ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

● 映画:『英国王のスピーチ』(トム・フーパー監督)

2011年イギリス、オーストラリア、アメリカ
118分

 エリザベス2世の父親ジョージ6世の吃音症とのたたかいを描いた、実話をもとにした映画。
 ジョージ6世役のコリン・ファース、妻で王妃であるエリザベス役のヘレナ・ボナム=カーター、そしてジョージの主治医役(実際には「ドクター」の資格は持っていなかったらしいが)のジェフリー・ラッシュ、主要3人の演技が素晴らしい。
 とくに、吃音症の皇族という難役に挑み、“自然な”どもりをマスターしているコリン・ファースの役者魂は賞賛に値する。

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ヘレナ・ボナム=カーターとコリン・ファース


 老人ホームで働いていた時、90歳以上の利用者に戦時中や戦後の混乱期の話をよく聞いた。
 当時、彼らは20歳前後の若者であった。
 1945年8月15日の玉音放送の話題もよく出た。
 「昭和天皇が何を話しているかわかりましたか?」
 と尋ねると、みな決まって、
 「全然わからなかった。でも、日本が負けたことだけはわかった」と言う。
 「たえがたきをたへ、しのびがたをしのび、ってところだけわかった」と言う人も多かった。
 原稿は漢文の読み下しみたいな堅苦しい文語で、難しい言葉も多く、平明な日本語とは程遠かった。
 当時の放送技術もラジオの音質も良くはなかった。
 それに輪をかけ、当時40代半ばの昭和天皇の口調は、こもりがちのうえ独特の節回しがあって、明瞭とは言えなかった。

レトロラジオ


 ソルティがリアルタイムで昭和天皇の声を聞いたのは晩年(70年代以降)のことだが、やっぱり、何を言ってるかいつも分からなかった。
 国民の多くがそうだったと思う。
 でも、それが気になることもなければ、もっとわかりやすい言葉で滑舌よく話してほしい、とも思わなかった。
 
 「巧言令色、少なし仁」
 「男は黙ってサッポロビール」
 我々日本人が、スピーチに与える重要性は決して高くない。
 首相の就任演説も、アメリカ大統領のそれにくらべれば、なんと軽く扱われていることか。

 彼我の文化の違いを感じさせる映画である。
 
 
 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● 本:『だれがコマドリを殺したのか?』(イーデン・フィルポッツ著)

1924年原著刊行
2015年創元推理文庫

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 イーデン・フィルポッツと言えば、『赤毛のレドメイン家』である。
 江戸川乱歩が激賞し、世界本格ミステリーベストテンの上位にランクされてきたこの小説を、創元推理文庫で最初に手にした時、期待と興奮とで胸が躍った。
 高校生の時分である。
 のっけから、美しいコモ湖畔の描写と世にも稀なる美女の登場に心をつかまれた。
 この先、どんな物語が紡ぎ出され、どんな不可思議な殺人事件が発生し、どんな奇抜なトリックが用いられ、どんな個性的な探偵が出てきて名推理を展開するのか、ページをめくるのももどかしい思いであった。
 
 が、読み終えたときの正直な感想は、

 なんでこれがベストテン入りするの???

 拍子抜けした。
 お面白くないことはない。海外ミステリーの古典として読む価値は十分ある。
 しかし、『Yの悲劇』、『アクロイド殺し』、『樽』、『黄色い部屋の謎』、『長いお別れ』、『幻の女』など、他のベストテン常連作品と同レベルのものを想定していた者にとって、『赤毛のレドメイン』は物足りなかった。
 過大評価という気がした。
 国内のベストテン選者たちは、斯界の大御所である乱歩に忖度しているのかな?と思った。

 実際、上記の傑作群は一度しか読んでいないものであっても、数十年経った今でも話の筋やトリックを覚えているけれど、『赤毛のレドメイン』の筋はすっかり忘れている。美しい湖畔風景の中で警部が美女に恋する話、という以外は・・・・。
 その後、フィルポッツのもう一つの代表作と言われる『闇からの声』も読んだが、こちらもまた全然覚えていない。
 その後しばらくして、フィルポッツがミステリー作家として高い評価を得ているのは日本くらいで、海外のベストテンでは名前が挙がることもないと知った。
 
 そのフィルポッツと数十年ぶりに図書館で出会った。
 しかも上記二つの代表作以外のミステリーと知って、「懐かしさ半分、怖いもの見たさ半分」で借りてみた。
 
 タイトルにも惹かれた。
 原題は Who killed Cock Robin ? 
 「だ~れが、殺した、クックロビン?」
 知る人ぞ知る、魔夜峰央のギャグ漫画『パタリロ』のクックロビン音頭である。
 
パタリロ

 
 ソルティは、しかし、パタリロよりも萩尾望都の『ポーの一族』の印象が強い。
 ドイツのギムナジウム(中等学校)を舞台としたエピソード『小鳥の巣』において、この詩というか童謡が、モチーフとして非常に効果的かつ印象的に使われていたからである。
 言うまでもなく、童謡のもとはマザーグースである。
 
 Who killed Cock Robin?
 I, said the Sparrow,
 with my bow and arrow,
 I killed Cock Robin.
 
 クックロビン(駒鳥)を殺したのは誰?
 「わたし」と、スズメが言った。
 「わたしの弓と矢でもって
 クックロビンを殺したの」
 
 ――で始まる長い詩である。
 クリスティの『アクロイド殺し』の新聞連載時の原題 Who Killed Ackroyd? も、この詩の冒頭の一節が下敷きになっているわけで、幼い頃からマザーグースに馴染んでいる英国人ならすぐにピンとくるであろう。

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 萩尾望都『ポーの一族』(小学館)
 

 物語は、英国の美しい田園風景の中で、一人の青年医師が類まれなる美女と出会う場面から始まる。『レドメイン』そっくり。
 美女の名前はダイアナ、愛称がクックロビン(駒鳥)であった。 
 青年とダイアナは互いに一目惚れし、熱烈な恋に落ちて、周囲の反対や懸念をよそに結婚する。
 それが悲劇の始まりであった。

 タイトルがばらしている通り、ダイアナ=クックロビンは何者かの手によって命を奪われることになるのだが、それが起こるのは物語も半分を過ぎてからである。
 しかも、最初のうちは病死と思われていて、それが毒殺であることが明らかになり容疑者が逮捕されるのは、なんと物語も2/3を過ぎてからである。
 なんとまあ悠長な展開か。
 つまり、肝心なミステリー部分は本書の終わり1/3であって、そこまでは主として田園を背景に、中流階級以上の若者たちの織り成す恋愛ドラマなのである。
 その意味で、フィルポッツの小説はジェイン・オースティンに近いところがある。
 自然描写の巧みさ、語りのうまさ、魅力ある性格造型、心理の綾を丁寧にたどっていく手腕、品のある文章・・・・。
 ミステリー小説としてでなくとも十分に面白いし、ぐいぐいと引き込まれる。
 高校時代は、推理小説としての評価ばかりに注意がいって、この小説家の本来の魅力に気づかなかった。そこまでの読書眼がなかった。
 乱歩が推奨したのも、一般の推理小説以上の文学性をそこに見たからなのかもしれない。
 
 終盤1/3はまさに本格ミステリーそのものとなる。
 大胆なトリック、様々な伏線の浮上、名探偵の根気ある調査とひらめき、逃亡劇、カーチェイス、あっと驚く真犯人(ソルティは見抜くことができた)、性格と情念とが絡み合った動機の解明、大団円。
 古典的スタイルの一級のミステリーで、今読んでも十分に楽しめる。
 単純にミステリーとしては『レドメイン』より出来がいいのではないか?
 
 だれがコマドリを殺したのか?
 その答えを知った時、読む者はフィルポッツの老獪さに舌を巻くであろう。
 そして、その英国男らしい女性観に苦笑いするであろう。
 

 
おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 

● 映画:『ビガイルド 欲望のめざめ』(ソフィア・コッポラ監督)

2018年アメリカ
94分

 トーマス・カリナンの小説『The Beguiled』を原作とする。
 Beguiled は「だまされて」の意だが、これを「欲望のめざめ」と題し女の園に満ちるエロティックな雰囲気を漂わせた予告編やDVDパッケージに文字通り「だまされて」、ついレンタル&視聴してしまう人も少なくなかろう。
 この小説は1971年にも監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドによって映画化されていて、その時の邦題は『白い肌の異常な夜』だった。1975年に日本テレビ 『水曜ロードショー』で放映されたときのタイトルは、『セックスパニック 白い肌の異常な夜』である。「だまされて」チャンネルを合わせてしまった男ども、続出だったろう。 
 それにしても、白い肌の異常な夜・・・・。
 だれがつけたか知らないが、邦題グランプリの5位以内に入るのではなかろうか。
 
 たしかにエロティックな香りに満ちているのだが、そのものずばりのヌードシーンやセックスシーンなどはない。
 南北戦争の戦場から命からがら逃げ出した傷病兵(=コリン・ファレル)が、女ばかりが暮らす森の中の学寮にかくまわれ、傷の手当てを受け養生しているうちに、彼を巡る女たちのさや当てに巻き込まれ、とんだ災難に遭ってしまう。
 いわば、男の園(戦場)から逃げた男が、女の園につかまって地獄を見るという話である。
 
 シーゲル版では、悲劇の主人公となった傷病兵(=イーストウッド)の視点から描いたらしい(ソルティ未見)。本作では学寮の女性たちの視点から描いているところが、女性監督であるソフィア・コッポラの面目躍如である。
 同じ一人の男のために精一杯着飾った女たちが居並ぶシーンなど、ルネサンスの名画かロココを思わせる上品な美しさ。

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 女校長を演じるニコール・キッドマンがやはり上手い。
 傷病兵に対して感じるハイミスの欲望と、女生徒たちを守る校長としての務め、感情と理性との間を揺れ動く心情を、抑制された演技で表現している。
 どんな役にもそれなりのリアリティを与えてしまう女優である。
 
 一般に、鑑賞者が男ならば傷病兵の視点から、女ならば女教師や女学生の視点から、この映画を観ることになろう。
 そして鑑賞後は、男ならば恐ろしさを感じるだろうし、女ならば「もったいない」という思いのうちにも一安心するのではなかろうか。
 ジェンダーによってこれほど異なる見方をする映画も珍しいかもしれない。
 ソルティは実は女教師の立場から、これを観ていた。

 惜しむらくは、画面が暗すぎる。
 


おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


● ソーシャル・ディスタンスのプロたち 本:『中高年ひきこもり』(藤田孝典著)

2019年扶桑社新書

 いわゆる8050問題として注視されるようになった中高年ひきこもり。
 平成30年度の内閣府調査によると、40歳から64歳までのひきこもりは、全国で約63万人という。が、現場でこの問題と取り組んでいる人の実感では「この数字は疑わし」く、実際には100万~200万人はいるという。
 むろん、ひきこもるのは中高年だけではない。登校拒否の10代、鬱になって会社を辞めた20代、「家事手伝い」という名目で実家に引きこもる若い女性、なんらかの精神障害を抱えた30代、それに定年後に家族以外の人と交流せず一日中テレビを観ているお父さん・・・・。このような人たちも入れたら、200万ではきかないだろう。
 
 ひきこもりをどう定義するか。
 精神科医の斎藤環によれば、

 20代後半までに問題化し、6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。
 
 ポイントは、①精神疾患のような医学的要因ではないこと、②それが「問題化」していること、である。
 本人や周囲が苦しんでいなければ、そこに問題はない。
 たとえば、親の遺産のおかげで働かなくとも生活できる人が自宅アトリエに半年以上こもって好きな絵を描き続けるとか、自らの意志で山中に土地を買い小屋を建てて誰にも迷惑かけず自給自足の気ままな生活を送るとか、それは生き方の自由である。
 そもそも「社会参加しなければならない」と決めつけるのもおかしな話だ。
 ソルティだって、20代後半頃に半年以上アパートにひきこもって昼夜逆転の生活をして、ひたすら小説を書いていたことがある。コンビニの店員以外ほとんど誰とも話さなかったし、もちろんSNS(インターネット)なんかなかった。概して幸福な日々であった。

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 ひきこもりの問題を考える上で大切なのは、「なぜ社会参加が必要なのか?」、「だれが社会参加を求めているのか?」の視点であろう。
 上記の内閣府の調査が、ひきこもり当事者の上限年齢を64歳と設定しているのは、まさに語るに落ちるで、「就労可能年齢なのに働いていない」ことが問題視されているのだ。
 つまり、「お国の経済のために尽くしていない」、「税金を増やすための駒となっていない」点が暗に非難されている。この場合、社会参加の呼びかけは、ひきこもっている当人のためでなく、「社会のため・お国のため」である。
 あるいは、親兄弟が世間体のために当人のひきこもりを隠そうとしたり、当人に社会参加を強要する場合、求められているのは当人の幸せではなく、親兄弟自身の心の安寧である。
 当人の気持ちとは別のところで社会参加が謳われるとき、ひきこもりの問題が解決されるのは難しいと思う。
 というのも、ひきこもりの原因の大きな部分を成すのは、まさにこの「日本社会」に参加することへの当人なりの疑義や不安や嫌悪や恐怖だから――と思うからだ。 
 本書の副題が「社会問題を背負わされた人たち」とあるのは、まさにそうした見方に拠っている。

 当然、ひきこもり当事者のなかには医療福祉によるケアが必要な人もいる。すべてを否定するつもりはないが、ひきこもり当事者への対応は、苦しさやつらさの緩和という対症療法に陥らざるを得なかった。こうした過去の誤ちを清算し、中高年ひきこもりは社会の側に生み出す要因があるという認識のもと、本質的な改善に取り組まなければならない。

 すなわち、ひきこもり問題は、当人の性格とか甘えとか努力・根性不足といった個人的要因に帰すべきものではなく、人と「同じ」であることを求める画一的教育、ブラックな労働環境、通俗道徳を振り回す親や世間、効率や成果ばかりを重視し「働くことの意義や喜び」を人から奪う経済至上主義――といった社会的要因にこそその根があることを、内閣府の調査結果や当事者の証言を分析し、縷々説いているのが本書なのである。
 
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 著者の藤田孝典は、ホームレスなどの生活困窮者の支援に長年関わってきたソーシャルワーカーで、当ブログでは著書『反貧困のソーシャルワーク実践 NPO「ほっとポット」の挑戦』を紹介している。
 コロナ禍におけるナインティナイン岡村のブラック発言、「生活苦に陥った若く可愛い女の子が風俗に流れてくるのが楽しみ!」に対して、批判の急先鋒に立ったことで世間にその名を広めた。
  
 皮肉なことに、今回のコロナ禍によってひきこもりを巡る状況に変化が起きている。
 本書はコロナ発生前に発行されているが、当事者団体の一人がこう述べているのが興味深い。

 ネット環境が整った今なら、ひきこもったままでもいいんです。自分が穏やかでいられるよう、例えば自室をリフォームするなどして理想の環境を整え、ひきこもりながら生きていけるようにすればいい。ネットで外界の人たちとつながり、在宅勤務で仕事をすることが可能になった現在、ひきこもっていても社会参加することは十分に可能です。


 しばらくは、一億総ひきこもり時代が続くであろう。
 その間の日本人の内省がなんらかの良い社会変化を生みだすのであれば、「禍福はあざなえる縄の如し」である。
 


おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損










● 映画:『マザー!』(ダーレン・アロノフスキー監督)

2017年アメリカ
115分

 ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』を撮った監督である。
 幻想的で印象に強く刻まれる映像を紡ぎだす才には恵まれているが、表現する世界がマニアック過ぎて、メジャーには収まりきれない人だと思う。
 この映画も批評家の間では賛否が分かれ、一般観客からは酷評を得たという。

 映像は凄い。
 が、ストーリーが意味不明、というか破綻している。
 出演している俳優たちも、最後まで物語が、そして自分の役が、理解できなかったのではなかろうか?
 DVDの特典映像では、主演のジェニファー・ローレンス――『ウィンターズ・ボーン』での名演技が記憶に新しい――をはじめ、参加スタッフたちが一様に本作の独創性を讃え上げ、アロノフスキー監督と共に仕事できたことに感謝の意を表明している。(ほかに言いようもないだろうが)
 本心はどうなのだろう?と思わざるを得ない。
 
 不気味で不可解な現実が一転してサバト(悪魔の宴)と化していくルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』に通じるような破壊性と超越性を、本作にも見てとることもできよう。
 観る者の予想を裏切り、想像をはるかに超えた、あたかも高熱で寝込んだ夜に見る悪夢のような恐ろしくも不条理な展開に、ヒロインともども徹底的に打ちのめされ絶望する、マゾヒスティックな快感に酔う者もいよう。
 だが、次々と襲い来る不条理について悪魔(魔女)という根拠をもつ『サスペリア』に対し、本作では不条理の根拠を欠いている。
 不条理は不条理のまま投げ出され、解明は拒まれる。
 あるいは、観る者に下駄は預けられる。
 無責任なまでに――。
 
 そこをどう取るかで、評価は分かれるだろう。



おすすめ度 : ★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
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● ほすぴたる記その後22 高尾ロス

 午後、急に思い立って高尾山に行った。

 なんと一年ぶりの山登り。
 一番最近は昨年10月末の鷹取山だった。
 これほど山から離れていたのは、山登りが趣味となった15年前からついぞなかった。
 むろん、骨折後はじめてである。

 そして、高尾山は昨年4月以来。
 恒例の初詣を含め、生涯もっとも多く登っている山にもすっかりご無沙汰であった。
 
 京王高尾山駅に着くと、駅周辺も、高尾山へと続く参道も、人であふれていた。
 コロナ前とまったく変わりない。
 いや、もしかしたらコロナ前より多いかもしれない。
 山歩きは、人との距離が取れるアウトドアで、ストレス解消にも最適だ。
 みな、そこを狙って来たのだろう。
 ただ、すでに午後3時を回っていたため、下山客がほとんどで、これから登る者は少なかった。


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 ケーブルカー麓駅の脇から、勝手知ったる琵琶滝コースに入ると、頭や心より前に身体が反応した。
 全細胞が久しぶりに浸かる高尾の“気”に打ち震えた。
 足りてないのはこの“気”であった。
 求めていたのはこの“気”であった。
 
 中央線を高尾駅で降りたときからすでに感じていたのだが、やっぱり高尾の“気”は違う。
 ヒノキや杉などの針葉樹が発する、明らかに神社系の“気”で、気高さと清涼感にあふれている。
 丹沢の山とも武蔵の山とも違う。
 富士山から連なる中央線沿いの山々だけに許された神(コノハナサクヤヒメ?)なる“気”である。
 とくに高尾山は、昔から修験の山で、頂上には真言宗薬王院があり、琵琶滝や蛇滝などに見るように水系豊かなため、中央線の山々の中で一番都心に近いにもかかわらず、素晴らしい“気”を保っている。


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琵琶滝


 高尾と言ったら天狗だが、ソルティはどちらかと言えば、龍を連想する。
 身体を波打って貫くようなエネルギーを感じるのだ。
 圏央道のトンネル貫通も、ミシュラン3ツ星による世俗化も、この“気”を奪うことはなかったのだ。
 いや、もしかすると、コロナで一時入山者が減ったおかげで、本来の“気”がよみがえったのであろうか?

 山道を進むにつれて、全身の成分が入れ替わっていくのが感じられた。
 一年ぶんの代謝。

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 歩いて山頂まで行き、下りはケーブルカーかリフトを使うつもりであった。
 上りより下りのほうが、足に負担がかかるからだ。
 が、結局、30分ほど歩いた3号目あたりで棄権した。
 平地では90分以上連続して歩けるようになったが、上りで、しかも足元の不安定な山道はまだ無理が効かないようだ。
 それに速度もつかないので、山頂に着くまでに暗くなりそうだった。

 沢を見下ろすベンチに腰掛けて、40分ほど瞑想した。


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 ・・・・・ととのった。

 中央線沿線に住んでいた15年の間に、自分がどれだけ高尾の“気”に馴染んでいたか、その聖なるエネルギーを糧にして生きていたかを、つくづく思い知った。
 昨年4月に実家のある埼玉に戻ってから、身心ともになんとなくすっきりしないものを感じていたのだが、その正体は“高尾ロス”だったのだ。
 土から抜かれた植物のように、エネルギー源から切り離されていたがゆえに枯渇していたらしい。

 下山後は、友人と待ち合わせ、高尾極楽湯でのんびりした。
 と言っても、ここもコロナ前の休日と変わりない混みよう。
 露天風呂は芋を洗う猿たち(笑)でいっぱいであった。
 ソーシャルディスタンス的にはかえって「やばかった」かも・・・・・?

 そうそう、コロナ前と大きく違ったのは、ほぼ日本人100%の高尾山だったこと。 
 何年ぶりの光景だろう?

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● 本:『Bライフの愉しみ 自作の小屋で暮らそう』(高村友也著)

2011年秀和システムより『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』の書名で刊行
2017年ちくま文庫

 Bライフとは Basic Life、必要最低限の生活のこと。
 本書の主旨を汲み取ってより正確に言うなら、「一人の人間が自活して、誰にも気兼ねなく好きなことをし、かつ好きなだけ眠ることのできる、最低限の環境設定」といったところか。
 むろん、まったく働く必要がない大金持ちには最初から関係のない話である。
 庶民が、できるだけお金をかけず(働かないで)、他人の世話になることもなく、上記の条件を可能にする手段の追求こそが主眼である。

 著者は1982年静岡県生まれ。
 大学院を自主退学したあと一年くらい路上生活をし、その後、山梨の雑木林の一角を購入し、そこに小屋を建てて暮らし始める。
 その詳しい経緯やBライフの実践記録、およびBライフを始めるためのノウハウなどが書かれている。

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 生きるのに最低限必要なものは、日々の食べ物と着る物と寝る場所である。
 食べ物と着る物については、日本ではそれほど不自由しないであろう。
 ホームレスのための炊き出しもあれば、衣類のお古を配っているNPOもある。
 ゴミ出しや廃品回収の朝を狙えば、コンビニの廃棄弁当や各種衣類も手に入ろう。

 やはり、難しいのは寝る場所の確保である。
 夜露や寒さや雨風から身を守り、他人(とくにお上)に邪魔されず、誰にも気兼ねなく安心して好きなだけ眠ることのできる場所を見つけるのは、結構大変だ。
 むろん、家を買ったりアパートを借りたりすれば話は別だが、そのためには家のローンや家賃を払うために働かなければならず、「好きなことをしながら好きなだけ眠る」ができなくなってしまう。

 そこで、著者は田舎の低価格の土地を購入することを思いつく。
 自分の土地なら、何日テントを張り続けようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。
 行政から立ち退きを命じられることもない。
 月々の生活費は年金、保険料、税金ふくめ20000円程度で済むので、週1日もアルバイトすれば十分やっていける。つまり、就職する必要はない。
 暇にまかせてホームセンターで資材をそろえ、自作の小屋を建てれば、快適なBライフが保障される。

 贅沢や社交や都会の殷賑や緊張感ある仕事や社会的成功を望む人にしてみれば、考えられない、理解できない生活には違いない。
 一人きりで森の中に住むこと自体、変人と思う人も少なくないだろう。
 だが、こういう人はいま若い世代を中心に増えているような気がする。
 コロナがそれに拍車をかけたのは言うまでもない。
 要は、自分にとっての幸せとは何か? 生きる上での優先順位は何か?――ってことを各自が自分自身に問いかけ、それを他人の目を気にせず追求する時代になったのだ。

 しばらく前から、ソルティも森の中の暮らしに憧れを抱いている。
 小さな木の家に住んで、木々のざわめきを耳にしながら、薪ストーブの火を見つめている自分が目に浮かぶ。
 朝は鳥のさえずりで目が覚める。
 小さな畑があって、犬と猫が走り回る。
 来たるべき冬のために薪をたくさん集めておかなきゃな。
 ハイジのおじいさんか・・・・。

 自らの望むもの・望まないものをしっかり見据えて、世間の価値観に流されずにオリジナルな道を歩む著者の姿勢に拍手を送りたい。
 日本人はもっと自由であっていい。



おすすめ度 : ★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損




● シャリアピン、素敵 映画:『ドン・キホーテ』(ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督)

1933年フランス・イギリス
80分
フランス語
原作 ミゲル・デ・セルバンテス
音楽 ジャック・イベール

 主演のフョードル・シャリアピン(1873-1938)は、ロシア出身の伝説的名バス歌手。
 「歌う俳優」と呼ばれたほど、演技達者であったという。
 その名声を確かめるべく、レンタルした。

シャリアピン
シャリアピン


 なるほど、確かに凄い演技力である。
 まさに、イメージ通りのドン・キホーテがそこにいる。
 高潔で、突飛で、一途で、頭のねじの緩んだ老騎士になりきっている。
 表情から、姿恰好から、物腰から、口調から、仕草動作から、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す。
 むろん、その歌唱は絶品。

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ドゥルシネア姫への愛と忠誠を歌うドン・キホーテ


 そのうえにラストでは、騎士道物語の読み過ぎで頭のおかしくなった呆け老人という以上の、人間としての尊厳をも表現するに至っている。
 すなわち、ドン・キホーテという人物は、世俗を器用に生きようとする周囲の人間たちが失った“純粋さや情熱”の象徴だということを教えてくれる。
 だから、彼の死に際して、それまで彼を馬鹿にしていた周囲の人間たちは一様に頭を垂れ、涙するのである。

 シャリアピンの真価を示すこの記録が残されていることに感謝するほかない。


追記:晩年、来日して帝国ホテルに泊まった際、歯の悪かったシャリアピンのためにシェフが噛みやすいステーキを特別調理した。それがシャリアピン・ステーキとして今も愛されている。


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


  


 
  



● 文庫の値段と昭和アタマ 本:『節約は災いのもと』(エミリー・ブライトウェル著)

2016年創元推理文庫

 『家政婦は名探偵』シリーズ第4弾。
 今回も謎解きとユーモアたっぷりの楽しいミステリーに仕上がっている。
 何かにつけお茶を飲みたがるイギリス人の風習が面白い。

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 若干気がかりなのは、このシリーズ、2015年から邦訳が発売され現在まで4巻立て続けに刊行されたものの、2016年以降は出ていない。
 5巻以降の発売予定はあるのだろうか?
 訳者のあとがきにも、「次回をお楽しみに!」的なことが書かれていないので、これで打ち止めなんじゃないかと憂慮する。
 なにせ今の出版事情である。

 ソルティは本書を近所の図書館で借りた。
 もし、図書館に置いてなかったら、あるいはブックオフで廉価で売っていなければ、わざわざ買ってまで読むことはしなかったろう。
 というのも、この300ページほどの文庫本、定価1100円(+税)もするのだ!

 発行部数の少ない思想書や学術書ならまだ分かる。
 が、推理小説の文庫本が1000円を超えるとは、ソルティの許容範囲外である。
 いつからそんなふうになってしまったのか?

 部屋の本棚から古そうな文庫本を引っ張り出す。
 角川文庫の『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩著)昭和49年版は、500ページ近く(表題作のほかに2篇収録)で定価380円。消費税はなかった。

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カバーイラストは宮田雅之、解説は澁澤龍彦


 推理小説ではないが角川文庫の『ベニスに死す』(トーマス・マン著)、昭和57年版は226ページで定価260円。

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表紙はヴィスコンティ『ベニスに死す』タッジオ役のビヨン・アンデルセン


 同じく角川文庫の『ギリシア・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ著)、昭和60年版は670ページで定価620円。

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 ソルティがもっともよく書店で本を買っていた昭和時代、よほど分厚いものでない限り、文庫本が500円を超えることは滅多なかった。
 平成に入ってからは、もっぱら図書館や古本屋が中心となり、書店で購入するのは図書館や古本屋ではすぐには手に入らないようなハードカバーや“新書”の新刊、宗教関係書くらいになった。
 文庫の新刊は買わなくなった。
 その間に価格はどんどん上がっていたらしい。

 ソルティの昭和アタマの中では、いまだに文庫本は500円以下という感覚が強くある。
 ミステリーの古典たるウイルキー・コリンズ『月長石』のようなある程度の厚みがあるのなら定価500円以上も止む無しだが、1000円を超えるなんてちょっと考えられない。
 過去30年の物価の上昇を考えるなら、本の価格の上昇も当たり前と受け止めるべきなのだろうが。

 ソルティのように定価で本を買わなくなった人間が増えたればこそ、新刊本が売れなくなり、結果として町の本屋はつぶれ、出版社は新しい本がなかなか出せない、という結果を生んだのだ。 

 節約は災いのもと・・・・・・か。

 

 
おすすめ度 : ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損


 

● 大口真神の正体 本:『オオカミの護符』(小倉三惠子著)

2011年新潮社

 神社の鳥居の左右には狛犬がいる。
 正確には、神殿に向かって右側に坐し「阿形」に口を開けたのが獅子、左側に坐し「吽形」に口を閉ざし頭に角を生やしたのが狛犬である。
 どちらも、龍や麒麟と同じく想像上の生き物である。


狛犬
阿形の狛犬(獅子)


 地方によって、神社によって、いろいろなタイプの狛犬がいるのは言うまでもない。
 たとえば、沖縄の神社の狛犬はシーサーであるのはよく知られている。
 他にもキツネやイノシシや牛や鹿や亀なんてところもある。 (下記HP参照)

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 ソルティは関東近辺の山によく登り、麓や山頂にある神社をお詣りすることが多いのだが、いつぞや秩父の蓑山に登った時、山頂近くにあった蓑山神社の狛犬をみてビックリした。
 どう見ても、餓死寸前の犬としか思えなかった。
 その後、関東有数のパワースポットとして名高い三峰神社宝登山神社に行った時も、鳥居の傍らに控えているのは犬のようであった。
 秩父の神社の狛犬は犬が多いという印象を持った。


蓑山神社狛犬
蓑山神社


三峰神社狛犬
三峰神社


宝登山奥宮狛犬
宝登山神社


 が、どうやらこれらは犬ではなくオオカミ、それも約100年前に絶滅したニホンオオカミらしいと、本書を読んで判明した。

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 著者は1963年神奈川県川崎市生まれ。
 生まれ育った土橋の家の土蔵に昔から貼ってあった「大口真神」と書かれた護符に関心を抱き、近所の長老たちに取材し、土地の風習や信仰についていろいろ調べているうちに、武蔵御嶽神社や三峰神社にいざなわれ、大口真神に対する耕作者たちの古くからの信仰を知るようになる。

 大口真神こそはニホンオオカミのことなのである。
 農作物を食い荒らすイノシシや鹿などを捕食してくれるニホンオオカミは、農民たちにとって神にも等しき存在だったのだ。(現在、鹿の繁殖による作物被害に苦しんでいる農家が多いのは、オオカミの絶滅も一因なのだろう)

 しいて分類すれば民俗学の範疇に入る本である。
 が、一枚の護符と向き合うことから、埋もれていた郷土の歴史や風俗に目を開かれ、糸を手繰るように次から次へと普段なら会えないような人と出会い、興味深い話を聞き、村の伝統行事や神社に代々伝わる秘儀に参列し、厳しい自然の中で生きてきた日本人の信仰の根源に触れる。
 そうこうしているうちに、定職を辞め、自らプロダクションを立ち上げ、映画を撮り、本を書くようになる。
 不思議な縁に導かれた自分探しの旅のようなスピリチュアルミステリーの感もある。
 
 本書を読むと、日本人の信仰の根源には、生きることに欠かせない食べものを育んでくれる自然(=和魂)と、それを無残にも奪い去ってしまう自然(=荒魂)――そうした自然に対するアンビバレントな畏敬の念がある、ということを改めて思う。
 キリスト教や原始仏教のもつような「生計と切り離された観念性」は、日本人には馴染まなかったのだ。
 


おすすめ度 : ★★★

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もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損

 
 

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