2015年亜紀書房発行。
団塊世代が75歳以上の後期高齢者になるのが2025年。それ以降高齢化率は上がりつづけ、2060年度の予測で人口の4人に1人が75歳以上という超高齢社会がやってきます。この時病院や施設に入れないで亡くなる「看取り難民」とも言われる人びとは、2030年にピークを迎え、47万人にものぼると言われています。こうした状況を踏まえて、すでに政府も、病院から在宅死の方向にギアチェンジしています。この時に問題になるのは、家で死にたいと思っても、もはや看取る家族がいないということです。(本書より引用、以下同)
すでに社会問題となっている高齢者の孤独死や、老老介護の行き詰まりから起こる高齢夫婦の相方殺しあるいは心中。「看取り難民」はほうっておけば増加する一方である。
どうしたら、長年住み慣れた我が家で、必要な介護や医療を受けながら‘おひとりさま’でも安心して幸福に最期を迎えることができるのか。
人生の秋の声を聴いた者なら誰もが気になるこの問いについて、‘おひとりさま高齢者’の一人として高い当事者意識を持つ論客にして活動家たる上野千鶴子が、各地で先進的な在宅看取りケアの仕組みを創り上げ今まさに実践中の11人のプロフェッショナルにインタビューする。11人の取り組みは成功モデルとしてマスメディアにも取り上げられ業界内で話題となり、他地域で追随者を生んでいる。いわば、在宅看取りケアのカリスマたちである。
11人の顔ぶれ。
医師系
- 山崎章郎(やまざきふみお)・・・1947年生。東京都小平市で在宅診療専門の「ケアタウン小平クリニック」開設。在宅ホスピスケアを実践している。
- 松村真司(まつむらしんじ)・・・1967年生。東京都世田谷区にある松村医院院長。地域の在宅医療に力を入れている。
- 英裕雄(はなぶさひろお)・・・1961年生。新宿ヒロクリニックを開設。地域の在宅療養を専門に活動を続けている。
看護師系
- 秋山正子(あきやままさこ)・・・1960年生。訪問看護師。㈱ケアーズを運営し、新宿区の在宅ケア(訪問看護&訪問介護)に携わっている
介護師系
- 小山剛(こやまつよし)・・・1955年生。新潟県長岡市の高齢者総合ケアセンター「こぶし園」の総合施設長。介護が必要な高齢者を「施設」から「地域」に戻す活動を進めている。
- 高口光子(たかぐちみつこ)・・・熊本県内のいくつかの介護老人保健施設の看護・介護部長をつとめながら全国各地で講演活動を行っている。三好春樹と並ぶ介護業界のカリスマの一人。
リハビリ系
- 藤原茂(ふじわらしげる)・・・1948年生。作業療法士。各地にデイサービス「夢のみずうみ村」を開設し、ユニークなプログラムやサービスで利用者のADLを高め人気を集めている。
住宅提供系
- 近山恵子(ちかやまけいこ)・・・1949年生。一般社団法人「コミュニティネットワーク協会」理事長。「友だち村」「ゆいまーる」シリーズ等、多くの高齢者住宅をプロデュースしている。
NPO系
- 柳本文貴(やぎもとふみたか)・・・1970年生。NPO法人「グレースケア」設立。介護保険制度の枠を越えたホームヘルプ事業を東京都三鷹で展開中。
- 柴田久美子(しばたくみこ)・・・1952年生。一般社団法人「日本看取り士会」代表。看取り士として、依頼者が余命告知を受けてから納棺に至るまでの人生最期のプロデュースを行っている。
- 市原美穂(いちはらみほ)・・・1947年生。民家を利用したホームホスピス「かあさんの家」を宮崎県内で開設し、一人暮らしが困難な人たちの最期を支えている。
11名の保有資格や本来の専門分野が様々であるところが本書の魅力の一つである。異なった立ち位置や視点から在宅看取りケアの周辺や課題を学ぶことができる。と同時に、対談相手の多様性は、在宅看取りケアは一つの専門職だけで担えるものではないということの表れでもある。当事者の家族、友人、近隣住民、ボランティアらも含めたネットワークの構築、連携が大切なのである。
上野はあとがきでこう述べている。
本書に登場するひとびとに話をお聞きして、わたしの得た最大の成果は、「安心」でした。こうすればおひとりさまでも家で死なせてもらえる、と。
残念ながらソルティはそれほど「安心」できなかった。
医療や介護保険の制度では埋めることのできない制度の谷間で、ほとんど持ち出しに近い博愛精神で当事者本位の取り組みを実践している人たちが各地にいることはとても心強く、「人間捨てたもんじゃない」と思う。頭が下がる。
しかし、読んでいると、やはりここでも最後に物を言うのはお金である。在宅ひとり死を可能にするには、家賃や生活費は別として、(月額20万円×余命月数)は必要と上野は試算している。むろん、介護保険をしっかり使っての話である。
不動産(持ち家)も貯蓄もないソルティのような‘貧乏おひとりさま’は、このまま歳をとって体を壊して仕事ができなくなったら年金だけが頼りである。当然年金だけで暮らしていけない。それもこの先どう目減りしていくか分かったもんじゃない。いざとなったら生活保護という手もあるけれど、これもまたこれから先受給者数や受給額が抑制されることはあってもその逆はまずないだろう。月額20万なんてとてもとても・・・・。
持ち家がないということは「我が家で死にたい」という欲求の持ちようもないわけで、そこは何らこだわりは持っていない。「家で死にたい」という上野の切実な思いには正直共感できない。が一方、「施設に閉じ込められて‘健康維持’の名目のもと、あるいは‘集団生活’の大義名分のもと、いろいろと制限され管理される最期はいやだなあ」と真底思う。(介護施設で働きながらそう思わざるをえないのがつらい・・・)
今の制度のもとでは、生活保護になったらまず間違いなく最期は介護施設か病院送りになるだろう。
いっそ冬山にでも行くか・・・。
いっそ冬山にでも行くか・・・。
お金があれば、そこは選択の余地がある。死ぬまでワガママの言える高級有料老人ホームに入居することもできれば、全額自費で24時間付き添いの看護・介護を雇うこともできよう。医療保険・介護保険でカバーできない部分を本書に紹介されているような社会資源を活用しながら、最期まで自宅で暮らし看取られることもできる。
「上野が安心できるのは、やっぱり金持ちだからなんだろうなあ~」と皮肉の一つも言いたくなる。しかもソルティと違って人脈豊かだし・・・。
自業自得か(爆)
自業自得か(爆)
施設でもなく、病院でもなく、我が家でもなく、「安心」して幸福に死ねる道ってないのか?
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カンポンさんの存在は、「迷想者の散策記」さんのブログで知り、著書も読みました。
まさにブッダの言われる、「第2の矢を受けない」の代表的な例だと思います。
「肉体的な苦しみは受けても、精神的な苦しみは受けない」・・・と言う。
幸せの絶頂から、地獄の苦しみへの転落・・・読んでいるだけで、悲壮な感じになりました。それでも人間は、(地獄の中を)生きて行かなければいけないのですから・・・。
何より感じたのは、業(行為の集積)の恐ろしさです。この世に生きている限り、何が我が身に降りかかってくるか分かりません。
瞑想が深まり、最近思うのは「実は、今生きているこの世界が「地獄」と言う世界なのではないか」・・・と言う予感です。
経典に説かれる「地獄の様相」は、全てこの世界に揃っていますよ。
そう考えたら、もう「二度と、この世界には戻って来たくない」・・・と言う気持ちが強くなりました。でも、自分の業をよくよく考えたら無理かな・・・とも思います。
「さとり」を得るほど、立派な人間じゃないし・・・。せめて自分に出来ることは、死ぬまで瞑想とか頑張って、「預流」(よる)の片隅にでも入ることが出来たら上出来かな・・・そんな気持ちです。
何より、今生で「ブッダの教え」に出会えた事が、一番の幸運だったと思っています。