遍路しているあいだ繰り返し心に上がったのは、「こんな贅沢していていいのだろうか?」という思いであった。
歩き始めたその日から湧き起こって、徳島、高知、愛媛に入ってもその問いはずっと続いた。

遍路で見かける地元の人はもちろんのこと、世間の人が朝から晩まで身を粉にして働いているというのに、こちらは働きもせず、なんら生産的なこともせず、ただ「食べて歩いて読経して寝る」の繰り返し。
おまけに、そんな自分に地元の人は「お接待」と称して食べ物や飲み物やお金を恵んでくれ、優しく接してくれる。
こんなことをしていていいのだろうか?
後ろめたさとも申し訳なさともつかぬ思いがあった。

貧乏性ゆえかと思ったけれど、振り返ってみたら若い頃の長旅ではそんな思いはみじんも抱かなかった。
学生時代の3ヶ月のインド旅行も、20代終わり最初の失業中の3ヶ月のイタリア旅行も、働かずに遊んでいることになんら後ろめたさなど感じなかった。
どれも自分の稼いだお金を使い、他人に迷惑をかけるわけではない旅である。
条件は一緒だ。
違うのは年齢つまり社会経験の長さのみ。
いったい何が起こっているのだろう?

ワーカホリックの裏返し?
そうなのかもしれない。
ソルティがワーカホリックだなんて我ながら「図々しい」と思うのだが、「仕事」がアイデンティティの中で占める割合は年をとるに連れて高くなるように思う。
若い頃は仕事に対してそれほど真摯な思いはなかった。
仕事よりプライベート優先というのが、我ら新人類世代の合言葉だったはず・・・。

伊予亀岡の太陽石油

松山から今治に向かう途中にある石油工場


たぶん、社会の中で「何者か」であることに人は安心感を持つのだろう。
その「何者か」を最も手っ取り早く保障してくれるのが「仕事」なのだ。
だから仕事を失うと、人は一種のアイデンティティ・クライシスに陥る。

四国遍路で一番多く見かけるのは定年退職した男性である。
彼らの歩きに共通した特徴を上げると、

  1. 朝早く出発する
  2. その日歩いた距離の長さにこだわる
  3. あまり休憩をとらない
  4. 観光など寄り道をしない
  5. 一日でも早く回り終えることに執念を燃やしている

すべてが正反対のソルティは、彼らを見ながらこう思った。
「競争やノルマや成果にこだわるのは現役時代まんまじゃないか。遍路に来てまで会社員やっているのか」
現役失業組のソルティに較べれば金も時間も十分にあるはずだのに、なぜそんなに急ぐのか? 
なぜぜっかくの四国をもっとゆっくり観光して楽しまないのか?

が、もしかしたら彼らは「働かずに遊んでいる」ことの後ろめたさから、つい頑張っちゃうのかもしれない。
頑張りすぎて出血するほど足を痛め、それでも歯を食いしばって頑張って、遍路が苦行になってはじめて、「遊んでいるわけではない」と自分自身に言い訳できるのやもしれない。
わざわざ苦行に持ち込もうとする心性は、そうでもなければ理解できない。
(もっとも罪滅ぼしから遍路に来ている人に関してはこの限りではないが)

若い頃は「何者でもない」自分に慣れている。
未来は拓けている。
年をとってくると、「何者でもない」ことがきつく感じられる。
そして、四国遍路はまさに「何者でもない」自分と向き合う旅なのである。

「こんなことをしていていいのか」という問いを裏返すと、
「じゃあ、何をしていればお前は安心していられるのか?」となる。
 
仕事か。
家族団欒か。
趣味か。
恋愛か。
社会奉仕か。
宗教か。

正味のところ、絶対の安心材料などこの世にはない。
すべては無常で、すべてはドュッカ(苦)ゆえに。

以布利港ねこ

足摺岬に向かう途中の漁港で出会った猫


遍路を終えた今なら分かる。
「こんなことをしていていいのか?」という問いから始まるのは自然なのだ。
その問いを保ちながら、ひたすら歩き、祈り、さまざまな出会いを繰り返し、「こんなこと」の中に日常社会では簡単には見つからない何かしらの意味を見出していくのが遍路の醍醐味なのだろう。

ソルティがこの問いから脱したのは、旅も半ばを過ぎ、白衣のかわりに購入した白ツナギがいい具合に体に馴染んできた頃であった。
次のような答えを自分の中に見出したのである。
「結願が目的ではない。日々の出会いそのものが一番の目的だ」
「せめて、各札所では心を込めて読経し、生きとし生けるもののために慈悲の瞑想を唱えよう」

何者でもない自分が、「一遍路」というアイデンティティを担い慣れた頃に、巡礼は終わる。

曼荼羅寺への道
72番曼荼羅寺(香川)へ向かう途上