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日時 2019年9月16日(月祝)13:30~
会場 すみだトリフォニーホール
指揮 和田一樹
曲目
  • ハンス・プフィッツナー / 付随音楽「ハイルブロンのケートヒェン」序曲
  • フランツ・シュレーカー / 組曲「王女の誕生日」
  • グスタフ・マーラー / 交響曲第7番ホ短調


 すみだトリフォニーホールは錦糸町にある。
 他の場合なら、家から1時間以上かけて行くのは遠慮したいが、和田一樹がマーラー7番を振るとあっては行かなきゃ損だ。
 1800の客席は8割がた埋まった。

 本日の3曲とも上演機会の少ない作品である。
 プフィッツナーとシュレーカーの名前は初めて知った。
 前者はロシア生まれのドイツ人で、大戦中は反ユダヤ主義者としてナチスの愛顧を得た。
 後者はモナコ生まれのユダヤ人で、ナチスの圧力により音楽界から退けられた。
 対照的な二人と、カトリックに改宗したユダヤ人で自らを「ボヘミアン」と称したマーラーを組み合わせるプログラムの妙が面白い。
 ウィキの写真で見る限りにおいてであるが、反ユダヤ主義のプフィッツナーはユダヤ人としか思えない立派なカギ鼻を持っていて、逆にシュレーカーのほうがドイツ人らしい風貌である。
 
 「ハイルブロンのケートヒェン」序曲は、NHK大河ドラマのテーマ曲を思わせる。
 勇ましく風格があり、かつ軽快な出だしは戦国時代の伊達なる武将のイメージ。
 それが中間部で一転し、美しくたおやかで、どこか哀しみを帯びた姫君の風情になる。
 最後はまた初めに戻って、爽快な大団円を迎える。
 独奏も合奏も、豊島区管弦楽団の技量の高さと指揮者との阿吽の呼吸が十分に感じられた。

 組曲「王女の誕生日」は、オスカー・ワイルドの同名童話がもとになっている。
 童話というには、あまりに残酷で悲しい物語で、現代なら障碍者差別としてPC(ポリティカル・コレクトネス)に引っかかりそうな内容である。
 なんとなく能の『恋重荷』に似ている。
 ワイルドの童話と言えば涙なしに読めない『幸福の王子』が有名であるが、一方でこんな残酷な話も書いていたのか。
 
 せむしの小人が野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりに宮廷に連れて行かれる。
 小人は姫君にきれいな衣裳を着せられ、得意になって踊って見せるが、かなしいかな、周りが自分の不恰好さを嗤っていることに気付かない。
 そのうち自分が姫君に愛されているとすら信じ込む始末である。
 だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、自分の真似をする醜い化け物の姿を見つけ出す。
 そしてついにそれが姿見であり、自分の真の姿を映し出しているという現実を悟るや、そのまま悶死してしまう。
 それを見て王女はこう吐き捨てる。
 「今度おもちゃを持ってくるなら、命(心)なんか無いのにしてね。」
(ウィキ「歌劇(こびと)」より抜粋)

 物語をそのまま音楽化しているので、原作を読んでから聴くのがベストだろう。
 美しい王女の誕生祝いの華やかで明るい宴の空気が、おぞましい悲劇へと転じていく成り行きを、濃淡・明暗・緩急つけながらメリハリよく表現していた。 
 
 休憩は、カフェでホットコーヒーを飲む。
 前半で、額と頭頂のチャクラが刺激を受け、ヘルメットでも被っているかのような温圧感が持続する。
 
チャクラの目


 マーラーが完成させた9つの交響曲の中で、第7番は鬼っ子のような存在である。
 演奏される機会が少ないのは、一つの作品としてみた場合、構成に難があるように思えるからであろう。
 演奏する側にとってはこれをどう解釈し表現するかが難しいし、聴く側にとってはこれをどう理解しどこに感動するかが分かりにくい。    
 ほかの8つの交響曲に比べて「物語化しにくい」構成なのだ。

 この7番を語るにベルリオーズの『幻想交響曲』を引いている他のサイトを見かけたが、そう、まるで麻薬中毒患者の幻想か、分裂症患者の妄想と言いたいくらい、支離滅裂な印象を受ける。
 だから、下手な指揮者とオケがやったら、生涯傷として残る失敗になりかねない怖さがある。 
 和田と豊島オケは、よくぞ挑戦したと思う。

 以下は、ソルティ解釈である。

 第1楽章は、苦悩と混乱の世界である。
 マーラーには珍しくない。
 葬送行進曲による「死の予感」もいつも通り。
 マーラーは双極性障害、いわゆる躁鬱病だったんじゃないかな?
 欝のさなかに、第5番で官能の絶頂をともに極め、涅槃の境地に揺蕩うことを許してくれたアルマ(のテーマ)がふたたび忍び寄るが、どういうわけか最早それを素直に受け入れることが叶わない。
 かたくなに抵抗するマーラーであった。 

 第2楽章は、懐旧と自然。
 マーラーが癒しを求める先は、子供時代の懐かしい日々と大自然である。
 とりわけ鉄板は大自然。
 カウベルや鐘の牧歌的な響きは、大自然を謳った第3番を彷彿させる。

 第3楽章はまたしても混乱。
 しかも今度は躁状態に近い混乱である。
 思い出や自然では癒せない苦悩とトラウマが彼にはあるらしい。
 遺伝的なものか。

 第4楽章でアルマ(のテーマ)がよみがえる。
 癒しを求める矛先はやはり官能に向かった。
 存在の深いところでは拒否しているはずの官能に。
 この自己を完全には明け渡すことのできない愛の体験は、第5番第4楽章「アダージョ」ほどにはマーラーを涅槃には連れてってくれない。
 あるいは、再体験は初体験の感動に及ばないってことか・・・。
 (ここでソルティの股間のチャクラがうごめいた)

 第5楽章は、神ならざる歓喜。
 ベートーヴェン第九の最終楽章のような歓喜は、近・現代人にはもはや天啓のようにしか訪れない。
 それは神的、宗教的な歓喜だから。
 マーラーにもたまさかそれが訪れることがあった。
 第2番「復活」や第8番「千人の交響曲」はまさに神がかりである。
 それ以外の歓喜は偽りである。
 官能によるものも!
 神の手によらず、人の手により歓喜を作り出そうとするとき、それはニーチェのような「意志による」歓喜か、病(躁病)による歓喜にならざるをえない。
 この楽章の突発的な、リア充を証明したがっているかのように空々しい、脈絡のない歓喜表現は、それゆえだろう。
 早晩、挫折が訪れることが目に見えている。

 第6番の大破壊と第8番の調和統合の間に位置する7番。
 マーラーのそのときの精神状態がまんま映し出されているのだろう。

 初めて聴く楽曲について、かくも想像力を喚起し語らせてしまう和田&豊島オケの実力は並ではない。
 チャクラマッサージにより気が整って、帰途についた。
 


評価:★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損