1907年原著刊行。
 1995年岩波文庫より邦訳発行。

 E.M.フォースター(1879‐1970)が我が国で有名になったのは、彼の小説が80年代に次々と映画化されヒットしたことが大きいだろう。巨匠デビッド・リーンによる大作『インドへの道』(1984)を嚆矢とし、名優ヘレナ・ボナム・カーター主演の『眺めのいい部屋』(1985)、ヤオイ(現BL)女子を虜にした『モーリス』(1988)、英国アカデミー作品賞に輝いた『ハワーズ・エンド』(1992)。英国上流社会の日常および人間模様をユーモアと皮肉たっぷりに格調高くオシャレに描き、美しい青年たち(しばしば裸体あり)と美しい映像とをふんだんに盛り込んだ‘ハイブロウな’映画群は、バブル全盛の六本木や銀座や渋谷の単館ロードショーに多くの女性客を集めたものである。ソルティもこれらの映画を見て俄然フォースターに興味をもち、あとから小説を読んでいったクチである。
 惹かれた理由は、『モーリス』を観て明らかになった。
 E.M.フィースターはゲイだったのである。
 だがそれは生前、公にされなかった。死後、同性愛をテーマに据えた自伝的色合いの濃い『モーリス』が陽の目を見てはじめて、明らかになったのである。
 そして、そこを転轍点として、上記のフォースターの一連の作品群の読み直しが始まった。作者の生前あまり高い評価と人気を得ることがなくパッとしなかった『果てしなき旅』もまた、新たな光のもと読み直されるようになった。
 このあたりの事情を、岩波文庫の訳者の高橋和久は解説で次のように書いている。

 現在、おそらく死後出版の『モーリス』(1971)を手にできるようになってから、『果てしなき旅』へ注がれる眼差しは、以前とは決定的に変わってきたと言わねばならない。専門研究者たちのフォースター批評の変遷を辿る必要も余裕もないが、この作者のヴィジョンの秘密に新しい角度から新たな関心を引き寄せたのである。例えばリッキーとアンセル、或いはスティーヴンとの関係の描写に同性愛の傾向の反映が容易に看て取れるであろうし、アグネスはほとんど一貫して、言ってみれば男同士の交わりに敵愾心を燃やし、またそれを妨害するように行動する存在として描かれていると言っていい。

 つまり、ゲイ的視点からのテキスト解釈、作品研究の必要性が浮上してきたというわけだ。作家(芸術家)のセクシュアリティがその創作物に及ぼす影響の無視できないことが前提として了解されているがゆえである。サド侯爵しかり、ミケランジェロしかり、チャイコフスキーしかり、三島由紀夫しかり、谷崎潤一郎しかり、ヴィスコンティしかり、木下恵介しかり・・・。
 今回ソルティがこの小説を読むにあたって、フォースターのセクシュアリティは先刻承知なので、はじめから‘組合仲間’としての感性や視点から読むことに何らためらいはなかった。
 結論として、高橋が述べているように、男性登場人物間の「同性愛の傾向の反映」は明らかであると思う。それどころか、この小説は全体として『裏・モーリス』あるいは『モーリス前哨戦』と言っていい。1907年時点の英国社会において、作家デビュー間もない28歳の若さにあって、フォースターが自らの最も書きたいこと――それあるゆえに物書きとなった最大の個人的テーマにして心の奥底にある宝物――をさらけ出せる、最大ぎりぎりのところがこの小説だったと思われる。作者自身こう述べている。

 ここでは他のどの作品の場合より、自分の精神のなかに宿っていたものに、というよりむしろ、創造の衝動が火花を放つ精神と心情とが結合するあの場所に、ずっと近づくことができた。(本書解説より抜粋)


 『果てしなき旅』というタイトルは、作中で引用される英国の有名詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)の次の詩から取られている。

わたしは大いなる一派に加わらなかった。
各人、世界から一人の恋人か友人を選べ、
その他のものは、たとえ美しく賢くとも
冷たき忘却の淵に、と教え説く一派には。
これぞ現代の道徳の規範にして、哀れな
奴隷たちの疲れた足が歩むべき道なれど。
死者の群の間を縫うようにして、かれら
世界の大通りを歩み、わが家へと旅する。
それは、一人の悲しげな友人と、そして
ときとして一人の嫉妬深い仇人を伴った、
陰鬱きわまる、どこまでも果てしなき旅
(本書より。ゴチックはソルティ付す)

 シェリーの自由奔放で道徳に縛られない華やかな女性遍歴を鑑みるに、この詩の意味するところは結婚制度や家族制度の否定であろう。シェリーにとっては、恋愛当初の愛の炎も鎮火したのに結婚制度の一夫一婦制に縛られ、義務と道徳にしたがい陰気で退屈な共同生活を送るのは、魂の死に等しい「果てしなき旅」と映ったのである。さすがロマン派である。(それもこれも当人の美貌と才能と家柄あってのことだ)

pshelley
パーシー・ビッシュ・シェリー

 フォースターもまた結婚制度に懐疑的だったわけだが、その理由がシェリーのようなドン・ファン的気質から来るものでないことはもはや明らかである。

 小説化志望の主人公リッキー(フォースターの分身である)は、シェリーの詩を愛し賛嘆した幸福な青春時代に別れを告げ、心の通じ合った学友アンセルの忠告も聞かず、幼なじみのアグネスとの結婚生活に身を投じる。それは肉欲を伴った恋愛感情というよりも、恋人を事故で失ったばかりのアグネスに対する同情および見当違いの女性幻想に基づく動機からであった。
 はたしてリッキーは墜落していく。
 自分の血を引いてびっこに生れた赤ん坊とその早過ぎる死、興味も適性もない学校の仕事で機械的となった生、創作への情熱の喪失、妻アグネスとの関係悪化、アグネスの兄ペンブルックや強引で利己的な叔母による心理的支配と世俗化・・・。父親違いの粗野な弟スティーヴンの出現に戸惑い、彼をアグネスの勧めに従い金で追い払うに及んで、ついにかつての親友アンセルから絶交をつきつけられる。まさに「陰鬱きわまる、どこまでも果てしなき旅」である。
 
 そんなリッキーを土壇場で救うヒーローとなるのが、リッキーとは育ちも風采も性格も正反対の野生児スティーヴンなのである。
 さまざまなしがらみに絡め取られ、魂が死にかかっていたリッキーのもとに、スティーヴンはある晩、身一つで現れ、なんの駆け引きもなんの底意もなく、こう告げる。

「一人の人間として、おれと一緒に来いよ」とスティーヴンは、すでに煙る雨のなかに足を踏み出して言った。「兄としてではなくね。何年も昔に人が何をやったか、誰が気にする? たしかなのは、おれたちが一緒に生きているってことだけ。その他のことはすべて空念仏さ。リッキー、おれはここにいて、あんたはそこにいる、魂の抜け殻としてね。」

 この言葉を聴いたリッキーは、すべてを――家も妻も仕事も評判も――捨てて、スティーヴンの後を追うのである。これが男と女なら、不倫の末の駆け落ちである。
 いわばスティーヴンはリッキーの白馬の王子。「ハーレクイン・ロマンスBL版」といったところか。

 こうしてみると『モーリス』との相似はかなり顕著である。
  •  主人公 : びっこのリッキー=ゲイのモーリス
  •  白馬の王子 : 野生児スティーヴン=猟場番アレック
  •  学生時代の親友 : 独身者アンセル=弁護士クレーブ(のちに偽装結婚する)
  •  男同士の絆を引き裂く : 妻アグネス=なし(モーリスは結婚せず)

 『モーリス』では表現し得た主人公のセクシュアリティゆえの社会的脆弱性が、『果てしなき旅』では主人公の足の障害という身体的脆弱性に置き換えられていることに注目したい。これは、『金閣寺』で三島由紀夫がやったこと(主人公の青年を生来の吃音に設定)と同型と言えるであろう。
 また、白馬の王子役に野生児や猟場番といった非インテリ系を持ってくるところも、漁師や船乗りや作男を愛する三島小説の主人公たちとよく似ている。業界用語で「汚れ専」「ガテン系」と言う。

 物語の最後でモーリスは相思相愛の恋人アレックと結ばれる。その先、どうなるかは描かれなかった。いや、当時は描きようがなかった。「二人してイギリスの森の奥に隠れ住む」みたいな童話的結末だったと記憶している。現実社会に二人の居場所はなかったのである。でもまあ、これも映画化され評判となったアン・リーの『ブロークバック・マウンテン』(2005)に較べればハッピーエンドと言えないこともない。
 一方、リッキーはせっかくスティーヴンと一緒に生活できるようになったのも束の間、酔っ払って線路の上に寝ているスティーヴンを助ける代わりに列車に轢かれて死んでしまう。愛する人の命を助けるため犠牲になったという意味で、当人にとってはこの上なくハッピーなのかもしれないが、「本当の愛・真実の生」を知ったリッキーがこれから社会でどう生きるかを知りたい読者(たとえば若いゲイ層)にしてみれば、あっけなさ過ぎるというか、尻切れトンボというか、やっぱりポジティヴなラストとは言い難い。
 イングランドおよびウェールズで同性愛行為に対する死刑が廃止されたのは1863年、男性同士の性行為が非犯罪化されたのは1967年のことである。フォースターはゲイリブの曙光に浴することなく没したのであった。(→参照「ジョン・ジャスパーに薔薇一輪」)

 結婚制度に反旗を翻したことではフォースターとシェリーは同衾なのかもしれないが、その内実は違う。シェリーは既存の制度(=果てしなき旅)に縛られることを厭い、反逆し、恋愛の自由を謳歌したのである。フォースター(=リッキーやモーリス)の欲望はそもそも既存の制度に含まれておらず、謳歌すべき恋愛の自由もなかった。フォースターにとってみれば、同性愛者の人生こそがこの世で落ち着ける場所を持たない「果てしなき旅」だったのではなかろうか。

 現代の視点からこの小説のテーマを言うならば、「社会の中に位置づけられていない欲望を持つものの悲劇」ということになるであろう。