2009年筑摩書房より刊行。

 仏教と科学の近似性を追及した名著『犀の角たち』の著者による仏教エッセイ。朝日新聞夕刊に2年にわたって毎週連載された文章をまとめたものなので、広い読者を想定し、わかりやすく、読みやすく、多彩なテーマが楽しい、肩の凝らない読み物になっている。
 ここでも著者は『犀の角たち』同様に、日本人に馴染んでいる大乗仏教ではなくて、初期の仏教つまり2500年前に存在した釈迦の仏教の紹介を目論んでいる。朝日新聞という広く一般大衆が購読する媒体に、元来の釈迦の教えや修行僧(サンガ)の在り様が持続的に紹介され、読者の仏教観に何がしかの変容をもたらしていくことは、非常に意義深いことである。
 花園大学教授である佐々木はもちろん、伝統的な大乗仏教を否定も批判も断罪もしていない。が、釈迦本来の‘正しい’仏教の広まることが、結局は仏教の為になり、世の苦しむ人々の為になることを確信しているのは間違いあるまい。
 100のエピソードを通して、佐々木の仏教への信、若い頃科学者を志したほどの合理精神、縁を大切にする謙虚な心が伝わってくる逸品である。

 では仏教を信じるとはどういうことなのか。それは単に「仏の存在を信じる」のとは違う。仏教を信じるとは、「釈迦の説いた道を信頼する」のである。お釈迦様という人が発見した「悟りへの道」を信頼し、そこに自分の生活をゆだねる。それが仏教を信じるということの本来の意味である。

 一方、このエッセイの、というか著者の隅に置けないところは――隅に置くつもりはもとより無いけれど――釈迦の仏教を全幅賞賛し持ち上げるだけでなく、その欠陥をちゃんと指摘しているところである。まさに合理精神の表われである。

 第二次大戦中、日本は戦争色に染まった。「私は僧侶だから戦争には協力しない」と言って時流に抵抗した人もかなりいたが、逆に戦争を賛美する僧侶も多かった。「アジアの平和を実現するための聖戦だから許される」という理屈である。そして、反戦論者は迫害され、賛美した人は褒められた。ここに、仏教という宗教の持つ問題点がある。社会から非難されないよう、自己の行いを正していくという独特のシステムの裏側には、社会の大勢に迎合してしまう危険性が潜んでいる。
 お布施で生きる以上、世間の顰蹙を買うような行動は絶対に避けねばならないが、一方、あまりにも社会の時流に流されると、教えに背いてしまうことになる。

 「律」の規則のひとつに、「僧侶になるためには、10人以上の同性の僧侶の許可を得なければならない」というものがある。男なら10人以上の男の坊さんが「よし」と言わないと、坊さんになれない。女なら10人以上の尼さんの「よし」が必要である。・・・・・・・・・
 スリランカを中心とする南方諸国で、国が乱れて僧侶の数が減っていき、尼さんの数が10人を切り、女性の僧団が消えたのだ。そして、驚くべきことに、その後1000年、スリランカにもタイにもミャンマーにも、正式の尼さんはいない。せっかく釈迦の説いた悟りの道が、それ以来、女性には閉ざされたままなのだ。最近、なんとかしようという動きがでてきたが、まだ問題山積である。

 釈迦は、非常に高度な平等主義者だった。家柄・血筋で人の価値が決まると考えられていた古代インドで、決然とそれに反旗を翻し、「人の価値は、生まれではなく、心根や行為によって決まる」と説いた。当時としては革新的な主張だ。
 だがその釈迦が作った仏教僧団にも、様々な差別が残った。世間の人びとからもらうお布施だけが頼りの仏教は、当時のインド社会の差別意識に逆らうことができず、障害者や重病人の出家を認めなかったし、男女間に格差を設けて女性修行者を低く見た。その差別は釈迦にも逆らいがたい、きわめて強固な社会常識だったのだ。

 2つ目の引用中の「悟りの道が、女性には閉ざされたまま」というのは間違いである。なぜなら、在家者でも男女問わず「悟る」ことはできるから。
 初期仏教では、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の4つの「悟り」のうち、出家しないと悟れないと断定されているものはない。第3の悟りである不還果を得た人でも、かろうじて在家生活を送ることができる。だが、「解脱」に至る最後の悟りである阿羅漢果を得たら、「自分」という感覚が滅してしまうので、もはや在家生活は不可能である――と言うのである。
 つまり、出家できない女性でも、「悟り」も「解脱」も可能なのである。ただ、雑事の多い在家生活を送りながら修行するよりは、出家して修行に専念するほうが当然進歩が速い。戒も守りやすいし、周囲の理解も得られやすい。その点では、女性差別は確かである。
 
 最後に、著者の合理精神の賜物と解していいのかどうか定かでないが、釈迦の説いた道を信頼している佐々木であるが、明らかに釈迦自身が説いた「輪廻転生」は信じていないらしい。
 こうはっきり述べている。
 
 私は釈迦の信者だが、輪廻の実在性は信じない。つまり、「もはや輪廻しない」という確信こそが真の安らぎをもたらすという、釈迦の精神は尊敬するが、「天の神様」や「地獄の亡者」が実在すると考える、その時代のインド人の世界観を丸ごと鵜呑みにはしないということである。
 

 ソルティ自身は「輪廻(=変化)」については「ある」と確信している。「輪廻転生(=生まれ変わり)」については結論を出すことをペンディングにしている。この二つを混同するのは良くないと思っている。
 輪廻とは結局、「万物流転&不生不滅」の謂いである。
 ――エントロピーの法則&エネルギー保存の法則。
 現代科学の目で見ても、少しもおかしなことではなかろう。