ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 日日是好日 映画:『パーフェクト・デイズ』(ヴィム・ヴェンダース監督)

2023年日本、ドイツ
124分

 1987年公開の『ベルリン・天使の詩』以来、実に37年ぶりにヴェンダース作品を観た。
 ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキー共演で大ヒットした『パリ、テキサス』の砂漠の青空の印象が強いせいか、「ヴェンダース=青色系」というイメージがあるのだが、やはり本作も「青色系」であった。
 ただし、BLUEやINDIGOのような主張の強い「青・藍」ではなく、淡く曖昧な寒色系といった「あお」である。
 この色彩感覚が、ヴェンダース作品が日本人に好まれる理由のひとつではないかと思う。
 「あお」で描き出される東京、とりわけ下町が本作の舞台である。

 都内の公衆トイレの清掃員である平山(演・役所広司)の何気ない日常を切り取った、ただそれだけの映画。
 大きな事件も起こらず、濃い人間ドラマが展開することもなく、ことさら観る者の感情を煽るような仕掛けもない。
 波乱万丈のストーリー、起承転結あるプロットを期待する者は肩透かしを喰らうだろう。
 カメラは、ほぼ一週間、朝から晩まで平山に密着し、平凡な初老の男の日常を映す。
 つまらないと言えば、これほどつまらない話もあるまい。
 だれが60歳をとうに過ぎた独身男、それもトイレ清掃員の日常生活を追いたいと思う?
 
 そういう意味で、観る人によって評価が分かれる作品、観る者を選ぶ映画と言える。
 おおむね、将来ある若者や現役バリバリの中年世代より、一線をリタイアした高齢者のほうが共感しやすいと思うし、いわゆる「勝ち組」よりは「負け組」のほうが胸に迫るものがあると思うし、富や出世や成功など目標達成的な生き方を好む人より、日常の些細な事柄の中に喜びを見つけるのが得意な人のほうが、本作のテーマをより理解しやすいと思う。
 批評家の中条省平が本作をして、「日常生活そのものをロードムーヴィ化している」と評したそうだが、まさにそれに尽きる。
 ソルティ流に言うなら、こうだ。
 
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四国遍路・別格7番金山出石寺付近
 
 本作のミソは、主人公・平山の背景や過去が語られないところにある。

  年はいくつなのか?
  出身はどこなのか?
  どういう人生を歩んできたのか?
  もともと何の仕事をしていたのか?
  結婚したことがあるのか?
  子供はいるのか?
  なぜ、トイレ掃除の仕事をしているのか。
  なぜ、安アパートで一人暮らしなのか。
  なぜ、無口なのか。
  いつから、なぜ、こういう生き方をするようになったのか?
  ・・・・・等々
 
 観る者は、役所広司演じる平山の表情や振る舞いや趣味嗜好を通して、平山の背景や過去を想像、推理するほかない。
 たとえば、
  • 外見からは60代~70代(役所は68歳)だが、姪っ子(妹の娘)がハタチそこそこに見える。若く見つもって50代後半~60代前半? いや、しかし、聴いている音楽は70年代に流行った洋楽ばかりで、しかもカセットテープ世代である。愛用しているカメラもデジタルではなくフィルム式。となると、60代後半?
  • ノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナー、『流れる』『木』の幸田文、『太陽がいっぱい』『11の物語』のパトリシア・ハイスミスを愛読しているからには、かなりのインテリ。大卒の一流企業社員であったのかもしれない。あるいはカメラ関係の仕事か。
  • 疎遠になっている裕福そうな妹がいて、二人の父親は認知症で老人ホームに入っているらしい。平山は、この父親とかなり険悪な関係であったようで、今も会う気はない。子供の頃、虐待を受けていたのか?
  • 結婚して家庭をもったけれど、うまくいかず、離婚したのか。妻子に死なれたのか。あるいはゲイ?(それなら、父親との関係も説明がつく)
  • 整理整頓の習慣が身についているのは、ひょっとして、自衛隊にいた? あるいはムショ暮らしが長かったのか。(前科者ゆえ、出所後に就ける仕事が限られたのかもしれない)
  • 住んでいる地域は映像から見当がつく。スカイツリーの近くで、「電気湯」という名の銭湯や浅草駅や亀戸天神に自転車で通える範囲で、隅田川にも荒川にも出られる。となると、墨田区曳舟だろう。
  • ひとつ確かなことがある。平山は今も「昭和」に住んでいる。

駄菓子屋
 
 主人公の過去をあえて饒舌に語らないでいることは、観る者に想像の余地を与えて、その空白部分に観る者自身の過去を投影させる。(たとえば、上記でソルティが平山をゲイと仮定したように)
 観る者は、平山を通して自らの過去を点検する。と同時に、平山の「現在」と自らの「現在」を自然と比べてしまうことだろう。
 「ああ、自分はトイレ掃除で日銭を稼ぐような、落ちぶれた独り者にならなくて良かった」と思う人もいよう。
 「自分の境遇は平山よりずっと恵まれているのに、なぜ自分は平山のように安穏と生きられないのだろう? 熟睡できないのだろう? 女にモテないのだろう?」と思う人もいよう。
 要は、世間的には「負け組」のカテに放り込まれるであろう平山の「現在」を通して、幸福の意味の問い直しを促すところに、本作のテーマはある。
 
 どんな人も、人生のある瞬間に――たいていは老年になってから――自らの過去を振り返り、そこに後悔や未練や失敗や恥を見る。
 他人から見て、すべてを手に入れ成功した人生(パーフェクト・ライフ)を歩んできたように見えても、当人の中では、「こんなはずじゃなかった」と思っている場合も少なくない。
 そこで過去に囚われて、「あるべきはずだった人生」と「そうはならなかった人生」をくらべて落ち込み、残りの人生を鬱々と過ごす人も多い。
 そのとき、もはや繰り返される日常は、苦痛で退屈で疎ましいものでしかなくなる。
 過去の記憶が、現在の幸福を邪魔する。
 
 正確に覚えていないのだが、『パリ・テキサス』の中で、ハリー・スタントン演じる男は、こんなセリフを吐く。
 「二人にとっては、毎日のちょっとしたことがすべて冒険だった」
 そう、平山にとっても、毎日が冒険と発見の連続なのだ。
 毎朝出がけのBOSSの缶コーヒー、通勤途中のスカイツリーへの挨拶、トイレ掃除を通じて起こる些細な出来事、苗木との出会い、公園のホームレスとの無言の存在確認、見知らぬ誰かとの〇×ゲーム、仕事仲間の恋愛に巻き込まれること、古本屋の店主とのマニアックな会話、家出してきた姪っ子とのサイクリング、妹との再会、飲み屋のママの過去を知ってしまうこと、その元亭主のうちわ話を聞くこと、爽やかな早朝の大気、刻々と色彩を変える夕空、突然の土砂降り、木漏れ日のきらめき、荒川の水面に映るネオンサイン・・・・。
 同じことの繰り返しのように見える毎日毎日の暮らしの中に、さまざまな新しい出会いが生じ、その都度「生」は我々に応答をもとめている。日常の中に潜む美しさや深さは、常に発見されるのを待っている。(ドイツ人監督であるヴェンダースによって撮られたあおい TOKYO が、異国のように美しくエキゾチックに感じられるのは、まさにその一例だ。普段、自らの頭の中に拵えた“東京”に安住している我々は、その美しさに衝撃を受ける)
 
 生きている限り、毎日、いろんなことが起こっている。変化している。
 同じ一日、同じ一時間、同じ瞬間、同じ出会いはあり得ない。
 それこそ諸行無常。
 いいことも、悪いことも、一瞬ののちには去り行く。
 ならば、いっそ諸行無常を楽しんだほうが得であるのは間違いない。
 平山が見つけた幸福の極意は、おそらく、ここにある。
 
灌頂滝の虹
 
 映画のタイトルは、アメリカ出身のミュージシャンであるルイス・アレン・リードが1972年に発表した楽曲から採られている。映画の中でも、平山のお気に入りの一曲として、仕事場へ向かう車の中でカセットデッキで流される。
 ソルティは洋楽に詳しくないので、どういう歌なのか知らないのだが、本作において『パーフェクト・デイズ』が意味するところを、我々日本人がよく見聞きする言葉に置き換えるなら、これだろう。
 
 本作で役所広司は、日本人としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶりに、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得した。
 それも十分納得の名演であるが、凄いところは、鑑賞直後よりも半日後、半日後よりも24時間後、24時間後よりも3日後・・・・というように、時がたつほどに映画の中の「役所=平山」の表情や仕草が眼前に鮮やかに浮かび上がってくるところである。
 それに合わせて、映画の感動もじわじわと心身に広がっていく。むろん、評価もまた。
 こういう、あとから効いてくる、中高年の筋肉痛のような作品は珍しい。

 ほかの出演者では、平山の仕事仲間でいまどきの若者を演じる柄本時生(柄本明の次男坊)、スナックのママ役の石川さゆり、その元亭主の三浦友和、公園のホームレス役の田中泯など、印象に残る演技である。
 平山の行きつけの写真店の主人を演じているのは、アメリカ文学者にしてポール・オ-スターの小説を翻訳している柴田元幸。
 なぜ、この人が???
 
 最後に――。
 平山と姪っ子が自転車で並んで走るシーンは、まず間違いなく、小津安二郎『晩春』へのオマージュだろう。
 ヴェンダースの小津愛が感じられて、うれしかった。
 
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 小津安二郎監督『晩春』の宇佐美淳と原節子
 
 
おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 光る君の源 本:『紫式部の父親たち』(繁田信一著)

2010年笠間書院

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表紙は、西原祐信画・藤原為時像

 NHK大河ドラマ『光る君へ』は紫式部(演・吉高由里子)を主人公とする平安王朝ドラマ。
 この時代が好きなソルティ、毎回興味深く視聴している。
 貴族の華やかな生活ぶり、宮殿や寝殿造の構造やしつらい、十二単に代表される衣装の美しさ、摂政関白の地位をめぐる上級貴族たちの権謀術数、後宮の女房たち(紫式部も清少納言もその一人)のガールズトーク、宮中の年中行事や儀式の時代考証、歴史書に書かれた逸話をどう脚色しているか、もちろん演出や俳優たちの演技・・・・等々、いろんな着眼ポイントがあって楽しみが尽きない。

 ここまで数回観てきて、「えっ、そうなの?」と意外な感を打たれた一番は、紫式部の実家の貧乏ぶりである。
 紫式部の父親の藤原為時(演・岸谷五朗)は、藤原北家の流れを汲み、このドラマのもう一人の主人公である藤原道長(演・柄本拓)と同じく、家系図をさかのぼれば淳和朝における左大臣藤原冬嗣につながる。
 つまり、名門なのである。
 世に浮き沈みはあるものの、代々貴族として朝廷に仕えてきた家柄なのだから、紫式部は生まれながらのセレブでリッチなお嬢様で、道長一家のような上級貴族には到底及ばぬものの、それなりに優雅な暮らしを享受していたと思っていた。
 それがドラマでは、あちこちガタのきた雨漏りする屋敷に棲み、それを修繕する費用もなく、次々と奉公人に逃げられ、生活費を工面するために式部の母親は自らの着物を売る。式部もいつも同じ服を着ている。
 それはまるで『源氏物語』に出て来る旧家のお姫様、末摘花のよう。 
 どこまで史実なのかは分からないが、「貴族=リッチ」というイメージがあったので、虚をつかれた。

 藤原為時は従五位下という位を朝廷から授けられ、法的な意味で「貴族」に列せられた。と同時に、越前守という地位と権威と莫大な富を得られる受領職を与えられた。
 が、為時がその官職を得たのは、道長が最高権力者になった長徳2年(996年)のことであり、為時すでに47歳、現代で言えば老齢もいいところ。
 それまでの10年間、為時は「散位(さんに)」、つまり官職のないプータロー状態にあったのである。
 現代ならば、無職になったら、ハローワークに通うなり、縁者を頼るなり、求人広告に応募するなりして、ほかの仕事を見つけて糊口をしのぎながら、虎視眈々とリベンジの機会を待てばいいが、平安時代の貴族の末裔たる者、そうはいかない。
 無職になったからといって京の都で干し魚売りでも始めようものなら、都じゅうの笑い者。先祖に顔向けできず、二度とこの先、宮中に出仕する機会など訪れまい。
 つまり、官職を得られなかった下級・中級貴族たちは、よほどの裕福な縁者でもいない限り、貧しい暮らしを余儀なくされたわけである。

 当時の中級貴族たちを取り巻いていた確実ながらも過酷な現実として、朝廷にとって特に意味のある一部の官職に就いている者にしか、朝廷からの俸給は期待できないことになっていたのであった。(本書より、以下同)

 紫式部の父親の藤原為時は、かなり腑甲斐ない父親であった。紫式部が十七歳になった頃に失脚した彼は、それから十年もの長きに渡って、何の官職もない散位の生活を続けたのである。そして、それゆえに、紫式部という女性は、当時の貴族女性にとっての結婚適齢期であった十歳代後半から二十代前半までの大切な時期を、失脚中のうらぶれた中級貴族の娘として過ごさざるを得なかったのであり、そうした事情から、当時の貴族女性には珍しく、三十路に踏み入る直前まで結婚することができなかったのであった。

紫式部
紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)

 本書は、藤原明衡(ふじわらのあきひら、989?-1066)という貴族が編纂した『雲州消息』をもとに、王朝時代の文人貴族たちの日常生活や生活感情のありようを伝えてくれる、歴史風俗研究エッセイ。
 『雲州消息』は、「王朝時代の貴族層の人々がしたためた手紙を二百余通も収録する、大部の書簡集」であり、「日本で最初の手紙の書き方」マニュアルである。
 そこには紫式部の父親のような「詩人であり、文章家であり、学者でもあった」文人貴族たちの手紙が数多く含まれていて、その生活実態や喜怒哀楽や同じ文人貴族である友人・知人との交流の様子をうかがい知ることができる。
 著者の繁田信は、これまでにもユニークな視点から王朝時代を紹介する本を多数書いているが、本書もまた、これまであまり光の当てられなかった下級・中級の文人貴族という“種族”をテーマに取り上げてくれた。
 漢学(中国文学)の素養を必須とし、酒と詩歌を好み、学問の研鑽怠らず、ひたすらに官職とくに金持ちになれる受領職を望み、陰陽師に吉凶や事の正否を占わせ、いったん受領になれば周囲からの様々な難題や誘惑に振り回される。
 きわめて人間臭い文人貴族たちの姿が描き出されている。
 王朝ファンの一人として、出版を感謝したい。

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京都伏見稲荷神社

 大河ドラマ『光る君へ』において、現時点で、藤原為時は東宮・師貞親王のちの花山天皇(演:本郷奏多)の側近を務めている。
 花山天皇はいささか風狂な人であったらしく、とくに色好みで知られた。
 『大鏡』によれば、藤原道長の父である関白・藤原兼家(演・段田安則)の権謀術数により出家をすすめられて退位し、その結果、兼家の孫である懐仁親王が即位し、一条天皇となる。
 これにより、道長天下につづく布石が打たれたわけだ。
 花山天皇の退位と共に、為時は任を解かれ、一転、もとのプータローに突き落とされる。

 もし花山天皇が長く王座にあったならば、そして、もし藤原為時が花山天皇の側近として公卿(ソルティ注:上級貴族)にまで出世していたならば、われわれ現代人が王朝物語の最高傑作として享受している『源氏物語』も、この世には出現していなかったかもしれない。というのも、さしもの紫式部も、もし上級貴族の姫君としての人生を手に入れてしまっていたらならば、文筆によって自己実現を果たそうとはしなかったように思われるからである。

 貧乏が『光る君』を生んだのである。




おすすめ度 :★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ドキュメンタリー映画:『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督)

2020年
119分

なぜ君DVD

 『日本改革原案2050』の政治家・小川淳也の32歳からの17年間を追ったドキュメンタリー。
 最初の新型コロナ緊急事態宣言が解除された直後の2020年6月に都内2館で公開され、ツイッター(現・X)を中心とするクチコミで火がつき、全国に上映館が広がり、6ヶ月のロングランとなった。

 噂に違わず、とても面白く、観る者を熱くさせる、感動的な120分。
 香川県という一地方の選挙戦の様子であるとか、旧態依然とした日本の選挙システムの問題点であるとか、政党政治や派閥政治の限界であるとか、党利党略やしがらみに縛られ振り回される一国会議員の葛藤であるとか、2003年から2020年までの政局の変遷であるとか・・・・そういった、一政治家の奮闘の記録を通して露わにされる「日本の政治および政治家」批評という観点でも興味深い作品なのであるが、それを大きく超えた感動がある。
 いったい自分はこのフィルムの何に感動したんだろう?
 何で感動したんだろう?

 一つは、小川淳也の政治信条がソルティのそれに近いからである。
 右すぎず、左すぎず、中道の庶民派。
 この映画の主人公が、自民党や共産党や公明党のような強い組織力のある政党の人間であったとしたら、あるいは、百田新党や日本維新の会や国民新党のようなマッチョな匂いのする政党の一員であったなら、ソルティはこれほど感動しなかったであろう。
 高松市で美容店を営む主人公の父親は言う。

 政治家が国民に本当のことを言って、この国の大変さと将来の大変さをちゃんと伝えて、土下座してでも、「こういうことやから」と言える政治家が出て来んと、もうこの国は駄目や、と思っているんですよ。それができるのは、ひょっとしたら淳也しかおらんのかなあ。

 この父にしてこの子あり。

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 一つは、主人公のイケメン力である。
 イケメン力とは、顔の造型やスタイルの良さだけを言うのではない。
 清廉さ、明るさ、我欲の無さ、正直、謙虚、熱意、ひたむきさ、率直さ、知性といった資質によって造られる顔立ちであり、人柄であり、オーラである。
 安倍晋三びいきで立場的には政敵とも言える田崎史郎すらをも惹きつけるのは、このイケメン力であろう。
 とくに、スイッチが入ったときの弁舌の磁力は、天下国家を語る維新志士が憑依しているかのごとく。

 一つは、この主人公が持っている“純なるもの”が、台風の目のように周囲の人々を巻き込み、次第に渦が大きくなっていく過程を見せつけられるからである。ドキュメンタリーならではの台本のないドラマと臨場感にワクワクする。
 魑魅魍魎の跳梁跋扈する政治の世界に、お花畑のような理想を掲げ、“小池百合子的したたかさ“とは真逆の正攻法で貫き通そうとする“おバカな”人間がここにいる!
 それが地元香川の市民たちの共感を得て、「地バン、カバン、看バン」揃った自民党公認の平井卓也議員に選挙で勝ってしまうという奇跡。
 現実にはウルトラマンが怪獣に敗けていくこの絶望的な世の中にあって、正義が果たされていく稀なるヒロイック・ファンタジーがここにある。

 一つは、本作が主人公とその家族を登場人物とするホームドラマになっている点である。
 主人公の両親、かつて同級生だった妻、二人の娘。
 官僚としてエリート街道まっしぐらだったはずの主人公の唐突な決断によって、人生を一変せられ、嵐の只中に巻き込まれ、さまざまな犠牲を強いられ、それでも主人公を支え続ける家族たち。
 通学している小学校の前に父親のポスターがデカデカと貼られているのを見て、あまりのきまり悪さに家に逃げ帰って号泣したという娘たちが、十年後には、「娘です」と大きく書かれたタスキを胸にかけて、父親のあとをついて堂々と選挙応援している姿には、これまで父親というものになったことのないソルティも、落涙を禁じえなかった。
 安倍自民党や統一教会が唱えていた“美しい家族”像が、どんだけハリボテな、欺瞞に満ちたものであるかが、よくわかる。
 強制された家族愛など偽りでしかない。

 一つは、やはりこれも家族の絆。父と息子の物語である。 
 ソルティは大島新監督についてなにも知らなかった。
 本作を観終わった後、ネットで検索して、あの大島渚の息子であることを知った。
 その途端、大島渚の撮った『日本の夜と霧』(1960)のラストシーンが浮かんできたのである。
 あれは、1950年代の共産党の右顧左眄と硬直した組織体制を批判し、新左翼の登場を描いた映画であった。
 国家権力を嫌った大島渚は、当然、反自民であったが、共産党シンパでもなかった。
 右でも左でもなく中道。しいて言えば、グローバルな視野を持つ自由主義者。
 それが大島渚であった。
 よくは知らないのだが、大島渚は新左翼に期待するところ大だったのではないか。
 しかるに、『日本の夜と霧』における新左翼の青年(津川雅彦)の華々しい登場は、自民党や共産党の組織的腐敗を打ち破るものにはなり得ず、連合赤軍事件という惨憺たる結果に終わった。テロでは社会は変えられない。
 大島渚は、71年の『儀式』を最後に、政治的映画から離れていった。
 その後、ソ連の崩壊などあって左翼運動が弱体化し、自民党一強時代が長く続いている。
 本作で小川が述べている通り、民主党政権の数年間(2009-2012)のていたらくは、逆に、その後に続く第二次安倍政権の長期化&盤石化を用意してしまった。
 もはや、日本は自民党独裁と右傾化から逃れられないのか?

 そんな絶望のときに、大島渚の息子によって制作されたのが、ほかならぬ本作なのであった。
 この巡り合わせに、ソルティは感動を覚えざるを得なかった。
 むろん、親譲りの芸術性ゆえか、作品としての出来も素晴らしい。
 なにより、2003年時点で、海の者とも山の者ともつかぬ地方の新人候補者をカメラに収めておこうという、勘の良さというか、出会いの才能に驚嘆する。
 あの父にしてこの子あり。

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選挙活動中の小川淳也
丘と畑の連なる風景が讃岐(香川)の遍路を思い出させる

 2020年の公開時にソルティが本作を観られなかったのは、コロナ禍のためもあったが、足を骨折して外出がままならなかったせいだ。
 本作の成功を受けて、大島新は2021年10月に行われた衆議院議員総選挙に焦点を当てた『香川一区』というドキュメンタリーを撮っている。
 香川一区は、小川淳也と平井卓也の選挙区である。
 ソルティはこれも観ていない。
 正直に言えば、安倍政権の専横とそれを許してしまう日本国民に対する絶望感に襲われて、ある種の諦念に陥っていたところもある。(いまもそれは変わりないのであるが)

 しかし、世の中はわからない。
 本作の意味合いは、2022年7月8日を契機に大きく変わってしまった。
 本作中、不透明な政局を前にした小川が、「5年後どうなっているかわからない」とスタッフに呟くシーンがある。2019年9月の収録シーンだ。
 たしかに、未来のことなど予測できないのは分かっている。
 しかし、いくらなんでも、「5年後」のこの2024年の日本の姿は、小川やスタッフや田崎史郎はもとより、日本人の誰ひとりも想像できなかっただろう。
 本作を公開時でなく、「いま」観ることの最大の面白さは、悩み逡巡し苛立ち奮闘し壁にぶつかり、それでもくじけず頑張る映画の中の主人公に向かって、「5年後は状況がまったく違っているから、あきらめるなよ」と、声をかけたくなる点である。
 希望が無くなるのは、自らそれを捨てた時なのだ。 

 小川淳也が総理大臣になれる日は来るのか?
 可能性は低いと思う。
 だが、5年前より確実に高まっている。


壇ノ浦
源平合戦のあった壇之浦(香川県高松市)




おすすめ度 :★★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損




● 清潔で優しい顔した・・・ 映画:『PLAN 75』(早川千絵監督)

2022年日本、フランス、フィリピン、カタール共同制作
112分

 満75歳になった国民は、自ら安楽死を選ぶことができる。
 ――という法律が決まった近未来の日本を描くSF社会派ドラマ。

 高齢者介護施設における虐殺シーンから始まる。
 高齢者に使われる莫大な社会保障費のせいで自らの生活が圧迫されている、と苛立った若者らが、全国各地で同じような事件を起こす。
 その解決策として、国が作ったのが、PLAN 75という制度。
 75歳以上の高齢者は、自らの意志で自らの人生に幕を引くことができる。
 もちろん、遺産や家財の整理、薬による安楽死、遺体処理や葬儀の手配まで、行政がしっかりサポートしてくれる。お金のある人は、民間による手厚いサポートも得られる。
 申請した人には支度金として一律10万円が支給される。
 78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)は身寄りのない未亡人で、ホテルの客室清掃員として働いていた。しかし、ある日、高齢を理由に解雇される。次の仕事も見つからず、生活保護にも抵抗あるミチは、ついにプラン75を申請する。

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 冒頭の介護施設での虐殺シーンが想起させるのは、2016年7月26日に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた入所者大量殺傷事件であり、それをもとに作られた石井裕也監督の映画『』である。
 「生産性のない人間は生きている資格がない」という鬼畜テーゼをめぐる話という点で、両作は共通している。『月』では知的障害者、本作では高齢者がその対象である。
 しかも、びっくりしたことに、『月』で凶悪殺人者サトくん(植松聖がモデル)を演じた磯村勇斗が、本作にも出演している。
 時系列から言えば、本作の好演を観た石井監督が、磯村を『月』の殺人者役に抜擢したのであろう。
 本作では、PLAN 75の申請を高齢者に勧める真面目な公務員の役である。
 実際、非常に巧い役者であることが本作でも証明されている。
 若手男優ではトップなのではあるまいか。

 両作品が意図するところは、もちろん、鬼畜テーゼの肯定ではない。
 「生産性」という効率重視の経済用語によって、人間の生が量られてしまうことに対する批判であり、命の価値や生きることの意味を観る者に問いかけるところにある。
 そこを踏まえて両作品を比較したときに、本作の“志操の高さ”をこそ、ソルティは評価したい。
 暗くて煽情的でホラー映画まがいの『月』にくらべ、本作は淡々と静かに進行する。観る者を煽らない。
 が、随所に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のダグラス・アダムスばりのブラック・ユーモアが見られる。
 病院の待合室に流れるPLAN 75 のメリットを語る(あたかも公共広告機構CMのような)利用者インタビュー映像とか、「政府はPLAN 75の年齢引き下げの検討に入っています」なんてニュースの挿入とか、思わず笑ってしまった。(シリアスなドラマにしないで、全編ブラックコメディにしたほうが、面白かったのではないかな?)

 また、『月』では描き損ねていた「生産性のない」人間たちの生の営みが、本作ではしっかり描き込まれている。
 ミチが、同世代の職場の仲間たちとカラオケに行ったり、家に呼ばれて一緒に食事をしたり、PLAN 75で働く“終活カウンセラー”の若い女性を誘ってボウリングしたり思い出を語ったり・・・・・。
 このようななんてことない日常の生の営みが、「生産性」あるいは「自己決定」という金科玉条のもとに否定されていく過程が描かれていく。
 ミチを演じる倍賞千恵子の演技はとても素晴らしく、「ああ、日本にも『さざなみ』のシャーロット・ランプリングのような大人の芝居のできる女優がいたんだ!」、という発見があった。
 
 本作は、現代版『楢山節考』ということもできる。
 一定の年齢に達した老人を山に捨てる掟をもつ村の話、いわゆる姥捨て伝説。
 日本が本当に貧しくて、飢饉が防げなかった時代、そういったこともあったろう。
 木下惠介監督『楢山節考』では、老いた母親を雪山に置き去りにして来なければならない孝行息子の苦悩が描かれ、涙を誘う。
 平気で父親を谷に突き落とす酷い息子も登場するが、それは一部の例外であって、基本的には家族の愛情が謳われている。
 その点に、本作との違いを見ることができる。
 ミチは身寄りのない未亡人で、子供も孫も持たず、頼れる親族がいない。
 PLAN 75のスタッフをつとめる岡部ヒロム(磯村勇斗)は機能不全の家に育ち、幼い頃に父母は離婚、その後父親は亡くなり、母親は再婚し、いまは一人暮らしをしている。
 家族の崩壊、地域社会(地縁)の消滅という、戦後から令和にかけて進行した日本社会の変貌がそこにはある。
 現代社会の中で孤立した個々人を狙い撃つように、PLAN 75が清潔で優しい顔して浸透していく。

姨捨駅
 
 ひとつ安心してほしい。
 現実的には、PLAN 75は国会を通過することはないだろう。
 我が国の国会議員の平均年齢は60歳を超えているし、各世代ごとの投票率も年齢が高くなるほど上がるのだから。
 




おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 逃散という生き方 本:『ザイム真理教』(森永拓郎著)

2023年三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売

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 コロナ禍に莫大な財政支出があったのは記憶に新しいところで、「いろいろ助かるなあ」と全国旅行支援を利用する一方で、「これで日本の借金がまた増えてしまった」、「日本もそのうちギリシアみたいに破綻するのではないか」、「これから税金が上がっていくことになるのだろうなあ」、という不安も湧いた。
 年々増えていく国家予算、積み上がっていく国債残高、国民一人あたり800万円超と言われる借金。
 いったい、この先どうなるんだろう?

 一方で、「なんだよ。これだけお金をバラ撒くことができるのなら、普段からもっと低所得者対策に使ってよ!」、という疑問と苛立ちも覚えた。
 年金や医療保険の納付額の増加、消費税率アップ、公共料金の値上げ・・・・・。
 公租公課やインフラ関連支出の収入に占める割合は増えていくばかりなのに、給料は変わらず、高齢者のもらえる年金額は年々減っていき、開始年齢も引き上げられ、医療保険や介護保険の負担割合もシビアに区分けされ、生活保護費は減額されていく。
 庶民は、絞れるだけ絞られる菜種か。

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Mirosław i Joanna BucholcによるPixabayからの画像

 それでも文句も言わず(言ってるか)、なるべく無駄をなくして生活を切り詰めながら払うべきものを払っているのは、「高齢者にかかる年金や介護医療費が膨大なのに、少子高齢化や不景気で財政は危機的状況にある」、と政府が脅かすからである。
 歳入が限られていて歳出が増えれば赤字になるのは当然で、赤字を減らして国家破綻を防ぐには、歳出を抑えるか、歳入を増やすしかない。
 大学で経済学を学んでなくとも、普通の市民ならそれはわかる。
 子供の頃からお小遣いの使い方に悩み、サラリーマンとなっては毎月の給料の残額に青くなり、主婦となっては家計簿と睨み合い、経営者となっては帳尻を合わすのに苦労する。
 支出が収入を超えてはいけないというのは、経済の鉄則である。
 そう思ってきた。

 ところが、経済アナリストの森永卓郎は言う。
 「国家予算に限っては、それは正解ではない」
 「国債残高が増えても経済が破綻することはない」
 「消費税を上げるのは間違いだ」
 庶民の経済感覚からすると、「なに無茶なことを言っているのか?」、と思うけれど、森永は本気である。
 その言説の後ろ盾となっているのが、MMT(Modern Monetary Theory)すなわち現代貨幣理論である。

自国で通貨を発行している国は、政府債務がどれだけ増大しても、返済に必要な貨幣を自由に発行できるため、財政破綻することはない、とする経済学の学説。
(小学館『デジタル大辞泉』より抜粋)

 これ実は、ソルティも子供の頃から不思議に思っていたことだった。
 日本政府は日本銀行に命じて、いくらでも日本銀行券つまり円を発行できるはずなのに、なぜ増刷して貧しい人に配らないのだろう?
 我々庶民は自分でお金を作ることはできない(作ったら逮捕されてしまう)から、頑張って収支を合わせる必要があるけれど、自らお金を作ることができる国家は、足りない分のお金を作って補えばいいのでは?
――という素朴な疑問があった。
 たぶん、ドルを始めとする海外通貨との関係やら、日本銀行券が市場に出回ることによるインフレ発生やら、いろいろもっともな理由があるのだろうなあと思っていたが、なにぶん経済音痴のソルティ、考えてもわからないと追究してこなかった。
 MMTについて聞くようになったのはここ最近のことだが、なんだか虫のいい話で「眉唾」という印象があった。
 だって、収入と支出の帳尻合わせないとダメでしょ? 破産するでしょ?
 子供の頃からの思い込みは、すでに常識となっているからである。

 森永は本書で、8000万の日本人が持っているその常識すなわち財政均衡主義に異を唱え、それが税収を増やすことを至上命題とする財務省による“洗脳”なのだと喝破する。
 「ザイム真理教」という命名はそこから来ている。
 その仕組みは次のようなものだ。
  • 宗旨(教義) 財政均衡主義。「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の大きな赤字は日本経済を破滅させる」
  • 神話 日本の財政は破綻状態にある
  • 教祖 財務省
  • 幹部 国家公務員
  • 親衛隊 国税庁(盾突く者を成敗する)
  • サポーター 大手マスメディア(洗脳部隊)、富裕層
  • シンパ 岸田総理
  • 信徒 8000万人の国民
  • お題目 「増税は正義」、「国民と菜種は絞れば絞るほど取れる」
 若い頃に日本専売公社(現・JT)に勤めていた森永は、大蔵省(現・財務省)に絶対服従を強いられたという。令和の今ならパワハラ裁判になってもおかしくないエピソードがたんと書いてある。
 それだけに財務官僚たちの実態や財務省のやり口をよく知っていて、本書の告発につながったようだ。

 いまの政府の戦略は「死ぬまで働いて、税金と社会保険料を払い続けろ。働けなくなったら死んでしまえ」というものだ。この政策から逃れる方法は一つしかない。

 幕府の「増税」で追いつめられた農民のうち、一部の者は一揆を起こした。しかし、いまの日本では、一揆の気配さえ存在していない。そうしたなか、ザイム真理教の本質に気づいた国民はどう行動すればよいのか。
 私は「逃散」しかないのではないかと考えている。

 森永は現在、すい臓がんの第4ステージにあるという。
 ますます舌鋒が鋭さを増していくのは間違いあるまい。 

農民一揆

 ソルティはMMTが正しいのかどうかは分からない。
 が、社会保障費が足りないと言いながら、防衛費を増やし武器をガンガン買っていく今の政府は、詐欺師そのものだと思う。
 「国民の命を守るため」と言いながら、庶民の生活を破綻に追いやっているのだから。
 
 コクボー真理教という、より厄介なカルトがある。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損






 
 

● 映画:『ダーク・アンド・ウィケッド』(ブライアン・ベルティーノ監督)

2020年アメリカ
95分

 原題もそのまま The Dark and the Wicked
 「闇に潜む邪悪な何か」といったところか。
 『シャドーマン』と同じような魔物系オカルトホラーである。
 時たまこうした映画を観たくなるのはなぜ?
 自らの“邪悪”と向き合えという無意識のお達し?

 危篤状態の父親を見舞うため、久しぶりに人里離れたテキサスの牧場に帰ってきた姉と弟。
 しかし、母親の様子はおかしく、「帰って来るなと言ったのに。すぐ帰りなさい!」と二人の帰郷を喜ばない。
 翌日、母親は納屋で首を吊る。
 母親の残した日記には、闇に潜む邪悪な何者かが父親の魂を狙っていることが記されていた。
 寝たきりの父親を入院させることもかなわず、二人は牧場にとどまり続ける。
 そして・・・・ 

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Ray Shrewsberry •によるPixabayからの画像

 『シャドーマン』同様、すっきりしない悲惨な結末。
 魔物の正体は明かされず、姉弟は恐怖の体験にさらされた挙句、闇に引きずり込まれてしまう。
 単純に、観る者にいかに恐怖を感じてもらうかを目的とした作品と言える。
 その点では、『シャドーマン』より成功している。
 荒野に吹きすさぶ風、流れる黒い雲、山羊の群れ、マネキン人形、家を取り囲む闇。
 テキサスの夜がこんなに怖い場所になり得るとは思わなかった。
 観る者の不安を増強し、最初から最後まで緊張を強いる、映像や音響も巧みである。

 登場人物わずか10名足らずで、これといったスターは出ていない。
 ほとんどのシーンは田舎の屋敷で撮られている。
 つまり、低予算で作られているのは明らか。
 それで、これだけの怖さを生み出す監督の才は称賛に値する。

 神父役のザンダー・バークレイが怖い。




おすすめ度 :★★

★★★★★
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★★    いい退屈しのぎになった
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● 本:『白い僧院の殺人』(カーター・ディクスン著)

1934年原著刊行
2013年創元推理文庫(訳・厚木 淳)

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 本作もカーター・ディクスン、またの名をジョン・ディクスン・カーのベスト10に上げられる名作。

 雪と凍った湖に囲まれた屋敷で、ある朝、一人の有名な女優の他殺死体が発見された。
 死亡時刻には雪はやんでおり、その後は降っていなかった。
 屋敷に向かうただ一つの足跡は、最初の発見者のもので、真新しい足跡におかしなところはない。
 屋敷から出る足跡はついていない。
 むろん、犯人は屋敷の中に隠れているのでもなく、屋敷に秘密の抜け穴のようなものがあるのでもない。
 いったい、犯人はどうやって現場から逃げたのか?

 密室物の変形と言える。
 このトリックは秀逸で、ソルティにも思いつかなかった。
 ただし、現在の科捜研の目をごまかすことは到底できないレベルのトリックなので、思いつかなかったというのもある。
 クリスティやカーがミステリー黄金時代を築けたのは、科学的犯罪捜査が端緒を開いたばかりで未熟だった20世紀初頭という時代のおかげもあろう。
 いろんな奇想天外なトリックが考案できる余地があったのである。
 令和のいまなら、科捜研マリコは現場に残された遺留品や血痕やなにやから、ただちに本作のトリックを見破るであろう。

 主要トリック自体が秀逸なのは間違いないが、カーの作風もまた、ある種のトリックというか隠れ蓑を成している点も指摘できよう。
 それは怪奇趣味を仕込んだり、登場人物たちの冗長な会話で読者を煙に巻いたり、という点である。
 フェアなミステリーを標榜したいのであれば、本来読者に伝えるべき客観的な事実を、登場人物たちの主観的な会話の中に潜り込ませ、小出しに提出したりする。
 たとえば、この物語であれば、時間がとても重要な要素になるのであるが、夜間のどの時刻に、容疑者たちがそれぞれどこにいて何をしていたかが、整理整頓されていない。
 通常の推理小説なら、探偵役が容疑者一人一人に尋問し、本人や第三者の証言からそこを明らかにし、探偵の助手役が(読者の便宜をはかって)時系列で一覧表にでもするだろう。
 そうあってこそ、読者は犯人当て推理ゲームに参加する楽しみが得られる。
 本作は、そこのところが非常に不親切で、時系列をわざと曖昧にしている。
 その結果、読者は簡単に真相に近付かないよう誘導される。
 “公明正大”を謳うエラリー・クイーンの国名シリーズとは対照的と言える。
 若い頃のソルティは、それを作家の狡さと受け取って、カーがあまり好きでなかった。
 今は逆に、読者の鼻面を引きずり回して迷路に陥れるカーの叙述の巧みさを、「天晴れ!」と思えるようになったが・・・。

 ちなみに、本記事の冒頭の解説文も、注意が凝らしてある。
 本作のトリックを知る人なら、ソルティの巧みさを評価してくれよう。



 
おすすめ度 :★★★★

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 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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● お口くちゅくちゅ : 初期仏教月例講演会(講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

日時  2024年1月14日(日)13:30~16:30
場所  学術総合センター内・一橋講堂(東京都千代田区)
演題  「新たな一年を生きる」~日々是好日の生き方~
主催  日本テーラワーダ仏教協会
 
 月例講演会に参加したのは実に6年ぶり。
 その間、体調不良があったり、2度の転職があったり、四国遍路に行ったり、引っ越しがあったり、足の骨折があったり、コロナ禍があったり・・・e.t.c.
 その時々の環境に左右されて、仏道修行への意欲や熱意もずいぶん波があった。
 が、スマナ節から6年も離れていたとは!
 ほんとに時が経つのは「あっ!」という間である。
 地球の自転が速まっているのではないか?
 
 6年ぶりに参加しようと思った理由は、やはり、能登半島地震が大きい。
 被災して、家を失い、家族や友人を失い、仕事を失い、寒さにふるえながら避難所で身を寄せ合っている人々の姿に、今こそ慈悲の瞑想を実践したいという思いが生じた。
 破壊され尽くした街や続々と増えていく死者数の報道を見聞きするにつけ、諸行無常の感が強まり、「我が身にだって、いつ何が起こるのかわからない」という焦燥感に似た思いが高まった。

 ほんとうはいつだって、どの瞬間だって、この世も、我々の生も、「無常」の凄まじい流れの中にあるのに、我々の命は砂時計の砂のように止めどなくこぼれ落ちているのに、愚にもつかない妄想におおわれ、「貪・瞋・痴」に振り回され、闇雲に走り回っている。
 過去に囚われ、未来を心配し、「今ここ」という瞬間を取り逃がし続けている。
 いつの間にか人類が陥ってしまったこの罠を、いったい誰が仕組んだのだろう?
 神?
 悪魔?
 遺伝子?
 宇宙人?
 宇宙意識?

 自らの深刻な病気や不幸、近しい人との死別、あるいは今回の震災のような“日常の裂け目”に遭ってはじめて、“無常”という真実に目を向けられるとは、なんという逆説だろう!
 とはいえ、ブッダが説いた四聖諦にあるように、あるいは『仏弟子の告白(テーラガータ)』や『尼僧の告白(テーリーガータ)』に見るように、悟りの入口は「苦」なのだ。

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一橋講堂がある学術総合センタービル

 講演の内容自体は、これまで何度も聴いたり読んだりしていることなので、新たな気づきというほどのものはなかった。
 講演後の質疑応答がなかなか面白かった。
 『ペットを飼っていることについて厳しく指導してください』という会場からの問いに、スマナ長老が『飼わないことです』と一刀両断したのには(質問者には酷ながら)笑った。
 『このままだと(自民党案による)改憲が実現してしまう。どうすればよいのか』といった問いには、憂慮を同じくするソルティも笑ってはいられなかった。
 スマナ長老は、「こうしなさい」「ああしなさい」と明確には答えられなかったが、「自由や人権を害するようなことは良くない」「憂慮というネガティヴな思いが、大切な時もある」と言われていたことから、答えは自ずから明らかであろう。
 自分にできることを、気づきと慈悲をもってやるしかない。
 
 久しぶりにスマナサーラ長老の確たる存在感に触れ、スマナ節を耳にし、同じ仏道を歩む仲間たちの気に触れて、仏教愛と修行意欲が高まった。

過去を追いゆくことなく
また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに

現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するがよい

今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に
我ら煩うことなし

昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と
寂静者なる牟尼は説く

『日々是好日』経

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神田橋を望む外堀通り
10年以上前に職場があった付近
まさに諸行無常を感じる変わりようであった

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帰りはJR神田駅まで歩いた
この駅の山手線発車メロディーは「お口くちゅくちゅ、モンダミン




● ウサギ小屋のメリット 映画:『シャドーマン』(ドリュー・ガブレスキー監督)

2017年アメリカ
95分

 ホラーサスペンス。
 都会からペンシルバニアの田舎町に越してきた医師とその妻子に降りかかる、恐怖と危険を描いたB級映画。
 
 なんだかよくわからない映画である。
 森の中の使われなくなったトンネルの中に何かが潜んでいて、そいつが村の子供たちを誘拐し殺しているらしいのだが、最後までその正体は明かされない。退治されることもない。
 そいつは男の形をした黒い影として子供部屋に侵入し、子供を恐怖に怯えさせる。
 醜い化け物となって大人たちの夢の中に入り込んで、金縛りや悪夢を引き起こす。
 犠牲となった子供の幻影を使って、別の子供をトンネルに招き寄せる。
 肝試しで夜間トンネルに侵入した青年たちを虐殺する。
 『13金』のジェイソンのような、『エルム街』のフレディのような、『IT』のピエロのような、『ギリシア神話』のミノタウロスのような、曖昧合成キャラ。
 謎だらけのすっきりしない結末だが、続編が作られることはなかろう。(多分)

 観ていて思ったのは、なぜ子供が黒い影に怯え情緒不安に陥っているのに、両親は同じ部屋で一緒に寝てあげないのだろう?
 ひとり部屋を与えて早くから子供に自立心を植え付けること、夫婦二人の生活を大事にすることが、個人主義の強いアメリカ人にとって大切なのは分かるが、時と場合によろう。
 こういう場合、日本人のたいていの親なら、自分の目の届かないところには子供を置かないのではないか? とくに夜間は。
 映画に出てくる夫婦の家は日本にあったら豪邸と言えるほどデカくて、並みの日本の家(いわゆるウサギ小屋)とは部屋数も間取りも違う。
 いきおい夫婦の寝室と子供部屋が離れているので、いざという時、すぐには駆けつけられない。

 ソルティの子供の頃を思い出しても、10歳くらいまでは一人で寝るのが怖かった。
 兄と一緒の子供部屋であったが、それでも時たま、天井の木目がつくる顔や部屋のすみの暗がりに潜む怪物が怖くて、決死の覚悟で飛び起きて、階下で寝ている両親の布団にもぐりこんだ覚えがある。

 アメリカの家を舞台にしたホラー映画を観ていて思うのは、アメリカ人の抱く恐怖の核にあるのは、幼い頃にひとり部屋で長い夜を過ごさなければならなかった孤独と不安のトラウマなのではなかろうか、ということである。
 もっと親離れをゆっくりさせたほうが、精神衛生上よいのでは? 
 ウサギ小屋にもそれなりの利点があるってことだ。

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ThankYouFantasyPicturesによるPixabayからの画像




おすすめ度 :

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● 難しいけど面白い 本:『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』(マイケル・S.ガザニガ著)

2011年原著刊行
2014年紀伊國屋書店(訳:藤井留美)

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 原題は、Who’s in Chage ?  Free Will and the Science of the Brain
 すなわち、「責任」と「自由意志」に関わる脳科学の話である。
 著者のガザニガは、1939年アメリカ生れの認知神経科学の第一人者。てんかん治療のため右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象に、さまざまな実験を行い、脳の右半球と左半球の働きの違いについて、驚くような新事実を次々と発見したことで知られる。
 物書きとしての才能も高く、脳科学の最先端がどのようなものかを、難しい専門用語を並べることなく、一般読者にわかりやすくユーモアをもって伝えてくれる。
 ソルティのような科学オンチの文系にはありがたいことこの上ない。
 が、やっぱりそれでも難しい。
 難しいけど、面白い。

 第1章から第3章は、脳科学の誕生から語り起こし、それが生物学や人類学や物理学や精神医学など他の分野における新しい発見と関連し合って、凄まじい進歩を遂げてきた様子が描かれる。
 すべては20世紀に起きたことで、ほんの1世紀あまりで、最後の未開地と言われるヒトの脳が急速に解明され、人間の様々な機能や行動の背景をなす科学的要因が明らかになりつつある。
 動物と違うヒトの特異性が、科学的に裏付けられるようになったのである。

 遺伝子の強力な制御のもとでけたはずれに発達し、後天的要因(遺伝子に異なったふるまいをさせる遺伝以外の要因)と活動依存的学習で磨きをかけられた結果が、いまここにいる私たちである。行きあたりばったりとは対極の構造化された複雑な仕組みを持ち、高い自動処理能力と、制約付きながら優れた技能、それに広範囲に応用できる能力を発揮できる脳は、つまるところ自然淘汰のなせるわざなのだ。私たちが持つ無数の認知能力は、脳のなかでの担当領域がきっちり線引きされており、もちろん神経ネットワークや神経系も領域によって異なっている。そのいっぽうで、同時並行処理が行われる複数の神経系も脳のあちこちに配置されている。制御系は単一ではなく、複数あるということだ。自分が何者かという意味づけはそんな脳から生まれているのであって、外からの働きかけに脳が従っているのではない。(本書より引用、以下同)

 ね、難しいでしょ?
 難しいけど、面白そうでしょ?

 ソルティが面白いと思う最たる理由は、脳科学が進歩するにしたがって、脳が遺伝子に強く制御されていることが明らかになり、われわれ人間の感覚や感情や思考や行動のほとんどが、意識下において、“生化学的に、神経科学的に、物理学的に”コントロールされていることが自明の理となりつつあるからだ。
 つまり、人間はあらかじめプログラミングされたロボットに近く(というより、結局ヒトも本能で生きる動物と変わりなく)、自由意志は幻想だという不都合な真実。
 自由意志が幻想ならば、「わたし」という意志決定者もまた幻想なのか?
 この問いが、諸法無我を説く仏教と通じるものがあり、仏教徒であるソルティの好奇心を掻き立てるのである。

 さらに、脳科学の進歩によって、自由意志に対する懐疑とともに強く主張されるようになったのが、決定論(因果説)である。

 決定論とはそもそも哲学上の概念で、人間の認知、決定、行動も含めた現在と未来のすべてのできごとや活動が、自然界の法則に従った過去のできごとを原因として、必然的に発生しているというものだ。どんなできごとも活動も予定されているのなら、すべての変動要因がわかっていれば予測も可能になる。

 宇宙も世界も人間もアルゴリズムにしたがって動いているだけであって、「すべての出来事はあらかじめ決まっている」という、なんとも無味乾燥な、人間の努力や希望を嘲笑うかのような説(=運命論)である。
 決定論をYESとするなら、当然、自由意志や自己決定は存在する足場を持たない。
 意志決定する「わたし」は幻想である。
 相対性理論のアインシュタイン、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、哲学者のスピノザなどが、決定論者の代表格らしい。
 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』や『ホモデウス』を書いたユヴァル・ノア・ハラリも、その一人に挙げられよう。

 しかしながら、本書によれば、現在ではむしろ、決定論は旗色が悪いという。
 というのも、決定論の後ろ楯となっているのは、〈1+1=2〉となるニュートン物理学の鉄壁の法則なのであるが、現代科学はもはや〈1+1=必ずしも2ならず〉を知ってしまったから。
 それが、カオス系であり、量子力学であり、創発である。
 創発とは、「個々の要素の総和では予測できない新しい性質を、システム全体が獲得する」こと。そこでは、1+1が10だったり100だったり10万だったりする。

 決定論が否定されるのなら、自由意志の存在も可能と主張できる。
 つまり、2つの立場がある。
 
 A 決定論NOならば、自由意志YES
   →「未来は決まっていない。なので、ヒトは自由に決定できる」
 B 決定論YESならば、自由意志NO
   →「未来は決まっている。だから、ヒトは自由に決定できない」

 決定論と自由意志については、『自由意志の向こう側』(木島泰三著)という本を別記事で取り上げたことがある。
 そこでは、現在、下記のいずれかの立場に拠って、研究者たちが議論を闘わせているとあった。
  1.  自由意志原理主義(リバタリアン)・・・・自由意志はある!
  2.  ハード決定論(因果的決定論)・・・・自由意志はない!
  3.  両立論・・・・1と2は両立できる
 1と2はそれぞれ上のAとBに該当する。理解は難しくない。
 しかるに、3の両立論とはなんぞや?
 と、ソルティは頭を悩ませたのであった。

 しかし、よく考えると、決定論と自由意志の有無は必ずしも連動しているわけではない。
 この世界が決定論で成り立っているか否かの問題と、ヒトの自由意志は幻想か否かの問題は、分けて考えることができる。
 つまり、

 C 決定論YESだけど、自由意志YES
   →「未来は決まっている。されど、ヒトは自由に決定できる」
 D 決定論NOだけど、自由意志NO
   →「未来は決まっていない。そして、ヒトは自由に決定できない」

という組み合わせも想定することができる。
 さすがに、Cの説を唱えるのは無理があるけれど、Dは選択肢としてあり得る。
 ガザニガはどうやら、Dの立場を取る「両立論者」のようだ。
 こう言っている。

 脳は自動的に機能していて、自然界の法則に従っている。この事実を知ると元気が出てくるし、もやが晴れたような気持ちになる。なぜ元気が出るかというと、自分たちは意思決定装置だと確信できるし、脳が頼りになる構造だとわかるからだ。そしてなぜもやが晴れるかというと、自由意志という不可解なものが見当違いの概念だとわかったからだ。それは人類史の特定の時代に支持されていた社会的、心理的信念から出てきたものであり、現代科学の知識が背景にないだけでなく、矛盾さえしている。(ゴチはソルティ付す)

 仏教語に翻訳するならこうだ。
 「諸法無我だが、因果は見抜けない」

タントラ

 本書の白眉は第4章である。
 ここでは、自由意志は幻想であるにも関わらず、「なぜ我々は、自由意志があると錯覚するのか?」を解説している。
 なんとその原因は、左脳にあるインタープリター・モジュールのせいなのだという。

 私たちは無数のモジュールから構成されているのに、自分が統一のとれた存在だと強烈に実感しているのはなぜか? 私たちが意識するのは経験というひとつのまとまりであって、各モジュールの騒がしいおしゃべりでない。意識は筋の通った一本の流れとして、この瞬間から次の瞬間へとよどみなく、自然に流れている。この心理的統一性は、「インタープリター」とよばれるシステムから生じる経験だ。インタープリターは、私たちの知覚と記憶と行動、およびそれらの関係について説明を考えだしている。それが個人のナラティブ(語り)につながり、意識的経験が持つ異なる相が整合性のあるまとまりへと統合されていく。混沌から秩序が生れるのだ。

 あなたという装置に亡霊は入っていないし、謎の部分もない。あなたが誇りに思っているあなた自身は、脳のインタープリター・モジュールが紡ぎだしたストーリーだ。インタープリターは組みこめる範囲内であなたの行動を説明してくれるが、そこからはずれたものは否定するか、合理的な解釈をこしらえる。

 インタープリターは、ずっと私たちを陥れてきた。自己という幻影をこしらえ、私たち人間は動作主体であり、自分の行動を「自由に」決定できるという感覚を吹きこんだ。それはいろいろな意味で、人間が持ちうる建設的かつ偉大な能力だ。知性が発達し、目前のことだけにとらわれず、その先に広がる関係を見ぬく能力が磨かれたヒトは、ほどなくして意味を問いかけるようになる――人生の意味とは何ぞや?

 インタープリター・モジュール――これが「わたし」の正体というのである!
 ここまで脳科学が進んでいるとは驚きである。
 この説が正しいのであれば、諸法無我を「悟る」とは、左脳の働きが一時的に停止する状態で起きた、右脳単独による世界認知をいうのではなかろうか?
 そう言えば、脳卒中で左脳の機能の大半を失った医師の手記(ジル・ボトル・テイラー著『奇跡の脳』)があったっけ。彼女はまさに「悟った」人であった。
 ソルティがやっている「悟りに至る瞑想」といわれるヴィパッサナー瞑想とは、ひょっとしたら、「いま、ここ」の現象を実況中継し続けることで左脳を疲れさせて、一時的にシャットダウンさせる裏技なのではなかろうか?
 それを忍耐強く続けること(=修行)によって、インタープリター・モジュールを黙らせる新しいモジュールを脳内に作り上げるテクニックなのではなかろうか?

チャクラと仏

 自由意志の有無の問題は、責任の所在の問題へとつながる。
 ヒトに自由意志がなくて、すべてが脳のアルゴリズムの結果であるのなら、個人が犯した罪を問うことはナンセンスじゃないか。犯罪者に責任を取らせるのは不合理だ。
 ――そういう議論が成り立つ。
 実際にその論拠をもとに、罪を犯した者に必要なのは「処罰でなくて更正」と提言しているデイヴィッド・イーグルマンのような研究者もいる。(別記事『あなたの知らない脳』参照)
 第6章では、この問題に対するガザニガの見解が述べられている。
 ヒトの社会というものが、単体の脳ではなく、複数の脳からできている事実を踏まえ、脳と脳との相互作用から生じる「創発」に着眼しているところが面白い。
 脳の働きを単体として見るのではなく、人類という「種」のレベルで、つまり、「人類の脳」という観点からとらえているわけだ。
 あたかも、ユングの集合意識あるいは唯識論の阿頼耶識みたいな話で、難しいけど面白い。

 本書の刊行は2011年。
 もう10年以上が過ぎた。
 その間も脳科学は進んでいるはず。
 今はどこらにいるのやら?




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