新交響


日時 2016年7月10日(日)14:00~
会場 東京芸術劇場袋コンサートホール
指揮 矢崎彦太郎
曲目
  1. ポール・デュカス:バレエ音楽「ラ・ペリ」
  2. 三善晃:管弦楽のための協奏曲
  3. ベルリオーズ:幻想交響曲

 今回の目的は幻想交響曲である。ベルリオーズ自身の失恋がきっかけで作られた5楽章からなる交響曲で、文学作品のようにそれぞれの章の主題がはっきりしている。いわゆる標題音楽の代表である。

標題音楽とは、音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した器楽曲のことをいう。対義語の「絶対音楽」は、音楽外の世界を特に参照せずとも鑑賞できるように作曲された音楽作品(またはそのような意図で創られた楽曲)のことをいう。(ウィキペディア「標題音楽」より抜粋)

 ベルリオーズ自身の説明によれば、「恋に深く絶望しアヘンを吸った、豊かな想像力を備えたある芸術家」の物語を音楽で表現した。
 なので、ドラマチックで至極わかりやすい、同様の体験(失恋)を持つ人にとっては非常に共感しやすい曲と言えるはずであろう。
 ソルティもむろん資格がある。「アヘンを吸った」「豊かな想像力を備えた」の部分ではなくて、「恋に深く絶望し」の部分で・・・。
 どんな感動が待ち受けているであろうか。

 デュカス「ラ・ペリ」の甘美な音楽が広い会場に漂いはじめて、「しまった!」と思った。
 午前中に人と会い、そのまま昼食を共にした。コンサートが控えているので腹七分目くらいにしておこうと思っていたのが、すっかり話に夢中になって、気がついたら腹十二分目くらい平らげていた。(仏教徒として恥ずかしい・・・)
 急いで列車に飛び乗り池袋で下車。開演時刻ぎりぎりに席に着いたはいいが、おなかは膨れたままである。
 案の定、眠気が襲ってきた。
 無駄な抵抗せずに、子守唄が流れるにまかせた。

 三善晃の曲は、とても子守唄になるような代物ではない。どっから聴いても現代音楽である。無調と不協和音と変則的リズム。安心や癒しや希望など、まったく与えてくれないつれ無さ。社会派ドキュメンタリーか不条理ドラマのBGMとしてならふさわしいかもしれないが、音楽単独で聴くのはやっぱりきつい。
 実はソルティは、三善晃作曲のオペラ『遠い帆』の世界初演に立ち会った。仙台に暮らしていた1999年3月のことで、指揮は外山雄三、管弦楽は仙台フィルハーモニー。
 なぜ仙台初演かというと、このオペラの主人公は、伊達政宗の家臣の支倉六右衛門常長だからである。常長は、主君の命を受けて使節団を率いてヨーロッパに行くことになった。困難な航海を成功させ、スペイン王やローマ教皇に謁見賜り、キリスト教徒になった。が、帰国してみると日本はすでに鎖国し、禁教令が敷かれていたのである。常長は失意のうちに死去したと言われている。
 このような一見不条理とも言える常長の生涯を描いたのがオペラ『遠い帆』で、三善晃の‘不条理的’音楽はこのテーマと見事に噛み合っていた。詩人高橋睦郎(‘組合’仲間)の台本もまた良かった。これまでに日本人が作ったオペラの中の最高峰と言っていいんじゃないだろうか。
 仙台での常長人気は意外なほどで、「萩の月」と並ぶ仙台銘菓に「支倉焼」というのがあるほどだ。

 さあ、休憩を挟んで、幻想交響曲。
 ようやく頭もすっきりしてきた。
 
 別記事で書いたが、クラシック音楽はチャクラを刺激する。音の波動が、体に7つあるチャクラを刺激してこじ開け、体内に入り込んで、体じゅうの‘気’を活性化する。おそらく大量のドーパミンが分泌されるのだろう。全身が性感帯になったかのような恍惚感を与えてくれる。
 なので、ソルティの場合、いい音楽かどうかは‘気’で判断できる。チャクラを活性化してくれるのは間違いなく素晴らしい音楽である。活性化してくれるほど、感動も大きい。
 これができるようになったのは、長いこと瞑想してきたためであろう。とくに一昨年暮れ、NHK交響楽団と指揮者フランソワ・グザヴィエ・ロトによる《第九》演奏会でチャクラが活性化してからというもの、良いコンサートでは必ずやチャクラが動くようになった。近いところでは、指揮者藤岡幸夫とワグネル・ソサィエティ・オーケストラによる演奏会。演奏された3曲すべてにおいて、音波が眉間のアージュニャー・チャクラを刺激し、そこから体内に入り込んだ音波が体中を蹂躙した。まるで音楽とセックスしたかのように、官能の海に溺れ、終わった後は身も心も生まれ変わったように軽くなった。
 
 矢崎彦太郎と新交響楽団による幻想交響曲。
 上手いのは確かである。それぞれの楽器が達者であるとともに、ハーモニーも見事。文句のつけようもない。それぞれの楽章が帯びているテーマへのアプローチも的確である。メリハリもあり、雰囲気もよく出ている。
 が、残念なことに、こちらの眉間まで伸びてきた音波が、皮膚の表面を小突きはするものの、中に入り込んでチャクラを開くほどには至らないのである。つんつんつん、と何度もノックされるのだが、惜しいところで波は退いてしまう。いま一つ感動に達しない。
 どうもこれは、指揮の矢崎彦太郎や新交響楽団の技量のせいではなくて、この曲が持っている性質ゆえではないかという気がした。
 というのも、アージュニャー・チャクラに達した音波がいつも、「あと少し持続すれば」というところで、曲調が別の方向に展開してしまい、音波が途絶えてしまうからなのである。それが何度も何度も繰り返される。曲自体が集中力を欠いた子供のようにあちこち飛びすぎて、持続力がないのだ。
 この曲をレナード・バーンスタインは、「史上初のサイケデリックな交響曲」と述べたそうだ。確かに、他の作曲家や他の交響曲に見られないほど、「突飛で、ユニークで、天才的で、カラフルで、印象的で、幻想的」である。ベルリオーズの非凡は間違いない。
 一方、アヘンを吸って作曲したのではないかと言われていることが示すように、この曲は全体「支離滅裂で、わけが分からなくて、妄想的」である。ある意味、現代音楽のほうがまだ、現代人特有の感覚(不安や孤独や断絶など)や置かれている状況(不条理や虚無など)を表現しているところのある分、理解しうるエッセンスを持っていると思う。
 この曲は「幻想交響曲」というより「妄想交響曲」という感じがするのだ。
 幻想ならば、いつかは目が覚めて、真実に気づく時が来よう。しかし、妄想では舞い上がったまま永遠に降りてこない。そこに真実はない。
 ソルティがこの名高い曲に感動できなかった理由はそこにあるんじゃないかと思うのである。
 
 腹十二分目のせいもあるかもしれん。
 いつかリベンジしよう。

 
チャクラ2