1985年新潮社

 異端カタリ派をテーマにした歴史小説。
 完成度の高い、コクと艶のある、しかしすっきりしたボディに、昭和文学の良心を見る。
 佐藤賢一著『オクシタニア』でしっかり予習できていたので、スムーズに世界に入っていけた。

 主人公は路上の人、ヨナ。定職を持たず、家族を持たず、ヨーロッパ中を歩き回る四十がらみの男。いわばルンペン。
 道化をしたり、詐欺を働いたり、易者になったり、不具者をかたったり、乞食をしたり、カトリック僧侶の従者になったり、偽の聖遺物を教会に売りつけたり、ありとあらゆることをして生き抜いてきた。おかげで、各地の風俗や言葉を覚え、さまざまな階層や職業の人間を知り、世間通となった。
 ヨナは、カタルーニア(いまのスペイン)で、「法王付大秘書官兼ドイツ皇帝代表」という仰々しい肩書を持つ騎士アントンの従者となり、一緒にピレネー山脈を超えてオクシタニアに入る。そこでは、カタリ派が、十字軍による最後の攻撃を受けている最中であった。

 十字軍の横暴とカタリ派消滅の様子を描くのに、社会の最下層にいる浮浪者の目を借りたところが、この作品のミソである。
 ヨナは、どこにも属さない自由な人間。信仰も持たず、主義主張もない。ノンポリで、マージナルな、いわば社会をありのままに映す鏡のような役を担っている。読む者は、ヨナの足と目を通して、中世ヨーロッパの地勢や風土、群雄割拠の政治環境、封建制と階層社会、貧困と迷信にとらわれている庶民の姿などを感得する。とりわけ、ローマ法王を頂点とするカトリック(普遍的という意味がある)教会に支配された窮屈な時代精神を。

 この小説を読んで一番印象に残るのは、当時のカトリック教会の腐敗と横暴である。底知れない欲と見栄、恥を知らない偽善と破戒、恐れ知らずの虐待と暴行の数々。それらすべてを「神の名において」正当化する厚顔無恥。その所業は悪魔的、ナチス的ですらある。
 インノケンティウス3世が法王の座にあったこの時代、カトリック教会は最高の栄華を誇った。と同時に、最大の反キリスト者であった。


バチカン市国
バチカン市国


 作者の立場は明らかに反カトリック、反権力、反権威である。現世を否定し死を幸いとするカタリ派の教義を「よし」とする記述こそないが、言葉の真の意味で「清貧と敬虔と慈愛」のうちに生きたカタリ派の出家者(完徳者と言う)に肩入れしているのは明らかである。
 同時に、法王や司教や国王や領主や裕福な商人たちよりも、ヨナのような社会の底辺にいる寄る辺ない人々に愛情を向けているのも確かである。

 堀田の小説はこれがはじめてで、どういう作家か知らなかったのだが、戦後日本を代表する進歩派知識人との由。ジブリの宮崎駿がもっとも尊敬する作家であり、なんとアガサ・クリスティ『白昼の悪魔』を訳している。それなら、ソルティは高校時代にお世話になっているはずだ。
 「反権力」が堀田善衛のテーマの一つなのだろう。

 この、作者の思想性という点で、佐藤賢一『オクシタニア』との大きな違いがあるように思う。
 『オクシタニア』の結末がぼやけた印象で終わったのは、おそらく、佐藤賢一が作品を貫く明確なテーマを持たなかったからなのだろう。カトリックにもカタリ派にもどちらにも与せず、かといって無神論を唱えるわけでもない。反権力の拳を挙げるでも、貧しい庶民の肩を持つでもない。いろいろな立場の登場人物の内面(=心の葛藤)を描くことこそが、佐藤の最大の関心だったのかもしれない。
 一方、『路上の人』において、登場人物の中でその内面が描かれるのは浮浪者ヨナと騎士アントンのほぼ二人だけである。しかも、心理描写はかなり抑制されている。個々の人間よりも、彼らが置かれている「世界」に焦点を当て、テーマを開陳することに重きが置かれている。
 結果、どちらがより普遍的(カトリック)かと言えば、『路上の人』であろう。
 もちろん、どちらも面白いことに変わりない。

 ソルティは、両作品を続けざまに読みながら、カタリ派が当時の民衆に支持された理由を考えていた。
 「この世を地獄とする」そのニヒリスティックな教義は、そう簡単には大衆の理解が得られるべくもなく、信仰されにくいはずである。なぜ、文明高く豊かなオクシタニアの地に、カタリ派信仰が広まったのだろう?

 一つにはもちろん、カトリック教会の目にあまる横暴と堕落がある。ペルシャから連れてきた愛人を囲うために王宮のような御殿をつくる司教を、だれが尊敬できるだろうか。
 一つにはもちろん、カタリ派の完徳者たちの高潔さゆえである。庶民を苦しめる病気や飢えや家族の死など様々な苦しみに、すすんで手を差し伸べ、身を削って助け、返礼をまったく期待しないのは、彼らであった。
 また、裕福な商人であれば、完徳者を敬い活動を支えることで、決してきれいな手段だけで築き上げたわけではあるまいその財産と地位に伴う罪悪感を、あがなうことができたであろう。
 あるいは、子供をつくることを忌避し、結婚を言祝がないカタリ派の教えが、性の自由(たとえば同性愛や不倫)を享受する後ろ盾として利用されたこともあったのかもしれない。
 しょせん、「この世は地獄で、価値はない」のであってみれば、何をしようが同じこと、やりたいことをやればよい。死ぬ時に完徳者に頼んで救慰礼(カトリックの「終油の秘跡」にあたる罪のゆるしを授ける儀式)を受ければ天国に行けるのだから。享楽主義者、刹那主義者、あるいはずばり悪人にとって、極めて都合の良い解釈を許してしまうことが、カタリ派信仰の広がる背景にあった可能性も否定できない。
 あるいは、キリスト教がやって来るはるか以前、オクシタニアにあった古来の宗教なり信仰形態が、カタリ派の教義を受け入れるにたやすい性質のものだった、という仮説も成り立つ。

 ――といろいろな理由が思いつくのであるが、本小説中に次のような記述があり、「なるほど」と唸った。
 
現世にあること自体が、最大の断罪であり、処刑そのものの状態にあるのであるとすれば、地獄は存在しない。煉獄の火なるものなどもローマの僧たちの創作であり、人々を脅かして免罪符などを売りつけるための、虚偽の道具であるに過ぎない。
 
煉獄や地獄からの解放が、如何に大きなものであったかは、これまた言を俟たない。それは、地そのものが、古き地霊もろともに、安堵の声を挙げたものでさえあったであろう。

 「この世が地獄」であるなら、ほかに地獄はない。カトリックの坊さんたちが言う地獄は作りごとだ。それに脅かされる必要はない。なぜなら、最悪を「いまここ」ですで体験しているのだから。
 それはちょうど、末法の世が訪れて、「自分はもう阿弥陀様に救われることなく、地獄落ちだ、畜生道だ、あるいはまた火宅のこの世に戻ってくるほかないのだ」と嘆いていた本邦の庶民たちが、「南無阿弥陀仏と一言唱えるだけで成仏できますよ」という法然上人や親鸞上人の言葉を聞いて経験したであろうような、とてつもない安堵感、喜び、光明、うつヌケ感――そんなパラダイム変化をもたらす解放に等しかったのかもしれない。
 科学が登場する前の人類の、来世に対する怯えと怖れを、現代人は真に理解できてはいないであろう。

 
47番八坂寺
四国札所47番八坂寺境内
右が地獄、左が極楽の入口

地獄絵図47番八坂寺

地獄絵図蛇47番八坂寺
地獄

極楽絵図47番八坂寺
極楽


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損