2002年中央公論社


司馬遼太郎の代表作の一つである『空海の風景』は映像化され、2002年1月NHKスペシャルで放映された。
本書は、担当スタッフらが、制作秘話を盛り込みながら、今度は活字で、天才・空海を描き出そうと試みたものである。
讃岐・奈良・室戸岬・長安・博多・京都(東寺)・高野山など空海が足跡を残したゆかりの土地を訪ねて、その今昔の風景描写を盛り込んでいるのは、先立つ映像作品と同様であろう。(ソルティは映像作品のほうは未見)

空海の人間としての大きさ、ふところの広さ、ダ・ヴィンチに匹敵する万能ぶり、密教(あるいは仏教すら)分からなくとも「お大師さま」を父母のように愛着する、今も昔も変わらぬ素朴な人びとの信心。
司馬遼太郎の原作や制作背景は置いといて、単純に空海の一つの伝記として読んでも楽しめる本となっている。


空海って、その名の通り、海のように「なんでも飲み込む」寛容さと、空のように「いつもそこにあって見守ってくれている」心強さが、最大の魅力なのだと思う。
つくづく、空海が日本人に残したのは、密教ではなく、お大師様教だったのだと思う。

本書に頻繁に(無自覚に)出てくるフレーズに、「中国から帰った空海は密教を日本に広めようとした」というのがある。
よく考えると、この言葉は矛盾している。
密教を広めることなんかできない。
秘密だから、一子相伝だからこその、密教なのだから。(この場合の「子」は弟子の意)
広められるものなら、それは密教でなく顕教である。

空海のような密教完成者がせいぜいできるのは、密教の効験の勝れていることを世に広めて、国家や民衆が密教に依存し、密教完成者(理屈ではこの世に一人しかいないはず)を神のごと天皇のごと崇拝するよう仕向けることであろう。
空海はそんなこと望んでいなかったと思う。
それとも庶民レベルの密教ってのがあるのか。
真言立川流?

空海にとって仏教とはなんだったのか。
この世とは、生きるとは、なんだったのか。
ソルティが本当に知りたいのはそこである。


宝仙寺 021

関頑亭作 : 弘法大師像(中野の宝仙寺)