2018年アメリカ
102分

 原題は Searching(捜索、検索)
 行方不明の16歳の娘を探す父親の苦闘を描いたサスペンスミステリーである。

 身近な人物をレッド・ヘリング(赤いニシン・・・読者に「こいつが真犯人か?」と誤解させる怪しげな登場人物のこと)に仕立てたり、意外などんでん返しがあったりと、普通にミステリーとして観ても出来がいいのだが、この映画の斬新なところは、なんと言っても、映画の始まりからラストに至るまでのすべてのシーンが、パソコンのモニター画面で構成されている点である。つまり、ドラマのすべてが、パソコンの内臓ディスクやプロバイダーのデータベースに保存され検索して閲覧できる文字・画像データや、ネット上にアップされ視聴できる動画によって描き出されていて、いわゆる実写シーンが一つもない。
 これには驚いた。
 そんなことが全編通して可能なのか?と疑いつつ観ていたのだが、スカイプや YouTube や室内カメラ、それにフェイスブックや LINE やチャットや Twitter などの SNS を駆使することによって、今や日常生活を思いのままにデジタル化&映像・音声化し、一つの物語の進行をパソコンのモニター内だけで完結させてしまうことができるのだ。(このへん用語の使い方に不安あり
 正直、行方不明の娘が誘拐暴行殺人に巻き込まれたことを匂わせるストーリーや思いがけない真犯人より、こっちのほうがよほど衝撃的だった。

ネット社会

 
 現代の若者の多くはそこに衝撃など感じないかもしれない。SNS 内での人間関係のほうが、SNS 外の生の人間関係よりリアリティを感じる人も多いのかもしれない。IT 音痴で SNS にどうにも興味が持てず LINE すらやってないソルティは、きっと数年後には生存競争に残れず、淘汰の憂き目を見ることだろう。室内カメラや街頭の監視カメラのたぐいも、ジョージ・オーウェルの『1984』を思わせるばかりで嫌なのである。
 SNS 族とはもはや違った世界に生きている気さえするこの頃。

 しかし、この映画でも描かれているが、ネットの匿名性に恃んだ特定の個人に対する誹謗中傷やガセネタの投稿は、人間の「明」の部分より「闇」の部分を暴いて増幅し、それを目にする人々をして人間への信頼を損なわせてしまう面がある。
 あるいは逆に、自己顕示欲を充足させるネットの「だれでも主人公」特性(このブログもそうか・・・)は、とんだ勘違い人間を生み出し、“リアルな”社会における本人の現実を糊塗してしまうリスクがある。
 あるいは、よく言われるように、「常につながっていないと不安になる」心性を常態化し、依存性を高めるとともに、SNS 外で起こる生の現実への耐性や柔軟性を損なうリスクも考えられる。

 要は、SNS に支配されずに、主体的に使いこなせればいいだけの話なのだが。
 ソルティにはその自信がないだけ・・・?
 主観的には、 SNS 的なものをやるのがメンドクサイというのが一番の原因である。つまり、これって人間関係がメンドクサイと思っているのだろう。困ったもんだ。

 それにしても、ドラマのすべてがモニター内で進行するこの映画を観ていると、「“リアル”ってなに?」と問いかけたくなる。



評価:★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損