涅槃経を読む 2004年刊行。


 別記事(「無間地獄はどこにあるか」)に書いたように、「涅槃経」には2種類ある。
 編纂経典である「原始涅槃経」と、創作経典である「大乗涅槃経」である。
 釈尊の教えを忠実に伝えているのはタイやミャンマーやスリランカなど原始仏教圏で今も読み継がれている前者であり、後者は大乗仏教の隆興と中国や日本への伝播の中で説法師たちが「原始涅槃経」を換骨奪胎、拡大解釈、誇張粉飾、我田引水した、いわゆる偽経である。
 本書はあえてこの「大乗涅槃経」の思想を紹介し、説明するために書かれたものである。

 『原始涅槃経』は、鷲の峰(霊鷲山)を出発し、クシナガラまで途中十三の町や村を訪れ、マガダ国、ヴァッジ国、そしてマッラ国の都合三ヵ国を経た、最後の遊行の旅を記述している。これに対し、『大乗涅槃経』はクシナガラの沙羅樹林での臨終場面を述べ、過去を回想する内容となっている。

 思想に関して大きな違いを見ると、まず、『原始涅槃経』では諸行無常、一切皆苦、諸法無我という、常住不滅の存在は世間にはないと説法しているのに対して、『大乗涅槃経』では常住(常)、安楽(楽)、実在(我)、清浄(浄)という性質をもつ仏性があるという、『原始涅槃経』に反する考えを打ち出している。


 まあ、この時点でもはや『大乗涅槃経』は明らかに仏教では、ない
 釈尊の教えの最も重要な核心部分について異論を述べているのだから、反仏教と言うべきである。拡大解釈というよりも誹謗正法(仏法を否定すること)に近い。
 誹謗正法は、両親や阿羅漢(完全な悟りに達した人)を殺す、ダイバダッダがやったようなサンガ(出家仲間)の分裂をはかる、など六重罪の一つに上げられている。六重罪を犯したら今生で悟ることはできない、どころか来世で地獄に落ちると言われている。『大乗涅槃経』の創作者や説法師たちが、そのような目にあっていなければよいが・・・。


 ともあれ、一等の違いは「仏性」という概念にある。
 著者は「仏性とはなにか」ということについて、いろいろな経典を引用しながら、また「霊魂」との違いを表にして整理しながら、一章を費やして説明してくれているのだが、まったく要領を得ない。わけが分からない。著者の説明が悪いのではない。読み手(ソルティ)の読解力が悪いわけではない(たぶん)。そもそもの経典の記述が曖昧なのだ。「仏性」がなんであるか、はっきりと定義していない。実にいい加減だ。
 大乗涅槃経の作者は、畏れ多いことに、釈尊にこんなことを言わせている。


 迦葉菩薩、仏性はあるでもなく、ないでもない。その理由は仏性はあると言っても虚空のようなものではないからだ。
 世間で言う虚空は方便を使っても見られない。ところが仏性は方便(たとえば八正道を修めるなど)を使うと見られる。だからあると言う。したがって虚空のようではない。
 仏性はないと言っても兔の角とは違う。なぜなら亀の甲羅の毛や兔の角は方便を使っても生えないからだ。ところが仏性は生じる。ないと言っても兔の角とは違う。だから仏性はあるとも言えないし、ないとも言えない。  

 どうだろう?
 一見なにか深遠なことを言っているように思えるが、端的に言えば「仏性は修行をすれば生じる」ということをまわりくどく言っているだけである。こんなまわりくどい、もってまわった表現はそもそも釈尊には似つかわしくない。しかも、この文章が論理的におかしいことは中学生でも分かる。
 普通、比喩とは説明が難しい事柄をわかりやすく理解してもらうために使うものだが、この『大乗涅槃経』に出てくる比喩は、読めば読むほど本質がわからなくなるようになっている。(たぶん確信犯だろう。)
 その理由は簡単で、そこにはなんら本質がないからなのだと思う。意味のないことを、いかにも意味ありげに見せるために修辞が使われている。
  で、ずる賢いことに、「仏性なんてデタラメだ」「仏性なんてものはない」という反論の提出をあらかじめ封じる手を打ってある。
 それが「一闡堤(イッチャンティカ)」である。

  『大乗涅槃経』では仏性の教えを誹謗し、信じない人物を一闡堤と呼び、悪人のなかでも最も許せないものと位置付けている。

 一闡堤は極悪人と決めつけられ、しかも仏法(仏性)を信じない一闡堤に仏性があるわけないと考えられてきた。こういう考えを持つ人は次の経文を例証として挙げてきた。・・・・・

 一切生類にはみな仏性がある。この(仏)性があるから、数えきれないほどの種々の煩悩の塊を断ち切れば、すぐにでも最高の覚りを得ることができる。ただし一闡堤は除かれる。
(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻>


 これでは「仏性」について疑問を抱きようがないではないか。真摯な仏法の求道者がいて、もし「仏性」の存在について疑問を抱き、それを口にしたとたん、師匠や兄弟子や仲間たちから「お前は一闡堤だ!」という、破門にも似た全方位的攻撃が待ちかまえている。「それが理解できないのはお前が一闡堤だからだ」と烙印を押されるのを恐れ、「仏性」に関する問いは以後タブーとなる。本当は誰もその正体を知らないのに、もとい正体がないことを知らないのに、「ある」ということになったまま大乗仏教の秘中の秘として申し送られる。
 なんとまあ狡猾な手口だろう!
 そして、なんとまあ愚かなことだろう!


 そうして大乗仏教に確たる、赫奕たる、地位を占めた「仏性」は、「すべての生き物には仏性がある(一切衆生悉有仏性)」、「すべての生き物はそのまま仏性である(一切衆生即仏性)」というナンセンスを経て、ついには「山川草木悉有仏性」という神道アニミズム的決着をみたのである。


 無明とはこのようなものだ、と『大乗涅槃経』は教えてくれる。