銀河ヒッチハイクガイド 1979年出版。2005年河出文庫発行。

 中学生の頃、実家で祖母と『奥様は魔女』を観ていたときのことである。
 楽しそうに観ている自分に祖母が聞いた。
「テレビの中で笑っている声がする場面で、やっぱり面白いと思う?」
「うん、面白い」と自分は答えた。
 祖母は感心したような顔をした。
「おばあちゃんには、どこがおかしいのかさっぱりわからないよ。」

 祖母がお笑いやジョークを理解できない堅物だったわけではない。『笑点』や漫才番組や『八時だよ、全員集合!』を観て声を立てて笑っていたから。彼女が理解できず共感できなかったのは、アメリカ人の笑いのツボやユーモアセンスだったのである。そのことに自分は逆に驚いた。
 そう言えば、父母もまた『奥様は魔女』を一緒に観ても笑いはしなかった。サマンサの繰り出す魔法はもとより、ダーリンとエンドラ(黒柳徹子似)の丁々発止の掛け合い、愛すべきハガサ叔母さんのドジぶり、隣人のグラディス夫妻のとぼけた会話など、自分が笑っているときでも両親は黙って見ていた。
 確かに、『奥様は魔女』の面白さと、『八時だよ、全員集合!』や『時間ですよ』の面白さは別物であった。分析はできなかったが子供心にもそれは気づいていた。前者が言葉の応酬から生まれるおかしさであるのにくらべ、後者はいわゆるドタバタのおかしさである。が、それだけではない。落語や漫才は形の上では前者に入るが、笑いの質という点ではやはり『奥様は魔女』よりは『時間ですよ』に近い。というより、日本人の笑いの原点をつくっているのが落語や漫才なのだろうから、後発のドラマやバラエティがその流れを汲むのは当然である。
 なぜ、祖母や両親が理解できないアメリカンジョークを子供である自分は楽しめるのであろう?
 『奥様は魔女』が何度も(子供枠である)夕方に再放送されている現実を考えると、自分以外にこのドラマを楽しんで観ている子供たちが大勢いるのは明らかであった。
 となると、世代の差ということになる。
 小さい頃(60年代)から浴び続けてきたアメリカ文化の洗礼がこうした笑いに対する感性をつくったのであろうか。それは大人になってからでは遅いのであろうか。
 そんなことを中学生なりに考えたのであった。


 マイケル・J・フォックス主演の『ファミリー・タイズ』やレオナルド・ディカプリオ出演の『愉快なシーバー家』や『アーリーmy love』を持ち出すまでもなく、アメリカンジョークは今では多くの日本人に浸透している。今では『奥様は魔女』を面白く観ていた世代によって日本のテレビ番組や映画は制作されているはずである。
 ・・・のわりには、どうしてこうもつまらない番組や映画ばかりなのだろう。アメリカンジョークの面白さが分かる、というのとそれを創りだすというのはまったく別次元の話なのだろうか。三谷幸喜はわりとそれに近いところをやって成功していると思うが・・・・。

 さて、この本はイギリス人の作者によるSFコメディである。
 2005年に映画化されて、その出来映えはかなりのもんである。
 今回はじめて原作を読んだ。
 で、『奥様は魔女』と祖母の一件を思い出したのである。

 この本の面白さを理解できる日本人がどれくらいいるのだろう?

 イギリス人の笑いのツボというのもまた、日本人のそれとはもちろん、アメリカ人のそれとも異なる。同じ西洋で、アメリカはイギリスから独立したのだから根っこは同じで感性も近いはずと思うのであるが、やっぱり違う。イギリスの方が醒めている。シニカルである。自虐的である。乾いている。文字通り「痛快」である。『ミスター・ビーン』が代表である。
 自分が好きなのはイギリス人の笑いであるが、これはまだまだ日本人に受け容れられているとは言い難い。これを受け容れるためには、何かアメリカ的なものを捨てなければならない。ポジティブシンキングとか底抜けの陽気とかファミリータイズ(家族の絆)とか人類愛とか・・・。

 なんとも痛快なのは、アメリカ人(ブルース・ウィリスやバットマン)が最後まで必死に守ろうとする地球と人類を、ダグラス・アダムスは最初の数ページで何のためらいもセンチメントもなく消滅させてしまうのである。これ以上の自虐はあるまい。いっそ清々しい。
 そこから物語は始まる。
 主人公のアーサー・デントにはもはや帰るべき故郷もなく再会すべき家族もなく守るべき価値もない。宇宙の大海原(という言い回しもよく考えると矛盾だが)をペテルギウス人とヒッチハイクするハメになったアーサーの姿は、『銀河鉄道999』の鉄郎とどれだけ懸隔あることか! 
 意味のない世界を生きるのに必須なのは、武器でも愛でも哲学でも芸術でも希望でもなく、ユーモアそして「一杯のお茶」なのである。