1903年原著刊行
2007年岩波文庫(青木次生訳)

 ヘンリー・ジェイムズはソルティの好きな作家の一人であるが、おかしなことに、「他の読書好きにすすめたいか」と問われたら、ためらわざるを得ない位置づけの作家でもある。彼の幾多の小説中、たとえば最も人気あるオカルトホラー『ねじの回転』ならば、「絶対面白いから、だまされたと思って読んでごらんよ」と胸を張って言えるだろう。が、その他の作品、とくに長編については、「自分は面白かったけれど、あなたにはどうかな?」と言葉を濁さざるを得ない。
 これが同じ好きな作家でも、チャールズ・ディケンズとかジェイン・オースティンとかP.G.ウッドハウスとか(当然のごとく)コナン・ドイルならば、たとえ何巻にわたる長編だろうと、舞台が18~19世紀のイギリスという特殊な世界であろうと、世界文学全集に収録されて町立図書館の書庫で埃をかぶっている古典であろうと、なんらためらいもなく推薦できるのだが、ヘンリー・ジェイムズだとそうもいかない。

 その理由は、ジェイムズの小説の長さやストーリーの地味さやユーモアの欠如ということもあるにはあるが、それにもまして、小説の「面白さの質」が上記の他の代表的イギリス作家たちとは違って、ひとえに登場人物の心理描写の綾に存するからである。
 なので、まず登場人物とくに主役キャラに興味を持てなければまったく面白くないだろうし、事件のドラマチックな展開よりも心理描写を楽しむことのできる感性が読み手になければ退屈そのものだろうし、主役の心理をいくぶんなりとも理解できる共通点が読み手の内に見つからなければすべてが絵空事に思えることだろう。
 つまりは、読者を選ぶ作家ということだ。

 ジェイムズを「面白い」と思うソルティは選ばれた読者の一人なのであるが、それは別段名誉でも自慢でも上から目線でもなく、むしろどちらかと言えば屈辱的なことだと感じている。
 というのも、ジェイムズの小説は「敗北者の文学」だと思うからである。
 何についての敗北か?
 「人生」についての敗北である。
 そのテーマがもっとも凝縮されて描き出されているのが、『金色の盃』や『鳩の翼』と並ぶジェイムズ後期の三大長編の一つである『大使たち』である。

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 主人公のストレザーは55歳の独身男。若いうちに妻と息子を亡くしている。現在は、金持ちの婚約者であるニューサム未亡人の庇護のもと、アメリカの一都市で評論雑誌の編集をしている。真面目で善良で趣味の良い男であるが、老齢期に差しかかった今、「自分は人生を取り逃した」と後悔にも似た思いを抱いている。
 ストレザーは、ニューサム夫人からある仕事を託される。パリ遊学中のニューサム夫人の息子チャドを、アメリカに連れ戻してほしいというのだ。どうやらチャドはパリで放蕩したあげく悪い女につかまったらしく、故郷に待っている実業家としての輝かしい将来を棒に振ろうとしている。
 断る選択肢を持たないストレザーは、「大使」としてパリに赴く。着いた早々出会い意気投合したゴストリー嬢に案内され、自由で芸術的なパリの街の息吹に自らが解放されるのを感じる。久しぶりに会ったチャドは、非の打ちどころない立派な紳士に成長しており、その教育を施した人こそ、悪い女どころか、類いまれなる魅力にあふれたパリ社交界の名花ヴィオネ伯爵夫人であったことを知る。
 ストレザーはヴィオネ伯爵夫人とチャドに導かれて社交界に知遇を得、ヨーロッパ上流社会のエッセンスを味わう。アメリカでは遭ったことのない優雅で洗練された人々との交流に目を開かれて、「遅まきながらやってきた《青春》」に酔う。
 いつしかストレザーは当初の使命を忘れて、真に愛し合うチャドとヴィオネ伯爵夫人の味方となる。二人が「清らかな関係」を結んでいると信じて・・・。
 
 簡潔に言えば、「ミイラ取りがミイラになる話」である。
 ストレザーがパリとヴィオネ伯爵夫人の魅力のとりこになって、アメリカとニューサム夫人を忘れてしまう心理過程が、丁寧かつ緻密に描かれているので、そこに不自然さはない。要は、ストレザーはアメリカにいて空虚な日々を送っていたのであり、ニューサム夫人への愛も本物ではなかったのである。パリにこそ自らの「ほんとうの人生」があると思ったのである。
 半生を社会通念にしたがって迷いなく生きてきた男が、中年期に差しかかり、ふと「自分の人生これでよいのか?」と思い始め、新たな冒険やアバンチュールに溺れていく、いわゆる中年クライシスはよくある話なので、ストレザーの反逆は世慣れた読者の理解外ではなかろう。
 むろん、ソルティもまた一人の中年男なので、ストレザーの気持ちは理解できる。共感を持って読みすすめることができる。
 
 業を煮やしたニューサム夫人はストレザーに見切りをつけ、第二の「大使」として自らの娘セアラをパリに差し向ける。セアラは、ストレザーとはまったく違って、パリにも社交界にもヴィオネ伯爵夫人にも弟の成長にもなんら感銘を受けることなく、チャド奪回の使命を果たさんとする。
 結果、ストレザーとセアラは正面衝突し、ストレザーはお払い箱となる。ニューサム夫人との婚約は白紙に戻され、故国の有力一族の愛顧を失い、おそらくは編集の仕事も失い、老後の保障も無くなった。
 それでも、おのれの心の声のままに「生きる」ことを選択し、チャドと伯爵夫人を守り抜いたストレザーには、後悔はなかった。たとえ、二人の関係が「清らか」でなかったと知ったあとも・・・。
 
 ――という話である。
 たいして面白いストーリーではないことがお分かりいただけるだろう。
 切り詰めたら短編で語り得るような話が、上下巻800ページほどの大著になっているわけで、いかに心理描写に紙面が割かれているか分かろうものである。(風景描写はそれほどうるさくはない。少なくとも一昔前のフランス小説ほどには)

モンマルトル
パリ、モンマルトル
 

 まず、「大使たち(The Ambassadors)」という題名についてである。
 これはもちろん、チャド奪回の使命を受けてパリに派遣された二人の使徒、すなわちストレザーとセアラのことを言っているのは間違いない。
 だが、この語がわざわざ複数形で表されていることを考えると、もっと広い意味合いを持っているように思われる。
 つまり、アメリカからヨーロッパにやってきたニューサム家に関わる者すべて、という意味である。
 次の3つのタイプに分かれる。
  1. ヨーロッパに感化され、そのエキスを吸収し尽くし、それを利用して世界にのし上がろうとするアメリカ人=チャド
  2. ヨーロッパに感化され、幻惑されて、アイデンティティが揺らいでしまうアメリカ人=ストレザー
  3. ヨーロッパに感化されることも影響を受けることもなく、アメリカ人であることを片時も忘れないアメリカ人=ニューサム夫人およびセアラとその御一行
 ジェイムズは、勢いある新興国アメリカから、古く伝統あるヨーロッパを訪れた「大使たち」の様々な身の処し方を、ニューサム一族に代表させて、描き分けている。この小説は、ジェイムズが初期から取り上げてきたテーマの一つである「新旧大陸の文化対峙」を描いているのである。

 次のポイントは、ストレザーという男のキャラクターである。
 この小説を読み終わってソルティがまず思ったのは、「はてさて? 読者はこのストレザーという男の人物設定にどれだけリアリティを感じるだろうか?」、「どれだけ共感できるであろうか――とくに中年以上の大人の読者は?」ということであった。
 ぶっちゃけ、「こんな男、いるかあ?」と思ったのである。

 アメリカからパリに来て、「ミイラ取りがミイラになった」ところはいい。そういうこともあるだろう。「道を誤った」と気がついたところで人生行路を変えるのは、いくつになってからでも遅くはない。社会通念にしたがって本音を殺して成功裡に生きるより、たとえ多大な実害を被ろうともおのれの心のままに生きるほうが、当節カッコいい。(氷川きよしを見よ!←伏線)
 ソルティが不可解に思うのはストレザーの次のような点である。
  • チャドとヴィオネ伯爵夫人の関係が「清らか(=肉体関係なし)」だなんて、いったいなぜ信じ込めたのか?
  • ニューサム夫人との関係が破綻したあと、なぜ最も肝胆照らし合うゴストリー嬢と関係を結ばないのか? 彼女から明らかにそれとわかる申し出(据え膳の提示)を受けたのに。
  • なぜ、ラストでチャドに、「ヴィオネ伯爵夫人を捨てたら極悪非道の罪をうけることになるぞ」なんて、日活青春映画の敗れた恋敵が言うような、こっぱずかしい脅しをしたのか? 
 ストレザーが20代、せいぜい30代前半の世間知らずの青年だったのなら、まだ上記の疑問は浮上しない。ストレザー青年は、「強い女性幻想、プラトニックラブ幻想を持っているんだなあ」、「経験が浅いため、女に臆するところがあるんだなあ」、「あちらには、据え膳喰わぬは男の恥という文化がないのだなあ」、「ヴィオネ伯爵夫人によほどイカレて、状況を冷静に見る余裕がないんだなあ」、「女心がわからないから、恋愛というのがつまるところフィフティ・フィフティであるということが、つまりチャドとヴィオネ伯爵夫人の関係は(周囲からどう見えようとも)一方のみが余計に負担を強いられているものではない、ということがわからないんだあ」と、落としどころを見つけるところであろう。
 しかし、ストレザーは酸いも甘いも噛み分けた55歳。過去に結婚経験があり、愛する者の死を経験している。アメリカでは、ニューサム夫人と大人の関係にあった(はずである)。
 それにしては、あまりにナイーブ、あまりに男女の機微に疎すぎないか?
 まるで、アーサー王伝説に出てくる騎士たちのような女性観、水車に突進したドン・キホーテのような空きめくら。「女に性欲がある」とは思いもしない童貞少年のごとくである。ストレザーが、恋愛以外の他の事柄に関しては、鋭い観察力と深い洞察と高い知性を持ち合わせているだけに、一層不思議な気がする。

 主役キャラのこうしたリアリティ無さを他の読者はどう受け止めているのだろう?
 ネットで『大使たち』に寄せられた読者の感想をいくつか読んでみたが、そこにこだわっているコメントは見当たらなかった。
 だいたい百年以上前に評価の定まった世界的名作である。主人公のキャラ設定におかしなところあれば、誰かがとうに指摘しているはずである。
 してみると、ソルティの感想こそはゆがんだ偏狭な見方であって、こういった55歳の男は昔も今も普通に存在するのだろうか。

ドン・キホーテ
ドン・キホーテ


 このストレザーというキャラに、生涯結婚せず、女性との浮いた噂もなく、独身を貫いた作者ヘンリー・ジェイムズ自身が少なからず投影されていると見るのは、あながち間違ってはいまい。だからこそ、ここまで細やかな心理描写が書けて、ジェイムズ自身の「生涯でもっとも満足のいく作品」となったのである。客観的に見れば、「どうしようもなくウブで、簡単にだまされやすい」ストレザーを滑稽に貶めることなく、悲惨と失意のうちに置き去りにすることなく、最後まで読者が共感できる高潔な人間として描き出すことができたのは、この主役に対する作者の愛にほかならない。
 
 ソルティはストレザーというキャラの不思議を解く一つのアイデアを持っている。
 それはまた大作家ヘンリー・ジェイムズの秘密につながるものである。

 ストレザーがゲイであるならば、作品執筆当時にあってはクローゼット(隠れゲイ)たることを強いられ偽装結婚もやむを得なかった同性愛の男であると仮定するならば、このキャラの不自然さは納得できるものに様変わりする。男女の機微に疎いのも、据え膳喰わぬのも、仕方ないと思える。55歳になるまで「本当の人生を生きられなかった」という感慨も深く響く。
 ストレザーは、クローゼットであったヘンリー・ジェイムズの分身ではなかろうか。
 ゲイの男を主人公とする小説を発表するなど、当時のイギリスでは、ましてや有名な哲学者ウイリアム・ジェイムズを兄に持つ大作家ヘンリーには到底できなかった。出版社からも読者からも総スカン喰らうかもしれなかった。
 だから、ヘンリーはここで一つ嘘をついた。ゲイ的感性を持つノンケの主人公を創り上げた。
 それがストレザーの不可思議なキャラの秘密ではないか。
 
 こういった独断&偏見的読み方ができるところがこの作家の面白さの一つである。
 読者を選ぶ作家という意味がお分かりいただけるだろうか。


評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損