2005年原著発行
2018年ナチュラルスピリット社
タイトルに魚ッとした?
悩める青少年に自殺をすすめる本でも、高齢者のPKK(ピンピンコロリ)を願う本でもありません。
副題は「〈私はいない〉を願う人への非二元と解放の言葉」。
ナチュスピ得意の非二元の本であります。
リチャード・シルベスターはイギリス在住の男性。30年に及ぶスピリチュアル探究の末に、非二元界の大御所トニー・パーソンズに出会い、ミーティングに通うようになる。
ある夏の夜、ロンドンのチャリング・クロス駅で、自分という感覚がすっかり消える目覚め体験をする。その一年後、ある田舎町の店内で突如として「私はすべてだ」という悟りが生じ、探究の終焉=解放を迎える。
本書のタイトルは、「目覚め」たものの、なかなか「解放」に至らず絶望していた著者に、トニー・パーソンズが抱擁と共に送った言葉なのである。
つまり、「私というエゴが、早く死ねたらいいね」という意味合いである。
最初の「目覚め」体験と、次の「解放」の2段構えになっているのが興味深い。
仏教では、悟りは4段階とされる。最初が預流果、次が一来果で、まだその先(不還果、阿羅漢果)があるのだけれど、どうなんだろう?
リチャード自身が「探究の終焉」と言ってるからには、二つを飛ばしていきなり阿羅漢果つまり自我の終焉に至ったということか。
禅の方では、頓悟とか漸悟とか言うのもあるよな。
先に取り上げたダリル・ベイリー同様、ここでも「目覚めや解放に至るための方法はない」ということで一貫している。
私たちがどんなことをしようと、分離感は決して癒されることはありません。人がいる限り問題は生じるからです。本当のところ、その人そのものが問題なのです。セラピーも瞑想も素晴らしい行為で、きっとあなたの牢獄を心地よいものにしてくれるでしょう。ですが、あなたを牢獄から出してはくれません。あなた自身が牢獄なのですから。正確に言うと、人が自らの牢獄から出ることなど不可能なのです。なぜなら、一人の分離した人物が存在しているという感覚が牢獄を成しているからです。そのせいで、私たちはこれが天国だと気づけないでいます。
私たちにできることなど何もないのですから、くつろげばいいのです。あきらめていいのです。まったく手の施しようがありません。どの選択もすべて幻想です。あきらめると力が抜けて、その中で解放が見えるかもしれません。
方法論の問題は、まるでパラドックスだ。
スタートはどうしたって探究から始まるわけだから、「いかにして?」という問いは避けられない。
だいたい、トニーもリチャードも「解放のために人ができることはない」と言いながら、本を書いたりミーティングを開いたりしているのだから、十分パラドキシカルである。
必要悪、あるいは使い終わったら乗り棄てる筏みたいなものか。
目指していたのが実は此岸だったとわかるまでの。
評価: ★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損