日時 2016年10月1日(土)18:30~
会場 代々木オリンピックセンター・カルチャー棟小ホール
内容 「識の理解~仏教とはこころの勉強と育成です~」
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回は、仏教の基本的事項を網羅したアビダンマ風の講演であった。メモをとった用語をざっと見るだけでも、
  • 名(ナーマ)と色(ルーパ)
  • 欲界(六道)、色界、無色界
  • 業(カルマ)、行(サンカーラ)、識(ヴィンニャーナ)
  • 五蘊(色・受・想・行・識)
  • 心と心所
  • サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想 ・・・等々
 自分の知識や理解度を確かめるいい機会になった。同時に、仏法の基本の「き」だけでも、今一度体系的に学び直したいなあと思った。来年1月の社会福祉士国家試験が済んだら、ポー・オー・パユットーの『仏法』を読み直そう。

 さて、識とは「心」のことである。
 仏教では、「心」とは認識する働きのことを言う。何をどのように認識するかは問題ではない。「心」とは単純に外界なり内界なりを「知覚する機能」であって、そこに内容はない。生命であることの条件は、この「識=心=知覚する機能」を持っていることにある。
 人が、悲しくなったり、楽しくなったり、欲望でヒリヒリしたり、怒りでフツフツしたりするのは、「心」のせいではなくて、その都度その都度「心」に溶け込んでいる「心所」のせいであるとする。「悲しい」心所が「心」に溶ければ悲しくなるし、「怒り」の心所が「心」に溶ければ怒りとなる。心所とはいわば「心の成分」である。その数は54種類に分類されている。
 スマナサーラ長老は、心と心所の関係を、水と水に溶けている成分の関係にたとえられた。そもそもの水(H2O)には味も色もついていない。それが、たとえば水にコーヒーの粉が溶ければコーヒーになり、茶の成分が溶ければお茶になり、アルコールが溶ければ酒になる。すべてのドリンク(水溶液)は「水」という液体を溶媒とし、そこに何(溶質)が溶けているかによっていろいろな飲み物に分類される。
 ソルティは、テレビ受像機(心)とテレビ番組(心所)の関係にたとえて理解している。テレビ受像機は電波を受信して映像に変換する装置に過ぎない。そこに感情的要素はまったくない。文字通り‘機械的に’動いている。しかし、モニター(さすがにブラウン管はもうないだろう・・・)に映し出される番組の内容によって、視聴者は悲しくなったり、楽しくなったり、怒りにかられたり、物欲や性欲をたぎらせたりする。番組の映っていない砂嵐の画面なぞ面白くも何ともない。
 
 さて、巷でよく言う「心を知る」とはどういうことか。

 こころは認識機能なので、認識機能で認識機能を認識することはできません。
 
 つまり、「心を知る」ことなんて不可能である。

 心は、自らと同時に生起する心所を認識するのです。

 「心を知る」とは「心所を知る」ことにほかならない。
 「あっ、いま心の中に、悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲望がある・・・・e.t.c」とその場その場で心の様態を認識すること、すなわち「気づくこと」――これがサティ(念)である。

 「心を育てる」とはどういうことか。
 もうお分かりだろう。
 「心所を育てること」である。
 心所には54種類あると書いたが、これが善心所(24種類)、不善心所(12種類)、善悪どちらでもない無因心(18種類)に分けられる。むろん、育てるべきは善心所である。
 「怒り・欲・無知」に代表される不善心所を、「信や念や慈悲や智慧」に代表される善心所に変えていくことは、「心」の機能そのものを強化する。テレビの喩えで言えば、「良い番組をたくさん増やしていくことがテレビ受像機そのものの性能をアップさせる」といったところか。(現実にはあり得ない話だが・・・)
 善心所を育てて「心」の機能を強化することによって、

ありのままにものごとを認識することができて、真理を発見します。

 すなわち、「悟る」のである。

 そして、一番の善心所が何かといえば「サティ(念)=気づき」であり、サティを育てることで悟りに達せんとするのがヴィパッサナー瞑想というわけである。
 仕組みを聞いて、なんだか非常にすっきりした。
テレビと視聴者
 ここで面白いのは、というか気をつけなければいけないのは、瞑想によりサティの力が高まることが、「気づいている‘自分’がいる」という錯覚につながりやすいことである。「悲しみがある、喜びがある、怒りがある、欲がある」とある程度客観的に淡々と自分の心の中(心所)を観察できるようになると、観察者としての自分を立ち上げてしまうのだ。サティ(念)という心所が、ほかの53の心所から分離されて、あたかも「心所を24時間チェックしている自分がいます」という幻影を生み、マトリョーシカみたいに入れ子構造の「私s」がつくられる。

 しかし、それは間違いである。
 テレビ番組がニュース→天気予報→ホームドラマ→スポーツ番組→バラエティ・・・・・と時間帯で次から次へと変わっていくように、心に溶け込む心所もまた時々刻々移り変わっていく。喜び→物欲→怒り→悲しみ→無気力→性欲→賢者タイム→慈悲・・・というように。サティ(気づき)もまた、その流れの中に包含され繰り返し現れては消えていく心所の一つに過ぎないのである。
 サティをCM、それ以外の心所をテレビ番組と考えると分かりやすいかもしれない。
 視聴者は、たとえばサスペンスドラマを見てストーリーや役者の演技に心奪われ、恐怖や不安や興奮などの感情をかきたてられ、自らを登場人物のように感じて現実とフィクションの境界を忘れることがある。そんな瞬間、CMがやってきて視聴者をお茶の間の現実に引き戻す。「これはドラマだよ。フィクションだよ。少し頭を冷やしなさい」というふうに。サティとは、妄想からありのままの現実に人を連れ戻すCM――それもトイレに立ちたくなるような味気ない――みたいなものである。
 そして、朝から深夜までの放送時間中、CM枠をできるだけ多く入れていくことがヴィパッサナー瞑想の極意というわけだ。
 
 あまり適切な喩えでないかもしれない。が、少なくとも「気づいている自分、悟りに近い自分」という別のドラマを立ち上げてしまう牽制にはなろう。

Consciousness is not Self.
気づきもまた「私」ではありません。

 それゆえ、「私が瞑想をしている」という言い方は誤謬なのである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の内容のソルティなりの解釈にすぎません。