11/7(金)中野ゼロ 日本テーラワーダ仏教協会主催の月例講演会。
いつものように開始間際に会場に入って席に着き、おもむろに周りを見渡し、なんとなく変な感じがした。
「なんだ?」
しばらくしてハッと気がついた。
「男が多い!」
会場にいる約300名のうち9割以上が男性である。
いつもは男女半々くらいか、若干女性のほうが多い印象があるのに・・・。
いったい、どういうことか。
スマナ長老に急に男性ファンが増えたのか?
女性会員に人気のイケメン僧侶が、どこか別のところで法話をおこなっているのか?
何か女性会員に総スカン食うようなことを事務局がしでかしたのか?
・・・・・と、数秒のうちに様々な憶測が頭の中を駆けめぐったが、答えは単純であった。
本日のテーマ、副題は「元気な組織、ダメな組織」。
男は組織論が好きなのである。
これが「仲のいいグループ、仲間割れするグループ」とでも副題を立てれば、おそらく女性参加者がもっと増えたであろう。
話の内容は、まさに組織論で、上手くいく組織のあり方というものを仏教的観点から説明するものであった。
今回、もっとも面白かったのは、原始仏教経典『スッタニパータ』の中の有名な「犀の角」の解釈についてであった。
『スッタニパータ』は数多い仏典のうちもっとも古く、お釈迦様の言葉を最も忠実に伝えているものとみなされている。邦訳では岩波文庫から中村元氏の訳により『ブッダのことば』というタイトルで出ている。
「犀の角」の教えは、その最初のほうに出てくる。
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。(岩波文庫『ブッダのことば』)
という偈(げ=詩句)から始まって、
今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(同上)
という偈まで、41ある偈の末語がすべて「犀の角のようにただ独り歩め」で終わる。
岩波文庫の中村元氏の解説を読むと、こう書いてある。
「犀の角」の譬喩によって、「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を述べているのである。 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。(同上)
これに対してスマナ長老は異を唱えた。
「犀の角」は聖者が自らの心境を語ったものです。「汝、~せよ」と他人に命じるものではありません。
原始仏教経典は古代インドの俗語であるパーリ語で伝えられているのだが、その厳密な文法解釈から、末尾は命令形ではないと言うのである。
すなわち、悟った人(=聖者)が己の心のありようを披瀝した独白(モノローグ)であって、弟子たちや在家信者に「このように振る舞いなさい」と説いているものではない。
上記の最後の偈を、スマナ長老は次のように和訳した。
人は何かの理由あって人づきあいする。自利を目指さないつきあいは珍しい。自利のみを目指す人間は不潔です。聖者は犀の角のように独り歩む。
中村元氏の訳とは、かなりニュアンスが違ってくる。
中村訳だと、「人づきあいにおいて自分の利益をめざさないような人は少ない(特に今日では)」という意味になる。スマナ訳だと、「(いつの世にあっても)人は自分の利益をめざして人づきあいするものである」と解釈できる。
中村訳は、世俗の人間関係のありようを嘆いているようにとれる(『徒然草』の吉田兼好風に)。スマナ訳は、人間存在のありよう(=無明)を根源において喝破している。
すごい違いだ。
よくよく考えるに、スマナ訳の否定できなさが痛感される。
人が誰かと付き合おう(仲良くしよう、関わろう)とするのはなぜか?
1. それによって物質的利益が得られる。
例.金持ちとつきあって贅沢ができる。
上司に可愛がられて出世して収入増。
2. それによって精神的利益が得られる。
例.恋人ができて心や性欲が満たされる。
家族ができて生きがいができる。
友達ができて寂しさや退屈が満たされる。
有名人と知り合って友人に自慢できる。
3. それによってスピリチュアルな欲求が満たされる。
例.他人に奉仕(ボランティア)して自己イメージがUPして気分がいい。
世界を救うために自己犠牲を払い、自分の存在価値が生み出せる。
見知らぬ人に親切にすることで善業を積み、極楽往生できる。
人が誰かと関わろうとするのは、究極的には「自分のため(エゴのため)」であるというのは、心の奥の奥まで覗き込んで正直に分析するならば、ごまかしようのない事実である。
聖者はそのことを知っているから「独り歩む」のであろう。
聖者でない我々は、せめて「相手のためにやっています」と言いたがる表面的な動機の底に潜むエゴの声を自覚(自己覚知)しながら、「100%自分のため」よりは、「70%自分のため、30%世のため人のため」を目指して、人と関わっていきたいものである。