1961年大映
99分

 川島雄三監督(1918-1963)は享年45歳という短い生涯に51本もの映画を撮っている。監督デビューが1944年『還ってきた男』であるから、1年間に2~3本のペースで作っていたことになる。映画会社の撮影所システムが機能し次々と作品が量産されていたプログラムピクチャー全盛期とはいえ、すごい精力である。若い頃から筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っており、自らの死を常に見つめ続けていたこともあるのだろうか。

 若尾文子とはこの作品のほかに、『雁の寺』『しとやかな獣』を撮っている。30年くらい前に観た記憶があるが、『しとやかな獣』は傑作であった。
 今思えば、このタイトルほど若尾文子という女優のイメージを一言で表しているものはない。「バロック」なのか「フォービズム」なのか知らぬ素顔はともあれ、出演作品における若尾は、触れれば落ちなん可憐で美しい外見の裏に、したたかさとたくましさとエロチシズムを隠し持った幾人もの女を演じ続けた。それはまさに「しとやかな獣」あるいは「したたかなアフロディーテ」といった風であった。

アフロディーテ
ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』
ローマ神話でアフロディーテは「愛と美の女神ヴィーナス」に対応する


 岩下志麻、岸恵子、吉永小百合、最近亡くなった京マチ子等々、あまたいる伝説的な銀幕女優の中で、若尾文子ほどPTAに睨まれそうな女優はいないんじゃないかと思う。
 若者の奔放な性を描いた(と言っても現代から見たらおママゴトである)『十代の性典』に始まり、『祇園囃子』の芸者や『赤線地帯』で働く売春婦、『妻は告白する』や『清作の妻』に見る狂気な愛、『しとやかな獣』や『刺青』で見事演じきった悪女、そして『瘋癲老人日記』『卍』『獣の戯れ』など文芸作品というアリバイのもとに惜しみなく発揮された変態的エロス。誰もが認める堂々の主演級大女優でありながら、若尾ほど性の匂い、不徳の匂いをまき散らしてきた女優はほかにいまい。
 といっても、若尾は脱いではいない。乳首もヒップも出していない。ベッドシーンでは、うまく布団やシーツで隠したり、カメラアングルで逸らしたり、露出度の高い場合は替え玉を使っていたんじゃないかと思う。ヌードにならずに、ここまでエロスを醸したところが天晴れである。いや、隠すことでかえって高まるエロの本道を極めたのか。

 『女は二度生まれる』も、そのものずばり女の性を描いている。
 靖国神社そばにあった芸者置屋に起居し、踊りも三味線もできない「専門」芸者として働く小えん(=若尾文子)。専門とはつまり売春である。金さえ貰えば誰でも相手にする性に無頓着な女、一方、商売以外で自分が気に入った男があれば簡単に寝てしまう性に奔放な女でもある。売れっ子芸者(遊女)からバーのホステスに転身し、それから建築士(=山村聡)の妾となり、建築士の死によって芸者に舞い戻る。こうした小えんの人生の一コマと奔放な男関係を軽妙なタッチで描いた作品である。

 ミソと言えるのは、小えんを終始、明るく屈託のない女として描いていることだろう。
 一般に、日本人が「性」に纏わせがちな、淫靡な、後ろ暗い、汚れたイメージがここにはない。今風に言えば「ドライ」なのだが、かと言って事務的で情趣がないというわけでもない。一回一回は情があり、色もあれば涙もある。が、相手の男に強くこだわるふうではない。可愛くて、さばさばしている。フランス小説の『マノン』みたいな感じか。
 めそめそしたり、むくれたり、怒ったり、華やいだり、子供のように天真爛漫な娼婦を演じる若尾の演技が素晴らしい。

 刹那的、享楽的に生きてきた小えんが、徐々に老いてきて、頼りとする旦那にも死なれ、社会の現実を目にするところで映画は終わる。
 かつて岡惚れした板前は今や妻子持ちの一家の主となって、相も変わらず年下の男と遊び回る小えんの前に現れる。かつて片思いした学生はエリート社員となって座敷に現れ、自分が連れてきた顧客の性の相手に、小えんをあてがおうとする。
 屈託が失われたとき、女は「しとやかな獣」に変身するのだろうか。


評価:★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損