日時 2017年6月3日(土)14:00~
会場 日暮里サニーホール
主催 日本テーラワーダ仏教協会

 今回のテーマは性格について。
 仏教では、性格を語る上では業についての理解が欠かせない。性格と業は切り離せないのである。

 業とは行為(身・口・意)でありカルマである。我々が毎瞬毎瞬、体・言葉・心で行っているあらゆる行為(=業)は、そのまま、それに応じた結果をもたらすポテンシャルエネルギー(潜在力)を形成する。それがカルマ(=業)である。カルマを理解しやすい一番の例は、食べ物と体との関係じゃなかろうか。良い物を食べれば健康になり、悪い物を食べれば病気になる。結果をもたらすまでに体内で起こっている一連の活動――咀嚼、消化、吸収、分解、各組織への運搬e.t.c.――が潜在力である。
 カルマは、一つの生の中である程度のタイムスパンを持って起きている。たとえば、煙草の吸い過ぎでガンになった、というように。一方、複数の生をまたいでも作用している。それが輪廻転生と言われるものだ。たとえば、今生でグルメの限りを尽くしたけれど食欲が満たされることなく肥満が原因で亡くなった⇒⇒⇒来世で豚に生まれ変わる、といったように。
 「因があって、業を形成し、果を生じる」というカルマシステム(=輪廻)は、秒刻みの短いスパンから、何世紀にもわたる長いスパンまでを包含する概念なのである。

 仏教では「生命は業から生まれ、業を相続する」とする。過去に作られた業ゆえに我々(生命)はこの世に生れ落ち、その業の内容に応じて一人一人の置かれている環境に違いが生じている。つまり、人が先天的に持っている資質や生まれつき与えられている環境は業の働きによる。本人には選ぶことのできない・変えることのできない部分である。
 性格もこの業の一つなのだと言う。

 各生命の個性は業が作ります。性格とは業が個人のために作ったOS(Operation System)です。(スマナ長老の言葉、以下同)

 なので、基本性格は生涯を通じて変わらない。自分や他人の性格を変えようと努力しても無駄ということだ。
 だが、性格をまったく変えられないかと言えばそうでもない。基本性格は変えられなくとも、そこに上乗せすることができる。

 OSの上に人は自由にアプリケーションソフトをインストールし、環境を管理することで、好みの性格に変えられます。 

 このときアプリケーションソフトとして使えるものが、「家族・育ち・教育・他人の影響・年齢・職業・住む場所等々」、いわゆる後天的要因である。これらが因となって業を形成することで、‘性格の変化’という果をもたらすわけである。先天的なものと後天的なもの――性格は「2段構え」と言うことができる。

 性格に良し悪しはありません。業なのでポテンシャル(潜在力)が合理的で正しい結果を出します。

 仏教では結局、新たな業を作らず、業の影響から逃れ、次の再生を遮断すること(=解脱)を最終目的としている。なので、優秀なアプリケーションソフトを搭載して世間的に「良い性格」と言われているものを身に着けたところで、「そんなことしても意味ないですよ。生まれ変わりますよ」ということなのだろう。
 仏教における性格の完成とは、「新たな業をつくらない」ことにある。

 性格を完成する道は、以下の通りです。
    • 戒・定・慧を身につける。
    • まず善行為から始める。
    • 五戒を守る。
    • 慈悲喜捨の実践や呼吸瞑想。
    • ヴィパッサナー瞑想。

 さて、上記の修行を積むことで、新たな業が形成されず、悟りに達し解脱したとする。仏道修行の最終目標である阿羅漢になったとする。
 阿羅漢には業がないのであろうか? 性格がないのであろうか?

 そうではない。
 阿羅漢といえども過去の業を消すことはできない。過去に自らが起こした行為の結果は、生きている限り、その身に受けなければならないのである。
 999人殺しの大悪人アングリマーラの逸話が有名である。ブッダに出会って改心し、仏弟子となって修行に励み阿羅漢になったけれど、アングリマーラ長老の身の上には不可解な事故がついて回った。托鉢している最中、農夫が鳥や犬を追い払うために投げた石や棒がなぜか長老の頭に当たって出血したり・・・。それを嘆くと、ブッダはこう言った。

「堪えなさい。あなたは、行為の結果として何十万年も地獄で受けるはずの結果を、現世で受けているのです」(中部86)
 何十万年も地獄で受けるはずのカルマが、棒が当たって頭が割れたくらいで済むはずがありません。来世以降に地獄で受けるはずの悪いカルマはなくなってしまったけれど、今生で受ける分のカルマはどうしても避けられず、受けてしまうということです。(藤本晃著『悟りの階梯』、サンガ発行)

 同じように、過去生の業の結果である今生の基本性格は、阿羅漢になっても消えることがない。OSである以上、生きている限りはずせない。
 別記事で阿羅漢の多様性(=個性)について考察し、クリシュナムルティの言を引用した。曰く、「最終的な悟りに至っても独自性(Individual Uniqueness)は残る」と。
 カルマシステムの観点からこの「独自性」を解き明かすことができるのである。

 我々修行者がやっていることは、後から搭載した「自己」という名前の数々のアプリケーションソフトを一つ一つはずしていって、最終的にOSだけの状態に立ち返ることなのであろう。 

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 最後にスマナ長老からの心が明るくなる一言。

人間なら皆、良い業を持っています。

 仏道修行のできる人間として生まれたことが途轍もない福音なのである(キリスト教的?)。



サードゥ、サードゥ、サードゥ



※この記事の文責はソルティにあります。実際の法話の主観的解釈に過ぎません。