御朱印をもらった100を超える札所いずれにも思い出深いものがあるが、73番出釈迦寺は最大級の登りのきつさ・険しさで特に印象に残っている。焼山寺(12)・鶴林寺(20)・横峰寺(60)・雲辺寺(66)などの有名「へんろころがし」を無事終えて最後の香川県に入り、「もうあとは楽勝だ」と思っていたところに、こんな厳しい登りが待っていたとは思いもよらなかった。

 と言うものの、出釈迦寺そのものは標高95mなので別段どうということはない。多くのお遍路は畑の中のなだらかな車道を苦もなく登ってお参りし、御朱印をもらい、境内から我拝師山を仰ぎ見て、次の札所に向かうことだろう。
 苦難を強いられるのは、この我拝師山(481m)にわざわざ足を向けるお遍路であり、ソルティもまたそのうちの一人だった。
 
 出釈迦寺の謂れは次の通り。
 
 7歳の大師は、仏道に入って救世の大誓願を立てようと倭斬濃山(わしのやま)の山頂に立ち、「仏門に入って多くの人を救いたい。この願いが叶うならば釈迦如来よ、現れたまえ。もし、願いが叶わぬならば、一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と願をかけ、断崖絶壁に身を投げた。
 しかし、落下していく大師の体の下方に紫雲がたなびき、蓮華の花に座した釈迦如来と、羽衣をたなびかせた天女が現れたのである。

 一命を救われ、その願いが成就することを示された大師は感激し、後に釈迦如来像を刻み、これを本尊として堂宇を建てて出釈迦寺とした。この時に倭斬濃山も我拝師山に改めたと言われる。(出版文化社刊『四国八十八カ寺&周辺ガイド』出釈迦寺の項より)

 出釈迦寺は我拝師山のふもとにあり、弘法大師が身を投げた崖は本堂から1㎞ほど歩いた標高400mの山腹にある。
 その名を捨身ヶ嶽禅定と言う。

釈迦が嶽1
出釈迦寺参道から見る我拝師山


 捨身ヶ嶽禅定まで登らなくとも御朱印はもらえるので、大抵の歩き遍路は上まで行かないようである。これまでの長旅でたいがい疲れ切っているし、ゴールも近いので先を急ぎたい気持ちが強かろう。本堂から見上げる捨身ヶ嶽は相当な高みにあり、傾斜も急だ。(水平距離100mで約30m上がる計算)
 ソルティも疲労困憊ではあったが、「せっかくここまで来たからには行かないと後悔する」と思い、アスファルトの登り道に杖を立てた。

釈迦が嶽6


 画像ではわかりにくいが、かなりの勾配である。足を休められるような水平な箇所もほとんどなく、ひたすら同じような傾斜が続く。途中、杖を下に落としたら、そのまま10mほど転がり落ちていった。禅定参りを済ませた中年女性が小走りに降りてくるのとすれ違った。思わず声をかける。
「走ると危ないですよ」
「傾斜が急で足が止まらないんです!」
 彼女は見る見るうちに下方に消えていった。
 明らかに傾斜角では四国遍路一番の難所である。

 ようやく捨身ヶ嶽本堂に着いた。
 すっかり汗だくになった。ツナギの上衣を脱いで、周囲の絶景を眺め一息つく。
 折り重なってテーブルのような特異な形状を成す天霧山と弥谷山。その向こうに瀬戸内海の島々が見える。

釈迦が嶽2

 
釈迦が嶽4


 しかし、まだ道半ばである。
 7歳の大師(幼名・真魚マオ)が飛び降りたとされる捨身ヶ嶽禅定まで、さらに100mの鎖伝いの岩登り。
 これまた急である。足場も悪そう。
 近くにいた母娘によると、「サッカーの前園選手が挑戦したが、途中で怖くなってあきらめた」とか。
 プロアスリートがあきらめた登りを一介の素人遍路が行けるのだろうか?
 怖気づいていたら、いままさに僧侶姿の若い男がひとり禅定から降りてきた。
 「上までどのくらいかかりますか?」と聞くと、
 「10分くらいです」
 「登るの大変ですか?」
 「大丈夫。むしろ、下るときに足場に気をつけてください」
 
釈迦が嶽7
捨身ヶ嶽禅定への登り道


 これまでの山登り経験はいったい何のためか?
 7歳の少年が登った山じゃないか。
 自らは登りを断念した母娘の声援を背に、勇を鼓して登ることにした。

釈迦が嶽3

釈迦が嶽10
釈迦が嶽5


釈迦が嶽11

 
 畳一畳分くらいの捨身ヶ嶽禅定には、花を生けた石仏が置かれ、その前で正座して瞑想している初老の男がいた。
 邪魔しちゃ悪いので、静かに祈り、周囲の写真を撮って、退散した。

 若い僧侶に教えられたとおり、足場に気を付けながらゆっくりと崖を降りた。
 本堂前の陽当たりの良いベンチで昼食を取っていると、さっき上で瞑想していた男が降りてきた。60後半くらいだろうか。普段着で荷物を持っていないところを見ると、お遍路ではなく地元の人のようであった。挨拶から会話が始まった。
「遍路ははじめて?」
「はい」とソルティ。
「香川はどう?」
「いいところですね。なんだかこのあたりが一番、弘法大師の気配を感じます」と率直に思うところを述べた。
「そうだろう?」と相好を崩し満面の笑み。「やっぱり、生まれ育ったところだからねえ」

 ソルティの想像通り、地元民であった。
「よく来られるんですか?」と聞くと、
「もう3万回くらいになるかな?」
「さ、さんまんかい!?」 耳を疑った。

「あそこに」と本堂わきの壁を指して、「私の名前が書いてあるよ。弘法大師と同じ7歳の時に初めて友達とここに来て、それからずっと通い続けている」
 頭の中で計算する。
(現在67歳として60年。30000÷60=500 えっ、年500回?)
 どうやらこの寺の檀家さんらしい。それにしても・・・

「長く続けていると、いろいろと不思議なこともあるね。私も記念にあそこに碑を建てさせてもらいました」
 彼の指さす方向を見ると、やはり本堂の正面脇に立派な石碑がある。「弘法大師と不動明王影現記念」と刻まれている。
 大変スピリチュアルな人物なのであった。


釈迦が嶽9


西村一夫
(※住所・名字は消してます)


 別れ際に、「これも何かの縁だから、お接待しましょう」と財布を取り出し、千円札を抜いた。
「これでうどんでも食べてください。それから、これもよければ使ってください」
 75番善通寺御影堂(大師堂)の地下にある戒壇廻り(真っ暗闇を壁伝いに歩く)と宝物館のチケットをもらった。出釈迦寺だけでなく善通寺でも顔の利く人らしい。 
「またお会いしましょう」

「なんていい人と出会ったことか! 自分は恵まれているな」と一瞬喜んだ。
 が、考えてみると、毎日のようにここに登っている人なのだから、ソルティが会ったのは偶然とは言えない。必然に近い。
 こんなふうに日々出会う遍路さんにお接待をしているのだろうか?
 「へんろころがし」に勝るあのきつい登りとサッカー選手も音を上げた鎖り場を、来る日も来る日も往来しているのか?

 すごい人がいるもんだ。
 それをさせてしまう弘法大師はもっとすごい。