2016年河出書房新社刊行。

 喫緊の社会問題にして極めてパーソナルな問題でもある老人介護についての本である。
 80歳にならんとする両親(おかげで二人とも健康)を持ち、老人ホームで働いている介護士であり、加えて仏教徒でもあるソルティにとって、まさに自分のために書かれたような本である。
 スマナ長老は以前に、『老いと死について さわやかに生きる智慧』(大和書房)という本を書いている。ブッダの教えをもとに、誰にとっても避けられない老いと死を、賢く冷静に穏やかに迎えるコツを助言されている。本書はその続編とも姉妹編とも言える内容で、今度は立場を変えて、老いや死の只中にある親に対して子供はどのように向き合ったらよいか、どのような心構えで介護したらいいかを説いている。なので、両冊揃えて読むといいと思う。
 今回もまた話のポイントとなるのはブッダの教えである。生老病死は仏教の中心テーマであり、生老病死の苦しみからいかにして脱するかを説いたのがブッダだからである。仏教の独壇場と言っていい。
 まず、仏教では老いや死をどうとらえているか。

 そもそも、仏教においては「生」と「死」は同義語であり、いわばコインの裏表のような関係です。生きることは、死ぬことなのです。生きている以上、最後に待ち受けているのは死です。その事実は決して変わりません。私たち“人”は、毎日毎日、一歩一歩、生きることによって死へと近づいています。今生きているということは少しずつ死んでいっているということです。
 そうした観点から言えば、「老いる」という発想自体がありません。
 私たちは、ただ変化しているだけです。

 お釈迦様はこう言っています。
「年をとる、老化する、死に向かって生きていくという現実を素直に認め、認識できる人こそ、この世でもっとも幸せに生きられる人である」
(以上『老いと死について さわやかに生きる智慧』より引用)
 
 老いや病気を不幸だと思わないこと。
 いまある状況を、自然な変化なのだと考えること。
 (本書より) 

 これが大前提である。
 老いや死に直面している当事者はむろんのこと、彼らを介護する者もまた上記のことをしっかりと認識して心に落としておけば、不安や恐れや苛立ちを乗り越え、できることを淡々と理性的に行うことができる。来るべき最期に向かってソフトランディングできるのである。

 以下、ソルティが心に留めた介護する者へのアドバイスを引用する。

1. 美しく諦めること
 
 介護問題に直面した人は、それは業が自分に与えた宿題であると思い、正しく対応すれば、介護を受ける側もする側も幸福で穏やかにいられるのです。
 運命を自分の思いどおりに変えることは不可能です。それにも法則があります。運命または業に真っ向から抵抗するのではなく、現実を受けとめるという「諦め」が必要なのです。
 仏教用語の「諦め」は、降伏という意味ではなく、状況を理解して納得することを言います。

 Never Give Up(決して諦めるな)は、長嶋的ではあっても、仏教的ではない。諦めが悪い人のことを「往生際が悪い」というが、まさに「生」に対する執着を表す言い回しである。
 本来、「諦める」は「明らむ」、つまり「物事の真理を明らかにする」ことなのだ。


2. 認知症への処し方
 
 脳の機能がかなり低下している場合も、介護する人の感情はちゃんと伝わっています。認知症の介護における救いはそこにあります。
 知識が通じなければ、「感情」でコミュニケーションすればいいのです。

 まさにその通り。ソルティも5年の介護経験を通じてコツを習得した。逆に、このコミュニケーションスタイルが身についた結果、認知症でない高齢者に無意識にこれを適用してしまうと、意外に嫌がられるのである。普通の大人は、知識や理屈で感情を糊塗する傾向があるからだ。


3. 介護は修行

 介護者は、自分の目の前で、刻々と死に向かって進んでいる人の姿を観察することになります。すると「生きるとはいかに虚しいのか」とありありと見えてきます。

 さらに観察すると、それでも人は「生きていきたい」と願い、弱く衰えた身体にしがみついて生を渇望する「存在欲」が見えてくるはずです。「人生とは何か?」と、まざまざと観察するのだと言えるでしょう。

 自分が4K(危険、きつい、汚い、給料安い)と言われ、一般に人気のない介護の仕事を続けていられるモチベーションの一つは、それが「修行になる、善行為になる」というところにある。ブッダの四門出遊のエピソードに象徴されるように、「老」「病」「死」を深く観察することが「道」へと人を誘う。その意味で、介護は「他人のため」ではなく、「自分のため」である。

 すでに数百人となった利用者との出会いと別れの中で、「いったいどういう老い方が一番幸福なんだろう?」「どういう最後が楽なんだろう?」と問い続けてきた。それは結局、「どういう生き方が一番幸福なんだろう?」につながるわけだが・・・。
 今のところ一つ自信を持って言えるのは、「結局最後にモノを言うのは、その人の性格だ」ということ。老人ホームに入って、家族も知り合いも遠のき、財産も学歴も業績も地位も関係なくなり、暇をつぶしてくれると同時にアイデンティティの源泉にもなった様々な道具立て(酒や趣味や仕事や特技や家事)も身体的・環境的変化によって奪われていく。最後まで残るのは性格だけなのだ。認知症になっても性格はちゃんと残る。
 性格がいい人は幸福である。本人も自分の環境を受け入れて穏やかに過ごせるし、性格の良さゆえに介護者からも優しくケアされるから、ますます幸福度が増す。
 老人ホームというまったく同じ環境の中にあって、そこを天国とするも地獄とするも、その人の性格次第という面は少なからずある。むろん、介護保険の制度や施設運営自体にも改善の余地は山ほどあるけれど・・・。


4. 傲慢をなくす
 
 仏教では、病気で倒れている人や不幸で力を失っているような人を見たら、このように考えます。「これは生命本来の姿なのです。私も同じです。私もいつかこうした状態になる可能性は高いのです。私も老いて死にます。この方々は私に、私の将来を見せてくれているのです」
 こう思うと傲慢さがなくなり、自分自身をいたわるように、相手のお世話をする気持ちになれるのです。

 ソルティのような中高年スタッフのメリットの一つは、対象となる高齢者との年齢差が(比較的ではあるが)小さい点にある。世代間ギャップが小さいから、若い世代たとえば平成生まれのスタッフに比べれば、通じる話が圧倒的に多い。昔の風俗や習慣、昔の歌や映画やスター、昔の出来事や風物や食べ物、昔の価値観など、共通ネタや共感できるテーマが多い。それらが、相手の考えや気持ちを理解するときの手がかりになることも少なからずある。
 また、自分もまた老いの入口に入ったことで、頭が働かなくなることや身体が言うことを聞かなくなることを身をもって実感しつつある。メンドクサイ文明から取り残されていく不安と淋しさも感じつつある(最近ついにスマホを解約した)。老いは他人事ではない。‘ゴーマンかまして’いる場合じゃない。


5. 介護の最終目的 

 誤解を恐れずにあえて言えば、私は介護の最終目的、最良の介護とは、親を幸せに死なせてあげることだと思っています。

 介護でいちばん大事なのは、心の悩みをなくすことです。
 親の気持ちを常に安らいだものにしてあげること。やさしい言葉をかけ、笑顔を向けること。・・・・・・
 最高の心のケアとは、この世に対する執着をなくせるように、アドバイスをすることです。

 「これぞスマナ節」の大胆発言。
 だが、これこそ仏教の核心である。良い転生(生まれ変わり)を繰り返した挙句の果てに輪廻から解脱すること、もはや二度と生を受けないことが、仏教の最終目的だからだ。そして、良い転生を得るには、幸せな最期を迎える必要がある。亡くなる瞬間の心の状態が次の転生先を決めるとされているからである。
 

 こうしてみると、仏教は本当に近代西洋社会の価値観とはズレていることが分かる。
 近代西洋社会の特徴は、①個人主義、②進歩主義、③合理主義、④民主主義、といったところにある。このうち③と④は仏教の価値観とそれほど齟齬をきたさない。仏教――少なくともテーラワーダ仏教では合理的であることを重視する。神秘主義や実証されない事柄への信仰をありがたがらない。「カーラマー経」の教えに見る通りだ。④も、出家の集まりであるサンガが非常に民主的に運営されていたことから立証されよう。
 問題は①と②である。
 西洋の個人主義は、自己の発見(コギト・エルゴ・スム)と自己の確立から、「自己主張」「自己実現」「自己決定」への道を切り拓いた。端的に言えば、「自己」の絶対化・固定化である。これが仏教の「諸法無我」と袂を分かつ。仏教では「自己」は幻想であり、自己の固定化こそが苦しみの要因であるとする。
 次に、進歩主義は、植民地主義や資本主義のバックボーンとなったと同時に、個人においては夢と野心の追求(=利益と欲望の充足)を許すことになった。これが環境破壊や資源枯渇、個人においては精神的ストレスを生んだ。この進歩主義の背景には、ダーヴィンの進化論はじめ近代科学の発展が大きく作用していることは言うまでもない。一方、仏教は末法思想や輪廻転生思想に見るように、進歩主義を採らない。人類は(生命は)智慧を開発しない限り、無明に置かれたまま永遠に転生を繰り返す。そして、智慧とは「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」。一切が変化して、一切が苦であるなら、そこに進歩などあり得ない。
 そこで―――だ。

 そこで、現代の日本の福祉制度の理念および制度体系は、アメリカやイギリスやドイツや北欧諸国などの近代西洋社会がつくった枠組みに則っている。これは、文明開化後の日本が西洋をモデルとし、戦後の日本の制度全般がGHQによって彫琢されたことの延長上に、そして戦後日本社会および日本人の価値観がアメリカナイズされたことの帰結としてある。イスラム教国と比較してみれば分かりやすい。日本は近代西洋文明の末席(?)に連なっている。個人主義、進歩主義は、現代日本人の意識を規定している。
 介護の世界においてもそれは浸透し、利用者の「自己決定と自己実現」は金科玉条のごとく唱えられている。最後まで自己の可能性を追求してやりたいことをやって死ぬのが理想という考えも広まっている。いつまでも若く、いつまでも美しく、いつまでも強く、いつまでも青春で、いつまでも輝いて――。
 平均寿命が90歳に至らんとしている昨今、ある程度まではそれも良いと思う。
 しかし、誰の生の最後にも「死」という着地点がある。
 今の日本の介護現場、日本人の「老い」は、太陽という輝かしい「生」を目指して右肩上がりに飛び続けるイカルスみたいだ。老いて病んだ人を「生」の側に押し戻そうとひたすら努力している。その結果、多くの老人たちは、死や老いについての心構えも準備もないままに、それといきなり直面することになり、パニックに陥る。太陽の熱で翼が溶けたイカルスさながら、錐揉みしながら「死」に向かって墜落していく。まるでゼロ戦のように。

 なぜ、ソフトランディングという選択をしないのだろう?

Icarus3
マルク・シャガール作「イカロスの失墜」