神隠しと日本人 002 2002年発行。

 最近テレビで行方不明のニュースをよく耳にする。
 実数として増えているのか、それともメディアが取り上げる機会が増えたのか(=行方不明者の家族が公開捜査を要望するケースが増えたのか)、詳しいところはわからないが、子供から老人まで、男も女も、日本中あちこちで行方不明が起きている印象だ。
 こういうニュースに接したとき、失踪者の性別と年代によって、その原因についての想像が働いてしまうのは止むを得ないだろう。
 たとえば、
 老人の場合    →認知症による徘徊、事故、山にきのこ狩に行って道に迷った
 成人男子の場合 →倒産や借金苦で逃避行、自殺、犯罪に巻き込まれた
 成人女子の場合 →不倫相手と逃避行、犯罪に巻き込まれた
 少年の場合    →家出、誘拐、事故、知的障害がある
 少女の場合    →家出、誘拐、性犯罪に巻き込まれた

 かつては、子供の誘拐=身代金目当てが相場であった。80年代くらいまでは実際に吉展ちゃん誘拐事件(1963年)や津川雅彦長女誘拐事件(1974年)などが世間を騒がせたし、『天国と地獄』(黒澤明、1963年)や『誘拐報道』(1982年)などの映画もあって、身代金目当ての誘拐の多発は、「知らない人にはついて行ってはいけないよ」という子供への決まり文句を生み出した。
 だが現在、子供が行方不明になって身代金目当ての誘拐を第一に連想する者は少ないであろう。むしろ、「そうであってくれれば、どんなにかマシ・・・」と言いたいような、陰惨で、いまわしい事件が増えた。この決定的な転換点は、89年の埼玉連続幼女誘拐殺人事件(犯人:宮崎勤)にあるのではなかろうか。
 この事件を契機に日本国民は知ってしまった。金以外の目的で、子供を誘拐する人間がこの世に存在することを。
 爾来、行方不明者の辿る運命について、我々は、「青木ヶ原(樹海)で自殺」とか「大阪湾で簀巻き」とか「海外で別人として生活」といった従来からのリストに加えて、「知らないうちに臓器を抜き取られる」とか「住宅街の犯人宅に数年間監禁される」とか「ヤクザに薬漬けにされて売春強要される」とか、身の毛のよだつような残酷なケースがあるのを知ることとなった。
 たとえ誘拐された本人が五体満足で無事戻ってきたとしても、彼(彼女)にはもはや元通りの生活は保障されまい。世間の好奇の目と帰還者に付与されるマイナスイメージは、彼(彼女)が元の生活圏に暮らし続けることを困難にするであろう。転居や転職、ある場合には改名さえ必要になるであろう。

 昔は、共同体から行方不明になった者について「神隠し」という物語が用意されていた。狐や天狗や鬼などの「神」が、その者を一時的に、あるいは永久にさらっていったと考えたのである。

 民俗社会における「神隠し」とは何だろうか。極端な言い方をすれば、それは現実の世界での因果関係を無視して、失踪事件を「神隠し」というヴェールに包み込むことである。失踪のすべてを「隠し神」のせいにしてしまうことなのである。村びとたちは自殺も、事故も、誘拐も口減らしのための殺人も、身売りも、家出も、道に迷って山中をさまよったことや、ほんの数時間迷い子になったことまでも、「隠し神」のせいにしてしまおうとしていたのである。
 たしかに、神隠しには、神の声を聞くという積極的な面がないではない。しかし、多くは事実を隠蔽するためのヴェールであった。「神隠し」とは、恐ろしい響きと甘美な響きの双方を合わせもっているが、本当のところは「失踪者はもう戻ってこないと諦めよ」という諦めの響きこそもっとも強いのである。そう考えると、神隠しにあった者に対するまことに形式化された捜索の仕方は、まさしく諦めのための儀式ともいえるかもしれない。「神隠しにあったのだ」という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民俗社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか。(標掲書より)


 神隠しという「物語」を喪って、日本人は、あるいは近代人は、現実を直視する道を選んだ。
 隠されたのはほかならぬ「神」であった。