老人ホームの仕事に就いて一年経った。
 長かったような、短かったような・・・。最初の半年は鈍行で、残りの半年は特急だった。特に今年に入ってからは、何十年ぶりに来た大波の片恋にポワ~ンとしているうちに、冬が終わり春が過ぎて、気がつくと初夏。空には恋のぼり、いや鯉のぼりが泳いでいた。
「時間を早く感じさせるもの。それは慣れと官能である。(byゲーテ)」←うそ
 このぶんだと、はるか先に思えた介護福祉士の試験も「あっ」という間かもしれない。
 4月には新しいスタッフが入ってきた。ほとんどは福祉系の学校を出たばかりか、ヘルパー免許取り立ての未経験者。一年前の自分と同じである。
 一年前の自分の苦労を思い出して、いろいろと助けてあげたいのはやまやまなれど、自分の子供と言っていい若人ばかり。やっぱり覚えるのが早い。頭の回転も早い。体もよく動く。先輩スタッフの見習いを離れてバンバン「一人立ち」していく様子を見るにつけ、「歳を取ると新しいことを始めるのが億劫になる」と言われる所以に納得する。


 1.介護の仕事は自分のADL(日常生活動作)を見つめ直すこと

  美内すずえの傑作演劇少女マンガ『ガラスの仮面』で、主人公北島マヤがパントマイムを使った一人芝居をするエピソードがある。天才少女マヤは、黒衣の師匠月影千草から「獅子の子落とし」の如く突き放されて、独力で初めてのパントマイムの稽古を開始する。そのときに、北島マヤは悟るのである。「パントマイムとは自分が普段何気なくおこなっている日常動作の一つ一つを見つめ直す作業なのだ」と。
 介護の仕事もそうである。
 たとえば、入浴介助。利用者の洗髪をするとき、どのくらいの時間頭をゴシゴシするか、指にどのくらいの力をこめるか、シャンプーを流すのに何秒かけるか。自分の頭を洗う時は何十年もやってきているので半ば無意識にやっている。他人に対して行う段になってはじめて「はて?いつも自分はどうやっていたっけ?」と振り返ることになる。体を洗うときや髭を剃るときも同じ。いつも自分は何回こすれば良しとしているか、カミソリを肌に押しつける強さはどのくらいか、唇の上はどういう角度で剃っていたか。自分でやる時は、効果を感じるのは自分自身なので案配がわかる。他人相手だと、相手の感覚は当然分からないから、ちょうどいい加減が分からないのである。 
 食事介助も同様。利用者の口の中に食べ物を入れた。咀嚼が始まる。さて、次の一口をいつ入れるか。燕下がしっかりしていて食べ物が喉を通るときの「ゴックン」が見える人ならいい。だが、中には分かりにくい人もいる。そこで自分の食べ方を振り返るのである。「自分はいつも何回くらい噛んでから飲み込んでいるだろう?」
 食事の席から立ち上がる動作も同様。両足の位置はどこにあるか、立ち上がる時の頭の軌跡はどうなっているか、両手はどこについているか、椅子はどこまで後ろに下げるか、立ち上がったあと右から出るか左から出るか(自分は左から出る方がやりやすい)。普段は何気なくやっているこういった一連の動作を意識して見つめ直さないことには、相手に対して適切な介助ができないのである。
 もちろん、自分がやっている日常生活動作をそのままの形で相手に適用できるわけではない。高齢者はそもそも動作が緩やかである。様々な痛みや身体障害を抱えていることが多いから、若い(相対的に)自分の場合と同じペースでやってはならない。洗体なども若い(相対的に)自分にやるように強く擦ると、老人の薄く弱い皮膚は簡単に傷ついてしまう。それぞれの人の身体状況や習慣や好みも考慮しなければならない。
 それでも、基本となるもの、学ぶべきものはまず自分自身のADLであるのは間違いない。無意識にやっていることを意識化する作業が、良い介助につながる。
 北島マヤ。おそろしい子。


2.介護の仕事は「段取り力」が物を云う

  介護施設での仕事、というべきか。
 やることはやまほどある。毎回シフト入りすると始めに前任者から申し送りを受けるが、その量の半端でないこと! 一人一人の利用者について2~3つの情報が伝えられる。体調の様子、介助方法の変更、排便の状況、使用しているパットの変更、家族からの要望、外出や受診の予定・・・・・もういろいろである。それが20名分ほどある。一回に申し送られる情報の数は50個近い。これが、食事・排泄・入浴・更衣・リハビリ・レクリエーションなどの基本的な日常介助業務に加えて、スタッフに襲いかかってくるのである。
 たとえば、
「Aさんの靴下が不足しているのでご家族が来たら持ってくるように伝えてください」
「Bさんの不穏時の頓用薬が出ました。不穏になったら服用させてください」
「Cさんが便失禁した衣類をバケツに浸して消毒してありますので、洗濯して干しておいてください」
「Dさんは食事量が少ないので栄養補助ドリンクを提供してください」
 ・・・・・・。
 メモは必至にとるけれど、到底すべてを限られた時間内でこなせるものではない。
 誓って云う。基本介助業務を円滑にこなし、しかも申し送られたこまごまをすべて完璧に果たした日など一日もない。(そんなことできるのは忍者ハットリ君かサマンサくらいだ)
 それでも会議は踊る、もとい介護は回る。申し送られた業務をそれなりに片付けなければならない。次のシフトの職員に手つかずのまま丸投げするのは酷である。恨みも怖い。どうにかして時間を作り出さなければならない。
 そこで重要となるのが「段取り力」なのである。
 時間の使い方、体の使い方、動線の取り方、優先順位のつけ方、利用者の動きや表情やクセを読んで次に起こることを読み取る力・・・。そんなものが大切なのである。
 たとえば、こんなふう。

  1. 共用リビングから一番遠いDさんの部屋からコールが鳴った。「なんだろう? ああ、この時間ならたぶんお茶が欲しいんだろう。」(手早くお茶を入れて持って行く) Dさんの部屋に着いた。やっぱりお茶だった。部屋からの帰りがけにテラスに寄ってEさんの洗濯物を取り込む。Fさんが夜使うポータブルトイレをセッティングしておく。倉庫に寄って、夕食分のおしぼりを補充する。Gさんの部屋に寄って、ポケットに入れて持ってきた目薬を差してもらう。共用リビングに戻る。Hさんの部屋からコールが鳴った。以下同様。
  2. Kさんが「トイレに行きたい」と言っている。Mさんも「私も行きたい」と言っている。Mさんは車椅子だが、Kさんは手引き歩行で連れて行く必要がある。まず、Mさんをトイレに連れて行き、便座に座ってもらう。「済みましたらコールボタンを押してください」と言って出る。次にKさんの手を引いて別のトイレに誘導する。Kさんが便座に腰掛けた時に、Mさんのコールが鳴る。Mさんの排泄介助が終わりリビングに戻って手を洗ったと同時に、Kさんの個室からコールが鳴る。(これが逆の順番、つまりリクエストがあった順序で実施すると、時間にロスが出るし、待ち時間が長くなるMさんが車椅子上で失禁してしまう可能性が生じる)

  仕事の速い要領のいいベテラン達は、みな段取り上手である。彼等の動きを見てマネしながら、自分も時間と体の使い方、優先順位のつけ方を身につけてきた。
  段取りという点でよく連想するのは、料理である。料理上手な人は段取り上手である。下ごしらえから始まって、できあがった料理を食卓に供するまで、無駄な時間(=手の動いていない時間)を一瞬とて作らない。料理を作るのと食卓を整えるのと汚れた調理器具を洗うのとを同時進行でやっていき、あたたかいものは温かく、冷たいものは冷たいままに、最短時間でテーブルに乗せてしまう。手際がいい。
 別の言葉で言えば「編集力」である。
 フロアをうまく回すには編集力が要る。
 自分が入ったばかりの頃、先生役の先輩スタッフがこう言った。
 「この仕事は頭が良くないとできない」
 介護の仕事は心と体で勝負するものと思っていた自分は意外な気がした。
 今はこの言葉の真意がよくわかる。
 施設で働くには、頭も必要だ。


3.介護の仕事はワークショップに似ている

 担当したフロアを数時間たった一人で回すのはしんどい。
 性格やADLや認知の度合いや体調の具合が異なる10数名の高齢者を、看護師やリハビリスタッフが時々助けてくれるとは言え、基本的には一人きりで世話しなければならない。
 車椅子から立ち上がり歩き出そうとする一人を抑え、認知でフロアを徘徊し他人の部屋に入ろうとする一人を見守り、全介助が必要な一人にトロミの付いたお茶を介助にて提供し、その間に他の利用者と一緒に童謡を歌う。ああ、HさんとSさんが一触即発の状態だ。二人を引き離して宥めなければ・・・。Pさんが傾眠している。部屋に連れて行って横にしなければ・・・。なんだか今日は全体の雰囲気が荒れているなあ。
 最初の頃は、一人一人の利用者の対応に追われ、いっぱいいっぱいであった。目の前で起こっている事象にその都度後追いで対応するほかなかった。後任者に引き継ぐと、重い荷物を肩から下ろしたようにホッとしたものである。(それは今でも変わりないか。) 
 最近よく感じることは、決められた時間フロアを回すことは、ワークショップに似ているなあということである。フロアの利用者たちが参加者で、介護者である自分がコーディネイターである。
  市民活動の経験を通して自分は数えきれないくらいワークショップに参加してきた。NPOの仕事に関わっていた前職ではまた、学生や行政職員やボランティア志望者など様々な人を相手に数えきれないくらいワークショップの企画やコーディネイトをしてきた。ワークショップの持っている効果や面白さ、コーディネイトする上でのコツや雰囲気作り、プログラムの作り方、様々な手法について、かなり知悉していると言っていいだろう。(自分のワークショップの師匠の一人は、日本のNPO界の立役者であった加藤哲夫さんである)
 ワークショップのコーディネイターの最も重要な仕事は、参加者一人一人の自発的な参加を促し、プログラムの進行とともにその場で起こるいろいろな現象(意見の衝突、感情の噴出、講師への反感、流れからの脱線、引きこもりe.t.c.)を肯定的に受容し、必要なときに必要な介入をして(そうでないときはなるべく場に任せて)、最終的には参加者一人一人が何かを学んで持ち帰られるようにすること、そして開始時は緊張と不安とある種の抵抗感から硬くなっていた場の雰囲気が、参加者(と講師)の生み出した前向きな気のハーモニーによって和らいで明るいものに変じているよう期待すること、である。そのためには、参加者一人一人の気を読む感性と、場全体の気の流れを読んで「いま何が起こっているか」を読み取る力が必要である。 
 十数名の利用者をケアする場にいると、「今日一日をワークショップに見立てたらどうだろう」という気になる。決着点は「利用者一人一人が心地よく落ち着いて過ごせて、フロア全体が明るく和やかな雰囲気に包まれること」である。
 そこには市民活動のワークショップのような具体的なプログラムも時間割も存在しないが、介護者が使うことのできる手法は、具体的な介助と声がけとスキンシップとレクリエーションである。ある場合には不穏に陥っているただ一人に向き合って話を聴き、ある場合には自分の中に引き籠もっている利用者の肩に手を回し、ある場合には退屈そうな複数の利用者に向かって冗談を言い、他の場合にはすべての利用者と共にリハビリ体操をして『青い山脈』を歌う。
 そうやって、決着点に向かって一日の流れをつくっていく作業が面白いなあと最近感じている。

  ワークショップのコーディネイターの最も大切な資質は「‘場’に対する信頼をもつこと」である。転倒や誤燕や救急搬送が普通にあり得る介護の現場において、‘場’に対する信頼を持つのは正直難しい。何よりコーディネイターがパニックったらワークショップは失敗である。
 だが、利用者の事故や急変は避けられない。介護現場ではそれはまったくハプニングではないのである。
 いつの日にか、そうしたアクシデント込みの‘場’に対する信頼を持てる日が来るのだろうか。


4.介護の仕事は自分のすべてで勝負できる

  一年経ってつくづく思うのは、「自分がこれまでやって来たことで役に立つものが多いなあ」ということである。
 上記に書いた市民活動でのワークショップやNPOでのカウンセリング経験、「段取り力」を身に着けるのに役立った編集者の仕事、相方との呼吸が大切なコンビニ夜勤の仕事、自然食品店で覚えた美味しいお茶の入れ方、なんていった職歴も役立っているが、他にもある。 

  • ●旅行をたくさんしてきたこと →日本各地に行っているので、利用者の故郷について共有できる話題が多い。名産や風習や行事や観光名所など。
  • ●昔の歌謡曲をたくさん知っていること →これは懐メロ番組をよく見て口ずさんでいた母親のおかげである。(『ここに幸あり』『別れの一本杉』『湖畔の宿』など)
  • ●昔の映画をたくさん観ていること →昔の生活ぶり、事件、世相、スター俳優について話が合わせられる。(先日は女性利用者と「赤線」の話で盛り上がった)
  • ●本をたくさん読んでいること →ことわざや昔の風習や民俗文化などの話題が共有できる。また、利用者の昔話に興味がもてる。古い言葉を知っている。(「文学」が何かの役に立つとは思わなかった)
  • ●畑作りをしていること →農業をやっていた高齢者は多い。土づくりや苗の選び方など、薀蓄を引きだすことができる。農業の苦労や喜びに共感することができる。

 極めつけはこれだ。
   ●仏教を学んでいること!

  介助技術や知識は時間がたてば誰でも自然と身につくが、経験や教養や趣味や特技は一朝一夕には身につかない。その意味で、50歳近くなってこの仕事を始めたことはそれなりに意味があるなあと思う。
 何と言っても平成生まれの同僚は、昭和天皇を知らないのだ!美空ひばりも裕次郎も知らないのだ!


5.介護の仕事はチームプレーが大切

 やることはやまほどある。一人では到底回すことができない。それぞれの介護士に得意と不得意がある。ウマが合う利用者と苦手な利用者がいる。
 介護士同士が助け合わないことには、全体としていい介護ができないのである。
 わかりやすい例は入浴介助である。
 入浴拒否する利用者は多い。理由はそれぞれだが、「入りたくない」という気持ちは固くて、ちょっとやそっとの声がけや懇願では入ってもらうことは叶わない。一回や二回入らないくらいなら別に問題ないが、十日や二週間入らないとなると清潔の点で問題となる。不潔にしておけば健康に害が生じることもあるし、入浴は利用者の皮膚の状態を観察する機会でもある。水虫や保湿剤などの薬を塗布する必要もある。施設に預けた家族の手前もある。
 この道二十年のおばさんベテランスタッフが何とか口車に乗せて浴室まで連れ行ったはいいが、服を脱がそうとした途端に大暴れ。この百歳近い老女のどこにこんな力が残っていたのかとビックリするほど抵抗する。介助するスタッフは腕を噛まれ、メガネを吹っ飛ばされ、腹を蹴られ、口汚く罵られ、「今回もダメだった」と引き下がることになる。それを見た当の老女は満面に笑みをたたえ凱歌を挙げる。
 そんな難物利用者でも、ある特定のスタッフが付き添うと、口では「イヤよイヤよ」しながらも結局入浴してしまう。それはこの道半年の若いイケメンスタッフである。
 経験よりも相性と言うべきか。三つ子の魂百までか。
 こういうことがあるから、ベテランも新人も協力し合ってこそ何とかなる世界である。
 自分が苦手なことや相性の良くない相手については無理せずに他のスタッフにお願いするのは恥ずかしいことではない。何より利用者にとっても、気に入ったスタッフに介助してもらう方がハッピーである。
 自分一人で何もかもやる必要はないし、そもそも到底できることではない。普段から他のスタッフとのコミュニケーションを良くして、相手が大変な状況の時は進んで手伝ってあげれば、自分が困ったとき・大変な時に援助が得られる。そもそもが困っている高齢者をサポートしたいという心がけからこの世界に入った人たちなのだから、人を助けるのは好きなのである。  
 スタッフ間で一番よく使われる挨拶が「お疲れさま」と「ありがとう」である時、確かにしんどいこの仕事を今後も続けていこうと思うエネルギーを得ることができるのである。



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