2012年新潮新書

 現役の尼さんが書いた本である。

 尼さんという存在には、これまであまり興味がなかった。半世紀以上生きているうちには、頭を丸めて作務衣を着た女性たちともあちこちで出会ってきたが、個人的な付き合いはなく、じかに身の上話を聴いたこともなかった。なんとなく、「触れてはならない何か」を感じ、距離を置いてきたような気がする。

 これがキリスト教のシスターなら別である。
 仲の良いカトリックのシスターならいる。彼女が入信した理由も、暮らしている修道院での生活の様子もよく聞いていた。
 日本人の女性がクリスチャンになること、さらにシスターになって修道院に入ること、に対する違和感はさほどない。神やキリストやマリアを敬愛し信仰する清らかな高い志も、シスターとなって生涯を奉仕活動に捧げたいという愛他精神も女性には似つかわしいものである。(ジェンダーについて固定観念に縛られているという批判はあろう) なによりシスターシステムは、非常に長い国際的伝統である。


シスター


 ひるがえって、日本の仏教界はどうか。
 ソルティは最近まで、瀬戸内寂聴以外の女性住職というものを知らなかった。(四国遍路88札所のうち2つは女性住職のお寺で、そのことが話題になっていた) 日本には尼寺もあるらしいが、その実態はほとんど知られていない。お布施を求めて街頭に立つ雲水の中にも、女性の姿は見かけない。
 日本の仏教界は圧倒的に男社会なので、わざわざそこに入っていく女性仏教者はそもそも少ないのであろう。仏教に関心高い女性は、寺を持つお坊さんと結婚し、寺庭婦人となることが多いのではなかろうか。
 西洋のシスターのように、社会的に認められ、ある程度身分や生活が保障される出家システムが、日本の女性出家者には用意されていない。

 制度的なことは別としても、そもそも女性出家者という存在が珍しいこともある。
 男の場合、出家者の9割はお寺の跡継ぎではなかろうか。(統計的に正確なところは知らない) 云わば、職業としての僧侶である。
 残り1割が、何らかの個人的理由で仏道に入った人たち。訳あって世間を離れざるを得なくなった世捨て系、生きる意味を問い続けて悟りや解脱を求める悟り系、霊的現象や神秘体験を重ね宗教に頼らざるを得なくなった神秘系などである。

 平和で豊かな令和時代。自ら世俗を離れ、美食や娯楽や愛欲を擲ち、家族や友人と縁を断ち、ひたすら仏道修行に励む人間は、良く言えば「奇特な人、道の人」、悪く言えば「変人、落伍者」であろう。ソルティもその傾向を多分に持っている。
 だが、男の場合、古からそういう生き方を志す者は多かった。武道や芸道に見るように、俗世に惑わされず自ら選んだ「道」を極めることは、ある意味、男の甲斐性であった。男は、家庭生活に馴染まない生き物と思われてきた。
 一方、女の場合、産む性であることが大きい。子供を産み、育て、家庭を守る役割が伝統的にレッテル付けられている。どこまでが遺伝子に書かれた本能で、どこからが後天的に社会的に条件づけられた特質なのかは不明瞭であるが・・・。
 一般に男と女をくらべた場合、女の方がより生活に根差していて、より現世肯定的であり、より現状肯定的であるのは、間違いないように思う。抽象的で現実の役に立たない理屈を振り回すのは、いつだって男である。ソルティが働いていた老人ホームでも、社会や家庭の軛(くびき)からとうに離れた男女の成れの果てを観察していても、その傾向は否定できない。活発で、明るく、生活に楽しみを見つけるのが上手なのは、いつだって老女たちであった。
 女は「現実」という大地に咲いた花のようである。
 であるから、女の出家者という存在が特異に思え、「触れてはならない何か」を感じさせるのである。

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 勝本華蓮(かつもとかれん)は1955年大阪生まれ。デザインの仕事に関わりバブリーな生活を送るも、91年(36歳時)天台宗にて得度、尼となる。いまは大阪のマンションで一人暮らししながら、仏典研究に従事しつつ、大学講師や執筆活動をしている。

 本書では、勝本が出家した理由や背景や経緯を含め、仏教界における尼の歴史や現状、日本の尼寺の実態やいろいろな“腐れ尼”のエピソード、尼を志す女性に向けてのアドバイス、比丘尼システムを広めようとする国際的な女性仏教者の動きなどが、語られている。(タイやスリランカやミャンマーなどの上座部仏教では、女性の出家(比丘尼)が認められていない。というか、何百年も昔に作られた律のせいで、比丘尼が作れないアホみたいな状況がいまだに続いている)
 タイトル通り、「尼さんはつらいよ」の実情がよく分かる、興味深い本であった。

 とは言え、勝本の出家理由については、やはりどこか隔靴掻痒の感を抱かされた。
 というのも、勝本自身は、上記の分類で言えば世捨て系でも神秘系でもなく、悟り系の一人のようなのだが、女性が世俗を離れる上での一番の桎梏になると思われる性愛事情について、まったく触れられていないからである。そこに何の桎梏も束縛もなかったのであろうか?
 これは日本の尼僧界のトップたる瀬戸内寂聴の事情と比べると、はっきりする。
 誰もが知るように、そして当人が方々で赤裸々に述べ小説にも書いているように、瀬戸内晴美は若い頃、性愛部分で相当な辛酸を舐めている。男に溺れて、囚われて、縛られて、苦しみぬいた挙句に、「もう春は十分!」と諦めて、出家したのであった。
 あるいは、岩波文庫で邦訳が出ている原始仏典の一つ『尼僧の告白(テーリガータ)』を読むと、釈尊のもとで出家し修行し解脱に達した女性たちのほとんどは、出家前の俗世で、言うに言われぬ性愛の生き地獄を経験している。

 女性にだっていろいろなタイプがある。生まれつき性愛には関心の薄い人間だっている。
 ――と言われればそれまでであるが、勝本には書き尽くしていないものがあるような気がする。(別に大っぴらにする必要も義務もないが)
 


評価:★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損