ブッダの実践心理学 最近、自分の読書傾向が限定されている。
 一つは仕事に関するもので、介護や老いや死をテーマにしたもの。面白くはあるが、いわば必要にかられて読んでいる本たち。
 もう一つは仏教に関するものである。

 もともと自分の読書範囲は広くない。社会問題系の新書、ミステリー、スピリチュアル本、ごくたまに小説くらい。それらが今やすっかりお見限りである。例外は、故ナンシー関のエッセイと漫画くらいか。
 特に、あれほど手当たり次第に渉猟したスピリチュアル本に関心がなくなった。江原啓之、山川紘矢・亜希子夫妻、シャーリー・マクレーン、『聖なる予言』、『神との対話』、プレアデス、ラザリス、ラムサ、シルバーバーチ、ロバート・モンロー、ラマナ・マハリシ、サイババ、グルジェフ、エックハルト・トール、和尚(ラジニーシ)、様々な冥想の本・・・・。クリシュナムルティでさえ、もはや進んで手に取ろうとは思わない。それらの本が並ぶ書店のコーナーに行っても、立ち読み以上のことはしない。

 スピリチュアルショッピングに終息をつけたのは、テーラワーダ仏教およびヴィパッサナー瞑想との出会いである。
 仏教の本質に触れて、「これ以上の思想はない」と思った。
 否、思想という言葉は正しくない。
 哲学? それも違う。
 やっぱり、“真理”という言葉がふさわしい。
「これ以上の真理はきっとないな」と思ったので、他をあたる必要を感じなくなったのである。仏教は「信仰でなくて確信」とスマナサーラ長老が言うとおりである。


 この確信の中味は何かというと、自分の場合、瞑想によって「認識」と「存在」との関係を悟ったことにある。「自分」と「世界」と言い換えてもよい。
 それまで自分はこう思っていた。
「周囲にまず確固たる‘世界(存在)’があって、それを‘自分’が認識している。すなわち、自分(人間)は世界のオブザーバー(観察者)である。」
 しかし、瞑想で気づいた事実はそうではなかった。

「‘認識’が、‘有’から‘世界(存在)’を切り出している。」
「目の前にある‘世界’は、‘自分(人間)’にとってのみ、このような色彩と形状と運動とをもって現れている。」


 この事実に気づいたときに、十代の頃からずっと抱えていた疑問が氷解した。
 それは次のような疑問だった。

「誰もいない夜のジャングルはどんな姿をしているのだろう?」

 たいてい次のような答えが返ってこよう。
「そんなのカメラを設置して撮影しておけば分かるじゃん」
 しかし、それは(自分にとって)正解ではなかった。
 なぜなら、カメラで撮影された映像をあとから見る瞬間、それは人間の目によって見られている(変換されている)からである。あくまでも、人間によって見られたジャングルの姿でしかない。自分が知りたいのは「人間が見ていないときのジャングルはどんな姿なのだろう?」というものであった。
 当然ながら、正解は「決して、人はその姿を知ることができない」である。
 この疑問(ジャングル・クエスチョン)が浮かび上がるたび、常にこの結論に達していながらも、その問いの奥に隠れている驚くべき事実に自分は思い至らなかった。頭の配線がつながっていなかった。

 もう一つの問い(ジュラシック・クエスチョン)。

「人類が登場する前の地上の風景を描きなさい」

 紙と鉛筆を渡された大方の人は次のような絵を描くだろう。
 ソテツのような樹木の間をティラノサウルス以下数匹の恐竜が闊歩している。草陰には哺乳類が身を潜めている。空にはプテラノドンが飛び交い、背景では火山が火を噴いている。
 子供の頃に見た科学系の絵本や『ジュラシック・パーク』をはじめとする恐竜映画の映像記憶がこうした景色を作り上げる。

ジュラ紀の世界


 そこで、次の問い。

「この風景を見ているのは誰ですか?」

答1 「原始人です」
 ・・・・「ブー。人類が登場する前、と言いましたね」

答2 「草陰のハリモグラ(哺乳類)です」
 ・・・・「なるほど。だけど、ハリモグラはこのように世界を見ているでしょうか?」

 ハリモグラの視覚も聴覚も決して人間のそれと同じではない。人間が見るようには、世界を見ていない。(たとえば、犬は色彩を峻別できないと言われる)
 恐竜が見る風景、鳥類が見る風景、ハリモグラが見る風景・・・みんな違うのである。あとから出現した人類が見る風景が唯一「正解(真実)」であるというのは人間中心主義という誤りである。
 と言うより、上に掲げた絵(ネットから適当に拾ったものだが)のような光景なぞ、この地上にかつて存在した試しなど決してないのである。なぜなら、そのように認識できる生命(=人間)がそこにはいなかったからである。 
 逆に、人類が絶滅したあとの世界を想像するのも同様のことが言える。そこには、人間より精緻な認識システムを持った生命体が出現しているかもしれない。彼らが見る「世界」は、人間の想像する「世界」とはまったく様相が異なるであろう。


正解 「我々人類は決してその風景を知ることができない」

 あるいは、こうも言える。   
「誰が見ているか(主体)をあらかじめ設定することによってのみ、はじめて風景(客体)を描くことが可能となる」 (「可能となる」であって「できる」ではない。人間が他の生命がどう世界を認識しているかを知ることはできないから) 

 そのあたりの事情を、本書ではこう述べている。 

それぞれの身体が、環境を知るために情報を感じられる感受性を持っているのです。人間で言えば、眼耳鼻舌身という五つの場所が身体にある。それらのチャンネルを通して、色声香味触という情報(環境)を知るのです。
 知る能力は、すべての生命に同じではありません。チャンネルが五つも付いていない生命もいます。例えばミミズは目も耳もありません。一方、ワシの目の力、犬の鼻の力、コウモリの耳の力などは、人間よりはるかに鋭いのです。
 生命は知った情報を「意」というチャンネルで認識・概念にするのです。認識・概念は生命すべてに共通するものではなく、それぞれの生命に個別な主観なのです。(標題書より引用)


 人間の認識している「世界」が唯一絶対的なものとして客観的に存在しているのでは、ない。
 おそらく、唯一絶対的な世界は存在しない。それぞれの生命(人間、動物、魚類、鳥類、昆虫、植物、菌類、微生物、宇宙人、幽霊e.t.c.)に一対一対応で固有の「世界」が現れている。(厳密に言えば、同じ種の中でも個体間で異なった「世界」に生きている)
 自分の推測ではこうだ。
 何か「世界(存在)」を生み出すもとになる要素は「有る」のだろう。それは、電磁波のようなものかもしれない。暗黒物質なのかもしれない。ありとあらゆるところに満ちているその「有」から、あたかも複数の彫刻家が同じ石膏からそれぞれの裸婦像を彫り出すように、それぞれの「生命=認識」が「世界=存在」を切り出している。
 「世界」は生命の数だけある相対的なものである。どれか一つが「真実の」世界というのではない。
 端的に言えば、「認識」=「存在」なのだ。

 このことを悟ると自動的に次の結論に達する。


 科学がやっていることはすべて、つまるところ人間の認識能力を量的に拡大しているにすぎない。望遠鏡の機能が高まれば、より遠くの星雲が発見できる。顕微鏡の精度が高まれば、より小さい粒子を発見できる。だが、それは結局人間の認識システムそのものを超えることは絶対にない。人間である以上、質的変換はあり得ない。どこまで行っても、「この目で見る」「この耳で聞く」「この鼻で嗅ぐ」「この舌で味わう」「この身体で感じる」以上のことはできない。人間が「世界」を知るための窓口は基本的にそれしかないからである。

∴このやり方では真理を知ることはできない。
 
 ここまで来れば、量子物理学の第一定理とも言うべき不確定性原理はごくごく当然の話だと納得できる。

● 観測または測定されるまでは、量子は特定の性質を持たず、同時に複数の状態で存在する。これらの状態は、「実際の」ものではなく、「潜在的な」ものであり、観測や測定を受けたときに量子がとりうる状態である(これは、観測者または測定器が、可能性の海から量子を釣り上げるようなものである。一つの量子が海から釣り上げられると、それは仮想的な存在ではなくなり、現実の存在となる。)
● ある量子が一組のパラメータからなる実際の状態をとっているときでも、私たちはこれらのパラメータのすべてを同時に観測したり測定したりすることはできない。あるパラメータ(たとえば位置やエネルギー)を測定すると、他のパラメータ(速度や観測時間など)はあいまいになる。
 (『叡智の海・宇宙』(アーヴィン・ラズロ著、日本教文社)

 これは、「認識システムそのものが物質の存在のあり方に関わっている」ことの科学的証明である。
 現代科学が到達した結論を、ブッダは2000年以上も前に披瀝しているのである。西洋科学も哲学も、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空に過ぎなかったのだ。


 なぜ、西洋がそんな誤謬を犯してきたかと言うと、「私」という主体があり、それに対して「環境」という客体がある、という二元論を前提として進歩(退歩?)してきたからである。この「環境」という言葉を「世界」「神」「自然」「宇宙」「物質」と変えてもよい。
 「私」がある、がそもそもの元凶だ。 

人間はどのように考えているのでしょうか。人間はだいたい「私がいる」という前提で考えています。しかし、「私がいる」という概念を証明しようとしない。前提ですから、証明する必要もないと思うでしょう。しかし、この前提がもし間違っているならば、人類が築き上げてきたすべての哲学・宗教などは的はずれになってしまうでしょう。根拠のないものになってしまうでしょう。
「ブッダが革命を起こした」と言う由縁がここにあります。ブッダは「私がいる」という前提に、挑戦したのです。なぜ自我意識が生まれるのか、そのからくりは何なのか、本当に実体として変わらない自我というものはあるのかを観察してみたのです。そこで発見した事実が仏教なのです。(標題書より引用)


 第二巻心の分析では、「心とは何か」を定義し、解脱に向かって心の成長していく段階を瞑想との絡みでつぶさに説明している。
 2300円は文庫としては破格の高値であろう。
 しかし、真理の値段と考えれば、破格の投げ売りである。


 
 サードゥ サードゥ サードゥ