2015年新潮社刊行。

この本を書店の仏教書コーナーで見つけて、ざっと立ち読みしたとき、
「ついに出てきたなー」
 と心のなかで叫んだ。

 日本テーラワーダ仏教協会が設立されて20年余、中心的指導者であるアルボムッレ・スマナサーラ長老の八面六臂の活躍によって、テーラワーダ仏教を学びヴィパッサナー瞑想実践する人が今や日本中に広がっている。その著者は仏教書としては異例のベストセラーを重ねている。
 むろん、テーラワーダ仏教(上座部仏教あるいは原始仏教)はそれ以前に日本に入っていて、在日のタイ人やミャンマー人を中心に細々と信仰されていたであろうし、大乗仏教に飽き足らぬ日本人の求道者が個人的にタイやミャンマーに渡って修行したり出家したりということはあった。
 が、今日ここまでテーラワーダ仏教が日本および日本人に浸透し、テーラワーダ仏教関連の本が書店に並び、一種のブームと言えるほど活況を呈しているのは、明らかにここ10年くらいのことである。
 こうした流れにあって、しかし、テーラワーダ仏教もとい「お釈迦様のもともとの教え」の本質は何なのかを、内側からわかりやすくコンパクトに伝えた本はなかった。
 むろん、スマナサーラ長老の膨大な著書はある。が、それらは仏教という広大深遠な宇宙のあちらこちらをピンポイントで取り出して、幾分希釈しつつ、素人にわかりやすく丁寧に伝えたものである。長老の目的が、目の前の人々の苦しみを取り除き、最終的に修行実践へと誘うものである限り、これは当然である。重要なのは、「仏法を学んでみよう。ヴィパッサナー瞑想をやってみよう」と読者や聴衆が思うようになることであり、長老の仕事はそのための入口を提供することなのだ。小難しい学術的な仏教書など書くだけ時間の無駄である。知的に仏教を理解するのは、かえって智慧を遠ざける危険がある。智慧はあくまでも瞑想実践によって各自が悟るべきものである。

 自分の知る限りでは、仏教学者の宮元啓一、田上太秀佐々木閑あたりが、原始仏教に対する優れた理解を持って解説書や入門書を書いている。しかしそれらは(あくまでソルティの実感だが)「内側からでなく外側から」、つまり瞑想実践によって到達した智慧を礎に筆者自らの確信に基づいて語っていると言うよりも、経典研究をもとに純粋に学術的に捉えた語りという趣がある。そしてまた、‘仏教思想のゼロポイント’たる肝心かなめの「悟り」の内容については、お茶を濁している感がある。
 一方で、修行によって達したある境地から「確信を持って」言葉を放っていると感じられる書き手として、小池龍之介藤本晃井上ウィマラがいるが、彼らはスマサーラ長老同様、ブッダ本来の教えをもって、苦しんでいる世間の人々を援けることに焦点を置いているので、ブッダの教えそのものを学術的体裁でまとめたものは著していない。(ソルティが浅学寡聞なだけかもしれない・・・)
 そんなわけで、テキスト研究と自らの瞑想実践によって裏打ちされた智慧をもとに、確信を持って、学術的体裁をとりながら、ブッダ本来の教えをコンパクトに赤裸々なまでに先鋭化して著した本が、テーラワーダ仏教ブームの一つの収穫および到達点として、若い書き手(1979年生まれ)の中から「ついに」現れた、という感慨を持ったのである。

 事実、魚川の文章は、極めて論理的で核心を突いており、言葉も引用も的確であって、有無を言わせぬ説得力に満ちている。しかも、青年特有の(と言ったらステレオタイプになるのかもしれないが)一切の妥協を許さぬ追求心と純粋さとが全編あふれている。伝統的な仏教観・ブッダ像・世間を喜ばせる仏教イメージ(たとえば、極楽浄土、仏性、慈悲、阿弥陀仏の救い、瀬戸内寂聴e.t.c)を潔くも廃して、釈尊の言葉をそのまま伝える初期仏教経典をたよりに、等身大のブッダ像・仏教を「危険なほど誠実に」――と宮崎哲弥が帯で評している――提示している。
 そしてまた、経典研究だけからなる知的な創造からは嗅ぎ取ることのできないもの、すなわち、実際にミャンマーに渡航して自ら瞑想センターで修行してブッダの教えを「内側から納得した」者だからこそ放つことのできる‘真理の香り’が、行間から立ち昇っている。


以下、引用。

●ゴーダマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の常識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもの前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ。渇愛を完全に消滅させて阿羅漢となったヤサが「卑俗に戻る」ことができなくなったことからもわかるように、解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。

ソルティ:魚川の言葉を借りれば、ブッダは修行者に対して「異性とは目を合わせないニートになれ」と求めていたことになる。まさにオイラだ。異性とは目は合わせるけれど欲情はしない。
 同性とは? 
 ・・・・・・・・。
 文末の「全ての物語からの解放」という表現に、ジブリのアニメ『かぐや姫の物語』を連想する。


● dukkha(苦)はしばしばanicca(無常)と関連付けられながら語られるが、このことは、「苦」という用語が単に苦痛のみを意味しているわけではなくて、むしろ欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態をこそ意味することを、示している。

ソルティ:そう。仏教の中心となる3つのターム「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」のうち、「一切行苦」だけちょっとニュアンスが違うと常々思っていた。前の2つはこの世の性質を客観的に示しているのだが、「一切行苦」は「苦」という主観(感情)が入っている。主観(感情)を廃し「ありのまま」に観ることが仏教なのに、「苦」という言葉を用いているのは矛盾している。だって、人によって「苦」と感じるものは違うのだから。究極のマゾヒストにしてみれば、「一切行苦=一切行快楽」になるではないか。
 一切の現象は、それ自体は「苦でもなく楽でもない」というのが仏教のスタンスであろう。
 思うに、ドゥッカ(dukkha)を「苦」と翻訳したのが誤解の元である。より正確を期するならば、「不完全」「終わりがない」「不満足」「不安定」「無意味」と解するべきであろう。


●それでは、「何」が輪廻をし続けているのか? それは仏教の立場からすれば、行為の作用とその結果、即ち業による現象の継起である。つまり、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが、仏教で言うところの「輪廻」の実態・・・・(略)。
「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすれば、そもそもカテゴリーエラーの問いであるということになる。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻(廻り流れること)」と呼ばれているのであって、そこに「主体」であると言えるような、固定的な実体は含まれていないからだ。

ソルティ:無我説と輪廻転生の矛盾という、実に2000年にわたる仏教的ゴルディアスの結び目(難題)は、結局「自我(の存在を確信している頭脳)によっては解けない」というところにポイントがある。自分の落とした影の中に黒いボタンを探して「ない、ない」と言っているようなものである。自分が消えれば、ボタンは見つかる。


●ゴーダマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。そうしてはじめて、私たちは物語の外、「世界の終わり」に、本当に達することができる。

ソルティ:ここは大事なポイントだ。仏教は、だから、単純な「虚無主義」とは違う。自殺を含む反社会的行動を許容するものではない。「生きることに意味がない」ならば、「死ぬことにも意味がない」。「意味がないから何もしない」――ことにも意味がない。


●解脱者たちは、しばしばそう誤解されるように、生を嫌悪し世界を唾棄しながら、苦虫を噛み潰したような顔をして、人生の残りの時を過ごしていたわけではない。前章で引いた『信心銘』の言葉にあったように、何かを憎み嫌うことは、愛し好むことと同様に執着の一つの形であって、そのような正負いずれの方向の執着からも離れることこそが、解脱の内実だからである。・・・・・・・・・・・・・・・・
 ならば、彼らは人生の残りの時をどのように過ごすのか。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような、執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のもでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。


 魚川祐司は「ニー仏」というハンドルネームで、ネットでも活躍中である。
 今後の活動に期待。
 --と言いたいところだが、これだけ完成度の高いものを上梓して、「この先」があるのだろうか。