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増谷文雄 編訳 『阿含経典』(ちくま学芸文庫)


 お釈迦様が亡くなられた。

 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。
 「諸行無常である。生きる者の死なないことがあろうか」と。

 同じ頃、お釈迦様の十大弟子の一人であるマハー・カッサパは、500人の比丘を引き連れて、クシナーラに向かっていた。お釈迦様の後を追って遊行していたのである。
 一行が樹の根方で休んでいると、クシナーラからやって来た一人の男が告げる。
 「お釈迦様は7日前に亡くなられました」
 悟っていない比丘たちは、号泣し、地面にうち倒れて、転々ともだえた。
 悟っている比丘たちは、気づきを保ち、智慧を保ち、じっと耐えた。

 ――と、そのときである。
 一人の年老いた比丘が、号泣している比丘たちに向かって、こう言い放った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。われらは、かの大沙門からまったく脱れたのである。<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられたが、いまや、われらは、欲することなし、欲せざることをなさないでよいのである」
 
 この男こそ、スバッダである。
 
 お釈迦様の最期を語る崇高にして美しい物語の中にあって、このスバッダの暴言は悪目立ちしている。あたかも、清らかな流れに一杯の墨を投じたみたいに。
 それゆえ、かえって興味が引かれるのである。
 年老いた比丘なら、悲嘆にくれて正気を失っている若い比丘たちを諭したり、慰めたりしそうなものだが、逆に周囲を不快にし、場を凍り付かせるような、とんでもないことを言う。
 
 一つには、スバッダが長いこと世俗で暮らしてきて、年老いてから出家した男だからである。
 まだ修行も浅く、智慧も浅く、貪瞋痴(欲と怒りと無知)に覆われているのである。お釈迦様に憧れて出家してはみたものの、あまりのサンガの律(規則)の厳しさに、「こんなはずじゃなかった」と後悔している最中だったのかもしれない。とくに、彼のメンター(師)たるカッサパは、教団の中でもっとも厳しく律を守る人であったから、普段からあれこれ細かい注意を受けていた可能性がある。

 あるいは、スバッダは今でいうアスペルガーだったのかもしれない。
 つまり、「空気を読めない」、「他人の気持ちを推測するのが苦手」、「思ったことをすぐに口にしてしまう」、「パニックを起こしやすい」といった特徴があり、集団生活になじまないタイプである。これは脳の構造という先天的なものらしいから、当人を責めるのは酷である。
 
 スバッダの暴言を耳にしたカッサパは、さすがに阿羅漢であった。
 アスペルガー症候群なんてものは当然知らなかったが、スバッダを責めたり叱ったりすることなく(少なくともその場では)、嘆き悲しんでいる比丘たちに向かってこう言った。
 
「さあ、友よ、悲しむのはやめよ、泣くのはやめよ。友よ、世尊はかつて、こう説かれたではないか。<すべてのいとしみ愛する者といえども、生きて別れ、死して別れ、死してののちはその境界を異にする>と。友よ、かの生じ、生成し、造られ、そして壊するものにして、それが壊することなしなどという道理が、どうしてありえようか」


クロアゲハと彼岸花


 それにしても不思議に思うのは、スバッダの言葉の中味である。
 「<こは汝らに許す。こは汝らに許さず>と、われらは、苦しめられ、また圧迫せられた」
 つまり厳しい規則によって、束縛され、抑圧され、管理されてきたことの愚痴を言っている。 
 思わずソルティは突っ込みを入れたくなる。
 「それが嫌なら、なんで出家したの? なんで還俗しないの?」

 別に誰から頼まれて出家したわけでもなかろうに・・・。
 親のあとを継いで檀家寺を守らなければならないとか、現在のタイ国のように一生に一度の出家が義務付けられているというわけではあるまい。
 たとえ、認識が甘く覚悟が足りないまま、いきおいで出家してしまったとしても、やってみて自分に合わないと思ったなら、還俗すればいいだけの話ではないか。我慢してまでサンガに居続ける義務などなかろうに。
 これが会社なら話は別である。給料をもらうため、生活のため、家族を養うため、ちょっとくらい嫌なことがあっても、口うるさい上司や厳しい規則があっても、我慢しなければなるまい。であればこそ、横暴なカリスマ社長が亡くなったら、葬儀の席で“心の中で”呟くことも許される。
 「これで、あの鬼社長から解放された。これからはもっと自由な社風になるだろう」
 
 スバッダの「われら」という言葉から推測するに、どうやら比丘衆の中にスバッダと同じような考えの持ち主が他にもいたんじゃなかろうか。
 カッサパの目の届かないところで、タバコを吸いながら愚痴をこぼし合っている風景が目に浮かぶ。
 「なんだよ、あの規則、意味ねえじゃん」
 「だよなー。便所のあと手を洗おうが洗うまいが、人の勝手だよ」
 「うざいんだよ、あのジジイ。いつも俺たちを見張っていやがる」
 「大方、こっちを支配したいだけなんじゃねえの?」
 (注:「トイレのあと手を洗え」という規則は仏教の「律」にはありません。たぶん・・・・)
 
 このときには、お釈迦様の名声はインドじゅうに広く知れ渡り、各地の領主から篤い尊敬と保護を受け、次々と土地や食べ物や衣類などのお布施が集まり、謁見や出家を願う者が次々と訪れ、組織は巨大化していたであろうことは想像に難くない。
 巨大組織の常で、そこは出家と言えども玉石混交、さまざまなタイプの、さまざまな癖のある、さまざまな機根(悟る潜在力)をもつ、さまざまな思いを抱えた比丘たちがいたであろう。人間関係も複雑になる一方だったに違いない。
 実際、お釈迦様は亡くなる前に侍者のアーナンダに対し、チャンダという名前の比丘の処遇について遺言を残している。チャンダは「暴戻にして非道」で、周りの人間を困らせていたらしい。お釈迦様は彼に梵壇罰を与えた。これは簡単に言うと、「誰も彼とは口をきいてはならない」という罰である。

 各人の出家の理由も、初期のように「悟りや解脱を求めて」、「なにかしら善を求めて」、「どうしようもない苦から逃れるため」といったものだけでなく、より俗っぽいものが混じってきていたのではかなろうか。
 たとえば、「釈尊メンバーとしてのステイタスが得られる」、「お布施をもらいやすいから生活に困らない」、「仲間がいるので孤独が癒される」、「世俗で働くのが嫌」、「結婚を強制するうるさい親族から逃れるため」、「集団の中でパワーゲームに興じられる(人を支配できる)」、「若い比丘たちが老後の面倒を見てくれる」、「罪を犯し村八分になった者の逃げ道として」、「厳しいカースト差別から逃れるため」等々。
 スバッダのような老人は、特に生活と老後不安の点で、出家生活に期するところがあったのかもしれない。
 
 いたずらな想像ついでに。
 あるいは、スバッダは周囲の比丘の苦しみを和らげようと思い、ジョークを言っただけなのかもしれない。悲しみに閉ざされる心を解きほぐそうと試みたのかもしれない。
 ところが、そのジョークは見事はずした。
 だれも笑ってくれなかった。
 まさに親父ギャグ。
 そのうえ悪いことに、冗談やユーモアを解することのまずなさそうな、真面目でお堅いカッサパの耳に入ってしまった。
 この場合、スバッダでなくて、スベッタということになる(――まさに親父ギャグ)。
 
 あれから2500年経った現在からみると、このスバッダの暴言こそが、カッサパをして、「お釈迦様が説かれた法と定められた律をちゃんと形にして残そう」と思わせしめ、その後の五百人結集につながったのである。いま我々が学んでいるお経が口伝として残り、仏教が生まれるきっかけとなったのである。

 そう考えると、スバッダとその暴言にたいして、仏教を愛する者は感謝しなければなるまい。



金閣寺