10月6日、吉祥寺月窓寺境内で毎秋恒例の薪能があった。

2012吉祥寺薪能 001 今年で26回目という歴史ある催しだが、自分ははじめてである。
 まずは、晴れてなにより。風もよし。気になっていた日没後の寒さも問題なかった。

 境内にはいってまず目にはいるのは、舞台背後にそびえ立つケヤキの大木。能楽堂なら老松の絵が描かれている位置だ。
 あたかも大黒柱のようにどっしりと会場の中心を担い、ほぼ満席に近い客席を睥睨(へいげい)しつつ、舞台と夜空とを結んでいる。
 葉の生い茂った枝は四方に十分のびて、屋根のように舞台と橋がかりを覆い、戸外ではありながら閉鎖されたような、しかし圧迫感とはほど遠い空間を生み出している。ちょうど橋がかりに顔をのぞかせる一本の松とともに、すばらしい舞台環境である。
 これは、いやがおうでも期待が高まる。

 見所(座席)は脇正面、前から5列目くらいであった。

 演目
 1.【能】        経正 (シテ:関根祥丸、ワキ:村瀬堤)
 2.【狂言】    樋の酒 (シテ:三宅右近)
 3.【仕舞】  遊行柳 (関根祥六)
 4.【能】        葵上 (シテ:岡久廣、ワキ:村瀬堤)

 狂言は無難に面白かった。仕舞は話の設定を知らないので、よくわからない。

 能はどちらも、とても面白く、熱演でもあり、椅子から身を乗り出して見入ってしまった。
 「経正」はいくさで討たれ死霊となった若き公家の昔日の遊興に対する執着、「葵上」は光源氏との恋に執着するあまり生き霊となった六条御息所のすさまじい嫉妬。対照的な曲に、プログラム構成の妙を感じた。

 経正を演じた関根祥丸(よしまる)は、1993年生まれとあるからまだ18歳。青春の頂きにある。
 平経正が亡くなった年齢はわかっていないが、おそらく30代以下ということはないだろう。
 この曲は、いくさで命を奪われ今や修羅の世界で苦しむ経正が、親王はじめ人々に愛された、楽しく、華やかなりし青春の頃を懐かしむとともに、琵琶の名手として名を馳せた一人の芸術家が芸事への尽きせぬ思いに身を焦がす、というテーマである。
 失ったもの(過去)への恋慕と執着。
 祥丸は、さすがにそれを表現するには若すぎる。
 だから、今若の能面のままに、若い経正を若いままに演じている。
 青春の情熱と喜びとをほとばしるようなテンションで表出し、若さの絶頂で戦争に身柄を取られ、撥を持つ手に刀を握らなければならなくなった無念さ、管弦の調べのかわりに阿鼻叫喚を聞かなければならなくなった運命の不条理を、子供のような、手放しの泣き顔で表す。薪に照り輝く能面のほおが涙で濡れているかのようだ。

 経正の物語が、一挙に千年の時を超えて、現代に直結する。
 それは、太平洋戦争で志半ばで戦地に散った画学生の遺作が展示されている、長野県上田の無言館へと思いを運び、輸入血液製剤でHIVに感染し10代でこの世を去った血友病の子供達の姿を眼前に浮かばせ、そして、聖戦という大義のもと物心つかぬうちから銃を担ぎ戦士に仕立て上げられる遠い国の子供たちへとつながっていく。

 能で感涙にむせんだのははじめてだ。

 
2012吉祥寺薪能 002 六条御息所を演じた岡久廣もすばらしかった。
 能楽という、形式のきまりきった言葉と動きの中の、ほんの一瞬、ほんの一呼吸のズレに、御息所の嫉妬と憤り、自らのあさましい姿に対する恥とためらい、老いてゆく女性の哀しみ、それでも断ち切れぬ光源氏への恋慕を生き生きと表現する。能がこれほど肉体的になりうるとは思いもよらなかった。いったい光源氏のどこがいいのか分からんという個人的な思いはおいといて、見事というほかない。
 燃えさかる薪は、御息所の嫉妬に狂える心と、来たるべき来世の苦しみとを暗示する。
 前ジテの完成度は圧巻である。

 しかるに、後ジテとなって、行者横川の聖とのたたかいになるあたりから、テンションが落ちていく。
 これはどうしたことか。

 行者に迫力も貫禄も感じられない。
 いくら真言を唱え、数珠をならそうとも、法力のなさそうな感じは否めない。これで、御息所を折伏できるとはとうてい思われない。とくに、前ジテであれだけ執念の強さと恨みの深さを見たあとでは。
 だから、「この後またも来たるまじ(もう二度とここには来ません)。」という御息所の言葉が本当らしく響かない。橋がかりを去っていく姿も、なんだか頭を左右にふりふり、納得いかずに、未練がましく去っていくみたいに見える。

 「きっとまたやって来るな」

 
 だが、よくよく考えてみると、これは行者役のワキの演技のせいとも言えないようだ。

 そこには現代における能が抱える根本的危機の要因がある。(なんて大げさか?)

 多くの謡曲は、仏教の功徳によって、現世に執着し迷っているシテの霊が成仏する、あるいは成敗されるという大団円を持っている。
 清経、実盛、松風、砧、道成寺、江口、卒塔婆小町、山姥、海人、船弁慶、殺生石、鵜飼・・・・。あげればキリがない。
 引導を渡すのはたいていワキの僧侶である。
 僧侶はその非俗性と法力ゆえに、シテの霊があの世からこの世へ渡ってくるための道を開く。と同時に、加持祈祷や念仏によって、霊たちの荒ぶる心を抑え、魂を浄化し、あの世へと押し戻すのである。その結果、仏教の大いなる功徳とありがたさが称揚され、能を見る人たちの信心を強固にする仕儀となる。

 そもそも、こうしたストーリーが成り立つのは、源氏物語よりはるか昔から観阿弥・世阿弥の時代を経て、つい最近に至るまで、日本人の心の核に仏教に対する篤い信仰心があったからである。
 念仏を聞いた霊たちが形相を変えて苦しんだり、じゅんじゅんと反省の色をしめしたり、すごすごと退散したりすることは、仏の功徳を信じ、ことあれば念仏を唱え、お坊様をありがたがる民衆にとって、ごく自然の展開であっただろう。水戸黄門の印籠よろしく、しぶとい悪鬼怨霊も神仏の大いなる力の前には最終的には降参し、尻尾を巻いて逃げるほかない。万事解決。そこには、溜飲を下げるという心地よさ(カタルシス)も潜んでいたはずだ。 
 六条御息所が横川の聖の加持祈祷に苦しみ、七転八倒したあげく、降参するという展開も、何ら疑いをはさむことなく、リアリティを持って受け止めたことであろう。

 ひるがえって、現代の我々は、そこにリアリティを感じるだろうか?
 それだけの信仰心を持っているだろうか?
    
 演者はどうだろう?
 ワキの行者は、はたして自分の力をどこまで信じているだろうか? 仏のご加護を信じているだろうか? 
 シテの御息所は、仏の力を畏れているだろうか? 畏れながらも一方で仏に救われたいと心底思っているだろうか?
 言葉をかえると、自分の演じていることにどれほど納得しているだろう?

 ワキも、シテも、観客も、そこにリアリティを感じられないとしたら、御息所と行者とのたたかいは単なる力くらべ、形だけの合戦になってしまう。

 御息所の生き霊が立ち去るには、それだけ十分な理由が必要である。
 その必然性を感じさせる工夫を編み出さない限り、現代の能はどこかかたちんばにならざるをえないのではないだろうか。
薪能ちらし