2012年ルーマニア・フランス・ベルギー合作。

 クリスティアン・ムンジウ監督は2007年発表の『4ヶ月、3週と2日』でルーマニア映画初のカンヌ・パルムドール(最高賞)を受賞している。(ソルティ未見)
 当作品でもまた、カンヌ脚本賞および二人の主演女優コスミナ・ストラタンとクリスティナ・フルトゥルがカンヌ女優賞を受賞している。
 国際的評価の高い監督なのである。

 オカルト心理サスペンス悲劇といったところであろうか。
 DVDパッケージの紹介を読むと、修道院の中で行われるエクソシスト(悪魔祓い)という話なので「オカルトホラーなのかな?」と思って観始めたのだが、心理劇の色合いが強い。もっとも、怖さとサスペンスにおいては並みのホラー映画を凌駕している。

 ルーマニアの同じ孤児院で育った二人の若い女性ヴォイキツァとアリーナ。ヴォイキツァはその後ルーマニア正教会の修道院に入って「従順・貞節・清貧」の日々を送っている。アリーナは里親に引き取られたあとドイツに出稼ぎに行き、人に言えないような苦労を重ねてきた。アリーナが、ヴォイキツァと会うために帰郷するところから物語は始まる。
 ‘物語’と言ったが、これは実話をもとにしているとのこと。そこが何とも興味深く、かつ背筋が凍る。
 アリーナはヴォイキツァとのドイツでの自由な同棲生活を夢見ている。身も心も神に捧げたヴォイキツァにはそれは許されない。誓願して世俗を捨て心の拠り所を見つけたヴォイキツァ自身も修道院を離れることは望まず、むしろアリーナに信仰の道に入ってもらえたらと願っている。が、複雑な性格と強い‘我’を持つアリーナにはそれができない。この二人の埋められようのないギャップが悲劇の下地となる。
 修道院での集団生活に馴染めないアリーナはいろいろなトラブルを巻き起こす。挙句の果てに自殺未遂を起こし精神科病院に入院する。いったん回復して、修道院から去るよう司祭から命じられるも、アリーナはどうしてもヴォイキツァと離れることができない。そうこうするうちにアリーナはいよいよ精神のコントロールを失い、なにものかにとり憑かれたような人格崩壊の様相を示し、神を冒涜し、手のつけられない暴力を起こす。困り果てた修道女たちは司祭に「悪魔祓い」するよう懇願する。
 在家の信者たちには気づかれないよう、アリーナを監禁拘束した司祭と修道女たちは、‘彼女のためを思い’秘儀を遂行する。
 その結果は、見るも無残なものであった・・・・。

 作品の一番のポイントは、アリーナの性格造型にある。
 アリーナがレズビアンであることは誰でもすぐ指摘できよう。彼女のヴォイキツァに対する愛情は友情を超えて、執着や依存のレベルにある。おそらく、孤児院にいる間に肉体関係もあったかもしれない。
 それも普通の恋愛感情ではない。アリーナは、ヴォイキツァが修道院を離れて俗世に戻ることができないという現実を‘どうしても’受け入れることができない。だから、無神論である自分にはまったく合わない修道院の生活を、そこに留まる義理も義務もしがらみもまったくないのにかかわらず、幾度も司祭から出て行くよう命じられたにかかわらず、ルーマニアの里親の家に身を置くことができるよう司祭らに手配してもらったにもかかわらず、修道院を離れようとはしない。ありていに言えば、‘失恋を受け入れることができない’のである。
 アリーナのヴォイキツァへの固執はストーカーレベルである。
 なぜアリーナはそのようにしか振る舞えないのか。
 レズビアンということは理由にはならない。ヴォイキツァをあきらめて、別の女性を――神様になんか興味を持たない女性を――ルーマニアよりずっと自由なドイツで見つければよいのだから。(おそらくそれを出稼ぎ先のドイツでやって失敗しているのだろうが。)
 孤児院育ちが、親に見捨てられた孤独感や劣等意識を彼女のうちに育んだかもしれない。そこで出会った唯一の友であるヴォイキツァは、家族のような存在、この世でただ一人の理解者であったのかもしれない。が、すべての孤児院育ちの人間が彼女のように振る舞うわけではない。
 アリーナの父親が子供の頃に自殺しているというのは主因の一つであろう。親の自殺は、子どもの心に、無視できないほど大きな、長じても簡単には癒えないような傷(トラウマ)を残すと思われる。「自分をこの世に迎え入れてくれた人間が、この世を否定し、自分を残して去っていく」という筋書きは、子どもにとって、自らの存在価値を見失うに十分な逆説である。自己肯定の難しさが、他者への依存となって表れている可能性はある。
 それだけではない。
 実際に――この事件(ノンフィクション)の事実関係において――そうであったかどうかは定かではないが、ムンジウ監督の演出およびアリーナ役の女優の演技から、鋭い観察者は彼女が「性同一性障害」であり「境界性人格障害」であることを見抜くであろう。
 アリーナのいつも着ている上下のスポーツウェア、化粧っ気のない角張った顔立ち、無造作に束ねられたポニーテール、こうした表面的なアイテムから彼女のセクシュアリティを云々するのは無謀かもしれない。単なるソルティの‘深読み’かもしれない。だが、どうもムンジウ監督の隠された意図はそこらにあるような気がしてならない。
 レズビアンで、性同一性障害で、父親が自殺して、孤児院育ち。加えて弟(兄?)がどうやら知的障害を持っている。アリーナの‘精神障害’なり‘人格障害’なりの基底を作るには十分ではないだろうか。神への信仰を受け入れられなくても無理からぬ話ではないか。
 むろん、レズビアンや性同一性障害者や自殺遺児が即、精神障害や人格障害になりやすい、無神論者になりやすいと言いたいのではない。それらの属性を不当に価値づけて貶めて抑圧する、世間の、社会の、文化の、宗教の、不寛容(intolerance)こそが問題なのである。
 アリーナを演じた女優クリスティナ・フルトゥルは、観る者を刺激してこういった想像を働かせしめるほどの高度な表現力に達している。
 一方のヴォイキツァ。
 単純な鑑賞者は、彼女に‘非’を見出すことはないだろう。友達思いの、信仰心の厚い、友情と信仰の狭間で心揺れる‘人間らしい’女性と見るかもしれない。
 しかし、ここでも自分(ソルティ)はつむじまがりである。
 アリーナがヴォイキツァに依存しているのなら、逆もまた真なりである。
 二人は共依存である。
 たとえば、ヴォイキツァが面と向かってはっきりと、「アリーナ、私は信仰を捨てることはできません。あなたと別れます。ここから立ち去ってください。あなたはあなたの道を進んで幸福になって下さい」と伝えたならば、そしてもう二度と会わないと心に決め、そのように振る舞ったならば、少なくともここまでの惨劇は起こらなかったであろう。アリーナが再び自殺未遂する可能性はある。どこかで自殺する可能性もある。だが、修道院全体が巻き込まれることはなかった。
 ヴォイキツァは終始、優柔不断な言動をアリーナに対して示している。修道院から離れられないと言う一方で、アリーナのドイツへの出立を邪魔している。アリーナにビザの手続きを依頼されたにかかわらず、それを反故にしている。明らかに、彼女に去って欲しくないのだ。
 このヴォイキツァの優しさ、弱さ、信仰への愛の裏側に隠された依存心を、コスミナ・ストラタンという女優がまた繊細に演じている。
 両女優のカンヌ同時受賞は正当であろう。

 なるほど、この作品から狂信的で独善的で孤立したカルト教団の持つ危なさやいびつさを指摘するのは正しい。異端者を裁く偏狭な‘神’とは何か、と問うのは間違っていない。閉鎖された環境における集団心理の怖さを読み解くのも「あり」だろう。
 だが、より本質的なのは、アリーナとヴォイキツァ、二人の孤独な女性の依存関係のドラマである。
 その意味で、パッケージの文句から想像されるところとは違い、非常に現代的なテーマである。


評価:B+

A+ ・・・・・ めったにない傑作。映画好きで良かった。 
        「東京物語」「2001年宇宙の旅」   

A- ・・・・・ 傑作。劇場で見たい。映画好きなら絶対見ておくべき。
        「風と共に去りぬ」「未来世紀ブラジル」「シャイニング」
        「未知との遭遇」「父、帰る」「ベニスに死す」
        「フィールド・オブ・ドリームス」「ザ・セル」
        「スティング」「フライング・ハイ」「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「フィアレス」   

B+ ・・・・・ 良かった~。面白かった~。人に勧めたい。
        「アザーズ」「ポルターガイスト」「コンタクト」
        「ギャラクシークエスト」「白いカラス」
        「アメリカン・ビューティー」「オープン・ユア・アイズ」

B- ・・・・・ 純粋に楽しめる。悪くは無い。
        「グラディエーター」「ハムナプトラ」「マトリックス」 
        「アウトブレイク」「アイデンティティ」「CUBU」「ボーイズ・ドント・クライ」    

C+ ・・・・・ 退屈しのぎにちょうどよい。(間違って再度借りなきゃ良いが・・・)
        「アルマゲドン」「ニューシネマパラダイス」「アナコンダ」 

C- ・・・・・ もうちょっとなんとかすれば良いのになあ。不満が残る。
        「お葬式」「プラトーン」

D+ ・・・・・ 駄作。ゴミ。見なきゃ良かった。
        「レオン」「パッション」「マディソン郡の橋」「サイン」

D- ・・・・・ 見たのは一生の不覚。金返せ~!!