたラッシュ試写の段階で、「これは差別映画だ」と気づかなかったのだろうか?
 クレジット掲載を取りやめるに間に合わなかったのか?
 ――と、いろいろ考えながら観始めた。
 
 結論から言えば、これは差別を助長する映画ではない。
 どころか、差別の酷さ、理不尽さ、愚昧さを、見世物的にも教条的にもならず人間ドラマとして観る者に伝え得る、質の高い作品に仕上がっている。
 部落出身の主人公・丑松が、出自を隠していたことを周囲にカミングアウトして土下座する、藤村の『破戒』の救い無さにくらぶれば、同じ明治時代を背景とする作品としては、当事者の尊厳と希望とがきちんと描かれている。
 奈良盆地の四季を映したロケや撮影、リアリズムに徹した脚本や演出、役者たちの演技、ひとつの映画芸術として見た場合でも及第点に達し、完成度は高い。
 
 とりわけ、主役一家の祖母・畑中ぬいを演じる北林谷栄と、飲んだくれの荷車引き・永井藤作を演じる伊藤雄之助の演技が、記録に残したいほど素晴らしい!(記録に残って良かった)
 
若い頃から老け役が多く、30代後半で、既に老女役は北林という名称を獲得し、日本を代表するおばあちゃん役者として広く知られた。特に、映画・テレビ共に、田舎の農村・漁村・山村で生活するおばあさんを演ずることが多い。衣装は自前である。盛岡の朝市のおばさんの着物や朝鮮人のおばあさんの古着など、「生活の苦汁」がしみ込み「生活の垢」がついたキモノを集めて愛蔵し、さまざまな役に応じて着なしていた。(ウィキペディア「北林谷栄」より抜粋)


IMG_20200625_135904
北林谷栄と伊藤雄之助(間に顔を覗かせるは若き日の長山藍子)

 
 時代は明治の終わりから大正にかけて。
 奈良盆地にある被差別部落・小森に暮らす人々の生活が描き出される。
 明治4年の解放令から40年近くが立つが、まったく旧態依然とした部落差別が続いている。
 地主が田畑を貸してくれない、火事になってもポンプ車が来ない、奉公先が見つからない、子供が学校でいじめを受ける、警察から犯罪の疑いをかけられる・・・等々、さまざまな差別が描かれる。
 
 「なるほどなあ~」と思わされたのは、昔から連綿と続いてきた習慣から、村の人々の間で差別がもはや「空気化」していて、「えった(エタ)は差別されてあたりまえの存在」ということが常識となっている点である。
 少なくとも令和の現在、たとえ差別はなかなか解消せずと言えども、少なくとも、「差別は良くない」、「差別はおかしい」という意識を持たない一般人は少ないだろう。
 つまり、いまの人々は、「差別は良くない」と知っていながら差別する。
 ところが、映画に出てくる村人たちは、そもそも「差別がおかしい」とすら思っていない。
 
 学校で同級生に「えった」となじられた主人公一家の長男・誠太郎は、相手の少年に殴りかかって怪我させる。
 殴った理由を問う男性教師に、誠太郎はなかなか訳を言わず、罰としてバケツを持って廊下に立たされる。
 事情を知った祖母(=北林谷栄)が職員室に駆け付けて、校長相手に涙ながらに談判する。
 「わいが理由を教えます。相手が誠太郎のことを“えった”と言ったからや!」
 すると、男性教師は悪びれもせず不思議そうな顔で問い返す。
 「それだけですか?」 
 
 第一部では、主人公一家の子供たちが通う小学校が舞台となるシーンが多く、部落と“一般地区”の子供たちのやりとりが頻繁に描かれる。
 言うまでもなく、子供は残酷で率直である。
 家庭内での大人たちの差別的言辞を、なんら躊躇することなく、表に出す。
 
 次男・孝二は、同級生の“一般地区”の可愛い少女に恋をする。
 相手も自分にまんざらでもない様子がうかがえる。
 明治天皇が亡くなった折りの夜間の学校集会で、少女は孝二の手を握ってきた。
 有頂天になる孝二。
 しかし後日、少女はこう告げるのだ。
 「部落の人は夜になると蛇みたいに手が冷たくなるというから、確かめてみようと思ったの」
 
 時代が変わって、法律が変わったところで、人々の意識はそう簡単には変わらない。
 ここから長く険しい当事者の闘いが始まる。
 そのスタート地点を描いた一つの作品として、この映画は解放運動史の観点からも、解放同盟がお墨付きを与えた亀井文夫監督のドキュメンタリー映画『人間みな兄弟 部落差別の記録』同様、価値は高いと思う。
 「協力」のクレジットは解放同盟にとって恥でも過ちでもあるまい。 
 



おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 

● 映画:『マーシュランド』(アルベルト・ロドリゲス監督)

2014年スペイン
105分

 良質の刑事物サスペンスミステリー。
 連続少女猟奇殺人の犯人を追う、ベテランと若手の刑事コンビ(ゴリさんとジーパンのよう)の奮闘を描く。

 英語タイトルのマーシュランド Marshland とは「湿地帯」の意。
 スペイン語の原題 La isla minima とは「最も小さい島」の意。
 スペイン南部アンダルシア地方にある広大な湿地帯近くの田舎町が舞台である。

 フランコ独裁体制(1939~1975年)の爪痕が残る1980年代の物語なのだが、まさに80年代の良質なクライムサスペンスの匂いがふんぷんとしてくる。
 『ブラッド・シンプル』(1984)、『フール・フォア・ラブ』 (1985)、『ブルー・ベルベット』(1986)、『モナリザ』(1986)・・・・。
 懐かしい感があった。

 映像が素晴らしい。
 人の脳細胞のアップのような、田圃と畦道と水路の複雑に入り組む湿地帯の俯瞰から始まり、アンダルシアの田舎町の物憂くけだるい、未来永劫変わることのないような景観が重ねられる。
 音声が素晴らしい。
 蠅の飛び回る音、騒ぎ立てる鳥の声、暑苦しい虫の羽音、湿地を打つ雨音、フラメンコギターの物悲しくも心騒がす響き、これらが風土を知らしめるとともに、観る者の神経を苛立たせ、緊張を高める効果を生んでいる。

 スペイン風ゴリ&ジーパンの体を張った捜査のおかげで、犯人は判明し事件は解決した。
 が、ここからがスペイン映画らしいところ。
 スッキリとした円満ラストは用意しない。
 下手に深追いすればそれこそ湿地にはまり込むような過去の因縁が、観る者を暗澹たる気分にさせる。

湿地


おすすめ度 :
★★★


★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損





 
 
 
  
 
 
記事検索
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
ソルティはかたへのメッセージ

ブログ管理者に非公開のメッセージが届きます。ブログへの掲載はいたしません。★★★

名前
メール
本文