銀座の東劇にプッチーニの「ボエーム」がかかっているという新聞記事を見た。

 「ボエーム」はそれほど好きなオペラではないけれど、現代最高のソプラノの一人と称されるアンナ・ネトレプコが主役のミミを歌っているとあっては聴かなきゃ損だ。本場(ニューヨークのメトロポリタン劇場)に聴きに行くことを思えば、たとえ映像であれ、1800円なんてべらぼうに安い。
 東劇近くのうどん屋で軽く腹ごしらえをし、久しぶりのオペラ鑑賞に、いざ出陣!

 435席の館内に10人ばかり。これで運営していけるんだろうか?と他人事ながら心配になる。
 いや、他人事ではない。東劇は、数年前からMETライブビューイングをやってくれている数少ない劇場の一つである。世界三大オペラハウスの一つであるメトロポリタンの、最高の指揮者、オーケストラ、歌手、演出家らによる、今シーズン上演したばかりの取れたてのオペラを、ライブ撮影の上映によって日本にいながら数千円で体験できる。貧乏なオペラファンとしては、誠にありがたい、夢のようなプロジェクトなのだ。ぜひ、今後も続けてほしいのだ。
がんばれ、東劇。がんばれ、松竹。

 場内が暗くなり、予告編なしにオペラが、プッチーニの音楽が、始まった。スクリーンには、雪に白く覆われた昔のパリの下町風景が写った。
 
 「あっ、失敗した!」
 
 METライブビューイングではなくて、普通のオペラ映画だったのである。
 よく調べなかった自分が悪い。道理で上映時間も短いし、料金もいつもより安いはずだ。実際に上演した舞台のライブ映像だったら、幕間の休憩時間も含めて3~4時間はかかるのが普通である。その覚悟で腹ごしらえしておいたのだ。入場時にもぎりの人に上映時間を聞いたら「2時間くらいです」と言ったので、「あれ?妙に短いな?」と思ったのだった。よもやオペラ映画とは!

(2008年ドイツ・オーストリア制作。114分。)


 オペラを映像化するのは難しい。
 これまで観たいくつかのオペラ映画の中で成功していると思ったのは、フランチェスコ・ロージの『カルメン』くらいである。あとは、残念ながら残念な結果ばかりである。映像があるばかりに純粋に音楽としても楽しめなくなるし(目をつむって座っていればよい? それだったら家でCDを聴きながら、自分の頭の中で場面を想像したほうがよい)、純粋に映画として観るにはあまりにつらすぎるのだ。だから、なるべく避けてきたのである。
 METライブビューイングも映像であることには変わりはないが、実際の舞台を撮影したものなので、映画を観ているというより舞台(芝居)を観ているという感覚のほうが強い。それならば、たとえライブの臨場感や迫力に欠けていようとも違和感は感じずにすむ。

 残念ながら、このオペラ映画「ボエーム」もまた、幸福な例外というわけにはいかなかった。

 終映後、帰りの電車に揺られながら考えた。
 オペラ映画の持つ、この違和感、つらさの正体はなんなのだろう?

 おそらく、一番の原因は、映像を音楽に合わせなくてはならない不自由さにあるのだろう。
 オペラの熱烈な観客を考慮してだろうか、音楽を断ち切るとか一部だけ使用するということをまずやらない。舞台の時と同様に、一曲のオペラを、前奏から始まってアリア(詠唱)も重唱もレチタティーヴォ(語り)もインスツルメントも間奏も、最初から最後まで通して使うのが通常だ。いきおい、映像のほうを音楽に合わせて作らなければならない。ということは、台本もセリフも変えられない。
 もちろん、舞台でもそれは同じことで、舞台を動き回らずに一つところに立ったまま歌うのが慣例となっているアリアはともかく、重唱やレチタティーヴォやインスツルメントでは、音楽に合わせて役者に芝居をさせないとならない。そこが演出家の腕のみせどころでもある。
 が、舞台上なら格好のつく役者たちの立ち回りや小芝居や歌っている際の表情が、スクリーンになるとどうにもこうにも不自然に見えてしまう。客席と距離がある舞台上で書き割りの前で形式的な演技をするのは自然に見えるのに、スクリーンにアップになって実写風景の中でリアリティのある演技をされると不自然に見える。
 ミミ役のネトレブコもロドルフォ役のローランド・ビリャソンも、さすがというほかない見事な歌唱と演技とを披露しているのだが、役に入り込んで熱心に演じれば演じるほど、観ているこちら側はシラけてくるのである。二人のせいでは決してない。
 つくづく、オペラというものはリアリティとは馴染まないものなのだと思う。
 リアリティを追求しようと頑張れば頑張るほど、もともとオペラが持っている奇形性が目立ってしまうのだ。たとえば、歌いながら芝居すること。荒唐無稽なご都合主義のストーリー。陳腐で大げさなセリフ。ルックスが映像向きでないソプラノ。(ネトレブコはルックスはバッチリである)、いまわの際に大声を張り上げ続けるテノール、音楽によって無視される芝居の上での「間」。そして、映像ならワンカットで説明できるシチュエーションを、台本通りという制約のせいで説明ゼリフを何度も何度も繰り返し歌い続けることで発生するくどさ。
 
 考えてみると、たしかにフランチェスコ・ロージの「カルメン」は、広い風景の中でのロングショットばかり使っていたような覚えがある。

 むしろ、映像に合わせて音楽を編集して使ってみたらどうだろうか? ミュージカル映画のように。
 だが、その場合は、セリフができる、芝居のうまい、ルックスの良い歌手を起用しなくてはならない。あるいは、芝居は俳優にさせて、歌の部分は歌手がアフレコする。(昔、八千草薫がこのやり方で「蝶々夫人」を演じたはずである。一度観てみたいものだ。)
 
 さて、落胆して見始めた「ボエーム」であったが、面白いなあという点も実はあった。
 一つは、ミミとロドルフォが出会ってから結ばれるまでの時間である。なんと、この映画では出会ってから20分足らずでベッドインしてしまうのだ。これには驚いた。確かに、リブレット(台本)上でも、出会って、暗闇で一緒に鍵を探して、アリアで自己紹介しあって、すぐに愛を口にするせっかちな(動物的な)二人である。でも、まさか、そのままヤってしまうとは! それも、ミミが自分の部屋にロドルフォを招き入れるという形で。
 19世紀のモンマルトルではこれが当たり前だったのだろうか? それとも、現代人にリアリティを感じさせるには、これくらいしなければならないということなのか? 淀川長治さんが観たらなんて言うのか、知りたいものである。 
 もう一つ。ムゼッタ役のソプラノが強烈な存在感を出していて、たまらないものがある。ニコル・キャベルという名のアメリカ人歌手であるが、松任谷由実と欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)と戸川昌子と室井滋とルーシー・リューを足して4で割ったような個性的な外見を生かした、叶恭子ばりのビッチな演技で思いっきり愉しませてくれる。
 「私が街を歩くとみんなが振り返る」と彼女が歌うと、
 「そうだろうな~」と納得せざるを得ない。
 なるほど、これはこれでリアリティがある。
 プロフィールを見ると、アフリカ系アメリカ人の祖父を持ち、コーカサス/コリアン系とある。歌もうまい。
 これだけの突出した個性によってはじめて、オペラ映画の持つ不自然さを耐えさせてくれるのだと思った。