上野中央商店会が主催しているオペラBOX。
 
 全曲ではなくて、ピアノとフルート伴奏によるハイライト上演。歌手は新進気鋭の若手たち。テレビ朝日出身でフリーのアナウンサー朝岡聡がナビゲーター(進行役)をつとめた。(この人を見ると、いつも『チャイルドプレー』のチャッキーを思い出す。)リゴレット 004

リゴレット  : 谷 友博
ジルダ        : 清水 理恵
マントヴァ   : 村上 敏明
ジョヴァンナ/マッダレーナ : 高橋 華子
モンテローネ/スパラフチーレ :龍 進一郎
 
ピアノ   : 服部 容子
フルート : 上野 由恵
演出   : 久垣 秀典

 タイトルロールの谷は調子が良くなかったようだ。途中で何度か声が裏返ってひやひやした。ジルダはそつがない。アリア「慕わしき御名」はよく歌いこんでいるのだろう。見事な出来栄えだった。
 一番の喝采はテナーの村上敏明。声量といい、声質といい、高音域の力強さといい、すばらしい才能だ。日本でここまで「トランペット的に」鳴らすテナーは聴いたことがない。風格もなかなか。表現が一本調子なのが気にかかるが、脳天気なマントヴァ公爵では表現力を示しようがない。別の役で聴きたいものだ。「女心の歌」のクライマックスの最高音は、雪崩を起こさんばかりの威力があった。


 演出での不可解ポイント。
 第2幕。誘拐されたジルダは、好色なマントヴァ公爵のもとに差し出され、操を奪われてしまう。狂乱して娘を捜すリゴレットは、自分の仕える公爵の部屋から飛び出してくるジルダと出会い、事情を知って絶望し、怒りに打ち震える。
 長椅子にもたれ、薄いドレス姿で、泣きしおれるジルダ。
 と、リゴレットは、長椅子にかけてあったマントヴァ公爵の豪華なマントを娘の肩にかける。
 これはありえない。
 影のように公爵に仕えて女の手引きまでしてきたリゴレットが、マントの主を知らないわけがない。なによりそこは公爵の居室なのだ。命より大事な娘を陵辱した憎き相手の衣服を、なんの躊躇もなく、当の娘にかけるなんてあり得ない。
 演者たちは、この演出に何とも思わなかったのだろうか? だとしたら、あまりに鈍感すぎるか、観客を馬鹿にしている。少なくとも、あそこで観客のいくたりかは「えっ?」と思ったはずだ。
 ベタであるが・・・。リゴレットは、長椅子のマントを娘にかけようとする。が、途中でそれが自分の主人のものであることに気づき、床に投げ捨てる。かわりに、自分のフロックコート(なんでフロックコートを着ていたのかわからないが)を脱いで、娘にかける。
 そもそもが現代人にリアリティを感じさせるには困難なストーリーなのだ。だからこそ、心情にかかわるような細かい部分での「本当らしさ」が重要なのである。

 それにしても・・・・・。
 昔のオペラや能や歌舞伎を観ていてよく思うのだが、物語世界に入り込むことが本当に難しくなった。年齢のせいとか、感受性の摩滅というのではない。作品が作られた当時の作家や大衆が持っていた価値観や道徳観が、今ではすんなり理解できない、簡単には共感できないものになってしまっていることが多いからだ。これは、個人的なレベルで言えることでもあるし、世間一般のレベルでも言える。


 たとえば、「道化」というものの宮廷での役割や位置づけ、周囲の人々が道化に対して持つ感情(嘲笑、憐憫、軽視、滑稽)は、シェークスピアを読んでいれば、ある程度は理解できる。そこを踏まえた上での、リゴレットの抑圧された怒り、恨み、卑屈、陰険、恐れ、娘への盲愛なのだ。それを、今日びテレビをつければ必ず出てくる「お笑い芸人」同様に解釈する(人気者、お金持ち、成功者e.t.c)ほか手だてがなかったら、まったく物語世界に入り込めないだろう。そのうえ、「せむし」であることがリゴレットの歪んだ心を解釈する上で重要なポイントなのだが、今回の演出でもそうだったが、現代日本においてそこを強調することはもはや「政治的に」難しい。

 ヴェルディがよく取り上げる「呪い」とか「復讐」というテーマも同様だ。
 リゴレットは、マントヴァ公爵に娘を弄ばれたモンテローネ伯爵に向かって無慈悲な言葉をかける。伯爵は呪いの言葉で返す。それはリゴレットの心に深くつきささる。リゴレットが怯えるのは、自分と娘ジルダにも同じ不幸が起こるという恐れと不吉な予感を抱いたからではあるが、それ以前に何よりもこの作品の時代背景である中世(16世紀)においては、人が全身全霊で「呪い」の言葉を発したとき、浴びせられた当人を強い恐怖と不安のうちに呪縛せざるをえない、一種の魔術信仰、言霊信仰が生きていたからだ。日本文化も然り。呪いとはまさに「咒(じゅ)=真言」なのだ。

 「復讐」という価値観はまだ現代人にも理解しやすいかもしれない。だが、江戸時代の「敵討ち」とか「赤穂浪士討ち入り」とか、昭和時代まではなんとか大衆の共感を得ていたが、今はどうだろう? テレビでも映画でもベストセラーでもいい。復讐をテーマにして人気を博した物語を挙げられるだろうか。法的手段に訴えることに、我々はあまりにも慣れすぎてしまった。

 個人的に最も違和感を覚えるのが「純潔信仰」「処女崇拝」である。
 リゴレットは、嫁入り前の娘の貞操(この言葉自体「死語」だな)を守るために、教会に行く以外のいっさいの外出を禁じる。いったん、娘の純潔が汚されたと知るや絶望のどん底に突き落とされ(「一日で何もかも変わってしまった!」)、激しい憤りは、殺し屋を雇ってまでの敵討ち(それは自身の生計の糧を失うことを意味する)に彼を駆り立てる。
 リゴレットの気持ちと行動を理解し納得するには、同じ「娘を持つ父親である」だけでは足りなかろう。マリア信仰を持つ中世のキリスト教徒としての、強い「純潔信仰」「処女崇拝」を共有していなければなるまい。それあっての騎士道やら初夜権(『フィガロの結婚』)やらなのだ。
 もちろん、今の日本だって処女をありがたがる性文化は存在するし、娘の純潔を願い、娘を弄んだ男に憤る父親の気持ちは健在だろう。しかし、結婚相手の女性に「処女であること」を条件づける男やその家族とか、バージンを捧げたボーイフレンドに結婚を要求する女やその家族なんてのは、どこかの宗教団体に属している場合を除いては、今やギャグかナンセンスだろう。大事な娘を「傷もの」にされたという言い回しを一昔前はよく耳にしたけれど、骨董品にひびが入ったのを怒っているのと同じで、娘の商品としての価値が下落したことを嘆いているわけで、娘への愛情というよりは「お家」の対面や良縁をゲットするための駒の損失を問題にしているのである。その後の生涯を「傷もの」として過ごさなければならなくなる女性こそ哀れである。

 純潔性への信仰は、それと裏腹に、純潔でなくなった女性への蔑視を伴っている。何より切ないのは、周囲だけでなく、当の本人が自身を「汚れてしまった」と思い込んで、その後の人生を失意と投げやりな気持ちで過ごさなくてはならないことだ。公爵の部屋から走り出てきたジルダが父親を見つけて口にする第一声が「おとうさま、私は汚されてしまいました」(字幕でそうなっていた)なのは、なんともやりきれない。そうやって自分で自分を貶めた結果としての最終幕での自己犠牲なのだから、なおさらである。ジルダをレイプしたのはマントヴァだけではない。時代や文化もまた、いわゆるセカンドレイプしたのだ。
 これに関しては、先ごろ亡くなった仙台の賢人・加藤哲夫さんが憤っていたのを思い出す。曰く、
 「男と関係を持った女が‘汚された’というのは、つまり‘男が汚れている’ということを意味するじゃないか! 男は‘汚れた’存在なのか!」

 ともあれ、舞台を見ているうちにも、こうした価値観のギャップやそこに潜む構造が見えてしまい、あれこれ考えてしまうがゆえに、すんなりとリゴレットはじめ登場人物の気持ちに共感して物語世界に入り込むのが難しくなるのである。
 ヴェルディの生きていた時代(19世紀)の観客は、まだ入り込むのに苦労はしなかったであろう。リゴレットの恐れ、怒り、絶望を自分のものとし、ジルダの犠牲的精神に涙し、「傷ものとして残りの人生を生きるより、愛のために死んだほうが、いっそあの娘のために良かった」くらいのことは思うかもしれない。共同幻想が生きていたのだ。
 しかし、21世紀の日本に住む我々は、そうはいかない。破れてしまった多くの共同幻想の廃墟の中に、我々は立っているのである。

 このハンディを超えて我々が物語世界に入り込んで感動するためには、よほどのレベルの音楽と演奏と歌と演技の質が要求される。音楽家にとっては実に困難な時代と言える。(マリア・カラスなら、どんなバリアも超えて行っただろうが。)
 奇抜な演出でもってこの壁を乗り越えようとする試みが散見されるが(特にメトロポリタンでその傾向を感じる)、無駄なあがきだと思う。以前、『アイーダ』の舞台設定を現代のニューヨ-クあたりに移管して、流行のスーツを着た女社長(アムネリス)とそのライバル(アイーダ)と優秀な社員(ラダメス)が最先端のオフィスで三角関係、みたいな演出を見たことがあるが、まったくげんなりした。オペラを見る上でのもう一つの主要な楽しみであるコスチュームや舞台美術まで、このうえ奪うつもりか。舞台を現代に設定すれば、観客も身近に感じてリアリティが増すとでも思っているのだろうか?

 むろん、ヴェルディは天才である。
 今回のオペラBOXも、いろいろな紆余曲折や我ながら気難しいと思う自身の注文をなぎ倒して、最後には物語世界にこの身を引っ張り込み、はからずも涙を浮かべさせたのは、ヴェルディの音楽の偉大さにほかならない。
 そしてまた、「復讐」や「処女崇拝」という幻想(=物語)にすんなり身を任せられない自分も、なんだかんだ言って、「子供の死を悼む親の気持ち」まで幻想として退けられないからだ。

 共同幻想が次々とあばかれ、蛇の抜け殻のように捨て去られていった先に、それでもなお我々に残されるものはいったい何だろう? 
 我々は最終的に何に感動するのだろう?
 結ばれることなく果てた恋愛?(ロミオとジュリエット)
 家族愛?(北の国から)
 ペットの死?(星守る犬) 

 あるいは、「我々」がなくなるのかもしれない。
 個人がそれぞれの幻想のうちに住んで、専ら個人的に感動する世界がすでに始まっているのかもしれない。