2018年図書刊行会

今年一番の衝撃本である。
ソルティ自身にとってもそうだが、おそらく日本仏教界にとっても。
まさに、坐禅中の眠気を吹き飛ばす警策の一撃。

この衝撃に匹敵するものを挙げるなら、2015年刊行の魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント』のほかにない。
どちらも、離れていく人心に危機を抱きつつも打つべき手が見つからず迷走を続ける日本仏教界に投げ込まれた、気兼ねや忖度や手加減のない直球である。
極めて論理的で、言葉の用い方に対する配慮が行き届いているあたりも、よく似ている。
またひとり、すぐれた若手仏教論者(1974年生まれ)の登場という感を持った。

『ゼロポイント』との比較を続けると、この書の特徴が示しやすい。
『ゼロポイント』は、「仏教すなわちお釈迦様の説いた教え(いわゆる原始仏教)がどんなものであるか」を、パーリ経典を中心とする古い経典の中から浮かび上がらせる試みであった。

お釈迦様の死後500年くらいしてインドで生まれた大乗仏教は、原始仏教を変容させた。
それが中国を通過してまたしても変容し、日本に入ってからまたしても変容し、現在我々の手に残された日本の伝統仏教は、変容に次ぐ変容によっておおもとのお釈迦様の教え(原始仏教)とはまったくと言っていいほど異なるものになった。
「大乗仏教は仏説にあらず」と指摘されるゆえんである。
「仏教ってなに? お釈迦様って結局なにを説いたの?」と問われたときに明確に説明できる日本人は、お坊さんも含めて少ないであろう。

『ゼロポイント』の優れた点は、お釈迦様の教えに立ち戻って、できうる限り簡潔に、そして率直に、その根幹を提示したところにある。
言うなれば、仏教のアイデンティティ確認である。
(「パーリ経典=お釈迦様の教えか?」という点について今は立ち入らず)

一方、大竹が本書で試みているのは、大乗仏教のアイデンティティ確認である。
自らのアイデンティティを見失っているから、そこに自信が持てないから、大乗仏教一派である日本仏教界は迷っているのである。
「大乗仏教は非仏説なり」と指弾されて、「いや、仏説だ!」とアクロバティックな論理でこじつけを行ってみたり、反論できず黙ってしまったり、「原始仏教だって非仏説じゃないか」と非生産的な反駁をしてみたり、要はアイデンティティ不安に陥ってしまったのである。

お寺のお坊さんが、自分が信奉しかつ檀家さん達に布教している自宗の教えに自信が持てないのは悲劇である。
効果がないとわかっている薬品を売り捌いているセールスマンみたいなものだ。
「お寺というのは、葬式と法要と墓守り(と御朱印を押す)ためにあるのさ」と開き直ってしまえるお坊さんならば問題ないのかもしれないが。

本書で大竹は、日本仏教が陥っている袋小路からの抜け道を提言している。
ここでは述べないが、ワイルドカードというか、コロンブスの卵というか、驚くべき提言である。
しかし、現実をしっかり認識するならば、その道しか日本の伝統的仏教諸宗派が生き残るすべはないのかもしれない。

大竹は「まえがき」で執筆の動機をこのように記している。

大乗非仏説は日本の大乗仏教の諸宗にとって好ましからざる真実であり、それゆえに、諸宗は大乗非仏説に正面から向き合いたがりません。大乗非仏説に対する公式な見解を出さないまま、個々の坊さんに対処をまかせているのです。しかし、そのような曖昧な態度こそが大乗仏教に対する世間の疑念を増大させているのは間違いありません。筆者は宗門に属するものではありませんが、仏教翻訳家として大乗仏教を翻訳し、大乗仏教で飯を食っています。筆者は世間の疑念をよそに後ろ暗い思いをして飯を食いたくありません。それゆえに、たとえ好ましからざる真実であってもすべて認め、その上で、虚飾を排して真摯に大乗仏教の存在意義を明らかにしたいと願って、本書を書きました。

日本の伝統仏教を批判するために書いたのでも、原始仏教に近いとされるテーラワーダ仏教を持ち上げるために書いたのでもない。
大竹もまた自らのアイデンティティに自信を持ちたかったのである。
その意図や良し。

大竹の提言が日本の伝統仏教界にどこまで真摯に受け止められるか、いかなる影響を及ぼすか、実際になんらかの形で活用されるかは予断を許さない。
個人的にはかなり厳しいと思う。
伝統仏教諸宗派は大きくなりすぎて身動き取れなくなった恐竜のように思われる。
大竹の「机上の空論」で終わる可能性は、残念ながら高いと思う。

本書を読んで大乗仏教の存在意義について瞠目するとともに再認識させられた。
秩父巡礼や四国遍路をするくらいには大乗仏教徒である自分の中の「大乗仏教とテーラワーダ仏教の配合具合」について今一度見なおしたいと思った。
そして、それでもなお大乗仏教では飽き足らない自身のありようを。

大乗仏教のアイデンティティは、他者を救うためなら仏伝的ブッダの故事にもとづいて敢えて歴史的ブッダの教えに反することすらやってのけるという、利他ゆえの仏教否定である。

曼荼羅時の極彩色仏像
四国72番曼荼羅寺の美しい仏像