日時 2015年6月26日(金)18:30~
会場 中野ZERO小ホール(東京都中野区)

 幸いなことに早番だったので参加できた。
 日中は段取りよくテキパキと業務を進め、定時になるや更衣室に直行。褥瘡についての学習会参加を呼びかける館内放送が響く中、迷いも無く施設をあとにした。
 中野サンモール商店街でかき揚そばを食べ、途中にあるベローチェで眠気覚ましのコーヒーを飲み、中野ZEROに向かった。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老による月例講演会に参加するようになってからずいぶんになる。
 今では、自分にとって月のもっとも大切な行事(一日)であり、仏法について学び、俗世間から離れた視点から自分自身や世間や社会を見直す機会となり、かつ修行のモチべーションを高めることのできる有意義な時間である。出られるときは必ず参加するようにしている。会場が職場からわりに近いことも幸運である。
 
 今日もまた6割がた埋まった会場の後方の座席について、講演中の印象的な言葉をメモしようとノートとボールペンを手に、パワーポイント映写されたスクリーンに対峙した。
 が、なにせ8時間の重労働(介護)のあと、しかも今日は午後から入浴介助。汗をかいて体はクタクタである。
 講演冒頭の日常読誦(読経)が済むやいなや、瞼は垂れ下がり、首はコクンと前にうなだれた。
 40代半ばまではこんなことなかったのに・・・。
 かき揚そばは失敗だった。コーヒーだけで良かった。
 よって、講演は後ろ半分しか参加できなかった。
 情けねえ・・・
 
 しかし、話されている内容はおおむね理解できるものであった。
 人間の持つあらゆる意見・論・見解・印象は、つまるところ各人の主観に過ぎないので、他の人と完全な一致を見るわけがない。そのことに気づかず、お互いの意見に固執し、あい争ってもなんの解決にも至らない。コミュニケーションがうまくいくはずもない。まず、自分の意見が単なる主観に過ぎないことを自覚し、「自分が間違っている」可能性のあることを常に自覚しなければならない。
――というような内容であった。(これも主観的な解釈かも。半分寝ていたし。)

 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』が始まったばかりの大学生の頃(1987年)、夜更かしして夢中になって観ていた。天皇制や部落問題などタブーとされる話題も果敢に取り上げて、斯界の著名人らによる議論の応酬や、いい大人たちの感情の幼稚な暴発ぶりを見るのが面白かった。
 しばらく見ていて、「ああ」と腑に落ちたことがあった。
 それは、「あらゆる意見・哲学・論は結局その話者の主観に過ぎず、自らのアイデンティティを支えるための自己正当化に過ぎない」という気づきであった。科学分野における論(万有引力の法則とか相対性理論とか)はとりあえず別として、洋の東西問わず、歴史上のいかなる哲学も、社会的なトピックに関するいかなる論も、もとより正解はないのである。多数派だから正解と言うこともないのである。それぞれが自己のアイデンティティの正当化を図ろうとする延長上に、もっともらしい理屈をこねているに過ぎない。
 それがわかってから、自らの意見こそが「絶対に正しい」と信じ込んで相手を言い負かそうと必死になっている出演者らがアホに見えてきて、番組自体馬鹿らしくなって、見るのを止めてしまった。
 たが、今思うにあれは、討論することでどっちが正しいかを決めようとしたのではなく、意見の多様性を視聴者に知らしめようとしたのでもなく、いわんや視聴者の意識を高めようとしたのでもなく、単なる「机上プロレスショー」だったのである。田原総一朗はアンパイヤだったのだ。
 もとより視聴率が取れなくては番組にならない。
 (だが、上記の気づきを視聴者の一人である自分にもたらしてくれたのだから、製作者や出演者には感謝すべきだろう。)

 さて、講演内容はともかく、今回「なぜ自分がこの月例講演会に参加するのか」に思い当たった。
 もちろん、法話を聞きたい(=仏法を学びたい)というのが一番ではある。
 が、今日のように半分眠って過ごしていても「十分来た甲斐があった」と思うわけである。
 それはなぜか。
 一つには、サンガ(仏道修行の仲間たち)に出会えるからである。
 ふだん自分はたった一人で本を読んで仏法を学び、たった一人で瞑想している。テーラワーダ仏教を学んでいてお互いに励ましあえるような友人、いわゆる法友を持っていない。お寺(京王新宿線の幡ヶ谷にある)に行くことも滅多にない。孤独な修行者である。
 孤独な修行者はときに迷うのである。
 
 自分がやっていることは正しいのか。
 こんな世間的価値観とはかけ離れた仏教というものに、時間やお金や気力や能力を費やしてあたら人生を無駄にしていないか。
 何年も修行をしているのに結果が見えない。このまま続けていてもいいものか。
 こんな陰気臭いことをする代わりに、もっと生活を、もっと人生を楽しむべきではないか。
 自分の欲求に忠実であるべきでないか。
 自分は仏教に依存することで、‘何か’から、あるいは人生そのものから逃げているのではないか。
・・・・・・等々。

 仏教的観点で言えば、これらは自我の策略である。
 修行の進展によって正体が暴かれ弱毒化されていく‘自我’が、なんとか生きのびようとして、修行を邪魔せんと修行者の中に迷いを生じさせるのである。
 お釈迦様でさえ、菩提樹の下に座し解脱に達する最後の瞑想中に、悪魔の声を聞いたのである。

 君はやせ細り、体が黒ずんでいる。あなたは死の瀬戸際にある。
 死が千分なら、あなたの命は(ただの)一分。君よ、生きたまえ。生きることが優れているでしょう。生きていて、諸々の善行為を行いたまえ。・・・・・・
 あなたの修行は何の役にも立たない。修行の道は厳しい。成し遂げることは難しい。
(アルボムッレ・スマナサーラ著『日本人が知らないブッダの話』学研発行)

 お釈迦様はこのように答え、悪魔を退けた。

 私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。

 ムンジャとは草の葉っぱのことで、昔インドで戦士たちがターバンにムンジャを挟んで死ぬ覚悟で戦いに赴いた故事に由来する。
 
 自分とお釈迦様を較べるつもりは毛頭ないものの、やはり瞑想が進むほどに、仏教にはまり込むほどに悪魔の声も強くなるのは事実である。
 そんなときに、同じ修行者の多く集まる月例講演会に参加し、別段会話をせずとも、「これだけの仲間がいるのだ。自分一人ではないのだ」と知ることは、悪魔を退ける力となる。
 仏教では、仏法僧を三宝とするが、僧(サンガ)――広くとらえて在家信者の集まり――にはそれなりの意義があるのだ。
 そろそろ法友が必要なのかな・・・。

 今一つの理由は、やはりスマナサーラ長老の存在に触れることにある。
 自分の軸がしっかりせずに右に左に揺れている自分が――仏教を知ってその振幅は以前より小さく単純な動きになったが――しっかりしたアンカー(碇)がほしいとき、スマナサーラ長老の確固たる存在感は‘効く’のである。姿を見るだけで安心するのである。
 これに関しては、当のスマナサーラ長老がこんなことを書いている。

 なぜ、一部の人々には影響力があって、他の人々には影響力がないのでしょう。
 両者を分けるのは、「生き方に自信を持っているか否か」ということです。「私はこういう理由で、このような生き方をしています」と、自分自身で自分の生き方に対して確信を持つこと。それが影響力の源になるのです。生き方が優柔不断・曖昧ということでは、影響力はまったく生まれません。(日本テーラワーダ仏教協会会報『Patipadaパティパダ』2015年6月号智慧の扉より)

 確かに、自分がこれまでに出会った影響力のある人々を思い起こすと、上記の言葉がぴったり当てはまる。
 何を信奉しているか、何を語っているか、何の仕事をしているか、どんな地位にあるか、どんな風采であるか、世間的に有名か否かなどは、あまり関係ない。自分の選んだ生き方について自信を持ち、日々それを基盤にして生き、それなりの覚悟のある人が、良きにつけ悪しきにつけ、自分に対する影響力を行使している。
 スマナサーラ長老はまさにその典型である。 
 
 サンガに出会い、長老に出会い、「やっぱり自分には仏教しかない」と納得し(なかば諦め)、会場を後にしたのであった。


サードゥ、サードゥ、サードゥ

ハスの花ピンク