プロ介護職のサービス 2013年刊行。

 有名な漫画家と同じ読み名を持つ著者は、大起エンゼルヘルプという会社の代表取締役である。もともとは建築関係の会社であるが、介護保険が導入される16年も前(1984年)に介護事業に参入している。すいぶんと目端の利く会社であるなあと感心するが、夫(著者の父親)の会社を手伝っていた母親が看護師であったことが、きっかけであるらしい。今では、訪問介護、訪問入浴、グループホーム、ケアハウス、有料老人ホーム、デイサービス、ケアプラン作成サービス・・・と総合的な介護サービス事業を展開している。

  この本は単刀直入に言えば、大起エンゼルヘルプの介護サービスの紹介であり、PR(=自慢)であり、販促ツールである。
 別段それは悪いことではない。書いてあることと実際の現場でやっていることとが一致しているならば。それに、もう一人のコバヤシヨシノリのようにゴーマンな感じはない。謙虚である。
 大起エンゼルヘルプの介護の何が自慢できるのか。
 著者は言う。

 少しでも利用者のためになるサービスを提供したいと考え、実践していった結果、私たちではこのように多岐にわたる業務内容を行うこととなりました。
 そのすべての前提としてあるのは、利用者の意思を尊重しているかどうかです。事業者や介護者の都合ではなく利用者の思いを最優先する仕事だと理解しなければいけません。

 利用者の意思の尊重――これが根幹にあり、それを目指すべく「専門性と効率性の実践」「人に社会に自分自身に誇れる仕事の実践」を社の方針として掲げている。
 立派である。
 利用者(=高齢者)の意思を尊重した介護なんて当たり前のことじゃないか、と言うなかれ。
 これが実際には一筋縄ではいかないのである。
  そのあたりの事情を知るには、著者が本文で紹介している介護施設サービスの3つの類型を揚げると分かりやすい。

 1. 完全管理型 
 決まったスペースで暮らし、決まった時間にご飯を食べお風呂に入り、決まった時間に消灯する。病院の入院生活にやや近いかもしれません。ただ、完全管理型の施設は、介護サービスが多様化した現代においてはその数を減らしつつあります。

 管理を徹底した先に、施錠(外出させない)・終日オムツ(トイレに行かせない)・拘束(転倒防止のためベッドや車椅子に縛り付ける)・チューブ栄養(口から食べさせない)がある。かつての「措置」時代の老人ホームが典型的だろう。

2. 非日常サービス提供型 
 介護職がつきっきりで世話をしてくれ、ホテルのように自分では何もしなくとも生活できます。中には温泉付きであったりご飯が豪華であったりというところを売りにしている施設もありますが、もちろんサービスが至れり尽くせりであればあるほど、費用はどうしても高額になります。

 入居費の高い有料老人ホームが代表であろう。

3. 日常生活支援型 

 自炊する日常生活のように、自分たちでできることはできるだけ自分たちで行い、介護職は「自分で行う」ことに対しての「支援」をするために存在するという施設です。

  入居者(利用者)の「尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」というのが介護保険法の趣旨(=国の方針)なので、現在介護保険で行われているサービスは基本3のタイプを目指している(目指さなければいけない)はずである。
 が、現実には、「完全管理型」と「日常生活支援型」の間のどこかに、巷にある多くの介護サービスは存在していると言える。

 前提としていえるのは、これらのサービス形態において、どれが優れているかという安易な比較はできないということです。なぜなら、介護を受ける側やその家族の希望によって、メリットデメリットが変わってくるからです。

  そうなのだ。
 施設が「完全管理型」に近ければ近いほど、利用者の「安全」というメリットが大きくなる。施設にとっては「介護しやすい、効率がよい」というメリットもある。その代わり「不自由」「非人間的」というデメリットも付いてくる。
 「日常生活型」を推し進めていけば、利用者の「自由や尊厳」は守られる。だが、徘徊や転倒や事故によるリスクは高まる。介護者の労力は大きくなる。
 自立(尊厳)か、安全(命)か。

 わかりやすい例を出せば、施設の施錠である。
 多くの老人ホームでは入居者が勝手に外に出ないよう施錠したり暗証番号で鍵を開閉できるシステムを用いている。入居者のほとんどは多かれ少なかれ認知症状があり、高齢のため転倒しやすい。
 職員の目の届く施設の中においてすら、利用者が危険な行為をしないよう、車椅子から立ち上がって転倒しないよう見守るのは大変である。現行の人員基準だと、各勤務帯において職員1人で10名以上の利用者を見なければならない勘定になる。外出したがる利用者にひとりひとり付き添う余裕などはなからない。知らない間に利用者に離設(=脱走)された日には、上へ下への大騒ぎである。
 いや、それでも自由と尊厳が大切。本人の自由意志で外に出るのだから尊重すべきだ。ほうっておけばよいではないか。自己決定⇒自己責任だ。
 ――という意見もあろう。
 だが、人は一人では生きてはいない。家族がいる。本人が「もうどうせあと少しで死ぬのだから好きにさせてくれ」といくら声を大にして訴えようが、息子や娘がNOと言ったら事業者はそれを無視できない。何かあれば責任を問われるのは施設である。
 また、最近こういうニュースがあった。 
 
 2007年に91歳の認知症の男性がJR東海道線の線路内に入り、列車にはねられ死亡した。男性は介護なしでは日常生活が困難だったため、当時85歳の妻と、介護のために横浜から近所に移り住んだ長男の妻とが世話をしていた。男性が自宅を出たのは長男の妻が玄関を片付けに行き、そばにいた妻がまどろんだ一瞬のことだった。 事故から半年後に遺族はJR東海から手紙を受け取った。事故による損害賠償の協議申し入れだった。遺族が賠償を拒否したことでJRは提訴を起こした。提訴から3年経った今年8月、名古屋地裁は、遺族に対し「注意義務を怠った」として鉄道会社に720万円を支払うよう命じた。(毎日新聞2013年10月16日記事より抜粋)

 遺族は控訴したのでまだ決着はついていない。
 けれど、介護現場にとっては衝撃な判決である。
 この裁判がJRの勝訴で幕を閉じたとしたら、もう認知症患者はどこかに閉じ込めておくほかない。24時間行動を監視するなど無理なのだから。遺族が訴えられるくらいなのだから、公金で運営されている介護施設なんかは同様のことが起きたら絶対槍玉に上げられるだろう。そうでなくとも厳しい運営。巨額な賠償金でつぶれるのは必定である。
 しかも、この遺族は嫁さんを都会から呼んでまで、亡くなった男性をきちんと見守ろうという意志あった上での事故なのである。はなから「認知症でも外出自由」を方針としている施設など「無責任」の烙印を押されること間違いなかろう。
  自分も介護職のはしくれである。当然遺族の側に立ちたいのだけれど、JRの言い分も分かる。車両の修理費用、列車遅延による乗客への払い戻し、他社への振り替え輸送の費用、後処理にかかった人件費など、多額の損失を一体どこに請求すればいいのだろう。自殺だったら遺族に請求できる。だが、本人が認知症で責任能力がない場合は?
 記事によると、「認知症の人と家族の会」を運営している関係者の意見として「何らかの公的補償制度を検討すべき」とある。
 それはあったほうがいいだろう。
 しかし、お金の問題だけではない。
 亡くなった人や遺族を責めるつもりは毛頭ないが、もしこの男性が「完全管理型」の施設にいたならば防げた事故だったのでは…と思ってしまうのだ。そうすれば、列車に乗っていた大勢の人が不都合を被ることもなかったろう。列車の遅延で大切な用事をふいにしてしまうこともなかったろう。運転手が一生忘れられない心の傷を負うこともなかったろう。(運転手がこの事故で心を病んで失職するようなことになったら、家族が路頭に迷うようなことになったら、誰が責任を負うのだろう?)
 こういった社会的な影響を考えたときに、「防げることが可能なものは未然に防いでおくのが市民のつとめ」とどこかで思っている自分がいる。

  大起エンゼルヘルプの介護サービスは当然「日常生活支援型」である。これまでの介護常識を破って職員一丸となって利用者の自立支援を実践していることが「売り」なのである。
 それは手放しで素晴らしいと思う。自分の職場(老人ホーム)も少しでもその方向に近づければいいと思う。
 一方、「好きなときに外に出て行くという‘人として当たり前’を叶えることが、生活支援という仕事だと認識している」著者の会社の施設では日中はほぼ施錠をしないそうだ。現場の職員の気苦労は一通りではないであろう。よほど有能な職員が揃っているとみえる。  
 職員が目を離したすきに出て行ってしまった利用者がいたとしましょう。そんな場合でも、職員はどこを探せばいいかだいたいの検討がついています。毎日のコミュニケーションの中で、その人が好きなところや行きたいと思うであろう場所をヒアリングし、情報を職員全員で共有しているからです。
 しかし、うまくいくときばかりではありません。ときには利用者を途中で見失ってしまったり、出ていったことに気づけなかったりして、手の空いている職員総出で探しまわるといったこともあります。利用者が警察に保護されていたということもありました。私たちが目指している介護のスタイルは、万一の事故につながってしまうこともないわけではありません。危険と表裏一体で、理想を追い求めているのです。

 ここでも「天邪鬼」の自分は考え込んでしまう。
 警察だって暇じゃないのだ。迷子になった認知症老人を探したり保護したりするのに人と時間を取られて、その間に発生した事件や事故の解決に十分な力が注げなかったら、適切な介入をすることによって未然に防げた事件(たとえばストーカー被害など)が防げなかったら、それは社会的な損害ではないだろうか。
 盗難の現場にすぐに駆けつけられなかった。泥棒は姿を消したあと。
 被害者「どうしてもっと早く来てくれなかったんだ!」
 警官 「申し訳ありません。認知症の老人が自主外出したのを施設の人と一緒に探していたので。」
 ――なんて言い訳が通るだろうか。

  こうなると、「自立(尊厳)か安全(命)か」の問いかけは、さらに「個人か社会か」という問いにもなってくる。
 もちろん二者択一が間違っているのであり、正しい答えは――「自立も、安全も」、「個人も、社会も」――である。

  介護を必要とする人はこれから増える一方である。
 65歳~74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼ぶが、団塊の世代が後期高齢者に達する2025年の時点で、介護が必要となる高齢者の総数は500万人以上(日本人の20人に1人)、そのうち認知症の老人が323万人と予測されている。
 500万人を「日常生活支援型」で介護することは可能だろうか。
 人と金とが足りないからといって「完全管理型」に戻ったら元の木阿弥である。

  中庸の道を探らなければなるまい。