2006年ヤマハミュージックメディアより発行(タイトル『知ってるようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典』)
2015年現タイトルで文庫化

 著者は音楽之友社で働いていたこともあるフリーランスの音楽記者。

 指揮に関する基礎知識から始まって、ベテラン指揮者の井上道義や若手(当時、いまや中堅か)の下野竜也および都響コンサートマスタ-らへのインタビュー、世界的巨匠との共演豊富な在郷ベテランオケ楽員らによる覆面トーク、世界の名指揮者のエピソード、世界のオザワに対する著者の熱愛吐露など、盛り沢山な内容。
 読んで楽しく、指揮者やオケの本音や苦労を知り、クラシック音楽をより深くより愛情持って聴くことを可能ならしめる一冊である。

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 ときに、いろんな芸術家のいる中で、音楽演奏者ってのはもっとも“一発勝負性”が強いと思う。聴き手のいる「その時、その場」で良い演奏ができなければ、良い評価が得られなければ、成功して世に出ることも、演奏し続けることも難しい。

 これがたとえば画家であれば、生前まったく評価されず絵もまったく売れなかったのに、死後高い評価を得て一枚の絵に何億円という値段がつけられることがある。ゴッホがいい例だ。
 あるいは小説家。マルキ・ド・サドの作品は長いこと変態エロ小説としか思われていなかった(そもそも19世紀は禁書扱いだった)。それが今や、人間性の暗黒面を描いた傑作として古典入りしている。
 映画の分野でも、たとえば小津安二郎監督は生前にあっても国内でそれなりに評価は得ていたけれど、これほど世界的な名声をものするようになったのは没後数十年してである。
 同じ音楽家に目をやれば、作曲家は時代を超越している。マーラーは、いずれ私の時代が来る!」という自らの予言どおり、同時代よりも現代こそ、最高度の評価と関心のもと、世界中で作品が演奏され録音されている。あるいは、生前はまったく無名で貧苦のうちに35歳の若さで亡くなったヴァシリー・カリンニコフの2つの交響曲は、書いた当人は演奏会で自作を聴くことすらできなかったというのに、現在オーケストラのメインプログラムによく取り上げられるナンバーとなっている。

 言うまでもなく、こういった時間差の評価UPが起こるのは、作品が形として残るからである。画家なら絵として、小説家なら原稿や本として、映画監督ならフィルムとして、作曲家なら楽譜として。
 それにくらべると、演奏家は生きている間に評価されなければほとんど意味がない。演奏をCDやDVDに残すということはできるけれど、才能が如何され評価が定まるのはやはり生演奏(ライヴ)の場であって、その成功あってのレコーディングなり映像化なり記録化であろう。その意味でフジコ・ヘミングウェイはよくぞ間に合った。
 昨今では、ジャスティン・ビーバーや米津玄師のようにネット動画から人気を得てデビューする歌手も当たり前になってきているから、クラシック分野の歌手や演奏家でも同様のケースが続出するかもしれない。
 ただ、クラシックの場合は、いくらネットで人気を得て数十万回視聴されようが、実際の生演奏で目の前の聴衆なり評論家なりをうならせることができなければ、やはり駄目であろう。
 クラシック音楽の命はライブにある。「その時、その場」での感動体験こそが重要なのだ。いや、むしろ逆に、「その時、その場」を味わいつくすために音楽芸術というものは生まれ育ったのかもしれない。

オケ


 音楽演奏家のなかで、もっともシビアに“一発勝負”が求められるのが指揮者である。
 指揮者は、自らの評判と成功をまさに生きているうちに勝ち取らなければならない。指揮者自身は音を出さないので、You Tubeを利用して世に出ようと企むこともできない。没後に才能が発見されて、評価UPなんてことも起こりえない。そもそも指揮者は、たとえばピアニストやヴァイオリニストと違って、単独では演奏できない。俳優のように一人芝居できない。オケがいなければ話にならない。その肝心のオケを振るチャンスをつくるのがまずもって大変である。指揮者が自らの芸術を表現する機会は非常に限られているのである。
 だから、やり直しのきかない一回一回のライブに彼らは全存在を賭ける。
 カッコいいのも道理である。

音楽の演奏は、オーケストラの技量が問題なのではなく、指揮者と一体になった“魂の燃焼”があってこそ、人々に深い感動を与え、聴衆も演奏家さえも理解不能な“演奏の秘蹟”を生むものである・・・・(標題書より引用)




評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損