ispオケ

日時 2016年11月19日(土)19:00~
会場 杉並公会堂大ホール
曲目
  • ドヴォルザーク/《謝肉祭》序曲 作品92
  • ツェムリンスキー/交響詩《人魚姫》
  • ドヴォルザーク/交響曲第9番ホ短調 作品95「新世界より」
指揮 田中 健
入場無料


 「新世界」と言えば通天閣。
 通天閣と言えば串かつである。
 
通天閣


 もとい、「新世界」と言えば「家路」。
 「家路」と言えばキャンプファイヤーである。
 ソルティも子供の頃、仲間と火を囲んで歌った記憶がある。

遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん 
(作詞:堀内敬三)

 最後の「まどいせん」の意味がわからなくて、何か‘水道栓’に似た‘まどい栓’というものがあるのだろうと思っていた。一日の終わりに、点灯夫が街灯を消していくように、職人が一個一個‘まどい栓’を締めていくのを見るのが「楽しき」なのだろうと漠然と想像していた。
 もう少し大きくなってからは、「惑いせん」と解釈した。「さあ、惑いましょう」という意に。「楽しき」と「惑い」は矛盾する語彙であるが、おそらくこの「惑い」は「あれこれ考える」という意味なのであろう。忙しかった一日の終わりに、今日あったことをあれこれと思い出してはホッとくつろぐといった感じだ。
 「窓居せん」という正解に気づいたのはいつだったろう?
 謎はすっきり解けたのだが、「なんだつまらない」という落胆のほうが大きかった。
 この歌に限らず、子供の頃は歌詞の意味も知らずに(知ろうとせずに)歌っていることが多いものだ。「仰げば尊し」とか「蛍の光」なんかもそう。「君が代」もしかり。言葉の意味や歌詞ではなく、メロディと語感のマッチングの妙を味わう楽しさがあったのだ。

 「家路」にはもう一つ野上彰による作詞もある。

響きわたる 鐘の音に
小屋に帰る 羊たち
夕日落ちた ふるさとの
道に立てば なつかしく
ひとつひとつ 思い出の
草よ 花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ

 どっちがいいか、歌うまでもなかろう。
 最後のフレーズは「まーどいーせん」以上にしっくりくる言葉は考えられない。

 さて、ISP (Innovation in Sounds Philharmonic)は、2015年11月に旗揚げ(っていうのかオケの場合も?)した新生オケで、『音楽を通して新しい「価値視点」を実験する』という、野心的かつ創造的なミッションを掲げている。
 その言や良し。
 どうやら、指揮者の田中健(1977年生まれ)が中心となって立ち上げたらしい。

 旗揚げ公演は、気になりつつも残念ながら行けなかった。
 2回目となる今回、杉並公会堂大ホールの1階は8割ほど埋まった。ざっと600人くらいか。2回目の公演でこれだけ集められるのは、(入場無料であるにしても)すごいことだ。
 会場は老若男女のバランスが良い。世代を超えて愛される一番の音楽はやはりクラシックなんだろうなあ。
 舞台向かって右側、前から10列目あたりに腰を据えた。

 《謝肉祭》は、躍動感あふれる曲で、コンサートの最初に持ってくるのにぴったり。うまくいけば、観客を一瞬にして演奏に引き込むことができる。
 ここで、ISPオケの思い切りの良さ、熱のこもった演奏を実感した。いや、体感した。「失敗を恐れずに全身全霊で」というのが信条なのかもしれない。気合いのこもった音は気持ちいいものである。

 《人魚姫》は、だれもが知ってるアンデルセン童話である。
 
陸の上の王子様に恋した人魚姫は、声と引き換えに魔法によって人間に変身し、お城に住み込む。しかし、憧れの王子様は別の女性と結婚することになり、人魚姫の命は風前の灯し火。助かるためには愛する王子を魔法の剣で殺さなければならない。人魚姫は迷った挙句、自らの命を犠牲にし、海の泡と消えゆくのであった。
 
人魚姫

 
 悲しい話である。
 ヴェルディの『椿姫』同様、失恋と自己犠牲という二大催涙ポイントを抑えているところが、この童話の永遠の人気の秘密であろう。
 ツェムリンスキーの音楽ははじめて聴くが、名前だけはどこかで見た覚えがあった。
 配布されたプログラムを読んで合点がいった。
 
ツェムリンスキーの弟子には、ヴァイグルやコルンゴルドらがいたが、注目すべきはアルマ・シントラーとの関係である。二人は一時期恋仲であったが、最終的に彼女はグスタフ・マーラーを選ぶ。結婚式は1902年3月9日に行われたが、ツェムリンスキーが《人魚姫》のスケッチを開始したのはちょうどその数週間前のことだった。彼の失恋がこの作品と結びつけて論じられるのはこうした理由からである。
 
 そうか。マーラーの伝記を読んでいて出会った名前だ。
 社交界一の美女アルマに一目惚れしたマーラーは、音楽業界では下位のツェムリンスキーからアルマを奪った。アルマもそれを良しとし、ツェムリンスキーを捨てたのである。
 恋する王子様を他の女に奪われ絶望したものの、苦悩の末に自己犠牲を選んだ人魚姫と、恋するアルマを師匠とも仰ぐマーラーに奪われ絶望したものの、二人を許して身を引いたツェムリンスキーとは、まさに同じ境遇の悲劇の主人公だったのである。
 その意味では、この曲には作曲家自身の体験や感情の裏打ちがある。
 
 そうと知って聴いたからかもしれないが、名曲である。
 美しく、切なく、悲しく、ヴィジュアルを喚起する。全編、海の風景が浮かんでくる。バレエにしても面白いのではないだろうか?
 全楽章通じて繰り返し登場する美しくも艶かしい「人魚姫のモチーフ」こそは、マーラーの「アルマのテーマ」と酷似している。つまり、ツェムリンスキーが人魚姫の音楽的モデルとして想定したのは、自分を捨てた(だが今も愛している)アルマだったのではないかと思う。
 なんともいじらしい(いじましい?)男心よ。女性にはわからんだろう。
 
 ISPの演奏は、波のようにダイナミックで、北欧の海の暗さと冷たさと神秘性とが宿っていて、見事な描写であった。

 面白いのは、この曲の楽譜はツェムリンスキーの没後(1942年)行方不明になってしまい、1980年になってウィーン(第1楽章)とアメリカ(第2、第3楽章)で発見されたとのこと。蘇演は1984年。
 実に40年以上経って人魚姫は蘇ったのである。もちろん、今度は自分がコキュ(cocu)にされたマーラーも、マーラー亡きあと多くの男達と浮名を流したアルマも、とうに昇天している。
 人生は短し、芸術は長し、女は強し。
 
 ラストの《新世界》
 ここ最近ソルティが聴いたアマオケの曲の中ではトップクラスの名演であった。
 曲そのものの偉大さをくっきりと浮き立たせるスケールの大きい演奏で、新鮮さ、驚き、迫力、郷愁、甘美、哀愁、素朴な信仰、勇ましさ、雄大な自然、活気ある庶民・・・といった「新世界(=全米)」的要素が見事に描出されていた。「家路」(第2楽章)の美しさは目頭を熱くした。
 指揮者の曲に対する愛情と理解の深さのほどを察しられる熱演。
 また、コンサートマスター鈴木悠太のヴァイオリンの艶ある音色とリーダーシップ、コントラバス奏者の音楽と一体になったかのような白熱ぶり――あれほど激しく揺れ動くコントラバスは見たことがない――も印象に残った。
 次回も聴きたいオケの一つとなった。 
 
 クラシック音楽は‘気’を活性化すると前に書いたが、今回のコンサートでは二曲目の《人魚姫》でいきなり胸のアナハータチャクラに強いうずきが生じた。(過去の失恋経験の蘇りか) それが曲の最後までずっと続き、クライマックスで海の泡となった人魚姫が空気の精となって天に昇っていく場面で、まさに胸の‘気’が喉を通過して額の中心(アージュニャーチャクラ)に昇った。ピコピコ点滅する光は曲の終了とともに頭頂に移動し、頭のてっぺん(サハスラーラチャクラ)が温かく明るい雲に覆われたかのようにボワッとなった。
 そのまま休憩入りして、《新世界》では頭頂に憩うていた‘気’の塊が「家路」で最高潮の輝きを放ち、第3楽章の民族音楽風スケルツォで背中をスッと下りて、第4楽章のホルンとトランペットによる勇壮な第1主題で「ありのとわたり(陰部と肛門の間、ムーラダーラチャクラ)」をパコパコと圧迫した。なんともこそばゆい、気持ちいい感覚。
 その後、生殖器(スワディシュターナチャクラ)にしばらく留まった‘気’は、全曲の終了とともにへその下の丹田(マニプーラチャクラ)に終着した。
 つまり、体の前面から始まって、上昇し、頭頂を通って、背面を下降し、股下を通って前面に戻る。上半身を後ろ周りに一周したのである。
 これは気功でいうところの「小周天」というやつらしい。
 
 気の流れが良くなったせいか、会場を出たソルティの目に、夜の杉並の街は輝いて見えた。
 あたかも「新世界」のように。