1981年現代書林。

 著者は1917年岩手県生まれ。
 教職、岩手日報を経て、岩手放送代表取締役をつとめるも61歳で現役を退く。その後は、「来たるべき高齢社会において中高年層はどう生きるべきか」を命題とし、バンクーバーで一人暮らしをしたり、寺社巡礼したり、故郷盛岡のスケッチ画集を作ったり、中国の古典文学『菜根譚(さいこんたん)』を紐解いて本(『今だから読む菜根譚―強く淡然と生きる』PHP研究所)を書いてみたり・・・・・と、著者の言葉を借りれば、自らを対象として「生体実験」してきた。
 日本中が浮かれ騒いだ狂乱のバブル直前に、まだ十分活躍できるのに一線を退き、高齢社会の老いのあり方をいち早く模索した福田は、慧眼の士と言えるだろう。30年以上前に彼が投げかけた問いが、いまや日本中の中高年の命題となっているのである。
 生きていれば101歳だが・・・。

 福田が60代前半に行った秩父34ヵ所札所巡礼を綴ったのが本書である。近所の図書館のホームページの検索機能で見つけた。
 
 いま自分が歩いているのと同じ道を37年前に歩いた人の見聞録を読むのはなんとも面白い体験である。その記録が旅行案内書的なものでも寺院建築や仏像の解説書風なものでもなく、個人の実感を中心にした生き生きしたものであるならばとくに。そのうえ福田は写生の心得があり、道中出会った風景や事物を味のある巧みな筆さばきで描いている。それがデジカメ撮影の写真より、数段も風土や旅情を感じさせてくれる。
 37年前とは変わらぬ現在の秩父を確認したり、月日の流れに変貌を余儀なくされた在りし日の秩父を思い浮かべたり、まったく同じ道を歩いて同じものを目にしても歩く人が違えばまったく異なる見解を抱くことになるという当たり前の事実に思い至ったり、そもそも同じ道を歩いても人間が違えば見えるもの聞くものが違ってくる、つまり興味を惹かれる事物が異なることに納得したり。ソルティはいま秩父札所30番まで打ったところであるが、本書を読んでずいぶん「見落としたなあ~、気づかなかったなあ~」と思うところがあった。逆に、ソルティが惹かれて記事にした事柄で本書に触れられていないものもあるわけで、「旅とはあくまでオーダーメイドなのだ、いや人生そのものがオーダーメイドなのだ」と気恥ずかしくもベタな感慨に耽った。
 
 著者とソルティの共通した関心に秩父事件がある。
 やっぱり、この事件を語らずして秩父および秩父人を語ることはできないのだろう。

(平将門のエピソードが)今も地名や橋にその名をとどめているというのは、権力に対して抵抗した秩父事件のこの地方として、もっともなことかも知れない。秩父人に流れる血の潜流かも知れない。

 一方、37年間でずいぶん開発が進んでいるのも確か。
 ソルティが歩いた住宅地が当時は田畑や森林である。バブル直前・エコロジーブーム到来前ならではのイケイケ列島開発の模様が、粉塵を上げて国道を爆走するセメント会社のトラックの記述から浮かび上がる。著者が見学した札所15番と16番の間にあった製糸工場(秩父蚕糸会社)も今はない(平成8年操業停止)。著者が道中ところどころで目にしている養蚕農家の風景もソルティはまったく気づかなかった。カイコするすべもない。

蚕


 巡礼ブームの訪れる前だった当時、秩父を巡る人はそれほど多くなかったであろう。無住で荒れ果てたお堂(21番観音寺)の記述も見られる。また、徒歩巡礼者のための手ごろな地図もなかったようで30番以降の長距離で途方に暮れている著者の様子が今は昔である。現在は、秩父札所連合会作成のきめ細かいわかりやすい地図を各札所で無料でもらえるし、Googleマップも簡単に見られる。ソルティもここまでほとんど迷わなかった。


「なぜ巡礼しているのですか?」
 

 結願を目の前にした吉田町の食堂で、福田は隣に座った都心から来たセールスマン風の青年から問いかけられ、虚を突かれる。
 このくだりが本書の肝であろう。
 福田はこう記している。

 私ははじめから願いごとを胸に秘めて発ったのではなかった。須弥壇の秘仏の本尊を前にしてて、般若心経をあげる時も、あやかろうとする気持ちは何もない。
 しかし静寂な堂宇のしじまにひとり坐って、畳の感触を膚に覚える時、遠く過ぎ去った子供のころ、田舎のお寺で聞いた梵鐘が耳によみがえり、浮世の波で流失した魂が、再びわが胸に戻るのを知る。

 自分を見失って走り回った若さの傲りを、私は今こうした六十路の旅で、遅ればせながら反省している。
 しかし、若い者たちの時代には、その傲りも許されていいのではないか。だから私の心理過程はその青年には説明しないで別れた。


 残り2日(札所4つ)の遍路を前に、本書を読めたのはラッキーであった。