巡礼 2009年刊行。

 本小説は、作家橋本治最良の仕事の一つであり、10年いや20年に一冊出るか出ないかの傑作である。
 完成度の高さ、テーマの今日性と掘り下げの深さ、魂を揺るがす感動の結末。
 最近の小説は興味が湧かなくて全然読んでいない自分。論ずる資格のないことは重々承知の上、あえて言おう。
 平成文学の金字塔である
 実際、この小説一冊読めば、昭和・平成を生きてきた日本人の何たるかを知ることができる。橋本の筆は、それをも超えて人間存在の本質にまで達している。誰もが眉を顰め目をそむけ鼻を覆うゴミ屋敷の主という醜怪な題材を扱って、まさにゴミの中から宝を探り当てた。真実という宝を。

 いまはひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人達の非難の視線に晒される男・下山忠市。戦時中に少年時代を過ごし、昭和期日本をただまっとうに生きてきたはずの忠市は、どうして、家族も道も、見失ったのか――。(裏表紙の紹介文より)


 『巡礼』『』『リア家の人びと』の昭和三部作を(発表順とは逆に)読み終えて思うのは、橋本が描き出そうとしてきたものは、つまるところ「家族」であり、その終焉であったということだ。豊かさの実現の先に待っていた「関係の不毛」と「生の虚妄」にあったのだ。
 その意味で、橋本三部作はまるで、戦後間もない頃に『晩春』『東京物語』『麦秋』という傑作三部作を撮った小津安二郎がそれらの作品を通じて予言していたものの具現であるように思われる。小津の透視力の凄さを証明しているかのように思われる。
「小津監督、あなたは正しかった。日本は、日本人は、こんなふうになりました」と。
 文体そのものも、小津のそれのように、対象から適度な距離をおいて淡々と、しかし無関心でも冷淡でもなく、あくまで慈悲深い。‘諦念’とでも言いたいような境地に達している。

 最も感動的な場面は、ご近所界隈の騒動に過ぎなかったものがマスコミに取り上げられ、しまいには「名所」にまでなった忠一のゴミ屋敷に、テレビ報道を見た弟の修次が母親の葬儀以来9年ぶりに帰ってくるシーンである。

 「兄ちゃん!」と言われて、忠市は振り向いた。長い歳月がその二人の間にはあって、忠市には、自分が「いつの時間」にいるのかが分からなかった、目の前には、見知らぬ白髪頭の男が汗を流して立っていて、それを見る自分の耳には、誰とも知れぬ少年の声が聞こえて来る。それが不思議だった。

 この場面、映画にしたらまさにクライマックス。涙なしで観られない名場面になろう。
 忠市役は蟹江敬三がベストだと思うのだが、亡くなってしまったのが返す返すも残念。西島秀俊なんかどうだろう。修次役は土田晃之がいい。あるいは高島兄弟で共演というのもありか。監督は天願大介か石井岳龍(聰亙)。
 ああ、観たいなあ。


 ゴミ屋敷の主人・忠市にとってゴミとは何だったのか。

 自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてがなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄々分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。「自分のして来たことには、なにかの意味がある」――そう思う忠市は、人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。「それは分かっているから、言わないでくれ」――そればかりを思って、忠市は一切を撥ねつけていた。

 ゴミとは、不必要なもの・役に立たないもの・意味を失ったもの――の象徴である。
 ただ一人老いた忠市は、自分の人生が無意味で、自分という存在が誰からも必要とされないものであることを、心の奥底で感じている。だけど、それは認めたくない。認められない。
 だから、自分の分身であるゴミを、あたかも意味あるもののごとく収集する。人生意気に感じていた「日々」を、家族の中で役割を持っていた「過去」を、ひたすら回収して積み上げる。ゴミという壁を幾重にも周囲に巡らして、今現在のありのままの孤独と空虚を覆い隠す。
 読む者は、忠市の姿に他人行儀でいることは許されない。
 なぜならそれは、物資的豊かさの追求の果てに希望や目的を喪失し、個人主義の成就の果てに関係性を喪失した、我々平成人の姿にほかならないからである。


 修次との再会によって忠市は関係性を取り戻し、修次と共にゴミ屋敷の掃除を始める。忠一の孤独を誰よりも良く知る実の弟だからこそ、それは可能だった。近所の人々もホッと胸を撫でおろす。
 しかし、橋本が凄いのはそこで「終わり」としないところである。
 忠市とは対照的に良い家族に恵まれ、孤独とは無縁な幸福な人生を送ってきたかに見える修次もまた、子供たちが独立し、妻を失い、老年を迎えた今、人生に迷いを感じている。 
長男は結婚し、長女の望も結婚した。気がついたら、一人になっていた。孫も生まれ、父となった長男の輝義は、「一緒に住もう」と言ったが、修次は迷っていた。自分が何者で、なぜこの世に生まれて来たのかを、ふっと思った。なぜそれを考えたのか分からない。ただ、「それを知りたい」と思って、「四国へ行きたい」と思った。

 家を片付け終えた忠市と修次は、連れ立って四国八十八ヶ所の遍路に出る。
 その二日目の夜に泊まった宿で、忠市は何の前ぶれもなく、あっけなく逝ってしまう。
 おそらくは、日本文学史上まれに見る途轍もない重みを持つ一節が、せせらぎのような透明感ある文章に乗せられて、物語はつと終わる。


「自分はもう、ずいぶん昔から、ただ意味もなく歩き回っていたのかもしれない」と思った時、忠市の体は、深い穴に呑まれるようにしてすっと消えた。「生きる」ということの意味を探るため、弟と共に歩き始め、「自分がなにをしている」とも理解しなかった忠市は、自分が巡るあてもない場所を巡り歩いていたと理解した時、仏の胸の中に吸い込まれていった。 
 
 弟との再会によって忠市の「関係性」は復活した。
 けれど、「意味」は最後まで見出せなかった。

自分で自分を救えぬ者の前に(仏は)現れるというわけか?
(山岸涼子『日出処の天子』より聖徳太子のセリフ)


瞑目。