2011年2月岩波書店

 タイトル通り、貧困・自殺問題に取り組む各地の仏教者の活動を紹介した本。
 著者は1960年生まれの朝日新聞社記者。

 本書発行当時、我が国の年間自殺者数は14年連続で3万人を超えており、自殺対策の喫緊性が叫ばれていた。折しも、2009年8月の政権交代で、当事者の「自己責任」を唱え続けてきた自民党から、革新よりの民主党に時代は移って、弱者支援に目が向けられる機運が高まっていた。
 2010年3月に東京で開催された『自殺と貧困から見えてくる日本』と題したシンポジウム(主催は反貧困ネットワーク&NPO法人ライフリンク)にソルティは参加したが、当時総理大臣であった鳩山由紀夫が登壇し熱っぽく語ったのを覚えている。この時の進行役が中下大樹という名の僧侶であった。日本の(大乗仏教の)お坊さんを見直した瞬間であった。
 
 しかし、ソルティが寡聞なだけで、もっと以前から貧困・自殺問題に取り組んでいた仏教者が日本各地にいることが本書で示される。
 宮城県亘理町で困窮者の駆け込み寺を運営している行持院(曹洞宗)、大阪市天王寺で路上生活者のためのシャワー室と診療所を設けた一心寺(浄土宗)、東京墨田区でホームレスのための宿泊所「ぽたらか寮」を開いた尼僧(時衆)、岐阜県関市で引きこもりの若者のためインターネットによる座禅会やチャット会を開催する大禅寺(臨済宗)・・・等々、お釈迦様の慈悲の教えを具体的な形にして実践し、山門を弱者のためにこそ開いている僧侶たちの活動は、真の大乗精神を感じさせる。


銭壷山合宿 017

 
 本書でも触れられているが、仏教者が他者を扶ける活動をする上で留意すべきことが二つある。
 一つは、貧困や孤独や病いに苦しむ者、希死念慮を持つ者、死を待つ者、愛する家族を自死で失った者を前に、仏法をそのまま説いても(お経を唱えても)たいした役には立たない。説法するよりむしろ、ただ傍らに寄り添い、話に耳を傾け、黙って一緒に食事をすることのほうが、相手の苦しみを和らげる役に立つかもしれない。相手の感情を受けとめる、共感するのがなによりの功徳となる。
 しかし、それは仏教が人助けの役に立たないことを意味するわけではない。苦しむ人の傍らに寄り添う者に、しっかりした“存在の核”があることが重要である。その“核”に触れて、人生に惑い悩みふらつく人々は安心を得るのである。キリスト教や仏教といった宗教は、その“核”を育てるメッソード足り得る。人を扶ける前に、あるいはそれと同時に、「自分を扶けよ」ということである。
 
 もう一つは、キリスト教なり仏教なりが、たとえば「自殺」に対してどんな見解を持っているか、すなわち、相談や支援に携わる宗教者がいかなる自殺観を持っているかである。
 もし彼らが「自殺=悪、罪」といった見解を抱いたまま、希死念慮ある人や自死遺族に接したら、彼らの抱く見解(=価値観)は言葉には出さないまでも表情や姿勢やまなざしやオーラを通して相手に伝わってしまうだろう。よく言われるように、言語的メッセージよりも非言語的メッセージの方がより多くを伝える。その場合、良い結果を生むのは難しかろう。「お前は(自殺という)悪いことをしようとしている」、「お前の家族は(自殺という)罪深いことをした」と、相手を裁くことになってしまうからだ。
 
仏教は「殺生してはならない」と説く。そのため多くの僧侶は自分のいのちを絶つのも悪いことと考え、その結果、たとえば自死遺族になんと声をかけてよいのかわからずにいる。一方で、だれかのために身を投げうつことをたたえる教えもあり、自殺を容認しているように考える者もいる。つまり、これまで自殺問題に対して、いったいどういう姿勢で臨めばいいのかわからないという事情があった。

 この点について、浄土真宗本願寺派の「教学伝道研究センター」という機関が、原始仏典と大乗仏典にある自殺に関する数百カ所の言説を調べたところ、「釈尊は自殺について価値判断していない」ことがわかったそうである。 
 
つまり仏典は、ぎりぎりのところまで「生きろ!」と呼びかける一方で、自殺という行為そのものについては、良いとも悪いとも語っていない。釈尊の時代にもあった自殺の問題に正面から向き合い、是非論ではなく当事者の苦しみをどう受け入れていくかがテーマにされていたというのだ。

 一方、キリスト教はどうか。 
 
キリスト教、なかでもカトリックは「いのちは神に与えられたもの」という立場から、自殺は神に対する「罪」とみなしてきた。自殺した人に対するミサや埋葬を禁止するなど、ひどい差別をしてきた歴史が長くつづき、1983年の新教会法で、ほとんどの規定がようやく見直された。日本カトリック司教団は2001年に公式メッセージ『いのちへのまなざし』を発表し、そのなかで「これまで自殺者に対して、冷たく、裁き手として振る舞い、差別を助長してきました」と謝罪している。

 というように、いまや仏教もキリスト教も「自殺=悪、罪」とは大っぴらには言っていない。パラダイムは転換したようである。(ソルティは、仏教はともかく、キリスト教は教義的にかなり苦しい転向という気がする。キリスト教の神はどう見たって「裁きの神」であるし、裏切り者のユダを自殺させ地獄に突き落としたのを、いったいどう解釈したらよいのやら?)

 ともあれ、仏教者だろうがキリスト者だろうが、いや宗教者だろうがそうでなかろうが、自殺や貧困問題に携わる者には、それぞれの見解や価値観の自己検証作業が求められる。ソーシャルワークで言うところの「自己覚知」である。



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損