増谷文雄編訳の『阿含経典』(ちくま学芸文庫)の第1巻は、7762経に及ぶ膨大な『相応部経典』のうち、「存在の法則(縁起)に関する経典群」と「人間の分析(五蘊)に関する経典群」を中心に編まれている。
ちなみに、「相応」とは「同じようなテーマの教えを集めた」という意である。
ちなみに、「相応」とは「同じようなテーマの教えを集めた」という意である。
縁起と五蘊――どちらもブッダの教えの核心にあたる。
改めて認識し、かつ驚くべきは、仏教は宗教は宗教でも、実に科学的ということだ。
存在の法則、人間の分析が、語られるべき「いの一番」なのである。
そこには、神秘的・神話的・土俗的・幻覚的・空想的なところがまったくない。
神がこの世界と生き物を創造したとか、土をこねて神の姿に似せて人間を作ったとか、アダムの骨からイヴを作ったとか、神が降臨して人間の祖となったとか・・・・そんなお伽噺とはかけ離れている。
ブッダは何より科学者――客観的にありのままの事実を見つめ、システムの構造と働きを見抜き、誰もが検証できる形で理論化・言語化した人――なのである。
さて、存在の法則とは縁起である。
縁起の公式1 これあるときに、これあり。 これ生じるが故に、これ生ず。
縁起の公式2 これなきときに、これなし。 これ滅するが故に、これ滅す。
上記はわかりやすい。
存在するものは、原因や条件があって存在している。
その原因や条件がなければ、あるいはそれらを滅してしまったら、存在は成り立たない。
ごく当たり前の事実である。
公式1をもとに、人間の存在の法則、すなわち十二縁起が説かれる。
縁起の公式3
- 無明あるときに、行が生じる
- 行あるときに、識が生じる
- 識あるときに、名色が生じる
- 名色あるときに、六処が生じる
- 六処あるときに、触が生じる
- 触あるときに、受が生じる
- 受あるときに、渇愛が生じる
- 渇愛あるときに、取が生じる
- 取あるときに、有が生じる
- 有あるときに、生が生じる
- 生あるときに、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩が生じる
- 老死、及び愁・悲・苦・憂・悩あるときに、無明が生じる
公式2をもとに、以下の公式もまた成り立つ。
縁起の公式4
- 無明なければ、行は生ぜず
- 行なければ、識は生ぜず
- 識なければ、名色は生ぜず
- 名色なければ、六処は生ぜず
- 六処なければ、触は生ぜず
- 触なければ、受は生ぜず
- 受なければ、渇愛は生ぜず
- 渇愛なければ、取は生ぜず
- 取なければ、有は生ぜず
- 有なければ、生は生ぜず
- 生なければ、老死、及び愁・悲・苦・憂・悩は生ぜず
- 老死、及び愁・悲・苦・憂・悩なければ、無明は生ぜず
十二縁起を構成する各要素(項目)をどう定義するかが問題である。
タイ仏教界の最高学僧であるポー・オー・パユットー著の『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で定義を試みたい。
無明 =ありのままの真実を見ないこと、愚かなこと
行 =心に思うこと、言うこと、行うことのすべて。およびそれによって蓄えられる業(カルマ)
識 =認識力 ・・・機能面から見たときの生命現象
名色 =精神と身体 ・・・構成面から見たときの生命現象
六処 =目、耳、鼻、舌、皮膚、心あるいは脳
触 =六処になんらかの情報が触れること。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が浮かぶ
受 =快感 or 不快感 or どちらでもない
渇愛 =欲望 or 嫌悪
取 =執着
有 =自我に囚われた存在、それよって生じるカルマ(業)
生 =人間として生まれること
老死 =老いと死
愁・悲・苦・憂・悩 =愁い・悲しみ・苦しみ・憂鬱・悩み
行 =心に思うこと、言うこと、行うことのすべて。およびそれによって蓄えられる業(カルマ)
識 =認識力 ・・・機能面から見たときの生命現象
名色 =精神と身体 ・・・構成面から見たときの生命現象
六処 =目、耳、鼻、舌、皮膚、心あるいは脳
触 =六処になんらかの情報が触れること。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が浮かぶ
受 =快感 or 不快感 or どちらでもない
渇愛 =欲望 or 嫌悪
取 =執着
有 =自我に囚われた存在、それよって生じるカルマ(業)
生 =人間として生まれること
老死 =老いと死
愁・悲・苦・憂・悩 =愁い・悲しみ・苦しみ・憂鬱・悩み
さて、注意すべきは、一般的に十二縁起が意味しているのは、人間の一つの生における縁起ではなくて、前世・現世・来世の3つの生にまたがる縁起だという点である。
つまり、公式3と4における1番(青色)は前世の、2~9番まで(黒色)は現世の、10~12番(赤色)は来世の事象を意味する。
前世において、無明のため様々な間違った行を為したがゆえに業(カルマ)をつくり、識と名色を有する生命として現世に誕生した。
現世で、六処から流入する様々な情報に触れ、そこで受けた快感・不快感にしたがって渇愛に溺れ、取を肥大化させた結果、有に囚われて、解脱の道を逃してしまい、輪廻転生を許してしまう。
結果として、来世に生を受けて、またもや老死や愁・悲・苦・憂・悩を味わうハメになる。
これが永遠に回る。
現世で、六処から流入する様々な情報に触れ、そこで受けた快感・不快感にしたがって渇愛に溺れ、取を肥大化させた結果、有に囚われて、解脱の道を逃してしまい、輪廻転生を許してしまう。
結果として、来世に生を受けて、またもや老死や愁・悲・苦・憂・悩を味わうハメになる。
これが永遠に回る。
正直のところ、前世と現世とをつなぐ項目である行、あるいは現世と来世とをつなぐ項目である有、つまり業(カルマ)の存在と働きについては、ソルティは分からない。
そこのところは、非科学的とは断じないまでも、仏教の「お伽噺」性の最たる部分とみなされるのかもしれない。(昨今のニュースで、「量子力学が輪廻転生を証明できる可能性がある」というのを見たが・・・)
それ以外の縁起の部分、特に六処から取に至る、現世において人間の欲望や嫌悪が生まれ育っていく過程の分析については、実に精緻で科学的で見事というほかない。
輪廻転生を阻み解脱することを最終目的とする仏道修行において重要なのは、公式4である。
現世にある修行者が介入し得るのは、流れのうちの6番「触なければ、受は生ぜず」、7番「受なければ、渇愛は生ぜず」、8番「渇愛なければ、取は生ぜず」の部分だけである。
前世についてはすでに手遅れであり、来世については現世の行い次第である。
現世における2番から5番、すなわち識の生起から触の生起までも、自動的に(自らが預かり知らぬところで)起こってしまっている。
現世の触が受を生む瞬間、受が渇愛に変わる瞬間、渇愛が取に育つ瞬間に対してのみ、人は介入して、流れをストップすることができる。
そこのところは、非科学的とは断じないまでも、仏教の「お伽噺」性の最たる部分とみなされるのかもしれない。(昨今のニュースで、「量子力学が輪廻転生を証明できる可能性がある」というのを見たが・・・)
それ以外の縁起の部分、特に六処から取に至る、現世において人間の欲望や嫌悪が生まれ育っていく過程の分析については、実に精緻で科学的で見事というほかない。
輪廻転生を阻み解脱することを最終目的とする仏道修行において重要なのは、公式4である。
現世にある修行者が介入し得るのは、流れのうちの6番「触なければ、受は生ぜず」、7番「受なければ、渇愛は生ぜず」、8番「渇愛なければ、取は生ぜず」の部分だけである。
前世についてはすでに手遅れであり、来世については現世の行い次第である。
現世における2番から5番、すなわち識の生起から触の生起までも、自動的に(自らが預かり知らぬところで)起こってしまっている。
現世の触が受を生む瞬間、受が渇愛に変わる瞬間、渇愛が取に育つ瞬間に対してのみ、人は介入して、流れをストップすることができる。
そのために欠かせないのが、念(気づき)なのである。
念が欠けていると、ほとんど自動的・盲目的に、触→受→渇愛→取の流れが圧倒的な勢いで進んでしまう。
そのとき人は、機械的な生を送るマリオネットとなる。
念が欠けていると、ほとんど自動的・盲目的に、触→受→渇愛→取の流れが圧倒的な勢いで進んでしまう。
そのとき人は、機械的な生を送るマリオネットとなる。
追記:日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が、「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて」のメッセージを同会ホームページに寄せている。ソルティは、過剰なマスコミ報道などに接し、心が落ち着きを失った時などに読み返している。ご参考までに。