2011年幻冬舎

 唯識とか阿頼耶識とか聞くと、「難しくて理屈っぽい仏教哲学」というイメージがある。
 無学の人にもストンと落ちるような、わかりやすい言葉で説いたお釈迦さまの直説ではないので、これまであまり興味を持たなかった。
 日本初の『唯識 仏教辞典』(春秋社)を三十数年の歳月をかけて完成させた横山紘一の名前は、あちこちで目にしていた。おそらく、日本で唯識を語らせたら、この人以上の適任者はいないだろう。
 図書館で本書を見つけ開いてみたら、文字が大きくイラストも多用され、小口も薄くて読みやすそうである。
 試しに読んでみることにした。

 本書の特徴は、一つは、深層心の阿頼耶識を変革することによって自分と世界が変わることを、もう一つは、いかに唯識思想が常識からかけ離れた教理を展開しているか、この二つを力説しているところにあります。(本書「おわりに」より)

 と、著者自身が述べているように、第一章では「心の中を探る」と題して唯識の基本教理が語られており、第二章では「心を変革する」と題して唯識思想を実生活に生かし、煩悩を減らし、より自由に幸福に生きる方法が説かれている。
 仏教とは、単なる教え(教理)ではなく、悟りや幸福に向かう生き方(実践)であるべきなので、この二段構成はさすがというか、横山が机上の学問を振り回すだけの学者ではないことが知られる。つまり、真の仏教者である。

 この唯識思想は、小説『西遊記』の主人公としても有名な七世紀の中国の僧である玄奘三蔵が、十七年間もの長きにわたる艱難辛苦のすえ、インドから中国にもたらした思想です。そしてそれは奈良時代に日本に伝来し、以来、現代に至るまで、仏教の根本の思想として脈々と学ばれ続けてきた重要な思想なのです。

 唯識は、心の構造を根本的に解明し、心を大変革させる方法論を提示したのです。

 唯識とはその名の通り「唯、識のみ」ということだが、正確に言うと「唯、識るというはたらき(認識)があるのみ」という意味とのこと。これならソルティも知っている

 初期仏教では、世界を認識し感受する部分として、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)・意(心あるいは脳)の6つの識を措定する。6通りの知る道である。
 このうち最後の「意」がちょっとわかりにくいが、外界にある特定の音波が耳に触れ「耳識(聴覚)」がはたらいて、はじめて「カラスの鳴き声」として認識されるように、何らかの情報が意(心あるいは脳)に触れ「意識」がはたらいて、はじめて様々な思考や感情やイメージなどが生まれる、と考える。たとえば、「カラスの鳴き声」という情報が「意」に触れることによって、「七つの子」「うるさい」「怖い」「不吉」「生ゴミの日」「夕暮れ」「勝手でしょ」等々の思考や感情やイメージがこれまでのストックから立ち現れる。心もまた「五感」と同種のはたらきをする認識機能とみなすところが、西洋科学とは異なるところだろう。
 ともあれ、この6つの識(知る道)を通して、我々人間は世界のすべてを認識・把握している。逆に言えば、世界とは、6つの識(知る道)により、一人一人の存在のうちに、瞬時瞬時、構築され破壊され更新されるホログラムである。これが「唯、識るというはたらきがあるのみ」の意味するところである。(多分)
 
 しかるに唯識思想では、この6つの識を表層心と定義し、深層心としてさらに2つの識を加える。
 それが末那識(まなしき)阿頼耶識(あらやしき)である。

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 末那識は「深層にはたらく自我執着心」。常に阿頼耶識を対象として「自分」(我)と執する。表層心がエゴで汚れている原因は末那識である。
 阿頼耶識は「深層に働く根本心」。一人一宇宙の中のすべての存在を生じさせる可能力を有していることから、その可能力を植物の種に喩えて「一切種子識」ともいう。眼識ないし末那識を生じさせる。身体を作りだし、それを維持している。自然をも作りだし、それを常に認識しつづけている。

 この阿頼耶識こそが、この世に存在するありとあらゆるものを生み出し、維持し、しかも認識している根本らしい。「生まれたときから行ってきたすべての業の結果は、阿頼耶識の中に記憶として貯蔵されて」いると言う。そこには前世の業も含まれるのだろう。
 また、「自然全体は阿頼耶識が作りだし、作りだした自然を阿頼耶識自らが認識しつづけている」のだと言う。なんだか、「宇宙が自分自身を見るために人間を作りだした」という物理学でいう「人間原理」を思わせる。 

宇宙と人間


 そう、唯識思想で説いていることは、量子力学や宇宙物理学や脳科学などの現代最先端の科学の知見と符合するものが多い。
 なので、唯識思想を理解するには、科学の方面からアクセスする方がてっとり早いのではないかと思う。当ブログでも紹介した前野隆司の『錯覚する脳』や『脳はなぜ「心」を作ったのか』などの著書や、クオリアという言葉を広めた脳科学者である茂木健一郎の本などである。

 「よくわかる唯識入門」と題された本書は、イラストや比喩を混ぜながら平易な言葉で語られており、一見わかりやすく見えるけれど、残念ながら言葉の上だけの理解に終わってしまいがちな、説明足らずのこじつけ感がある。
 無理もない。「広大な物理的宇宙(世界)の中に、自分も他人も自然も事物も存在している」と当然のごとく信じながら生きているごく普通の入門者にしてみれば、いきなり、「一人一宇宙」とか「外界に物は存在しない」とか「自分は存在しない」とか「唯、識るはたらきだけがある」とか言われても、目が「・」のトンデモ理論としか映らないだろう。それくらい唯識思想は常識からかけ離れている。
 科学という近代合理精神のアイテムを持って唯識思想に近づいた方が、攻略する可能性は高いであろう。
 あるいは、著者同様に、瞑想修行して悟るかである。言うまでもなく、これが本来の攻略方法である。(ソルティは、末那識と阿頼耶識の存在については、実感したことがないのでよく分からない)

荒屋敷
荒屋敷


 〈唯識〉の入り口では、「一体なにか」という問いに対して「惟だ識のみである」という答えがあることは説明しましたが、唯識における最終的な問い、「いかに生きるか」という問いには「惟だ生きる」という答えが返ってくるのです。
 生きるには場所と時間とが関係してきますから、「惟だ生きる」とは「いま、ここに、惟だ生きる」ということになります。




評価:★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損