1989年青土社

 『神隠しと日本人』、『日本妖怪異聞録』に続く3冊目の小松ワールド。

 
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 この著者の書くものには、学術志向(専門書)とエンターテインメント志向(娯楽教養本)の中間をねらった、巧みな販売戦略を感じる。
 べつに悪口ではない。
 民俗学というものが、そもそも日常生活に密着した学問ゆえに親しみやすい様相を呈しているところに、この著者の専門領域が、「妖怪、憑依、シャーマニズム、幽霊、異人、神隠しe.t.c.」といった怪異全般と来ている。
 ソルティのようなオカルト好き、スピリチュアル・マニアの読者の気を惹かぬわけない。(副題のつけ方も確信的)
 
 タイトルになっている悪霊論のほかに、「異人殺し伝説、村八分、天皇制、鬼と雷神、稲荷と狐」などに関する論考が並んでいる。
 現代日本人が忘却したフォークロア(伝承)の数々に、昔の人間の迷信深さや信心深さ、非科学的精神をみるのはたやすい。
 が、それとともに、こうしたフォークロアが、共同体を守るための恰好の仕掛け、いわゆる「方便」として働いていたことも考慮すべきである。
 神隠し現象に見るように、あえて身も蓋もない真実を暴き出して共同体崩壊の危機を招くよりは、とりあえず誰もが納得できる共同幻想(=物語)を創作し、成員がそれを信じるふりをして、真実を闇に葬る。
 怪異を伝える伝承にはそういう側面もあったのだ。
 
 いや、現代日本人がそこから脱したとは到底言えない。
 たとえば、天皇制はいまも日本最大の共同幻想であろう。
 
 前近代の民俗のなかには天皇の姿をはっきりと認めることができない。
 ところが、近代に入って、天皇制国家の成立とともに、村落共同体を変容させる新しい都市文化・西欧文化と一体化しつつ天皇が村の中に入り込んでくる。
 そこで、民俗学は、どうして民俗社会はいともたやすく特殊イデオロギーに支えられた明治の天皇制国家観つまり天皇信仰を受け入れたのか、と問うことになった。
(本書第2章、「天皇制以前あるいは支配者の原像」より。以下同)
 
 江戸時代の庶民や百姓は、天皇信仰など持っていなかった。
 ときの将軍様の名前は言えても、ときの天皇が誰かは知らなかったであろう。
 明治になって、天皇信仰は津々浦々に入り込んだのである。
 
 上記の問いに対する、小松の同業者である伊藤幹治(いとうみきはる、1930-2016)の結論を紹介している一節が興味深い。
 
 彼(ソルティ注:伊藤幹治)は、家族国家観という近代天皇制の特殊イデオロギーを「家」の原理から把握しようとする。
 そして、柳田国男や有賀喜左衛門などの「家」研究と神島二郎などの政治思想史や法制史などの研究を重ね合わせることで、家族国家観とは「家」と国家という異質の制度を接合しようとした特殊イデオロギーであったが、このイデオロギーが半世紀近くもこの日本社会に存続し続けたのは、集団の統合原理として人びとの間で機能していた「家」とそれを支えるための民俗的イデオロギーとしての先祖観が存在していたからだ、という結論に達した。
 つまり、国家が「家」に、「家」の先祖が天皇家の神話的先祖に擬制され、それを通じて国家という最大の「家」が創出され、すべての国民がその「家」の「家中」(=子分)にされてしまったというわけである。
 
 木下惠介の映画『陸軍』を想起した。
 
 日本人の天皇観や天皇との距離感は、時代によって、地域によって、身分や職業によって、かなり異なるはずである。
 天皇が「現人神」であった大日本帝国時代はむろんのこと、メディアの発達した現在の我々のほうが、たとえば江戸時代の庶民より、よっぽど統一的・画一的な天皇観を抱かされているのかもしれない。
 

 
おすすめ度 : ★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損