2019年アメリカ
122分

 アメリカ映画もついにここまで来たのか・・・・・!

 と、これを観ながら感じていた。
 いくら誰もが知ってるアメリカンヒーローで業界のドル箱たるバットマンシリーズと言えども、20年前ならこんな内容の作品は作られなかったであろうし、全米に受け入れられなかったであろう。いや、10年前でもまだ早かったかもしれない。
 夭逝したヒース・レジャーがジョーカーを演じた『ダークナイト』(2008)を観たとき、ある程度予感はしていたけれど、ついに「アメリカ社会の底が抜けた」。

 アメリカ映画の特徴を言うなら、「善の勝利と娯楽性」であると別記事で書いた。
 むろんこれは、アメリカという国と国民性の特徴でもある。
 
 アメリカは常に、善であり、正義であり、勝者であった。
 それを逆説的に証明するために、常に闘い倒すべき敵を必要とし、悪を創造してきた。ソ連であったり、イラクであったり、アルカイダであったり、北朝鮮であったり・・・・・。創作上のキャラで言えば、このジョーカーであったり、ダースベイダーであったり、フレディであったり、ハンニバル・レクターであったり・・・・・。
 この背景にはおそらく、キリスト教由来の世界観(=善悪二元論)、および他国との戦争に敗けたことがない強大な武力・経済力に対する自信がある。
 お山の大将、俺一人。
キャプテンアメリカ
 それが90年代終わり頃から様相が変わってきたのを、ソルティはアメリカ映画を通して感じていた。『アメリカン・ビューティ』(1999)、『マグノリア』(1999)、『クラッシュ』(2004)、『バベル』(2006)、『リトル・チルドレン』(2006)、『ダークナイト』(2008)。
 これらの作品では、善悪二元論の単純な世界観に対して異が唱えられ、より複雑で、図りがたい、因縁の張り巡らされたこの世界のありようが描かれていた。おのれ一人の絶対的正しさなど、何の根拠もないと。
 ソルティはそれを成熟と解した。

 おのれが正義と信じて国民すべてがワンチームとなって外敵と闘うとき、組織は盤石である。勝ち戦が続けばますます、正義も、善も、神さえも、自分の側にあると確信できる。

 しかし、いったん自らの絶対性に疑問や不信の念が生じたが最後、いままで封じ込めていた恐れや怒りや歪みが表面化し、組織は内部から崩壊してゆく。
 敵(=悪)は外側にあっただけでなく、実は内側にも同様の二元構造があり、内部にも敵が存在したことが白日のもとにさらされる。格差社会という形をとって・・・・・。
 「アメリカ社会の底が抜けた」というのは、もはや、キリスト教的善悪二元論は有効期限が切れたということである。それを信じているのはトランプ大統領を支持するキリスト教原理主義者くらいだろう。
 
 この映画を観る者の多くが、悪役であるはずの殺人者ジョーカーに味方するであろう。
 幼少期の虐待体験や精神障害を持ち、貧乏と福祉の切り捨てにあえぎ、格差社会の負け組を運命づけられた、アメリカ社会の負の結晶であるようなジョーカーに。 
 この映画が全米公開されてヒットしたからには、裕福な上流階級の家庭に生まれ育ったバットマン(=ブルース・ウェイン)が大衆の人気と支持を得ることは、いくら子供時代に両親が殺される現場を目撃した悲惨な過去を持つからとは言え、当面あり得ないだろう。彼一人が正義の側にいられるわけがないと、全米は知ってしまった。
 ヒーローと悪役が完全にリバースしてしまい、世界は混沌としている。

ジョーカー


 役者としてのホアキン・フェニックスの達者ぶりは、『グラデュエイター』、『帰らない日々』、『ザ・マスター』、『ビューティフル・デイ』で自明であった。
 が、このジョーカー役には、ホアキンの人生すべてが注ぎ込まれているような凄みを感じる。
 ホアキンが兄のリバー・フェニックスとともに、カルト教団の信者だった両親のもと悲惨な子供時代を過ごしたことはよく知られている。この映画のジョーカーの生い立ちは、まるでホアキンのそれをモデルに脚本化したかのようである。

 創作上の漫画キャラにここまで血肉とリアリティを与えてしまう演技は、観る者を引き付けて離さない。エンドクレジットが出るまで、監督があの『ハングオーバー』シリーズのトッド・フィリップスであることも、天下の名優ロバート・デ・ニーロが出演していることさえも、気づかなかった。



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損