1957年スウェーデン
91分、白黒

 『第七の封印』、『処女の泉』と共にベルイマンの三大傑作と言われる本作である。

 ソルティはこれまでなぜかベルイマンは観る気がしなくて、20代に『処女の泉』と『ファニーとアレクサンデル』を観たのみ。
 (ちなみに、「昨日、『処女の泉』という映画を観たよ」と同期の女性社員に話したとき、思いっきり軽蔑の眼差しを向けられたのを覚えている。勘違いされたらしい)

 両作とも面白かったのに、なぜあとが続かなかったのだろう?
 「重い、難しい」だけではあるまい。
 それなら、タルコフスキーとかロッセリーニとかアラン・レネだって、どっこいどっこいだ。
 おそらく、ベルイマン作品に通底する「(キリスト教の)神の不在」というテーマに拒否感を持った、というより関心が向かなかったからなのだろう。
 遠藤周作の小説に興味を持たなかったのと同じ理由である。
 
 「神の不在」が個人的に重要なテーマとなるためには、前提として「神への信仰」がなければなるまい。
 信じていたもの、信じたいと思っていたものが「ない!?」からこそ、個人は不安になり、疑心暗鬼にかられ、自暴自棄になり、刹那的にもなるのだから。
 あのマザー・テレサにして然りである。
 一神教の神というものを信じず、その信仰を単なる「共同幻想」と思っていた若いソルティにしてみれば、ベルイマンのようなヨーロッパの近代以後の知識人が抱く苦悩や虚無感に共感のしようもなかったのだろう。
 といって、ソルティが無神論者として達観して生きていたわけではなく、別の「共同幻想」に依っていただけなのだが・・・。

 
野いちご

 
 この『野いちご』、可愛いタイトルや老人と少女が野原に遊ぶシーンを使った宣伝用スチールの印象から、ベルイマンには珍しい、牧歌的な明るい話と想像していた。
 純粋で開けっぴろげな少女との出会いによって心ほぐされる偏屈な老人といった「ハイジ」的ストーリーを。
 全然違っていた(笑)。
 偏屈でエゴイスティックな老教授が、名誉博士号を授与されるためにストックホルムからルンドへ向かう旅の道中で起こる事件を描いたもの、すなわちロードムーヴィーなのであった。
 
 旅の途上で出会う様々な人々とのエピソードはまた、教授がこれまでの人生を振り返るきっかけとなる。
 実際の車の旅をしながら、教授は自らの孤独な人生を追体験する旅をする。
 その二重構成が見事である。
 映像については、もはや論ずべくまでもない。
 教授の見る悪夢を描いたシーンなどは、いかなる CG 技術もかなわないレベルで観る者の潜在意識の深みに達し、不安を揺り動かす。
 
 教授役のヴィクトル・シェストレムは、自身「スウェーデン映画の父」と呼ばれる大監督であり、彼を師と仰ぐベルイマンたっての希望で体調不良をおして出演、公開後に亡くなっている。
 映画史に残る名演である。

 老いを描いたこの傑作を撮ったとき、ベルイマンはまだ40歳に届いていなかった。
 それを思うと、やはり天才だなあ~。
 


おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損