収録日   1978年5月1日
劇場    ウィーン国立歌劇場
指揮&演出 ヘルベルト・フォン・カラヤン
オケ    ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱    ウィーン国立歌劇場合唱団
    
 外出してたまたま通りかかった公立図書館で見つけた。他にも結構豊かなオペラのライブ映像の品揃えがある。早速利用者登録してレンタルした。

 カラヤンの『トロヴァトーレ』はスタジオ録音なら1956年のマリア・カラス共演が有名である。カラスのレオノーラは実に格調高く、優雅で、哀切に満ちている。これを超えるレオノーラはまだ(おそらくは)現われていないだろう。
 だが、この盤は他の共演者が残念である。ルーナ伯爵を歌ったロランド・パネライ、アズチェーナを歌ったフェドーラ・バルビエリはいずれも第一級の素晴らしい歌唱であるが、カラスと比較したときに凡庸な印象を受ける。マンリーコ役のジュゼッペ・ディ・ステファノは、カラスとの相性が良く、性格そのままの情熱的で破天荒な歌唱と艶のあるのびやかな美声とで、カラスと渡り合っている。

 『トロヴァトーレ』はソプラノ(=レオノーラ)、メゾソプラノ(=アズチェーナ)、テナー(=マンリーコ)、バリトン(=ルーナ伯爵)の4声がほぼ同等量の出演シーンと魅力的な歌(アリア)と演技場面とを与えられている稀有な作品である。タイトル・ロール(主役)は一応テナーが演じるマンリーコだが、実際には4人の歌手の誰が主役になってもおかしくない。だから、4人の歌手が高レベルで見事に揃ったときの破壊的な威力は他のオペラの非ではない。同時に、幕切れ後のカーテンコールで4人の中で誰が一番の喝采をもらえるかでその日の主役が決まるという、出演歌手にとってはチャレンジングな、聴く者にとってはこの上なく面白い作品なのである。

 カラヤンは1962年ザルツブルグ音楽祭の『トロヴァトーレ』のために次の4人を選び、大成功を博した。
   レオノーラ ::レオンタイン・プライス 
   アズチェーナ:ジュリエッタ・シミオナート
   マンリーコ :フランコ・コレルリ
   ルーナ伯爵 :エットーレ・バスティアニーニ

 当時集めることのできた最高の布陣であろう。それができたところに帝王カラヤンの権力の凄さが表れている。
 このライブはCDになっていて、4人の名歌手の火花の散るような見事な歌の競い合いと、物語が進むにつれ興奮の坩堝と化していく会場の様子を、圧倒的臨場感のうちに聴くことができる。4人のうちの誰の頭に月桂樹を乗せたものか見当がつかない。(結局、カラヤンの総取りか。)
 ライブ録画のないのが実に悔しい。

 78年になって遂にライブ録画登場である。
 自ら求めるオペラの理想を追求し演出まで支配したカラヤンは、いったい誰を選んだか。
   レオノーラ ::ライナ・カバイヴァンスカ 
   アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
   マンリーコ :プラシド・ドミンゴ
   ルーナ伯爵 :ピエロ・カップッチッリ
 やっぱり溜め息の出るような豪華な布陣である。
 カラヤンが歌唱レベルの高さはともかく、映像化ということを意識したのは間違いない。若く逞しいプラシド・ドミンゴ(日本ではまだ知られていない頃だ)と優雅で女優のように美しいライナ・カバイヴァンスカの恋人ぶりは、ハリウッド映画のよう。ピエロ・カップッチッリの堂々たる雄雄しいたたずまいも、その王者のような風格ある歌唱同様、印象的である。3人の歌手の歌も演技も風貌もまったく申し分ない。
 しかし、突き抜けているのはやはりコソットだ。
 最盛期の声と肉体であることを除いても、コソットの歌唱と演技は神がかりである。
 あるオペラ歌手について「歌は素晴らしいが演技はダメ」とか「演技は上手いのに歌がちょっとな・・・」と評することはある。コソットにはそれが効かない。「歌も演技も素晴らしい」――というか歌と演技がまったく切り離せない。歌唱がそのまま演技であり、演技が歌唱に編みこまれている。音楽、歌唱、演技の三位一体は完全である。
 コソットの出てくる場面で、観る者はザルツブルグから、あるいは自宅の居間から、スペイン山間のジプシーの住む岩窟に瞬時にしてテレポートする。目の前にいるのはもはや歌手でもなく女優でもなく、母親を目の前で火炙りにされ、かつ我が子を誤って火にくべてしまったという、恐ろしいトラウマを背負った一人の女である。コソットが所狭しと舞台を動き回るとき、彼女の周りに見えるのは現世では決して拭いされようのない心の闇なのである。いかなる心理学者より、いかなる精神分析医より、コソットはアズチェーナを理解している。その意味で、筋書きが荒唐無稽でリアリティに乏しいとよく言われるこのオペラを、コソットは一人現代的でリアルなものにしている。
 彼女の神技を前に、指揮者があのカラヤンであることすら忘れてしまう。

 ライブ映像の時代に生まれて良かった。