太田美術館 太田記念美術館は、実業家の太田清蔵(1893-1977)が収集したコレクションをもとに1980年に設立された浮世絵専門の美術館である。原宿駅から徒歩5分、表参道の晴れやかさからも、竹下通りの賑々しさからも、明治通りの騒々しさからも、等しく離れた静かな空間にそれはある。

 月岡芳年(1839-1892)は、歌川国芳の門弟であり、幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師である。今年は没後120年にあたる。歌舞伎や戦記物などの惨殺シーンを題材に多くの無惨絵を描いたことから「血まみれ芳年」という通称を持つ。実際、膠を含ませ血糊らしさを出した朱色の毒々しさは、スプラッタ映画を思わせる出血大サービスぶりである。
 そのせいか当時はともかく、昭和に入ってからは大衆的な人気は得られなかったようだが、マニアックな愛好者を生んでいる。芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩、横尾忠則、京極夏彦・・・。この顔ぶれを見れば、怪奇と耽美、幻想とエログロこそが、芳年の特徴であり魅力であったと自ずと知られる。(三島は腹を割いて自決したとき芳年を思い出しただろうか?)

 師匠の国芳と比べると、その画風は「動と静」「陽と陰」「生と死」「楽と哀」と正反対である。国芳が「太陽」だとすると、芳年はまさにその名の通り「月」である。ここまで対照的なのも面白い。しかも、国芳は早咲きの天才だったのに比して、芳年は遅咲きであった。
 いや、もちろん、初期からそのデッサン力、構成力、色彩感覚は優れたものではある。絵も売れていた。だけど、どことなく凡庸である。上手いけれどもつまらない。国芳の作品が終生放ち続けたような力強い個性、躍動感、諧謔味に匹敵する才が見られない。注文に応じて器用に作品を仕上げるテキスタイル作家みたいな感じである。
 絵そのものにオリジナリティを欠いている。そのことを当人も自覚していたがゆえに、内容(題材)で目立つことで勝負したのだろうか。
 というのも、今回ナマで見て感じたのだが、芳年のスプラッタ絵画にはエロチックな匂い、秘められた変態性の狂おしさのようなものが希薄なのである。作家の抑圧された欲望を昇華するために描かざるを得なかったという熱さが感じられないのである。その点、ビアズリーや伊藤晴雨とは違う。

 芳年は晩年になって西洋画と出会い、開花する。
 西洋画(特に宗教画)の伝統的な様々なテクニックを模倣し、取り入れ、しまいには自家薬籠中のものとして、和洋折衷の自分のスタイルを確立する。もはや、人を惹きつけるために残虐を必要とする位置にはいない。彼の持っていた個性「静、陰、死、哀」は、残虐でなく宗教(信仰)と結びつくことでオリジナルな美を獲得し得たのである。
 この展覧会の面白さは、芳年の作品を時系列に見ることで画家としての成長ぶりを辿ることができるところにある。最後に行くほど見事になる。

 国芳がダ・ヴィンチだとしたら、芳年はラファエロなのだろう。
 52歳という若さで亡くなったのが惜しまれる。 

月岡芳年